死にたがりと美しき世界 立ち読み

 
「気持ち悪い」
短い一言だったが、ぼくの思考を遮断するには十分だった。吐き捨てるように、女が言った。
「こわいわ。こういうのを見てる人たちが、妄想と現実の区別がつかなくなって犯罪に走るのよ」
「こわいですよね、ほんとうに」
 男の相槌。周囲から、くすくすと笑い声が聞こえてくる。冷ややかな笑いだ。ぼくは軽蔑されている。
 スマホを握る手に力がこもった。怒りではなく恐怖で身体が震えた。脇のあたりに、じわっと嫌な汗が広がっていく。
 気持ち悪いってなんだよ。こわいって、なんだ。お前らのほうがこわいよ。どうしてぼくが犯罪者扱いされなきゃならないんだ。
 ──死にたい──と、いままで何度も思ったことを繰り返し思う。生きているからこんな目に遭うんだ。
 中途半端に折っていた膝を完全に折りたたみ、蹲った。ぎゅっと歯を食いしばって息を吐くと、「ううううう」という手負いの獣みたいな唸り声がでた。
「え、ちょっとやだ、なに?」
 女が怯えたように言うのを意識の隅で聞いた。次の停車駅──ぼくの人生が終わる場所──へと、電車は着実に進んでいる。駅員の前に突きだされるときが、犯罪者になるときだ。そうしたら、いまよりもっと多くの人に軽蔑される。
 死にたい、と強く思った。アルバイトの面接なんか、頭から消えていた。口癖みたいに頻繁に考えていることだけど、ときどき発作的に、ほんとうに死にたいって思うんだ。
 眠って、このまま朝がこなきゃいいのになあって。
 次の駅についたら、向かいのホームにやってくる電車に飛びこもう。確実に死ねる。家族には最期まで迷惑をかけてしまうことになるけれど、仕方ない。
 今日がその日だ。ぼくの命日だ。
「「死ぬな」」
 そのときだった。白い星が夜空を切り裂いたような、神さまみたいな声が降ってきた。
 一秒にも満たない短い時間だったが、車内が無音になった。静寂を破ったのは、同じ声だった。
「そいつ、やってねえぞ。痴漢」
 神さまみたい、というのは、ぼくを救ってくれる一言だったという比喩ではない。その一瞬、聞こえてきた声はほんとうに、神さまのそれみたいに透き通っていて真っ直ぐだったのだ。
 いや、神さまの声知らないけど。まあ。
「な、なによ突然」
 攻撃的ではあったが、女は少し動揺していた。ぼくもむろん、困惑し、動揺していた。
 すぐには顔を上げられなかった。俯いた視界に飛びこんできたのが、真っ黒の革のごつごつしたブーツのつま先だったからだ。それはひどく重そうで、こんな靴で腹でも蹴られたら内臓が破裂するだろうなと物騒なことを考えた。
 神さまの声も知らないし、格好も知らない。なんか、白い布きれみたいな服を着てるんだっけ……? とかそういうイメージはあるけど。でも、ブーツは履いてないよね。
「っつーかお前もなんか言えよ。唸ってねえで人間語喋れ」
 前言撤回。声の主は、神さまなんかじゃない。比喩でもそんなふうには思えない。中学のときぼくをいじめていたバスケ部のやつらがだいたいこういう喋り方だった気がする。人間語? そんなの喋れたら苦労しない。
「……おい」
 声がワントーン低くなった。舌打ちとともに、肩のあたりに軽い衝撃があった。数秒遅れて、蹴られた……! と思った。そう痛いものではなかったが、痴漢に間違われた上見ず知らずの人間に蹴りまで食らわされるとは。
 恐る恐る、振り向きながら視線を上げていった。
 鈍器のような黒いブーツ、膝やら腿やらあちこちが破れた細いジーンズも黒で、パーカーも黒で、羽織っているジャンパーも黒で──顔はよくわからなかった。黒いニットキャップを深く被っていたし、黒いマスクに半分以上覆われていたから。
 第一印象。黒い。わずかに露出している肌は白めだったが、あとはもう、全部黒い。
 次に浮かんだ言葉。ヤンキー。ヤンキーって死語?
