あとがき

 

『死にたいと思ったことはありますか?』
 訊ねてみるまでもなく、人は皆、生まれてから現在に至るまでの年月に――というのが、八年なのか十五年なのか三十年なのか九十年なのかはそれぞれだと思うけれど――、一度は「死にたい」と考えるものだと思っていた。
 だから、
「そんなことちらりとも考えたことがない」
 という人に会ったときは驚いた。驚くわたしに、相手も驚きながら、
「だって、死にたいと思うほど悲しかったり辛かったりすることなかったもん。余程のことでしょ? 死にたいと思うなんて」
 と言った(これは、ちょっと格好いい口調にしてある。ほんとうはめちゃくちゃ関西弁だ。わたしが関西出身なもので)。
 たぶんこのとき、話はそれ以上進展しなかったのだが、とても驚いたので心に残っている。一方で、話した相手の顔や名前はうすぼんやりとしか覚えていない。こんな会話をするくらいだから、学生の頃だったんだと思う。大人はあんまりこういう話をしてくれないのでつまらない。
「死にたい」とわたしが思ったとき、でも「余程のこと」があったのかと考えてみると、必ずしもそういうわけではなかったと思う。「死にたい」と思う十分前には家族や友人と笑いながら食事をしていたかもしれないし、「死にたい」と思った十分後には健やかな寝息を立てていたかもしれない。
 物語の主人公である土屋源一郎の身に起こったことも、「余程のこと」に分類されるものなのか、ちょっと迷うところだ。見る人によっては、「そんなことでいちいち死にたがるなよ!」と言いたくなるかもしれない。些細なこと。とるにたらないこと。或いはいっそくだらないこと。
 だけど、死は、それくらい個人的なものだと思う。個人的で、とても近しい。生きることと同じくらい近しい。それなのに、果てしなく未知だ。
 全然わからないけど興味深い「死」について、重くなりすぎないように、物語として楽しめるように、試行錯誤しながら書いた。なぜこんなテーマを選んでしまったのか、過去の自分を本気で憎むくらい難しかった。
 まあ、難しいのは当然だ。「死」についてなんて、死ぬまでわからない。
 だから、とりあえず生きながら、のんびり考えてみようと思っている。年齢だけで言えばもう十二分に大人なのだけれど、思春期の頃みたいに、ときどき誰かに件の質問を投げかけてみよう。
 
『死にたがりと美しき世界』読んでくださってありがとうございました。

阿賀直己