残暑厳しい九月。制服の襟元に滲む汗を手の甲で拭う。
高校の夏服は、薄水色のシャツが涼し気で、ネイビーブルーのネクタイとの相性も悪くない。
被服についてつい語ってしまうのは、呉服屋を営む実家の跡取り息子という環境下で身についた習性で、得意だし嫌いじゃない。しかし、今はそれどころではない――。
足元には、ひとつ目やふたつ目のくりっとした瞳を向ける、角が一本だったり二本だったりする小鬼たちがわらわら湧いていて、困惑に拍車をかける。
こんな小鬼たちと過ごす日常も、四ヶ月余りが過ぎようとしていた。
「いや、だからさ……」
登校していた矢先の、朝の通学路。
爽やかな一日の始まりのはずなのに、裄は全く爽やかな心境ではなかった。
「そんなことぼくに相談されたって、ものすごく困るんだけど」
アスファルトに伸びる裄の薄い影からぞろぞろと湧き出てくるのは、
辻風御魂とは、裄が暮らす
その鬼神様の使いである小鬼たちは、なにやら相談事があるのだと裄に頼ってきたのた。
――高校生活も一年のうちの半分が過ぎたのに……なにこの日常。
小鬼やら鬼神やら、裄が思い描いていた平穏な高校生活とはかけ離れすぎたものに溢れていて、現状に
「ていうか、なんで会話をしなくてもきみたちの言ってることが分かるのかって時点で、もうかなり困惑するんだけど……まあ、今に始まったことでもないんだけどさ」
可愛いと思えるくらいの愛着も湧いてきたが、裄は決して、それだけは口にするまいと心に決めていた。
――この非日常を、ぼくは決して受け入れているわけじゃない。見えないものは信じないって信念は捨ててないし、この小鬼たちもいつか見えないものになるときが絶対にくるはずなんだ!
裄は自他ともに認める、ガリ勉な優等生だ。常に学年のトップであることは当たり前、勤勉であることは裄のステータスだ。
だからこそ、平穏な日常を送ることが裄にとっての最大の願いなのだが――。
「待ちやがれ、
「………うわ、出た」
裄の側で、日常を揺るがしている小鬼たちの存在は、まだ可愛いほうだと思える。
「お前、よくも
青葉が茂る山茶花の垣根を飛び越えてきた男が、通せんぼするように裄の前に仁王立ちする。
額の両端には二本の角があり、ところどころに銀色のメッシュが入った長い黒髪が腰元で揺れている。燃えるように赤い瞳孔をたたえた銀色の目で、男が裄を射抜いた。
「……人違いではないでしょうか」
「お前、俺様を三度もあんな蔵に閉じ込めやがって! 謝りのひとつもねーのか!?」
「ぼくに文句を言うより、なぜ三度も同じ手に引っかかってるのかということを省みたほうが賢明だと思いますよ」
「あ? 蔵で
「………本当、軽薄」
黒い着流しは胸元が緩くはだけていて、和装はぴしっと着るものと思っている自分とは大違いだと、裄は呆れたまなざしを向ける。
「青いねえ。男だったら、女をはべらせてなんぼなんだよ。よーく覚えとけ、裄ん坊」
――さっきまで二ノ蔵に閉じ込められていたくせに。
裄は内心で思ったが、これ以上相手をするのも面倒に感じて言葉を胸に留めた。
「ちょっとお聞きするんですけど、さっきからなんなんですか『裄ん坊』って」
「なにって、お前の名前だろうが」
「……ゆきんこみたいな呼び方になってるのは気のせいでしょうか」
「『お前』やら『
本来なら会話を交わすこともないはずの鬼神に、こともあろうかあだ名をつけられてしまった。なにをどうすれば喜べようか。
この一誠のとばっちりで自分に迷い神の矛先が向けられて、その解決に奔走して丸く収まったまでは良かった。しかしそのあと、まるで守護神のように身の回りをうろつかれるはめになってしまっていることだけは、裄はいまだに納得がいかずにいた。
