柳屋怪事帖 迷える魂、成仏させます 立ち読み

 
「さらっと正体がバレそうなことを叫ぶんじゃない」
 やれやれ、と神奈は嘆息する。
 そう。絢緒も陣郎も人に『化けて』いるのだ。
 狐狸に化かされ、鬼が人を喰うといわれていた昔。身の内の澱も夜の暗がりも、人間は恐れ、それに付け込んだ魑魅魍魎が跋扈していた時代があった。しかし日進月歩の文明の世では、人間の闇は日々変容し、昼も夜もない。棲み処を失った彼らは、残った僅かばかりの暗闇に縋るか、露と消えてしまうか。あるいは、人間社会に紛れて生活していくしかない。
 いかにも温柔敦厚とした絢緒だが、その正体は、竜の子の一頭である睚眦。極悪人面の陣郎もまた人ではなく、黒い獅子だ。
 人間を装ってはいるものの、二人は世紀単位の齢を経た妖なのだ。
「陣郎が冬の醍醐味を堪能していて何よりだよ。ああ、そうだ」
 吐いた息が一層白く曇り、すぅ、と神奈の背中を冷たいものが走る。絢緒と陣郎が顔を上げるのと、羽織を捌いて神奈が振り返ったのは、ほぼ同時だった。
「─―君は何が好きかな、小坂威吹君」
 三人の視線の先には、先刻まで影さえなかった人物がいた。
 点滅を始めた街灯の足元に、茶のピーコートの背中がぽつりと立っている。そこから伸びたスラックスの柄は、二駅向こうの私立高校のものだ。スニーカーの足元に視線を落としていた横顔が、のろのろと上がる。幼さを残した青年の顔立ちは、きっと日に焼けていただろう。今は血の気が失せ切っている。ぐるん、と音がしそうな勢いで首だけを巡らせて、彼は振り返る。
「オレを、呼んだか?」
 ざらざらに掠れた声だった。裂けんばかりに見開かれた目は血走って濁り、小さくなった瞳孔がぐるぐると目まぐるしく虚ろに揺れている。神奈がその有り様を目にした途端、彼─―小坂威吹の姿が文字通り消えた。
 まるで最初からそこにいなかったように、忽然と雲散霧消したのだ。
「アンタ、オレを呼んだよなぁあ!?」
「!」
 瞬き一つする間もなかった。腹の底から絞り出すような咆哮に襲われる。前触れなく姿を現した威吹が、神奈の眼前に迫っていた。
「オレが見えるのかアンタ!? 見えるよな!? 見えるんだよな!?」
 今にも掴み掛からんばかりに詰め寄られ、威吹の罅割れた唇からは怒涛の詰問が飛び出す。収斂した二つの瞳には、驚愕と猜疑と縋るような期待がぎちぎちに詰まっていた。迸った絶叫に不意を突かれ、鼓膜をつんざかれた神奈の気が遠くなる。その隙を逃さず、粗暴な手が伸びるが、それより早く、横から伸びて来た腕が神奈を攫った。
「下がって下さい」
 踏鞴を踏む神奈の目の前には広い背中。絢緒は自身の背へ庇うと、威吹から視線を外すことのないまま、冷静な声で呼びかけた。
「小坂威吹さん、落ち着いて下さい」
「何だよ、アンタ! 邪魔すんじゃねぇよ!」
「混乱するのは分かりますが、女性に対していきなりその態度は感心しません」
「うるっせぇな! 邪魔すんなよ! ちょっと話すくらい、どうってことねーじゃんか!」
 威吹が唾を飛ばして怒鳴るものの、拳一個分は上にある助手の顔には、動揺のどの字もない。その様子が、威吹の激高に拍車をかける。感情が先走るのか、頭を掻き毟る様は、まるで癇癪を起こした子供のようで、そのうち地団駄を踏みそうだ。
「アンタには絶対分からねーだろ! 誰一人オレが見えない! 声だって聞こえなかった! 何日も何日も誰にも気付いてもらえないって、アンタに想像できるか!? オレの気持ちが分かるのかよ!?」
