地獄の進行がなんとか四日目の朝に終わった。細かな部分は明石が一人で出来ると言ったので、瑛太は自宅へ戻り、四日ぶりの風呂に入った。湯船の中に何度か沈みかけては目を覚まし、ベッドに倒れ込むと同時に眠った。
翌日はなんとか大学へ行った。校門をくぐると脇に立つ杉の木にクリスマスの飾り付けがしてあり、ああ、もうそんな時期だったんだと思い出す。
構内も、雰囲気がどこか浮かれ気味で、乾いた空気の中に笑い声がよく響く。
瑛太は友人の花邑耀司を見つけ、自分が休んだ二日分の講義ノートを借りた。
「珍しいよな、篠崎ちゃんが杉田教授の講義をサボるなんて」
学食のテーブルを借りてノートを写している瑛太を、花邑は頬杖をついて見守っている。学食の壁にも金色のモールやプラスチックのモミの葉が飾られていた。
「明石先生は授業に出てもいいと言ってくれたんだが、……あの状況を見ていると帰れなくてな」
「そういうの、ブラック企業の第一歩だぜ? 漫画家の仕事場なんていい加減なところ、自分で管理しないとだめだぞ。やりがい搾取って言葉知ってるか?」
花邑は「チキンの唐揚げクリスマス風」を摘みながら言った。クリスマス風というのは、付け合わせの赤いミニトマトと緑のブロッコリを指しているらしい。
「滅多にないから大丈夫だ」
「最近はその仕事場、変なの出ないんだっけ?」
「ああ」
以前花邑には、仕事場に変なものが出る、という話をしていた。すぐに後悔してその後その話題は避けている。最近ではゆずが見つけ次第片づけているから嘘ではない。
「残念、見たかったなあ」
瑛太は写し終わったノートを花邑に返した。
「篠崎ちゃんは冬休みどうすんの?」
「とりあえず正月のどこかで実家に帰るかな」
花邑と同じメニューを頼んでいた瑛太は、唐揚げを一つ口に入れた。身より衣の方が分厚い。
「実家、福島だっけ」
「ああ、奥会津だ」
チキンはベタベタと油っこかった。消化するにはトマトもブロッコリも足りない。
「クリスマスのご予定は?」
瑛太は無言で花邑を見た。
「悪い、余計なことを聞いた」
その白い目を見た花邑が、片手を顔の前で立てる。瑛太は乱暴にノートをリュックにつっこんだ。
「映画でも観に行くさ」
とたんに花邑が「よせよせ、クリスマスに一人で映画館なんて行ったらHPを削られるぞ」とわめく。
「余計なお世話だ。それに仕事が入るかもしれん」
「そっちの方が余計悲惨だ」
「おーい! 花ちゃーん」
食堂の入口で花邑の知り合いらしき学生が手を振っている。
「おう! ……悪い、篠崎。俺、あいつらと約束があった」
花邑は振り向いて手を挙げると、瑛太に片目をつぶった。
「新宿に服を買いに行くんだけど、おまえも来るか?」
瑛太は首を振る。
「来週、買った服見せてくれ」
「おう」
花邑は残った唐揚げをひょいと口に放り込み、席を立った。
瑛太にしてみれば、服を買うのにわざわざ電車に乗っておしゃれ服屋に出向く意味がわからない。大学のあるお茶の水にも十分服を売っている店はあるのだ。
瑛太は椅子に背をもたせかけ、食堂を見まわし、窓から構内を見た。大勢の人間が、各々好きに過ごしている。ある者は座っておしゃべりをし、ある者は連れだって歩き、またある者は本を読んだりスマホを見たりしている。
そんな彼らの姿が、風景が、透明な布を透かしているかのように見える。人間以外の存在をおそらく知らない、これからも知ることがない彼らの世界……。
自分は知ってしまった。知ったからといって、自分がなにかの行動に出るわけではない。だが、知る前と後では世界が違う。この世には見えないものがあり、違うルールで行動するものがあり、こちらの常識では考えられない思考をするものがいる。