――恋しいよ、ぼくの平穏な日常……。
以前、迷い神に取りつかれたおかげというかなんというか、裄の心の辞書に『恋しい』という単語が追加された。
――解せない。本当にこの現状が、解せないや。
心底悩ましく、重い息をこぼしたとき、足元でズボンの端がくいっと引かれる。
一誠のせいで忘れかけていた、小鬼の仕業だ。
「あー……ちょっとだけ待ってくれない? きみたちの相談ごとは、ぼくよりも適任者がいるから」
自ら『適任者』と言っておきながら、その心持ちは決して明るくはない。
「あ? なんだよ小鬼、こんな青臭い小僧になんか相談してんのか?」
裄よりも高い位置にある一誠の視線に射抜かれて、びくりと硬直した小鬼たちは裄の足の陰に隠れる。
「悪かったですね、青臭い小僧で。あなたのように軽薄な大人にならないようにしたいものですけど」
「軽薄じゃねえ。ただ単に俺がモッテモテなだけだろ」
「……少なくとも
「はいはい。別に小鬼には好かれなくても困んねーし、藍はこれから落とすんだから問題ねえな」
一誠大鬼神は、ひらひらと手を振った。
どこからその自信が来るのかとなかば呆れてしまうが、その突き抜けた前向きさは多少羨ましくもある。
一誠大鬼神の横顔を眺めていると、裄の頭をなにかがつついた。
「痛っ、なに。え――」
咄嗟に見上げて、裄は言葉を呑んであとずさる。
「おー。お前、来たのか」
どこか気怠そうな声で迎える一誠大鬼神の肩に、ばさりと翼をはためかせたカラスが乗った。
「! ……なんですか、そのカラス」
「なにって言われても、気が向いて声掛けたら勝手に懐いてきやがって……それ以降小間使いにしてやってるだけだ」
「一誠さん、ただでさえ身なりが黒いイメージなのに、ペットまで黒いんだ……」
「ペットだあ? 誰が飼うかよ、こんなもん。女なら飼育してもいーけど、カラスはごめんだ。めんどくせえ」
「……出た。軽薄な上に無責任で最低な発言」
なぜこんな鬼神に懐いているのかと、裄は思わずカラスに目を向けた。
「……きみ、主人選びを間違ってると思うよ」
見つめ合う格好になって、なんとなく声をかけた裄に、カラスは小さく「かあ」と鳴き声を返した。
――それよりも、早く学校に行くべきかな。
裄は自分の足元にいる小鬼たちにもう一度目を落とし、これから『適任者』である
裄の平穏は、なにも小鬼や一誠大鬼神たちだけで揺るがされているわけでもなく、人間にも悩まされている。
裄が通う高校のスクールカウンセラーである、
若くて美人な辻褄は、多感な年ごろの男子高校生には憧れの見本のようなものだ。しかし、裄にとってはひたすら残念美人なのだから、交流が持てるとしても
その辻褄はといえば、裄とはかなり友好的に接してきて、勝手に「
「どうだ、三十代!」
「どうだ……と、言われましても」
学校に到着してカウンセリングルームに出向いた早々、裄はなぜか壁際に追い込まれ、その上で顔の前に写真を突きつけられている。
――これが、俗にいう『壁ドン』。……実際に経験する機会があるなんて思わなかったな。
辻褄のような美人に迫られたら、真っ当な男子生徒なら期待も動揺もするところだろう。
しかし、裄は少しもブレずに、辻褄のダークブラウンの瞳を見つめ返す。
――本当、どこまでも残念な人だな。
「ちょっと近いですけど」
「この臨場感は、近い方が実感できるんじゃないかと思っているんだが、どうだ?」
再び耳にする『どうだ』という単語にため息をつき、裄は率直な感想を述べた。
「まず、近すぎて写真の画が分かりませんし、先生の様子から察するに恐らく、またぼくを隠し撮りしたなにかなんだろうと思うと、見たいとも思えません」
「相変わらず、きみはつれないな」
