こぎつね、わらわら 稲荷神のまかない飯 立ち読み

 駐輪場に停めてあった自転車に乗り、少しずつ速度を上げて学校から離れていく。赤色のボディが気に入って高校入学と同時に買ってもらった自転車。住宅地を抜け、川沿いのサイクリングロードを走っているときが一番気持ちいい。
 九月に入っても夏のような暑さは続く。でも頬にあたる風はいつもより冷たくて、秋の訪れを感じさせる。ひんやりとした感覚は少しずつ心を落ち着かせた。
 新しい自転車。赤のベルトが特徴的なカーキ色のリュック。高校の制服である、白いポロシャツに紺色のスカート。私の全身は、すべて自分の希望通りのもので包まれている。
 それなのにどうして、こんなにも虚しい気持ちになるのだろう。楽しいことなんて何もなくて、ただ淡々と規則的な生活を繰り返している。
 自然に溢れ、マイナスイオンいっぱいの道を走り、空にまっすぐ伸びるひこうき雲を追いかける。名字が空野だからか、昔から空を見上げるのが好きだ。
 この世界を優しく包み込むような青。透き通るような青。子どものときは、幼馴染と空を見上げて一日を過ごすこともあった。
 ただ純粋に綺麗だと思っていた。見上げるだけで元気をもらっていた。
――でも今は、空を見ても何も感じなくなっていた。

「おはようございます!」
「おはよう、陽咲ちゃん。今日も学校帰りに来てくれたのかい?」
 バイト先の海堂旅館の裏口から入って更衣室に行くと、そこには仲居のゆかりさんと晶子さんがいた。二人とも四十代前半くらいで、頼もしい私の仕事仲間である。二人は更衣室で休憩していたらしい。
 時間に関係なく『おはようございます』と挨拶することにもすっかり慣れた。バイトを始めて知ったことだけど、旅館では普通のことらしい。
「今日は、お客様はどのくらいいらっしゃいますか?」
「家族連れのお客様が数組と、珍しいことに男性のおひとり様がいらっしゃるのよ」
 バイトを始めて五ヶ月くらい経つけれど、たしかにおひとり様は見たことがない。
 いったいどんな方なのか、少し気になるかも。
「とっても若そうなお方だったけど、一人で澄ノ島に何の用事かしらねぇ」
「お盆の時期もだいぶ過ぎているけど、遅めの夏休みなのかねぇ。サラリーマンって感じにも見えないけどねぇ」
 ゆかりさんと晶子さんの噂話に花が咲いているうちに作務衣に着替える。海堂旅館は、女将は着物、仲居はあずき色の作務衣に紺色のエプロンを腰に巻くという決まりである。
「あれ、風でクセがついちゃってる」
 ロッカーにある鏡を見ると、前髪と後ろ髪の一部分が跳ねていることに気づいた。ショートヘアは楽ちんだけど、すぐにクセがついてしまうのが難点だ。
「ピンで留めてみたら? 貸してあげるよ」
「いいんですか? ありがとうございます」
「いいよこのくらい。あっ、そういえば若女将が事務室に来てほしいって言ってたよ」
「分かりました、今からすぐに行きます」
 ゆかりさんからヘアピンを受け取り、前髪を留めながら事務室へと移動する。
 事務室は更衣室を出て右に曲がったところにある。近くには調理場があり、今はちょうど夕食の仕込みをしているようだ。
「よっ、陽咲ちゃん。お腹すいてない?」
「大輔さん、おはようございます! ここにいるといいにおいがしてお腹が鳴りそうです」
「だろうなぁ。じゃ、これあげるよ。俺が握ったんだぜ」
 調理場から話しかけてきたのは板前見習いの大輔さんだ。澄ノ島で育ち、この春、高校卒業と同時に板長さんに弟子入りした。授業をサボったり、夜中に出歩いたりしていたから、大人からの評判はあまり良くない。
 でも、面倒見のいい人で、子どもには優しい。小さいときはよく遊んでもらった。昔は派手な髪型をしていたのに、今は修業中の身だからか坊主頭である。
 大輔さんが手渡してきたのはラップに包まれたおにぎりだった。真っ白なご飯が三角に握られているだけで海苔も巻いていない。
「このおにぎり、味ついているんです?」
「当たり前だろ。食べてみたら分かるさ。……ところでさ、最近は病院に行った?」
 大輔さんの神妙な顔つきを見ただけで、彼が何を聞きたいのか分かった。
 そしてそれは、今の私にとって一番触れてほしくないことでもあった。
「……バイトがない日によく行っていますよ」
「そっか。俺もお見舞いに行きたいって思っているんだけどね、なかなか暇がなくてさ。それで、最近の調子は……」
「……私、そろそろ行きますね。若女将に呼ばれているので」
 話を途中で切って小さくお辞儀をし、大輔さんの顔を見ずに事務室へと移動した。おにぎりのお礼を言っていないことに気づきながらも、振り返って話しかけることはしなかった。
 可愛げがない態度をとってごめんなさい。でも、大輔さんの聞きたいことに応えるだけの余裕はまだなかったんだ。