知るものと知らないものは決して交わらないが、意外に簡単に境目は越えられる。
ここ数日、雑鬼の出る部屋で明石やゆずと過ごしていたから余計そう思うのかもしれない。得体のしれないものが床から顔を出し、影だけの魚が壁を泳ぎ、透明な足が足あとを残し、猫は二本足で歩く。
最近の瑛太は町を歩いていても、奇妙なものを見かけるようになった。どうして今まで気づいていなかったのだろう? 神田川の水面に浮かぶのはあぶくではなく、白い頭だ。横断歩道の前で渡れずにうろうろしている猿のようなもの、線路沿いにうずくまっている黒い影。
それらが目に入ると思わずたたらを踏んだり、声を上げたりしてしまう。
「町や道にいるものたちは、できれば人間と関わりたくないと思っているので無視してあげてください」
以前、明石に相談したらそう言われ、それからは明らかに人間や生物でないものは無視している。うっかり目があうときもあるが、そんなとき、彼らは顔をそむけ、そそくさと背を向けてしまう。
妖怪、妖魔、妖かし……。そんな名で呼ばれる彼らは、夜でも明るく人通りの絶えない現代では、さぞかし生きにくいだろう。
ポケットの中でスマホが鳴った。取り出してみると「明石先生」と表示されている。番号は固定電話だ。明石は携帯も持っていない。
「はい、篠崎です」
『明石です。篠崎くん、もしよかったら今日、夕食を一緒にとりませんか?』
「夕食、ですか」
『はい。仕事が終わったらおいしいものをご馳走すると言ったでしょう?』
「ああ……」
『えーたぁ、いっしょにいこー』
ゆずの声も聞こえた。人間の通信網を使いこなす妖怪もいる……。
ふっと瑛太は唇の先で笑った。
『どうしましたか』
スマホの向こうでゆずから受話器を奪った明石が想像できる。
「なんでもありません。ご馳走になります」
『よかった。それじゃあ池袋で待ち合わせしましょう』
「池袋……大丈夫ですか? 西武は東口で東武は西口ですよ?」
『だ、大丈夫だよ!』
待ち合わせ場所を決めて瑛太は電話を切った。
このスマホの向こうにいるのは正体はなんでも、とにかく生きて存在しているものだ。
明石の指定した場所は東口にあるジュンク堂という書店の前だった。この店とサンシャイン60だけはわかるのだと言う。
「えーたぁ!」
ジュンク堂の前で明石と手をつないでいたゆずが、元気よく手を振る。いつものニットの帽子に赤いちゃんちゃんこを着て、ひげの生えた顔はマフラーでぐるぐる巻きにしている。
明石は着物に二重回しのマントで、さすがに半纏は着ていない。その代わりマフラーを二本、巻き付けていた。キャスケットもちゃんとかぶっている。町中でその格好はかなり目立っていて、顔がなまじいいだけに、道行く女性たちから熱い視線を注がれていた。
「すいません、お待たせしてしまって」
「大丈夫だよ」
「えーた。明石せんせな、最初ぜんぜんちごた方向に歩いて、おっきな電気屋さんの前であわてて引き返したんよ」
ゆずがケロケロと笑ってばらす。明石はつないでいたゆずの手をぶんぶん振った。
「もう、ゆずくんはまた余計なことを」
瑛太は明石の赤くなった顔を楽しい気持ちで見つめた。
「じゃ、じゃあ、行きましょうか、篠崎くん」
ジュンク堂の前の明治通りを渡り、〈びっくりガード〉と呼ばれる鉄橋をくぐると、長い階段が現れる。そこを上がると線路を越えて西口に出ることができた。
「だったら西口で待ち合わせた方が」
「西口はやばいんです」
明石は真剣な顔で言う。前髪の下で、影になった目が暗く光った。
「西口に至る出口は無数にあって、ひとつ間違えると絶対辿り着けません。すべての道はローマに通ずという言葉がありますが、池袋の出口は迷路に通じてます。だったら遠回りでもよく知っている道順がいいんです」