言葉のわりにさして気に留めたようでもなく、辻褄はふっと男前な微笑みを浮かべた。
ふたりから距離を置いて、入り口のほうから一誠が間延びした声をあげる。
「藍、俺ならつれなくなんてしないぜー?」
「あなたとは話すことはない。そこから一歩たりとも動かないでくれ」
「……動きたくても動けねえっつーの」
一誠大鬼神がじりっと動かしたつま先に辻褄が置いた札が触れて、激しく弾かれた。
一誠大鬼神の弟に当たる辻風御魂の元で、『札師』として仕えている辻褄は、毎回このように札を使って一誠大鬼神との距離を保っている。
――先生って、本当に一誠さんのことが嫌いなんだな。
この辻褄は、どうやら軽薄な一誠大鬼神をとてつもなく
裄とワンセットになって一誠大鬼神が行動し始めてからというもの、ずっとこのような対応を崩さないのだ。
一誠大鬼神についてきていたカラスだが、校門をくぐる寸前で思い立ったようにどこかに飛び去っていた。
裄は静かに、目の前の写真を手のひらで押しのける。
「今度はいつの隠し撮りですか……」
「三日前、月曜日だ」
「そうなんですか。これっぽっちも興味が湧かないんですが」
「まあ、そう言わずに見てみなさい。今回のものは気持ち悪くはないし、とても珍しい写真になったと思うぞ」
裄が辻褄を『残念美人』だと称する理由は、この『写真』だった。
辻褄が勝手に裄を被写体にして撮った写真には、裄が最も信じていないこの世ならざるものが映りこむ。一眼レフであろうと、スマートフォンに付属したカメラであろうと関係ない。
そして写真に収めたものを毎回嬉々として見せつけてくるのだ。
裄が確認するまでは是が非でも退きそうにない辻褄の雰囲気を読んで、観念した裄は写真に目を向けた。
「うわ……なにこれ」
大抵、自分が隠し撮りされた写真には、おどろおどろしい影や赤黒い血液のようなものが映りこんでいるのだが、今回のものはそうではない。
体操服姿の裄が汗を拭いながら歩いている後方、体育倉庫と植木の間で、虹色に発光するなにかが映っていた。
その光源は球体のようにも見える……と、まじまじと写真を見つめている裄のズボンの裾を、小鬼の一体がくいっと引っ張った。
「あ――」
裄ははっとして短いつぶやきをこぼす。
先ほどからの辻褄の奇行ですっかり忘れていたが、いつもの呼び出しとは違い、今日は用があってここに訪れたのだ。
「どうした? 今日の小鬼はなんだか落ち着かない様子だが」
「はい。実は事情があって、先生のところに伺ったんです」
「事情?」
首を傾げる辻褄は、ゆっくりと膝を曲げて屈んだ。
「この小鬼に関する事情か?」
「ですね。なにがどうなっているのか知りませんが、小鬼から相談されて……」
「おや、きみは小鬼たちと会話ができるようになるまでに進化していたのか」
「進化って……人をゲームのキャラクターみたいに言わないでください」
「きみに起こっている変化を、ぜひ研究したいものだ」
裄の足に貼りついている小鬼の頭を辻褄が撫でると、小鬼ははにかんだように嬉しそうな表情を見せた。
小鬼たちがこの世のものではないという部分に目をつむれば、なにか新種のペットのようで可愛らしい。
「だから、なにがどうなってるのかなんてぼくにも分かりませんし、声が聞こえるってわけじゃないですよ。なんかこう、テレパシー……みたいな感じというか」
「そんなちっこい小鬼ごときが普通に会話しようったって、少なくとも二百年はかかんだろ」
扉に背中を凭せかけた一誠大鬼神が腕を組みながら言った。
その振る舞いは、辻褄の札のせいで動けないとは思えないくらい偉そうだ。
「二百年とか言ってたら、ぼくが直接小鬼たちと会話する機会は、一生訪れないってわけですね」