「失礼します」
 二回ノックをして、ゆっくりと事務室の扉を開けた。事務室は十畳ほどの広さで来客用のソファとテーブルがあり、パーテーションで区切った先には事務仕事用の机がいくつかある。壁沿いには書類びっしりのキャビネットが並び、まるで小さな会社のようだ。
 若女将の優子さんは、ほたるの父の妹で、今は女将のほたるの母に代わって旅館内を仕切っている。ちょうどソファに座ってファイルに書類を綴じているようだった。年齢は三十代前半で、高校卒業と同時に旅館で働いているらしい。私と目が合うとすぐに手を止めて、優しく笑いかけてくれた。
「陽咲ちゃん、おはよう。呼び出して悪かったわね」
「おはようございます。今日の着物もとっても綺麗ですね」
 鮮やかな紫色の生地に白い桔梗が映える着物は、若女将の気品を際立たせている。
「あらー、ありがとう。毎回褒めてくれるのは陽咲ちゃんだけよ。ところで、その手に持っているのはおにぎり?」
「あっ、これは大輔さんがくれて」
「まかない分で握ったのかしらね。お腹空いているならここで食べていく? お茶淹れるから座って待っていて」
 若女将はテーブルに置かれていた書類を持って立ち上がった。
 タイミング悪かったかなと思いつつも、お言葉に甘えてソファに座った。
 若女将が淹れてくれた緑茶をお供におにぎりを頬張ると、ちょうどいい塩加減が口の中に広がった。もう一口食べると、ご飯の真ん中にほぐされた焼き鮭の姿を発見する。
「ちゃんと味付けしてあった! しかも鮭が入ってる!」
 思わず本音をポロリ。向かいに座っている若女将はくすくす笑っている。手を口に添える笑い方はとても上品に見えた。
「大輔くんは信頼が薄いみたいね」
「えっ、いや、そんなことは! 見た目が真っ白なので、ただのご飯かもって思っただけで! ……うっ」
 慌てて否定したせいでご飯が喉につまり、急いで湯呑を手に取った。
「ちょっと、大丈夫? 私が変な冗談を言ったせいね。ごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ、いろいろとお見苦しいところを見せてしまって……」
「ふふふ、全然そんなことないわ。……ところで、今日陽咲ちゃんを呼び出したのはこれを渡そうと思って」
 若女将は私に茶封筒を見せた。そこには〈八月分お給料〉と書かれている。
 やっぱり、このことで呼び出されたんだ。……今月こそは、はっきり断らないと。
「若女将、やっぱりお給料は受け取れません」
私は首を横に振り、封筒を受け取ろうとはしなかった。しかし、若女将は封筒を差し出したまま。困ったように笑う彼女を見ると心が揺らぐ。
「毎月言ってるけど、高校生をタダ働きさせたらエライ人に怒られちゃうから。きちんと働いた分は受け取ってもらわないと」
「……私は、お金が欲しいからお手伝いをしているわけじゃないです」
「気持ちは分かってるわ。でもね、陽咲ちゃんが旅館に来てくれたおかげで皆助かっているの。仕事量だけじゃなくて、精神的な部分で支えてもらっているわ。これは私たちからの感謝の気持ちだと思って」
「……分かりました。ありがとうございます」
 私たちは毎月同じやりとりをして、結局は若女将に押されて給料を受け取っている。そのお金を家に持って帰っては罪悪感を覚え、来月こそは受け取らないと決意して……の繰り返しだ。
「あ、あっという間に夕食の時間になってしまったわね。今日も一日よろしくね」
「はい、では私も仕事に入ります」