西口に出てホテルメトロポリタン、池袋西口公園の前を通ったところで、ゆずが疲れたと言い出した。瑛太はゆずを抱きあげ、肩車してやった。
道路を横切ると〈ロマンス通り〉と書かれた看板が見える。それをくぐるとずらりと立ち並ぶ飲食店、過剰なほどの看板やのぼり、右を見ても左を見ても、びっしりと隙間なくビルが建ち並び、その中に様々な店が入っている。派手なチェーン店もあれば、個人でやっている古く小さな店もあった。
そのロマンス通りをどんどん抜けて、いくつかの角を曲がり、線路沿いに出る。そのまま進んで行って、ようやく明石が足を止めた。
「今回も無事に着けた……」
はあはあと肩で息をしている。明石にとっては大冒険なのかもしれない。
「毎回もうおしまいかと思ってしまうけど、なんとか辿り着けているんです」
瑛太の目の前に現れたのは、古いビルだった。その一階にやはり古そうな飲食店がある。入口は木製の枠を持ったガラス戸で、ひさしはオレンジと白のビニール、しかも半分以上破れている。のれんが下がっているが、印刷されている店の名前はもう掠れ、食堂、という文字しか見えない。ガラス戸も曇り、下の方が一部割れていて、ガムテープが貼ってあった。
「こんにちは」
明石がガラス戸を開ける。黄色い照明に照らされた店内には数名、客がいた。テーブルにはテカテカしたビニールクロスがかけられ、床は元の色がわからないくらい黒ずんでいる。正直言って、一人ではとても入る勇気の出ない店だ。
壁にはたくさんのメニューが紙に書かれて貼られていた。それらも黄ばんで文字も薄れている。
「あら! 明石先生じゃありませんの」
奥から着物に割烹着をつけた女性がトレイを持って出てきた。
「一人じゃないなんてお珍しい! お友達ですの?」
「アシスタントくんとペットです」
明石が答えると、瑛太に抱かれていたゆずがむうっと頬を膨らませた。
「ゆずは明石せんせの弟子なんよ!」
「ペットでいいと言ったじゃないですか」
「人に紹介するときは弟子ってゆーてほしいんよ」
女性は瑛太の方を伺うような目をして見た。
「あ……、篠崎です。先生のアシスタントです」
ペコリと頭をさげると、女性が優しそうに微笑んだ。
「ひな菊と申します、明石先生とは長いおつきあいなんですよ」
見た目三十代くらいでおっとりとした感じのきれいな女性だ。長い髪を簪でまとめ、手ぬぐいを姉さんかぶりにしている。明石と長いつきあいということは、もしかしてこの女性は人間ではないのだろうか?
黄色い照明に照らされた影も人型だし、見た目は完全に人間だが。
「アシスタントさんってなにをなさるの?」
「明石先生の原稿のお手伝いです」
「やっぱりお弟子さんみたいなものかしら?」
瑛太はちょっと考えた。自分が漫画家志望ならそうなるのかもしれない。だが否定して詳しく説明するのも店内では迷惑になるだろう。
「……そんなものです」
だから曖昧ににごした。
「そう、しっかり修業なさってね」
ひな菊はくるりと顔を巡らせると、奥に向かって声をかけた。
「なでしこちゃん、お冷みっつお願いね」
その声に応えて店の奥からもう一人、女性がトレイに水のコップを載せてやってくる。こちらも目元が涼し気な美人だ。赤いワンピースに白いレースのエプロンをつけている。ひな菊より若く見え、ほっそりとしていた。
口元は風邪でもひいているのか、花柄のマスクで覆われている。テーブルについた瑛太たちに彼女はにっこりと目だけで微笑んでくれた。
「ご注文は?」
なでしこに聞かれて瑛太はテーブルにメニューを探したがなかった。壁の張り紙は読み取りにくい。
「ここはね、言えばなんでも作ってくれるよ」
明石が囁く。
