龍仁庵のおもてなし 龍神様と捨て猫カフェはじめました 立ち読み

 

 おいしそうに食べる誰かの顔を見ると、どうして心がほかほかするのだろう。
 そしてその逆は、何故……。

 朱里はため息をつきつつ、家路をたどっていた。
 季節は冬。新しい年を迎えてまだ五日、世間はお正月気分のままだ。そんな中、アラサー独り身女の暗い顔は浮いている。
 去年は朱里も会社の同期と初詣に行っていた。が、今年はさすがに断った。なのに洒落た洋風の家や店が立ち並ぶ目黒のこの街も、歩いてみるといたるところに和の正月飾りや新春を寿ぐ気配が残っていて、今の朱里には居心地が悪い。
 早く帰ろう。まだあの子が待ってくれているはずの家へ。
 コートの襟をかきあわせ、早めた足がふと止まる。
(あ、ここ、完成したんだ……)
 神社の脇にあった、古い民家。
 大正時代に建てられたという二階家は、和の風情を生かして雑貨店や蕎麦屋になることが多かった。が、妙に店子がいつかない。ここしばらく『改装中です』とシートが張られて業者が出入りしていたが、今日はシートが外されている。工事の音もしない。
 門の中、木立に囲まれた飛び石の先をのぞいてしまったのは、何かの導きだったのか。
「〈猫茶房 龍仁庵〉?」
 古めかしい格子戸には、藍の地に白く店名が染め抜かれた暖簾がかかっていた。茶房というからには喫茶店? では〈猫〉の字は何だろう。
 猫、食べ物のお店。
 つきん、と胸に痛みが走る。それでも戸に手をかけたのは、藁にもつかまりたい気分だったから。
「ごめんください……」
 見た目より軽い戸を引き開けると、ふわりと鼻をくすぐる淹れたての珈琲の薫り。
 中は外と同じく和のしつらえだった。入ってすぐは黒光りする御影石の土間。右手には待合だろうか。縁台のような黒木の椅子があって、可愛い丸い座布団が並んでいた。
 そして、何故か目の前には。
 内への侵入を阻むかのように胸の高さの格子扉がある。
「にゃおん」
 いらっしゃいませ、の代わりに、猫の声が聞こえた。見ると受付カウンターなのか、格子の向こうの高くなった台に白猫が一匹すわっている。
(可愛い……)
 まんまるなお月様のような眼。首に巻かれた紅の組紐は少し色褪せているが、思わずこちらがぺこりとお辞儀したくなる品の良い猫だ。
「あら、いらっしゃいませ。お客様かしら?」
 猫の背後、格子の奥へと続く土間の向こうから、低い心地よいバリトンの声がして、渋い口髭にオールバックの男が現れた。
 今にも情熱のタンゴを踊りだしそうなラテン系。着ている服も洋画のレット・バトラーじみたコロンの香る高価そうなツイードジャケット。完璧なセレブだ。
 なのに口調はオネエ。
 圧倒されていると、男の肩に、上からぴょんと猫が飛び降りた。
「子猫?」
 黒い小さな体が足を踏ん張ってしっぽを揺らしている。さっき挨拶してくれたのとは別の猫だ。どうやらこちらと奥をへだてる格子をよじ登って、男の肩にダイブしたらしい。
 何匹いるのだろうと奥をうかがうと、屋内の明るさに慣れた眼に、信じられない数の猫たちが映った。三毛にキジトラに白黒に。一見、雑種ばかりだが、それだけに親しみのある毛並みの猫たちが、机の下や椅子の上で遊んでいる。猫の洪水だ。
 互いに追いかけっこをしたり、我関せずと横手の畳の上で丸くなったり。
 辺りは一面、猫、猫、猫。
 可愛すぎる光景に、朱里は動けなくなる。
「あっ、駄目よ、クロ。郁君、ここ一枚扉に改装しないと、子猫だと外に出ちゃう」
「まじっすか。体重軽いからカーテンでも登っちゃうからなあ。クロ、柵の向こうは危ないから、猫は行っちゃいけないんだってば。オーナー、すぐ行くんでつかまえててくださいっ」
 黒っぽい和風シャツにエプロン姿の青年が、これまた猫を二匹、脇に抱えて顔を出す。
 最初のラテン系男の隣にくると、余計に際立つ小柄な和風顔。
 和風ではなくしょうゆ顔? いや、しょうゆよりもさっぱり透明感のある雰囲気だ。お塩? お出汁? 違う。もっと、ほっこり小粒で可愛くて、甘すぎない……。
「あんみつ男子……!」