 膝を抱えたまま、ぽっかりと口を開けて男を見ていた。
 ヤンキーっぽさを助長させているのは、唯一黒くない装飾品であるピアスだった。男の耳には、金色の輪っかのピアスが揺れている。ピアス! ぼくの人生におそらく一生関わってこないものの一つ。
「ちょっと、あなたなんなの?」
「あんた身長何センチ」
 女の剣幕などどこ吹く風で黒い男が言った。女は「は?」と不快感を示したし、周囲からもなんだなんだという新たなやじ馬的視線が注がれていたが、彼がそれを気にするようすはなかった。
「身長」
「……百五十センチだけど?」
 女が眉を顰めつつも答えた。
「お前は」
 蹲ったままなので、必然的に見下ろされる格好になった。
「……ぅえっ」
「うえっ、じゃねえよ。身長」
「ひゃ、……ひゃくななじゅう、さん、……です」
 ふうん、と黒い男は喉を鳴らすように言った。それから、顔面で唯一露出している鋭い切れ長の目を空中に向けた。あきらかになにかを見て確認するような視線だった。つられて視線の先を追ったが、とくに目新しいものはない。
「……あんたとこいつとじゃ、ヒール履いてても二十センチ近く差がある。俺が見る限り、こいつは屈んだり腕動かしたりしてなかった。ぎりぎりまでケータイ触ってたし、ポケットにケータイ仕舞ったあと手も突っこんだままだったと思う。ちょっとあたるだけなら有り得るかもしんねえけど、がっちり尻掴まれるってのはないんじゃない」
 女の顔つきが険しくなった。
「あたしが嘘ついてるって言いたいの? だいたい、あなたの発言って全部曖昧じゃない? 見る限り、とか、だったと思う、とか。こっちはきちんと目撃してた人がいるんだから」
 女はどこか勝ち誇ったように、隣に立っていた眼鏡の男へと視線を向けた。
「そうですよ、僕はその男性が彼女に触れるところをはっきり見ました。ドア付近にいたから間違いないです」
 男の声は、先程よりずいぶん高く感じられた。疑われたことにカッとなって興奮しているのかもしれないが、なんだか違和感がある。
「間違いない、ねえ。……ま、調べりゃはっきりするか。こいつの手からあんたの服の繊維片がでるかどうか。あんたの服から、こいつの皮脂や皮膚片がでるかどうか」
 繊維片、皮脂、という言葉を聞いた女の表情があからさまに固くなった。「こいつの」というところでふたたび軽く蹴りを入れられたぼくも固まった。痛くはない。が、こわい。
「あと、発言が曖昧じゃないほうがおかしくね? それにメガネ、なんであんたはこの女のことそんなに見てたわけ。っつーか、そんなバッチリ見てたなら現行犯で捕まえりゃよかったんじゃん」
「それは……」
 メガネと呼ばれた眼鏡の男が、窺うように女に視線を送る。このとき、ぼくもやっとなんとなくおかしいと思いはじめた。
「痴漢って、疑いかけられたほうはだいたい認めるらしいね、やってなくても。ケーサツの世話になんのもヤだし、仕事先とかガッコーとかに連絡入れられたらアウトだし? そんなら、示談金払っておしまいにしたほうが楽だわな」
「な、なにが言いたいんですか」
「なにがって。気弱そうなオタクに目ェつけて、痴漢の冤罪でっちあげて、小銭稼ぐのは楽だろうなーって思っただけ」
「あたしたちそんなことしてないわよ!」
「あたしたち? 俺、べつにあんたらがつるんでるとか一言も言ってないぜ。最近そういう手口使って金稼いでる男女二人組がいるらしいってのは聞いたことあるけど」
 電車の減速に合わせて、次の停車駅を告げるアナウンスが聞こえてくる。黒い男がぐるりと首を回し、
「とりあえず次で降りて駅員とこいくんだろ? 俺も降りるわ」
と面倒くさそうに言った。
「えっ」と眼鏡の男が小さく叫んだのと、ぼくが黒い男に「いつまでしゃがんでんだオラ」と肩を膝のあたりで小突かれたのとは同時だった。よろめいて床に手をつき見上げると、男が黒いマスクに人さし指を引っ掛けて顎まで下ろしたところだった。
 ぽかん、と先ほどよりも大きく口が開いてしまった。漫画だったら顎が外れる描写が入ったかもしれない。やじ馬の中から、「……きゃ……」という、息と歓声が雑ざったみたいな女の子の声が聞こえた。
 ぼくは、ヤンキーとか不良とか、態度がでかくて乱暴な人間が苦手だ。そりゃあぼくはあらゆることが平均以下で、対人スキルに関してはマイナスだけど、だからってお前らに偉そうにされる筋合いはないぞ、と思う。
 そしてそれと同じくらい──否、それ以上に、苦手な人種がいる。
 それは、容姿の美しい人だ。
 そういう人間が目の前に現れると、眩しくて溶けて死にそうになる。彼らは決して偉そうになんかしない。そんなことする必要がない人種なのだ。
 美しい人間が放つ光の眩しさに、暗くてじめっとしたところを歩いてきたぼくみたいな人間が対応できるわけがない。