「まあクジャクの舌のスープとか、細胞ペプチドケーキなんてのは無理だけど、キビヤックくらいなら出してくれるかも」
「キビヤック……?」
「そんなもの出さないわよ。この通り一帯臭くなっちゃうじゃない」
なでしこが笑いながら言う。ひな菊とは違い、さばさばした口調だ。
「ええっと、じゃあ……」
とにかくキビヤックだけは注文しないでおこうと、瑛太は食堂の中を見回し、他の客が食べている生姜焼きらしい皿を見た。
「生姜焼きとご飯を」
「はい、わかりました。明石先生は?」
「僕はハンバーグを下さい。中にチーズが入っているのがいいな。あと、なすのみそ炒め」
「先生はいつもそれね。そちらのペット……お弟子さんは?」
なでしこは会話を聞いていたらしい。ゆずに向かってちゃんと言い直してくれた。
「ゆずはねー、おさかなー。骨はとってやんさい」
ゆずがテーブルに両手をぺったりと伸ばしながら言う。なでしこはメモをとると背を向けた。
料理を待っている間にも客がちらほらと来る。スーツにコートのサラリーマンもいれば、労働者風の人もいる。あきらかに水商売の呼び込みだとわかる若い男も入ってきた。さすがに女性は一人もいない。
「おまちどおさま」
なでしこがトレイを持って何度も往復し、テーブルの上は料理でいっぱいになった。瑛太の前には山盛りのキャベツにやはり山盛りの豚肉、明石の前にはレタスの上に載ったおにぎりくらいあるハンバーグに、皿からはみ出さんばかりのなす炒め、ゆずの前にはきれいな形のサンマの焼き物が出された。
見るからにうまそうな色ツヤ、それに生姜の匂い。瑛太はごくりと唾を飲んだ。
どん、どん、と白米が盛られたどんぶりも置かれる。こちらもご飯のつぶがツヤツヤと輝いていた。
「じゃあいただこう」
明石の言葉で瑛太は箸をもって、「いただきます」と手をあわせた。ゆずは魚の尻尾と頭を持って、がぶりと胴体に食いついている。
「う、」
「にゃ」
瑛太とゆずが同時に声を上げた。
「うまい!」
「うにゃんっ!」
思わず顔を見合わせる。だがそれも一瞬で、あとは夢中で肉を、魚を口に運んだ。
「うまっ、なんだこれ! 肉が柔らかくってぶっちりしててたれがたれがたれが」
「おさかにゃにゃにゃにゃ! 骨にゃーの! やわかー、海の味がするにゃー!」
合間に口にするキャベツも、絶妙な歯ざわりだ。肉のあまから、キャベツの清涼感、そこにご飯を放り込むと、口の中で幸せが大暴れする。
カツンッという音に箸がどんぶりの底に当たったのを知る。なんてことだ、もうご飯がない。皿にはまだ肉とキャベツが残っているというのに。瑛太は絶望的な目で周囲を見回した。
そこになでしこが抜群のタイミングでおひつを持ってくる。
「おかわりは無料よ」
「ください!」
どんぶりを光の速さで差し出すと、一膳目と同じ山盛りにしてくれる。安心のあまり頬が緩む。
気が付けば明石がにこにこしながら瑛太を見ていた。手元は子供が使うような先割れスプーンで、それでご飯やハンバーグをすくっている。箸の使い方を練習していたはずだが、ここでは気にしないことにしたらしい。
「おいしいでしょ」
「おいしいです、すっごくうまいです!」
実際は口の中に詰め込んでいたのでこんなふうには言えなかったのだが、明石にはわかったらしい。うんうんとうなずいた。
店の中の時計が二〇時を指すと、なでしこが店の外に出てのれんを下ろした。食堂にしては閉店時間が早い。
明石は瑛太が生姜焼きを食べ終わりそうになったのを見て、チキンカツを追加した。ゆずにももう一匹魚を追加してやる。
追加の品を待っている間に、客たちは食べ終わりどんどん店を出てゆく。結局、明石たちのテーブルだけとなった。
「先生、もう閉店なんじゃあ……」
「実はこれからがこの店の本領発揮でね」
明石は片目を瞑った。