 四角い寒天と、キラキラした小豆。目の前の和風男子にぴったりな形容が浮かんで、朱里は思わず声に出していた。
「え? あんみつ?」
 キョトンとした顔をされて、朱里はあわてた。違うんです、と手を振る。
「ごめんなさい、最近少し寝不足でぼーっとしてて。それよりここはお店ですか?」
「あ、こちらこそすみません。店の宣伝に暖簾は出したのに、札をかけるの忘れてて」
 あんみつ男子が左手の棚から〈一月十五日オープン!〉と書かれた札を取り出す。
 やはりここはお店で合っているらしい。
 ショーケースや飾り棚はないが、格子柵の向こうは片側が土間にテーブル席、もう片側はソファやクッションを配した畳部屋になっているようだ。
 そして何故か一番奥のテーブルに、烏帽子狩衣の平安貴族がすわっている。
 月のように玲瓏とした美貌、結わずに流した濡羽色の髪。
 金泥を配した屏風絵や、豪奢な絵巻物から抜け出したような、目を見張る美しい青年だ。狩衣は清らかな白綾だが、黒地に金の柳葉模様の指貫が艶めかしい。
 目が合うと、彼は優雅に扇をゆらめかせてそっぽを向いた。
(あ、欠伸した……)
 見ようによっては失礼な態度なのだが、彼の場合はそんなつれない仕草がますます典雅に見える。気まぐれな猫のようだ。それでいて、その膝にも肩にも、どうやってのっているのか烏帽子の上にまで猫がいて、にー、にー、なつかれている様が微笑ましい。
 可愛すぎる猫たちと、趣の違うイケメンたちがいるお店。
 いったいここは。
 とまどう朱里に、あんみつ男子がきらきらと人懐こい小豆のような笑みを見せる。
「ここは猫カフェなんです。オープンは十日後なので、もしよかったら来てください」
 カウンターから出した、お店の名刺を渡される。
 片側は藍、片側は白。
 くっきり色分けされた紙面の藍の部分に、座った猫と格子戸をデザインした丸いマーク。
「可愛いでしょ。私がデザインしたのよ」
 うふっとラテン男がしなをつくる。その言葉に、オープン前の店に入ってしまったことにようやく思い至った朱里は、頬を紅くした。
「す、すみません、すぐ出ていきますから……」
「あ、いいんですよ、もしよかったら猫たちを見ていってください。今日はもともとプレオープン日で、誰かお客様役が欲しかったので」
 あんみつ男子に引き留められて、つい目を向けた店内に、白に茶ブチの太った猫がいた。
 満足そうに目を細めて、ご飯を食べている。
 ここの猫たちは皆、元気だ。そして幸せだ。
(私、ここに何を期待したの?)
 もう見ていられない。朱里は顔を背けると急いで外へ出た。
 猫たちから、逃げたのだ。


       1


「……これって、逃げられたのよね」
 今日は〈猫茶房 龍仁庵〉、記念すべき初暖簾上げの日。
 初めてのお客様が去った猫だらけの空間で、オーナーが地を這うような声を響かせた。
「ねえ、逃げられた、逃げられたのよね、郁君。お客様第一号なのにいきなり逃げられるってどういうこと? 開店前からこんなことでやっていけるのこのお店っ」
「いえ、逆に開店前だからあの人も帰られただけで、別におかしなことじゃないと思いますけど……」
 頭を抱え、おお、神よ、と嘆くオーナーに、店長である内海郁斗はおそるおそる声をかける。が、返事より先にいきなり胸倉をつかまれた。
「何をのんきなこと言ってるの、郁君。彼女ったら明らかに〈みー君〉を見て出てったわよ。まったり楽しむのが前提の猫カフェなのに、肝心の猫たちは皆、暴食中か暴走中。だからあきれて帰っちゃったのよっ」
「オ、オーナー、苦しいですっ、身長差が。それに猫にあきれてってのはあり得ないですよ。うちの子たちはこんなに可愛いんですから」
 自信を持って言うと、オーナーと一緒に改めて茶ブチ猫のみー君を見る。食事中だ。
 もんぎゅもんぎゅと皿に顔を突っ込んで、餌を追う姿が愛らしい。ピンクの小さな舌が一生懸命動いている。たまにほどよい肉の塊があると嬉しそうに噛みついて、眼は満足そうに細くなる。塊がころころ皿の中で動いてしまうのに、我慢しきれずに前足が出てしまう。
