その箱はただの立方体の塊に見えた。表面には細かな幾何学模様が彫り込まれている。
そもそも箱というのは蓋があるから箱といえるのだ。なのにその立方体のものにはあけるべき蓋がない。
しかしそれを振ればからころと音がして、中になにかがはいっているのだと知れた。
「これ、何がはいっているんです?」
耳元でその音を確かめた俺は箱を膝の上に戻し、絶賛原稿執筆中の、
明石先生は少年誌に週刊連載を持つ漫画家で、俺はアシスタントだ。大学では建築学科で絵は一応描けるが、漫画のことはあまり知らない。そんな俺がなぜアシスタントなどをしているかというと、明石先生の特殊な仕事場に対応できるから、というただ一点だ。
明石先生は──実は人間ではない。長い年月を生きている妖怪だ。
しかし、対応できるからと言って、俺は妖怪ハンターでも霊能力者でもなんでもない。ただ、神経が図太い──もしくは一本二本くらい抜けているせいらしい。
「さあ……」
明石先生は俺の質問に気のない素振りで答えた。仕事机に向かったままこちらを見もしない。
「僕にもわかりませんね」
「でもこれは先生のものでしょう?」
この箱は俺が掃除をしているときにどこからか出てきたのだ。持ち主が知らないなどということがあるだろうか。
「ずいぶんと前に手に入れたものかもしれませんねえ」
明石先生はようやく振り向いて、それを座っている俺の手から受け取った。
からころ。
それは明石先生の手の中で軽快な音をたてた。
からころ。
「ああ、そういえば思い出しました」
明石先生はぼんやりと
「たしかこれは細工箱なんです。開けるのに手順が必要なんですよ」
そう言って箱を手の中でいじる。見ているうちにぱちり、と箱の一片が押し出された。
「どうだったかな」
また軽い音と一緒にひとつの片が押し出される。
「こうかな?」
ぱちり。片が伸びる。
俺は明石先生が箱をいじる様子を見ていたが、ふと、日差しが翳ったのに気づいて視線を窓へ向けた。
窓は開け放たれて、町が見え、その町の上に青い空が広がっている。
青い空の一片が欠けていた。
「明石先生」
俺はその欠けた部分から目が離せなかった。青い空の一部が切り取られたように真っ白だった。
「こうやって」
明石先生の声が遠くから聞こえる。
「こう」
箱がパチン、パチンと開いていく音と一緒に、空がぱきり、ぱきりと欠けていく。
「こうすれば―――」
「先生!」
俺は立ち上がると明石先生の手から箱を叩き落した。
「あらら……」
床に転がった箱は元の立方体に戻っていた。
「どうしたんです」
先生は箱と俺の顔を見比べた。
「い、いえ。失礼しました」
俺も箱を見て、それから空を見た。空は元通りの青い空だった。俺はカーテンを閉めてその青い空を隠した。
気のせいだ。きっと見間違いだ。
「せっかく、開きそうだったのに」
「開けなくてもいいです。それはきっと、開けるものじゃないんだ」
「そうですかね」
明石先生は立ち上がると箱を拾い上げて手の中に握った。
「おかしな人ですね」
明石先生はカーテンをさっと開けた。
ぱきり。
俺の背後からそんな音が聞こえ、足元の床の感覚がなくなった。
(ああ、箱が開いた)
そしてなにもなくなった。
―――
「という夢を、見たんです」
「変な夢ですね」
「そうですね」
「このお土産を渡しづらくなってしまいました」
明石が持っていた風呂敷包みから出したのは、格子柄のきれいな箱だった。
明石は昨日から取材と称して、猫又のゆずと
明石が次に言った言葉は夢の中と一緒だった。
「たしかこれは細工箱なんです。開けるのに手順が必要なんですよ………」
了