「拗らせた思春期みたいになっているぞ」
 威吹の頭には相当血が上っているらしく、目の前の助手にも知覚されていることに気付いていない。どうするんだ、コレ、と陣郎が面倒臭そうな一瞥を寄越す。首を振って肩を竦める神奈も、似たような顔で答えるしかない。
 爆発した感情も出し切れば収束するだろう。下手に抑え込むより吐き出させた方が、ストレスの発散として、威吹には良いかも知れない。何より、止めるのが面倒臭い。
 しかし、視えて話せる相手に興奮しているのか、威吹は突っ走ったまま。平常心を置き去りにして戻って来ない。
 マフラーを巻き直し、庇護している絢緒の横から、神奈はひょっこり顔を出す。
「ちょっとは落ち着いてくれないかな。話ができない」
「これが落ち着いていられるか! とにかく、そこを─うぎゃあ!?」
 間抜けな悲鳴とともに、威吹が神奈の視界から消えた。後ろを振り返ると、ピーコートの背中が、車に轢かれた蛙よろしく、地べたにうつ伏せで張り付いている。
 その後ろ頭に、絢緒と神奈は揃って嘆息を落とした。
「だから申しましたのに」
「あーらら」
 いきり立った威吹は、立ちはだかった助手を押し退けようと、体当たりを仕掛けたのだ。しかし、思い付きの実力行使は、当然のように失敗。勢いを付けすぎたのか、顔面から地面に飛び込むようにすっ転び、今は冷たい地べたに熱烈な口付け中だ。
 神奈は勿論、諫めていた助手が何かしたのではない。何もしていなかった。
 威吹の体は、庇われていた神奈の体ごと、絢緒をすり抜けたのだ。
 慌てて立ち上がった当の本人は、顔や肩を頻りに触っては自分の体を確かめている。暫くそうした後、へなへなとその場に座り込んで、愕然と呟いた。
「いっ……たく、ない。何で? それに今……!」
「そりゃ、君は死んでいるからさ」
「─……は……? は? はあ?」
 神奈が簡潔に答えれば、呆気に取られた顔の威吹は、バリエーション豊かに一文字を繰り返す。それも束の間、ふと我に返ると、不快と苛立ちであからさまに顔を顰めた。
「アンタ、何言ってるんだ? ちょっとコケたくらいで、冗談にしちゃ、タチが悪いぞ。全ッ然面白くねぇし」
「それは失礼。でも、君が死んでいるのは本当なんだよ」
 絢緒の背中から出ると、神奈は威吹の顔を覗き込んだ。精一杯睨み付けて来る目の奥が、ほんの小さく揺れている。
「君も気付いただろう? さっき、君は絢緒とボクの体をすり抜けた。地面にぶつかったのに、痛くないとも言ったね。それどころか、地面の感触もなかったんじゃないかな。肉体のない君に、接触は不可能なんだよ」
「オレの、体……」
 不意に、威吹は自分の掌を胸の真ん中に押し当てた。その下には、盛んに脈打つ真っ赤な臓器があるはずなのだ。
 噛んで含めるように、神奈は続ける。
「思い出してごらんよ。威吹君は我を忘れるくらい、死者の体を体験しているじゃないか。散々喚いていただろう、誰も見てくれない、聞いてくれない、って。中には目が合ったような気がした人もいただろうけど、結局無視されちゃったんじゃない? それとも一人くらい、君と話してくれたかな」
「ハ! アンタ、オレを馬鹿にしてるだろ」
 頬を強張らせながらも、威吹は鼻で笑った。
「アンタ達は今! オレと話しているじゃんか。アンタ達も死んでいるのかよ? 違うだろ? だったら、オレは死んでなんか……」
「確かに、ボク達には死んでいる君が丸視えだし、話もできる。でもそれは、ボクが生れつき、ちょっと特殊な目と体質なのが理由だよ。君が死者であることは変わらないのさ」