一誠大鬼神の言葉で安心するのは癪だが、少なくとも小鬼たちとの関わりはこれ以上は進展しないのだと知ることができて、裄としては御の字だ。
しかし、一誠大鬼神は面白そうににやりと口角をあげた。
「なーに安心してやがる? 俺が言ったのは小鬼のほうはってだけで、お前の進化については言ってないぜ?」
「……はい?」
「お前がその気になれば、小鬼たちと会話するなんて簡単に習得しちゃったりしてなあ?」
「!」
裄がぐっと言葉を呑むと、一誠大鬼神は喉の奥で低く笑った。
「三十代、そんな鬼神の相手をする必要はないぞ。時間の無駄だ」
例にない毒舌で一誠大鬼神を遮断したあと、立ち上がった辻褄が裄を見下ろした。
――基本的に神様に対しては丁寧な態度なのに……一誠さんに対しては本当に辛辣だよね……。
一誠大鬼神当人はといえば、そんな辻褄の冷たい態度を全く気に留めてはいないので、裄はこっそり苦笑いを浮かべることしかできない。
「それで、どんな内容だったんだ? 小鬼たちから受けた相談とは」
「あ……はい、なにか大切なものを落としたみたいで」
「落とし物?」
「はい。それが辻風さんに知れたら、大変だって」
「御前絡みの落とし物だということか?」
辻褄が視線を落としたと同時に、裄も足元の小鬼たちに目を向ける。裄を見上げる小鬼たちの瞳には、哀願の念がまざまざと浮かんでいた。その中の一体が、身振りを交えながら必死になって裄に伝えてくる。
「――え、届け先はぼくだったの?」
「なんだ、宛先がきみだったと言っているのか?」
「はい。っていうか、送り主に相談するのって一般常識的にどうなんですかね……」
「小鬼たちに一般常識を問うのはきみくらいじゃないか、三十代」
辻褄が裄の反応にからりと笑い声をあげる。
―――先生って、この手の話だと相変わらず愉しそうなんだけど……。
裄が返す言葉に困ったとき、突然カウンセリングルーム内に強力なつむじ風が起こった。
「うわ――っ、なに」
「! 扉のほうから……まさか、一誠大鬼神の仕業か――」
風が収まり、辻褄が敷いていた札が天井からひらひらと降ってくる。
すると、いつの間にか一誠大鬼神が辻褄の目の前に立っていた。
「油断しただろう、藍。直に札に触れることはできなくても、動く手段はいくらでもあるんだぜ」
すらりとした辻褄を悠々と見下ろしながら、一誠大鬼神は辻褄の腰に手を回そうとしている。
――……一誠さん、絵にかいたようなしたり顔だな。
隙あらば辻褄に近づこうと試みる頑張りだけは、自分にも真似できないかもしれないと眺めていると、身体に触れられる寸前に辻褄の手元が動いた。
「なるほど、油断大敵と覚えておこう」
辻褄のつぶやきと同時に、一誠大鬼神の手がばちんと弾かれる。
「痛え!」
「あなたも『油断大敵』、だな?」
今度は辻褄が、美しいしたり顔を浮かべた。
「卑怯だぞ、藍! まだ札を隠し持っていたのか!?」
「私が所持する札には枚数制限などないんだ。なんなら、札で鎧でも作ろうかと考えているよ。あなたへの対策としてね」
辻褄は、一誠大鬼神の手を阻んだ指先に挟んである札を、顔の前でひらひらと揺らした。
「さて、話を戻さなければ……おや?」
裄に向き直った辻褄がなにかに気づいたように首を傾げる。その目は裄の足元に向いていたので、裄もつられて足元に目を落とす。
「あ、先生の隠し撮り……さっきのつむじ風で落ちたんですね」
辻褄が持っていたはずの写真が床にあるのを見つけ、裄は拾おうと手を伸ばす。
しかし、小鬼たちが遮るように裄の指先に群がってきた。
「――小鬼たちはなにか言いたげにしているが?」
「そうですね……なに? え――」