 みー君が視線に気づいて顔を上げた。まだ皿に缶詰餌が残っているのに、口の周りを舐めつつ、何か他においしいものがあるの? もっとちょうだい、とこちらを見上げている。
 あざとい。
 あざとすぎる可愛さだ。
 たとえみー君がとっくに自分の餌を食べ終え、今は三皿目。他の猫を押しのけて餌を横取りしているデブ猫だとしても、可愛いものは可愛い。いつまでも見ていられる。
「……確かに可愛いわ。それは認めるわ」
 オーナーが厳かに言った。
「ただね、普通、猫カフェの猫といえばもっとおとなしい、見栄えのいい子を集めるものでしょ。駅前の大手チェーン猫カフェなんて、〈人気の猫種をそろえました〉って看板立てて、がんがん集客してたわよ」
「え、行ったんですか、オーナー」
「ええ、行ったわよ。だって一月の差で先にオープンした競争店よ? しかもあちらは駅近、大型ペットショップ前って好ロケーション。住宅街の奥で神社の横手の木立の中なんて目立たないこの店じゃ、立地の段階で完全に負けてるし、気になるじゃない!」
 だからといって男性一人で猫カフェに乗り込むとは、オーナーの愛は熱い。
「またこれが行儀が良くて可愛い子ばかりで。私、本気で店貸し切って豪遊しようかと思ったわよ。それに比べてうちは。これで本当にオープンできるの、郁君?」
「……その予定、なんですけど」
 今度は自信なげに、郁斗は周囲を見回す。
 ここはいわゆる猫カフェ。
 郁斗が脱サラをして始めた大事なお店だ。
 猫と一緒に遊んだり、可愛い姿を眺めながらお茶が楽しめると人気の猫カフェは、台湾で誕生したという。日本に登場したのは二〇〇〇年代の初め。
 今は猫スタッフ全匹そろっての、ブランチタイム。
 本格オープンを前に、ここを格安で貸してくれたオーナーを招いてのプレオープン。
 なのにお皿を並べたはいいものの、暴走状態だ。他の猫カフェで見るような、〈ずらりと並べた皿にそれぞれが顔を突っ込んで食べるの図〉が存在しない。
「食事タイムは動物園や水族館でも人気の撮影タイムよ。なのにうちはどうしてこうなの」
「それは、その、育ちの問題としか」
 ここの猫たちは皆、元は自由な野良猫や地域猫。決まった時間に皆で食事をとる習慣がない。自分の名が書かれた皿で食べている猫はほぼゼロだ。
「一応、好みとか齢とか考えてそれぞれ違う餌を入れたんですけど、無駄だったみたいで」
「それにしてもねえ。犬と違って、待て、ができないのが猫ってわかってるけど、これはちょっとフリーダムすぎない?」
「でもそこがまた可愛いんですよね。いかにも、猫って感じで」
「わかるわあ。私も何回も見に来ちゃうもの。叱れないわよねぇ」
 頬に手を当てたオーナーの顔もめろめろだ。
「けどね、郁君。大家と店子といえば親子も同然。親は子を千尋の谷に蹴り落とすというわ。私はここのオーナーとして、賃料を取り立てる義務があるの。だからね、このお店の経営状態がとっても気になるの。そのうえで聞きたいのだけど、あのお貴族様バイトはいったい何かしら?」
 オーナーが、くいっと眼で示すのは、窓際に座る平安装束の青年だ。
 まずい。やはり突っ込みが入ったか。郁斗の背に冷や汗が流れる。
「彼、私が来てから欠伸する以外、一ミリたりとも動いてないわよね。接客業の人とは思えないんだけど」
「あの、龍神様、あ、いえ、龍さんはこの店の出資者で、バイトではなくて……」
「それは何度も聞いたわ。龍が苗字で、仁が名前の、龍仁さん。まだ若いあなたがお店を出せたのは、素封家である彼の資金援助のおかげだって。猫が好きで店にいるけど、共同経営者扱いで店員じゃないから店仕事はしないのよね? けどね、そんな区別がお客様につくと思う? お客様からすれば店にいる関係者は皆店員よ?」
「それはそうなんですけど。龍さんは今まで神域、あ、いえ、家に引きこもっておられたので、人には慣れておられないんです。接客はちょっと難しくて」
「それってニートってこと? そんな人とあなたの二人だけで本当にこのお店をまわしていけるの?」
「う。それを言われると、痛いです」