 羽織の裾を捌いて、神奈はその場に屈んだ。お互いの目が見えれば、少しは話しやすいだろうか。うっすらと霜を張る地面が近くなった分、冷気が這い上がって来るようだ。
 突然距離を縮められて、威吹は気恥ずかしそうだ。それには構わず、神奈はにこりと、笑顔を向ける。
「改めまして、今晩は。そして、初めまして。来るのが遅くなって申し訳ない。ボクは柳の成仏屋、柳月神奈と申します」
「じょうぶつ、や……?」
 覚え立ての言葉を口にする子供のように、威吹は拙く繰り返す。
「そう。略して柳屋とも呼ばれているよ。後ろの二人はボクの助手で、絢緒と陣郎」
 神奈が見上げて示せば、軽く頭を下げたり目で応えたりと、助手達はそれぞれ挨拶する。つられて頭を下げている威吹は、元は素直な性格なのだろう。
「ボク達は確かに君が視えているけれど、威吹君と同じじゃない。今の君は普通の人間には視えない。幽霊と言えば分かるかな。死後は、想念だの思念だのの世界なんだって。君みたいに死んだ時の姿が基本だけど、子供の頃や若い時とか、それぞれ思い入れの強い格好で現れるんだ。損傷や怪我があれば、それが再現されることもある」
「……怪我……?」
 ぼんやりしていた威吹の目に光が走った。閃くものがあったらしい。
 しかし、それも束の間。驚愕の叫びが威吹の正気を吹き消してしまった。
 神奈が見ると、ピーコートの左脇腹に、ぽつり、と親指ほどの黒い染みが浮かんでいた。染み出た黒は、忽ちに広がっていく。
 威吹はもどかしそうな手付きで釦を外し、慌ててピーコートを脱ぎ捨てた。制服のブレザーがぐっしょりと濡れている。血だ。真っ赤な血が噴き出していた。
 彼の手が力一杯に腹を押さえ付けるものの、溢れ出る血に止まる気配はない。
「そうだ怪我じゃなくてそうじゃなくて、でも血が、そう血が、血でオレ、確か……!」
 滅茶苦茶な台詞は、助けを乞うことはなく、威吹は思い付くまま言葉を並べているだけのようだ。地面に尻を擦り付けたまま、必死に手足をばたつかせている。ぎょろぎょろと動き回る目は、焦点が合っていない。
「オ、オレ、死んじゃった! ど、どう、どうしようどうしよう! どうしたら、どうすれば良いんだ!? やりたいことも、やらなきゃいけないことだってあるのに!」
「思い出したのは良いけど、しっかりしてくれ、小坂威吹く、ぃ痛ぁ!」
 我に返らせようとしたところで、神奈が素っ頓狂な声を上げた。頭を抱えて、その場に膝を突く。
 頭蓋骨の内側で金属を打ち鳴らしているようだ。鼓膜を突き破るような耳鳴りに声も出せずにいると、すかさず絢緒の腕が抱え上げてくれた。
 これだから過敏な体質は厄介だ。自分と相手の意思に関係なく、影響を受けやすい。
 その間も何事か喚き立てる威吹の腹からは、大量の出血が続いている。彼の地雷の踏み方を間違えたか、と神奈が内心で舌打ちをしかけたところで、隣から本物の舌打ちが聞こえた。
 陣郎だ。眉間に太く深い皺を刻んだ三白眼は、極悪人以外の何物でもない。この凶相、腹ペコ具合で変動するのだが、今は普段の二割増しだ。威吹の真正面から目を合わせるべく、股を開いて腰を落とした格好が、妙に堂に入っている。
「一人で盛り上がっているところ、悪ィけどよ。取り敢えずてめぇ、落ち着けよ」
「ひぃッ!」
 再び錯乱の火が点いた威吹を、恫喝の声があっさり鎮火した。短い悲鳴を上げて飛び上がる彼に、陣郎が顎をしゃくって促す。
「それから、さっさと立て。ギャースカ騒ぐんじゃねぇぞ。塵屑共が寄って来て、うぜぇ」