 前置きが長くなった。が、なにが言いたいのかというとつまり、視界に飛びこんできたのは超ド級の輝きを放つ美青年だったのだ。
 黒いマスクから露わになった、細い顎、紅い唇、美術室に置いてある彫塑みたいに通った鼻筋。目つきの悪さに気を取られて、というか睨まれるのがこわくてよく見ていなかったが、滑らかに吊り上がった目は真っ直ぐなまつ毛にびっしりふちどられていた。瞬きのたび、頬に影ができる。
 口を閉じることも立ち上がることもできずにいたら、電車が停車した。駅に到着したのだ。
 ドアの開く、ぷしゅーっ、という音を聞くなり、女がぼくを蹴飛ばすようにして走りだした。眼鏡の男もそれに続く。
「逃げやがった」
 ぼそりと低くつぶやき、黒い男、もとい黒い美青年がぼくの腕を掴んだ。
「ひょ……っ!」
 引きずられる格好で電車を降りた。ドアが開くとすぐに階段があり、女と眼鏡の二人組は上ってくる人にぶつかるのも構わず驚くべき速さでそこを駆け下りていく。
「追いかけるぞ」
 美青年に更に腕を引っ張られたが、ぼくは階段の手前でへたりこんだ。
「い、いいいぃ、い」
 地べたに手をついたまま首を横に振るぼくを、美しい二つの瞳が怪訝そうに見ていた。
「いいいです、お、おい、追いかけなくて」
「……」
 ハア? という顔。蔑むような視線。無意味に謝りたくなる。
「すす、す、すみません。ごめんなさい。ぼくが、悪いん、です」
「やったのかよ」
「ややっ……」
 美青年の目元が歪められ、反射的にびくっと肩が跳ねた。美しい人はどんな顔をしても迫力がある。
「……って、ないです、けど」
 俯きがちに、ふらふらと立ち上がった。地べたについていた手のひらや膝がじんわりと痛む。たったいまの痛みではなく、電車の中での痛みのように感じた。
「けど、ぼくが、気持ち悪いのは事実ですし」
 ──気持ち悪い──女の声が甦る。不思議なのは、人生の半分以上言われてきた言葉にもかかわらず、新しく投げつけられるたび新しい傷が生まれることだ。
 生きているから、傷つく。ぼくはその当たり前の事実に、どうしたって耐えられない。
「助けてもらってなんですけど、ぼく、べつにあのまま、」
 物心ついたときからの夢想。たとえばけたたましい音を立てながら下がっていく黄色と黒の長い棒をくぐり抜けて、ごおごお走ってくる電車に。たとえば家族連れとカップルで賑わう真夏の海水浴場で、一人どんどん沖へと泳いで。たとえば学校の屋上で、上履きを揃えて柵をのり越え、風の中にひらりと……
 ……死ぬって、どんな感じだろう。どんな感じだったのかな。
「……っぅぐおっ!」
 突然喉元を締めつけられる感覚に、格闘ゲームでやられた雑魚キャラみたいな声がでた。美青年が素早い動きでぼくの襟首を引っ掴み、そのまま階段の壁に押しつけたのだ。
「ふざけんじゃねえ」
 かべどん……! と、咄嗟に思った。
 鼻先が擦れそうな距離に、胃が縮み上がるほど綺麗な顔がある。これは世に言う──妙齢の女性たちの憧れであると噂の──壁ドンというやつではないだろうか。いや、でも、壁ドンって首とか掴まないか。そんな物騒なものじゃないか。
「死んだら殺すぞ」
 いやいやお兄さん、死んじゃったら殺せませんよ〜……などと、つっこむ勇気はなかった。
 そんな間柄でもないし、美青年はどうやら真面目に言っているらしかったからだ。美しい人は死人も殺せる。のかもしれない。
 と、馬鹿なことを考えていたら、またしてもやじ馬的な人たちの視線を感じた。状況的にどう見ても壁ドンではなくカツアゲとかそういうものだと認識してもらえると思ったのだけど、聞こえてくるのは「わ、イケメン」「ドラマの撮影とかじゃないよね? カメラないもんね」などの女性たちの声だった。
「……あ、のう、ぼく……」
 苦しかった。まだ死んでいないのに、絞殺されそうなんですけど!
 そう思ったときだった。
「「絶対死ぬな」」
 声が聞こえた。さっきと同じ、あの声だ。夜空を切り裂いたような。
 目の前で美青年の口が動いているのは見えていた。だから当然彼の声なのだ。だけど、違う。
「……もう一人、いる……?」
 ふ、と、美青年の真後ろに人が立った。周囲の人々はぼくらを遠巻きにしていたはずなのに、いつの間に近づいてきたのだろうと思う距離だった。
「高校、生……?」
 つぶやいた途端、切れ長の目がまるく見開かれた。それと同時にぼくの首を掴んでいた指から力が抜け、また同時に、ぼくの全身からも力という力がすべて抜けた。
 キャア! という女性の甲高い叫び。美青年の美しさに対する賛美にしては物騒だ。
 視界がぶれて、世界がぐるんと回った。
「おい!」
 視界の端に、黒い服の腕が伸びてくるのが映った。だけどそれがぼくにふたたび触れることはなかった。