 郁斗は半年前まで普通の会社員だった。接客業は素人だ。なら応援要員にプロの接客業者を招けばいいのだが、とある〈秘密〉のせいでへたな相手は雇えなくて。
 困っていると、逆なでするようにぷいっと龍神様がそっぽを向く。オーナーが切れた。
「あのっ、こちらの味見もお願いします!」
 郁斗はあわてて珈琲を差し出した。
 特訓を重ねてようやく満足のいく味になった特製ブレンドのドリップ珈琲だ。努力のかいあって、「あら、おいしい」とオーナーが小指を立てて飲んでくれる。
「淹れるのうまくなったわね、郁君」
「ありがとうございます。頑張って講習会、通いまくりました」
 フリードリンクではなく、一杯、一杯、丁寧に入れる珈琲は密かな郁斗の自慢だ。
 お茶菓子に可愛い一口チョコもつけて、オーナーの矛先がそれてほっとする。が、それも束の間、
「そういえば。さっきはどうしてあのお客様を引き留めたりしたの?」
 オーナーがカップをソーサーに戻しながら、別の角度から攻めてきた。
「扉には札をかけ忘れてただけで、今日は私以外、誰も入れる予定はなかったわよね?」
「その、あれは。放っておけなかったというか、準備中の店に入ってもらうのもどうかと思ったんですけど、人ごみに酔われたなら休んでいかれたほうがいいかなと思ったので」
「人ごみ?」
「はい。あの方、顔色が悪かったでしょう? 足もふらついてたし。俺、名刺を渡しましたから。その時かすかに薫ったんです。常香炉の香りが」
 常香炉とは寺や神社の境内に置かれた、大きな釜のような香炉のことだ。無病息災を願って、参拝客が煙を体に浴びる。
「今はまだ正月五日。今日は日曜だし、遅い初詣でも有名どころの寺社って人が多いでしょう? 遊び帰りにしては買い物の袋がなかったし、時間も早いし。だから初詣で気分が悪くなって、どこかに座りたくてここに寄られたのかなと思ったんですけど。あの、間違ってたでしょうか?」
 説明すると、オーナーが「なるほどねえ」と一人納得している。
「のほほんとして見えて、見るところは見てたのね。あなたのお人よしと紙一重の優しさって、ハラハラするけど。案外、接客向きかもね」
 オーナーがやっと、ほっこり褒めるように笑ってくれた。
「けどね、郁君。間違ってたでしょうかって、あなたのお客様のことを私に聞いていいの?」
「え?」
「お客様と絆を結ばないといけないのは、私じゃなく店長のあなたよ、そんな自信のないことでどうするの。自分で答えを見つけなきゃ。あなたがただの雇われ店長で、この店もただの集客目的の猫カフェならそれでもいいけど、そうじゃないでしょ?」
 その通りだ。
 ここはただの猫カフェではない。郁斗には、この店には〈目的〉がある。
「初めて会った時、あなた私に言ったわね。会社員時代、猫たちに元気をもらったって。おかげで頑張れたって。だから自分もこの店を通して、心疲れた人と猫たちに、居場所と癒しを与えたいって。私、あの時、柄にもなく感動したのよ? なら俺は接客素人ですなんて言い訳してないで、もっとお客様に寄り添えるようにならなきゃ」
 オーナーの言葉が耳に痛い。もちろん努力する気だし、気持ちも褪せていない。だけど。
 郁斗はこそっとオーナーに耳打ちする。
「オーナー、もしかして何かドラマでも見ました?」
「あ、わかる? 昨夜、参考のため熱血料亭細腕繁盛記を少々」
 けっこうノリやすい性格のオーナーが、ぽっと頬を紅く染める。
「とにかく。私はあなたの情熱に負けてここを貸したの。お店を存続させたいなら、それだけの努力をなさい」
 オーナーが言い切る。
「正式オープンまでに、駅前猫カフェ店に負けないだけのこの店の売りを考えること。お客様にちゃんとアピールできる龍さんの役割もね。それと、あの女性が帰ってしまった理由もよ。これは課題よ。言っとくけど、私、安易に頼られて甘い顔する安い男じゃないわ。課題が達成できなければ将来の見込み無しとして、賃料を正規の値段まであげちゃうから。いいわね、気合を入れなさい、新米店長さん」
 おほほほほ、と機嫌よく笑うと。
 課題という名のハードルをふりまくだけふりまいて、オーナーは帰っていった。