 若女将との話を終えた私は、おにぎりの代わりに茶封筒を持って再び更衣室へと移動した。更衣室にはもう誰もいなかったので、急いでロッカーに封筒をしまい、ゆかりさんたちのもとへと急いだ。
「今から柊様のお部屋に料理を運ぶから手伝ってくれるかい?」
「はい!」
 調理場に入るとさっそくゆかりさんから仕事を頼まれた。調理場には前菜やお刺身などが並んでいて、それらをお盆に載せて部屋まで運ぶ。持っていく量からして、柊様は噂の〈おひとり様〉のようだ。
「一人でも持っていける量なんだけどねぇ。陽咲ちゃんも柊様を見てみたいでしょう?」
「え? まぁ……どんな方か興味はありますけど」
「若くて結構素敵なのよ。誰か思い出せないけど、芸能人に似ている気がするのよねぇ」
 そんなミーハーな話をしているうちに柊様の部屋に到着した。海堂旅館は和室が十五部屋ほどある。そのすべては家族用の広さであり、一人で使うにはもてあましそうだ。
 ドアをノックして「失礼します」と声をかけると、中から「はい」と答える男の人の小さな声が聞こえた。それを受けてゆかりさんがドアを開ける。入ってすぐの場所は小さな玄関の様になっていて、正面には閉まった襖がある。
「柊様、お食事をお持ちしました」
「ありがとうございます。お入りください」
 部屋の中から聞こえたのは、優しい声だった。
 私たちはお客様の了承を得て、襖の前で正座をしてからゆっくりと開ける。もちろんすべてはベテラン仲居のゆかりさん主導で、半人前以下の私はただ隣で同じようにしているだけ。
「失礼します。今から夕食の準備を始めさせていただきます」
 正座をしたままお辞儀をして、ゆっくりと顔を上げる。
「はい、よろしくお願いします」
 顔を上げると、こちらを見てにっこりと笑っている二十代前半くらいの男性の姿があった。くしゃっとしたクセのある黒髪にほど良く焼けた肌。白いシャツは襟元のボタンを外していて、そこから見える鎖骨が妙に色っぽい。色っぽいのにたれ目なところが幼く見えて、一言では言えない魅力を感じる人だと思った。
 そして、ゆかりさんの言う通り、誰かに似ている気がする。すぐに思いつかないけど、どこか懐かしさを感じるのは気のせいだろうか。
 初めて会ったのに、まだ顔を合わせて数分も経っていないのに、彼と同じ空間にいるだけで心が落ち着かない。あの人が若いからだろうか。一人客が珍しいからだろうか。それとも、誰かに似ているからだろうか。
 胸の鼓動が速くなっていく。たまらなく緊張する。自分でもよく分からないけど、私はこの人に何か特別なものを感じていた。
 料理の配膳と食材の説明が終わり、私たちは再び襖の外で正座になった。
「それでは、焼き物などもお持ちいたしますのでお待ちくださいませ」
「楽しみにしています。あっ、そういえば部屋にこんなものが落ちていましたよ」
 ゆかりさんは再び部屋に入り、柊様からキーホルダー付きの鍵を受け取った。
「これは……昨日のお客様の物かもしれません。確認不足で大変申し訳ありません」
「旅館の方の物かもしれませんよ。掃除のときに落とされたのではないでしょうか」
「ありがとうございます、すぐに確認させていただきますね。それでは失礼いたします」
 ゆかりさんは深々と頭を下げると、静かに襖を閉めて部屋の外に出た。ようやく緊張から解放された私はため息をこぼした。
「どうしたの? ため息なんてついて」
「すいません。なんだか緊張しちゃって……」
「あっ、もしかして彼みたいな人がタイプなの?」
 ゆかりさんのにやにやした顔が嫌だった。あとで晶子さんや他の仲居さんにこのことを話して、皆でからかってくるのは目に見えている。
「そんなんじゃないですよ。ただ、私も誰かに似ているような気がしただけです」
「それだけで緊張なんてしないわよー。私はてっきり、陽咲ちゃんに春が来たのかと」
「春なんて……私に来るわけないじゃないですか!」
 強めの口調で否定してしまったせいか、ゆかりさんは目を丸くして驚いていた。
 気まずい空気が流れているような気がして、慌てて話題を変える。
「配膳も終わったので、そろそろ戻りましょうか」
「ええ、そうね。これから忙しくなるものね」
 ゆかりさんは特に気にしていない様子で調理場へと戻っていった。
 ほっとしたせいか、自然とため息がこぼれた。
『陽咲ちゃんに春が来たのかと』
 ゆかりさんのこの言葉を聞いて、現実に戻されたような気がした。
 よく分からない感覚に舞い上がって、初めての緊張に心が揺れていた。たぶん、自分でも気づかないうちに、新しい世界、新しい出会いを求めていたんだと思う。
――でもそれは、今の私にはあってはならないことだ。
 あの春、もう他の友達とは仲良くしないと決めた。自分だけ幸せになるなんて許されないと思ったから。
 大好きなほたるの悩みに気づかず、さらに目の前で飛び降りるほたるを救えなかったのに、どうして私だけ幸せになることができるだろうか。
 私の時間はあの日から止まったままだ。あの屋上から動くことも逃げることもできずに、ずっと暗闇の中でほたるを探している。出口がどこかも分からずに、ずっと。

――このときの私はまだ知らなかった。
 彼との出会いがきっかけとなって、止められた時間が少しずつ動き出すということを。