当然のように小鬼の声に耳を傾けている現状はなんとも複雑だが、今回はこれが目的で辻褄を訪ねてきたのだから致し方ない。
そう自分に言い聞かせつつ、聞こえてくる声に裄は目を瞠っていた。
「三十代? どうかしたのか」
「あの、先生……」
「うん?」
「この写真に写った光ってるものが、小鬼たちの探し物みたいです」
辻褄の撮る写真は、本当に不思議なものばかりを収めてくれる。
これまでは呆れるか辟易するか驚くかのどれかだったが、今回ばかりは小鬼たちの役に立ちそうで良かったと思える。
「写真からすると、体育倉庫の横の植え込みのあたりですね」
「ああ、間違いなく」
小鬼たちを引き連れて、辻褄と共に訪れたグラウンドの端にある体育倉庫の前で、入念に地べたを確認する。
しかし、光源になりそうなものは見当たらない。
「先生、こんなときこそ写真を――」
「すでに試したが、無反応だ」
勢いよく見上げた裄に向けられた、辻褄のスマートフォンの写真画像には、ただの風景しか映ってない。
「どうしてこんなときに……」
「不思議な写真は、欲したからといって撮れるものでもないからな」
悩まし気にため息をつき、辻褄は白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
小鬼の落とし物については、『裄への送り物』で『辻風御魂からの預かり物』で『とても大切』で『虹色に光るもの』くらいの情報しかない。
――結局、またふりだしってこと?
内心でがっくりとしながら裄がうなだれると、背後についてきていた一誠大鬼神がゆったりと隣に並んだ。
「あーあ、人間ってのは鈍感なもんだなあ? いや、裄ん坊が特別鈍感なのか?」
「……なんですか、協力もせずにからかうだけだったら、あとにしてください」
「からかっちゃいねえだろ。この場所、嫌になるくらい辻風の匂いがぷんぷんしてんのに、気づかねーのかって馬鹿にしてるだけだ」
「え……」
馬鹿にされるくらいならからかわれるほうがまだましだが、そんな心情はひとまず置いておいて、裄は一誠大鬼神を見上げた。
「もしかして一誠さん、落とし物の在処をご存知なんですか」
「ご存知っつーか、分からずにいられねえっつーか」
特に協力的でもなかった一誠大鬼神は、面倒そうに後頭部をがしがしと掻いている。裄がじれったく感じたとき、辻褄が一誠大鬼神の前に進み出た。
「知っているのなら、素直に吐いてほしいものだ」
一瞬きょとんとした一誠大鬼神だったが、次の瞬間にはにやりと勝ち気な微笑みを浮かべた。
「お前が一日デートしてくれるってんなら、教えてやってもいいぜ? 藍」
「……半径10メートル以内に近づかない散歩程度だったら、考えてみてもいい」
辻褄はすかさず取り出した札を、一誠大鬼神の顔の前にちらつかせた。
「…………その札がある限り、難攻不落は揺るがねーなあ。近づけもしねえ散歩なんか、面倒なだけだから願い下げだ」
一誠大鬼神は大袈裟にため息をつき、再び、今度はあきらめたように後頭部を掻いた。
――交渉は、辻褄先生に軍配が上がったみたいだな。
裄が心の中でつぶやくと同時に、一誠大鬼神は体育倉庫の上を指差した。
「あそこだろ、あそこ」
心底つまらなそうに息を吐き出して、一誠大鬼神はその場で胡坐をかきながら座り込んだ。
「ええ? 体育倉庫の屋根の上、ですか?」
「なぜあんなところに……」
裄が辻褄と顔を見合わせていると、屋根の上から一羽のカラスがひょこりと頭を出した。
「あ、あのカラスってもしかして……」
「なんだ? 三十代の友達か?」
「いくら友達が少ないからって、カラスに友達はいませんよ」
屋根の上のカラスは、知ったように一誠大鬼神の肩に飛んでくる。その光景は、登校時に見たものだ。