「は、はいぃ! すんませんでしたッ!」
「体育会系縦社会で鍛えられたと思われる、良いお返事ですね」
 バネのように飛び上がった威吹が、背中に物差しでも突っ込まれたようなきをつけの姿勢を披露する。見事な条件反射に感心しているのは絢緒だ。
 意図せず己の強面ぶりを発揮した助手は、立ち上がるや否や、桜の幹の向こうへと、金の眼光を飛ばした。唇の間からは、地響きのような唸り声と共に、鋭い犬歯が覗いている。
 陣郎の恐ろしい顔付きは自前だが、その威嚇相手は、目の前の縮こまった高校生ではない。彼の言うところの塵屑共が、威吹の混乱に乗じてちょっかいを出そうとしたらしい。この場でこの世のものではないのは、何も小坂威吹だけではないのだ。
「小坂威吹君、落ち着いたかな」
 脇腹の痛みと話を聞ける心境。神奈は眉間に拳を押し当てて、耳鳴りをやり過ごしながら、その両方を尋ねた。
 威吹はこくり、と小さく頷き、そっと脇腹から手を放す。ブレザーに広がっていた濁った赤い跡は、跡形もなく消えていた。手を汚した血も、潮が引くように、するすると袖の中に引き返していく。それが威吹の心に決定打を与えたらしい。
「あんなに、痛かったのに。……オレ、本当に、死んじゃったんだな……」
 冷たい空気の中、小さく零した言葉は、ぽとり、と落ちた。
 それから唇を引き結び、威吹は意を決したように顔を上げると、勢い良く頭を下げた。部活仕込みと思われる折り目正しい九十度の謝罪だ。
「あ、あの、すいませんでした! オレ、取り乱しちゃって。助手さん達にも、ご迷惑をお掛けしました」
「こっちは慣れてるからよ、気にするな」
「むしろ、まだまだ可愛げのある方です」
 半ば自棄のように声を張り上げたのは、己への鼓舞でもあったらしい。毒気を抜かれる神奈をよそに、陣郎が頷き、絢緒は鷹揚に応じる。世紀単位のご長寿である彼らにすれば、恐慌を来した男子高校生など、愚図る赤子と変わらないのだろう。
 擦り合わせた両手に息を吐き掛け、さて、と神奈は仕切り直す。
「小坂威吹君。君は成仏って知っているかな」
「何だよ、いきなり。あれだろ? 死んだ人があの世に逝くことだろ?」
「ピンポーン」
 正解の効果音で返すも、質問の意図が分からない威吹は怪訝そうなままだ。
 生あるもの、必ず命尽きる。勿論、人間もその定めの中にいる。
 しかし、死んだ人間が、押し並べて大人しく彼岸へ渡れるのではない。突然の病に倒れ、臨終に家族と会えなかったもの。事故や事件に巻き込まれて、無念にも命を落とすもの。様々な事情で生まれる執着や心配、未練があるために、この世に留まってしまう幽霊となってしまう場合がある。
 幽霊画のように足がなかったり、歌舞伎のような死に装束だったりはないが─少なくとも神奈は、お目に掛かれたことはない─―彼らは大抵、生前の姿で現れる。中には、死んだ自覚がないまま、生前の日常を繰り返そうとするものや、今際の際の衝撃で己の正体を失念してしまうもの、あの世からのお迎えを拒否する強者もいる。そんな彼らの心残りを解消、時には説得して、あの世へと成仏させる手伝いをする。それが柳屋の生業だった。
「人間は、死んでからあの世へのお迎えが来るまでの四十九日間、この世に留まるといわれている。ところがどっこい、今の威吹君のように、訳あって、四十九日後もこの世に留まる死者もいる。そんな幽霊を見つけて、あの世へ逝くよう説得するのが、成仏屋の仕事なのさ」
 ここまでは良いかな、と神奈が尋ねれば、威吹は自信がなさそうに頷く。