帰宅途中に出会った辻褄と別れ、家の玄関をくぐった裄は、案の定な大女将の渋い対応に迎えられた。
「おかえりなさい、裄さん。……言いわけがあるのなら、発言を許しますが」
「いえ……完全な不注意で、こんな姿になっています。言いわけはありません」
「そう。分かっていると思いますが……呉服店の次期当主として、今後はもっとご自分の行動に気をつけなさい。それから、衣服を大切に扱う心構えも大事ですからね」
「………はい」
大女将からのお小言という関所をくぐり抜けて自分の部屋に戻ると、裄は無意識にため息をこぼしていた。
あまりない自分の失態に落胆し、濡れそぼった髪をタオルで拭きながら、改めて辻褄について考えた。
裄から見た彼女は、自分とは絶対に相容れない生き方をしている “残念美人”だ。それを知ったのは、つい昨日……裄にとって穏便に済む予定だった、入学式の日のことだ。
入学式当日。兼ねてから思い描いていたこの日は、裄にとって人生の新たな一歩となる大切な節目だった。
推薦で合格していた裄は、内申書の内容と学力を買われ、入学式で新入生代表として挨拶をするという大役をもらっていた。
『もう心配ない』と言い切れるまでスピーチの練習を重ね、本番に臨んだ。自分で言うのもなんだが、完璧だった。
すべては順調――そう思えたのは、ここまでだ。
裄がクラスメイトの集団から少し遅れて、安堵の心地に満たされながら教室に向かっていた矢先だ。
講堂から校舎へ続く渡り廊下を歩いていると、“校庭の桜も咲き誇り、私たちの入学を祝福しています”とついさっきスピーチした通りの光景に、不意に目を奪われた。
気づけば、裄の足は教室ではなく桜の木に向かっていく。こんなときに限って、裄の周囲にひと気はない。
――どうして、こっちに……?
そんな胸中の困惑とは裏腹に、確実に一歩ずつ、桜の木との距離を自分の歩みで埋める。
しだいに、ひらひらと舞い散るピンク色の花弁が目の前に迫ってきた。
それまで桜の匂いを意識したことはなかったのに、まるで口いっぱいに花弁を頬張ったかのように、濃い桜の香りを感じたことはよく覚えている。裄の足は、固定されたようにぴたりと止まる。
気づけばなんの音も聞こえなくなり、静寂のカプセルのなかにでも閉じこめられた感覚に陥った。
全ての音が遮断されたのだ。空気の動きも、自分の呼吸も、鼓動さえも。
しかし、しきりになにかに呼ばれている気がする。
こちらにおいで。おいで、と。
止めていた足が、じりじりと動きかけたときだ。背後から女性の声が聞こえた。
「つま先一センチ」
「……え?」
いつの間にそこにいたのか、裄にはその気配は全く感じられなかったので、振り向きざまにわずかに怯んでしまった。
まるで彼女のために仕立てられたような、チャコールグレーのスカートスーツを着こなし、なぜだかその手に重たそうな一眼レフカメラを携えた女性がいる。
――この人、さっきの式で新任の挨拶をしてた……確か、スクールカウンセラー?