「やっぱり」
「……三十代、どういうことだ?」
「このカラス、一誠さんの小間使いだとかって聞きました」
「小間使い?」
肩にカラスを乗せて地べたに座っている一誠大鬼神を、ふたりでじっと見つめる。一誠大鬼神は、片方の口角を上げてにやりと微笑んだ。
「そういえばこいつ、光り物が好きだったっけなあ?」
「! あなたのせいですか、一誠さん」
「俺じゃねえ、こいつがしたことだろーが」
「……関わりがあるカラスならば、あなたにも責任はあると思うんだが?」
辻褄に睨まれて、一誠大鬼神は緩く手を振った。
「わーかったよ、こいつに取りに行かせるから、そう怖い顔すんなって。美人の怒り顔は迫力あるんだからよ」
一誠大鬼神が指図するように体育倉庫の屋根を指差すと、カラスはばさりとはばたいた。
カラスが足で掴んで持ってきたものは、虹色のたまごのような形をしていた。
写真に写ったような光は放(はな)ってないが、透き通った綺麗なガラス玉みたいだ。
小鬼たちは飛び跳ねて喜び、安堵したように裄に差し出した。
「たしかに受け取ったけど……これ、一体なんなの?」
手のひらに載せたたまごのような物体を、まじまじと眺める。
すると、裄の手のぬくもりに反応したように、ぴしぴしと表面に亀裂が走り始めた。
「え、なんだか割れ始め――」
最後まで言い切る前に、たまごのような物体はぱかりと割れた。
「これは……」
隣で一緒に眺めていた辻褄が、驚いたようにつぶやく。
――『たまごのような』じゃなくて、完全にたまごだった……。
呆然としている裄の手のひらの上では、これまで見てきた小鬼たちからさらに半分くらい小さくしたサイズの小鬼が、くるんとした二つの瞳で見上げていた。
角も、この一体だけは三本だ。
「お初にお目にかかりましゅ、裄しゃま!!」
――か、可愛い。たぶんこの子、まださ行が苦手なんだな。
「……初めまして」
可愛らしさに意表を突かれ、普通に挨拶を返して裄ははっとする。
「先生……なんだか、普通に会話できるんですけど、この子」
「ああ、らしいな。私にもばっちり声は聞こえている」
「らしいなって……まるっきり他人事ですか」
「いや、私は愉しんでいるぞ?」
「……そっちの反応でしたか」
それにしても、なぜこんなたまごを自分に宛てて届けたのか……と、辻風御魂の顔を浮かべたとき、たまごのなかにある手紙を見つけた。
「手紙だ……」
「読んでみたらどうだ? なにか伝言かもしれない。小鬼は見ておいてあげよう」
辻褄が差し出した手の上に小鬼を乗せて、裄は手紙を開いた。
『裄も小鬼たちに随分と慣れてきたようだから、退屈しないよう話し相手になれる小鬼を送ってあげる。仲良くして、いい子に育ててね♪ 辻風』
見た目を裏切らない流麗な文字で書かれている手紙に、大きく息を吐く。
「話し相手の小鬼なんて……求めてないですよ辻風さん」
言葉をこぼすと、一誠大鬼神がからからと笑った。
「ほーらな。俺様が言った通り、小鬼との会話は簡単だっただろう?」
「これは辻風さんが実力行使に出ただけです!」
「ほら、三十代」
言い返している裄に、辻褄が小鬼の赤ん坊を返却してくる。
「……愉しそうですね、先生」
「当然だ」
小鬼の赤ん坊に罪はなく、きらきらとした目で見上げられて、裄は渋々手のひらで受け取った。
辻褄はすかさず、スマートフォンを取り出して、裄の姿を写真に収める。
「新たに、可愛らしい友達が増えた記念写真だな!」
「………いりません」
辻風御魂の余計な気遣いに、裄はがくりとうなだれる。
平穏な高校生活を手に入れる日は、まだまだ先になりそうだ。
そんな思いで気分を滅入らせながら、裄は小さな小鬼を眺めたのだった――。
了