訊ねようとしたことで、裄は異変に気づいた。それだけではない。
視界だけが残り、指先もまばたきでさえも、全身が自分の意思では動かすことができなくなっていた。
――これ、金縛りだ。
「いいか少年、きみのつま先のほんの一センチ先……そこには境界線がある」
遮断されていた静寂の世界に、鮮明に入ってくる彼女の声を、意識の端で聞いていた。
裄は子供のころ、よく金縛りにかかっていた。
おばけのせいだと、一時期はひどく怖がっていたものだが、金縛りは身体の眠りと脳の覚醒の齟齬によるものだという見解があることを知り、目に見えないものを恐れてばかりいても仕方がないと、幽霊や見えない存在へのドライな考え方に行きついた。実際、成長するにつれ、金縛りにかかること自体少なくなった。
そんな経緯から、 “目に見えないものは信じない”という信念を持つようになった。
いつも冷静に、周囲からの期待に応えられてこそ自分の価値が生まれる。余計なものに振り回されていては優等生の名が廃ると思っているからこそ、生まれた信念でもある。
――この人が言っていることが、全く解せない。なんなの、つま先一センチって。
かろうじて動かすことができる目に怪訝な色が浮かんでいたのだろう。裄を見た彼女は、おもむろにカメラのレンズを向けてきた。
「丸っきり信じていないという目だ。待ってろ、証明してあげよう」
美人なのに、やけに男前な微笑み方をするものだ。
片方の口角をあげた笑い顔がさまになる彼女に、裄は内心でそんなことを思っていた。
そしてシャッターを切られた瞬間、思ったよりも目映いフラッシュに裄は目を細めようとするが、やはりまばたきはできなかった。
「見なさい」
裄をカメラに収めてすぐ、内蔵されたモニターを確認していた女性が、裄の隣に並ぶ。
コロンでも使っているのか、石鹸のようなやわらかな良い香りがして、裄は思わずどきっとした。
だが、彼女にときめいたのは、あとにも先にもこのときだけだ。
「ほら、ここ。きみのつま先のすぐそば─」
フラッシュの残像で、ちかちかと不快な余韻が残る目を裄は必死に凝らす。
隣で彼女の指が示したモニターのなか、裄の足元には、時間を経て黒みを帯びた血液で引かれたような線がはっきりと見て取れた。
少し前に彼女が言ったように、まさに“つま先一センチ”だ。
そして、その線の奥から、裄を捕まえようとするような黒い手が伸びている。
「……なんですか、これ」
「おや、解けたようだね、金縛りが。良かったじゃないか」
「――あ」
彼女に言われて声が出せたことに気がつき、裄は喉元に手を当てる。無意識に力んでいたのか、声 帯がぴりぴりとした渇きを覚えた。
裄は咄嗟に自分の足元に視線を落とすが、カメラに撮られたような赤黒い線も、黒い手も見えない。
しかし、あれほど美しいと感じた桜の光景をなぜか不気味に感じてしまい、無意識にあとずさりながら自分の腕を抱える。
「神様に気に入られるとは、難儀なものだな、少年。さて、そんなきみに問おう。このまま境界線を越えたいか、それとも越えたくはないか……どちらだ?」
彼女に訊かれて、裄はもう一度足元に視線を落とす。
目に見えないものは信じないし、信じても無益だ。彼女が紡いだ言葉は、明らかに“見えないもの”の話で、いつもの裄ならば信じないカテゴリーに分類する事柄だ。
けれど今、実際に体感した。裄は冷静さを失わないように、静かに唾を飲み込む。
「……境界線って、仮に越えたらどうなるんですか?」
「さあ? ただ取り憑きたいだけか、喰いたいのか……その辺りは私には分からないけれど」
「!? 喰いたいって─」
「迷える神様がどんな暴挙を働くか、それは人には量れないということだな」
目に見えないのに体感して、信じられないのに信じているという、自分でも説明がつかない複雑な気分だ。
自分には理解できないことを言い放つ彼女とは、願わくは今後あまり関わらずに過ごしたい。そんな感情を抱きながら、裄は正直な今の気持ちを言葉にする。
「……どちらかと言えば、越えたくはないかもしれません、境界線ってやつ」
裄の答えにうなずいて、彼女は一歩踏み出した。そこは、境界線の先だ。
「では、きみの意思を尊重しよう」
そう言って屈んだ彼女の手元には、いつのまに用意したのかお札がある。
それを指先で地面に押しつけて、彼女は迷える神様とやらに告げた。
「私は辻風の社への道を知っている。あなたが素直についてくるなら、導くことができるよ。どうする、神様? ずっとこの場所で、ひとりぼっちでいたいか?」
裄の目にはなにも見えない。
見えないはずなのに、それまで静かだと感じていた裄の周辺が、ざわざわと蠢き出す。
ミリ単位のボールが一斉に右往左往し始めたように、頬に当たる空気が煩い。
「さあ、おいで。そこにはあなたの仲間がたくさんいる」
ひとりで声を発している彼女に、答えるように桜吹雪が吹きつける。
彼女の手元では、お札が煙をくすぶらせながら静かに灰になった。
舞い散っていたピンク色の花弁、その最後のひとつがはらりと着地したとき、屈んでいた彼女が立ちあがった。
「改めて、私はスクールカウンセラーの辻褄だ。入学おめでとう、少年」
辻褄は爽やかな笑顔で振り向いて、裄の胸元についている新入生の印の赤いコサージュを指先で弾く。たった今、繰り広げられていた事象はまるでなかったことのようだ。
「きみとは今後、関わることになるだろう。きっとね」