漫画家の明石先生は実は妖怪でした。 立ち読み

 

 丸いちゃぶ台の上で原稿に消しゴムをかけ羽箒で払う。すると黒豆に手足が生えたようなのが寄ってきて、そのかすを丸めだす。よいしょよいしょと転がしながらテーブルの端まで行って落とすと、下で待ち受けているのは足が六本に目が四つある蛙だ。
 蛙はそれを受け取ると、重なった原稿の下に消えた。
「……」
 篠崎瑛太はその原稿をそっと持ち上げてみた。だが、そこにはなんの姿もない。いつの間にかちゃぶ台の上の黒豆もいなくなっていた。
「どうしました?」
 気配を感じたのか明石先生が振り向いた。漫画家という引きこもり職業にしておくには惜しい整った顔に、薄くヒゲが伸びている。たぶんここ数日ヒゲを当たる時間もなかったのだ。肩を越えて伸びた長く薄い色の毛先に墨汁がついている。
「いえ、今黒豆と蛙……? みたいのが」
 畳の上に座る瑛太は先生を見上げ答える。明石はちょっと考えるふうに目を上に向けたが、
「ああ、消しゴムのかすが好きな連中なんです、気にしないで」と笑った。
「―─はい」
 気にしないでと言われてもな、と瑛太は周りを見回した。
 テレビの上にかけられている布はときおりビクンビクンと動くし、尻に敷いている座布団は「はあ……」と深いため息をつく。さっきトイレに行ったら顔のでかい禿げ頭のおっさんが考える人のポーズで頑張っていた。「どいてくれ」と言うと露骨に心外な顔をされたが、消えてくれた。
 すうっと目の前を金魚が泳いでゆく。いや、金魚には普通腕は生えていないだろう。というか、空中は飛ばない。
「漫画家の現場は特殊だから」
 最初に編集さんがそう言っていたけれど、これって特殊の一言で片づけられるレベルじゃないぞ。まあ実害がないから我慢しているが。
「それにしても」
 明石先生は切れ長の目の隅で薄く笑う。
「君は本当に動じない人なんだね」
 動じていいのか? いや、きっと動じたとたんに自分の精神が破壊される。すべて金のかかったSFX、もしくは裸眼のバーチャルリアリティだと思っているから耐えられる。
「仕事、ですから」
 漫画家明石先生の破格のアシスタント代、日給五万円。今の瑛太にはこの金額を唱えることだけが、正気を保つ術だった。


 三日前、瑛太はファミレスのバイトをくびになった。
 その日は10月の最後の日で、店内をハロウィーンの扮装をした子供たちが走り回っていた。トレイを持ったスタッフがぶつかりそうになってバレリーナのように回転する。親たちは六人掛けの席を三人で使用し、おしゃべりに夢中になっていた。
「まったくまいっちまうなあ、ああいうバカ親は」
 厨房からの料理を待っていた先輩スタッフが苛立たしげに呟く。
「注意していただけるように言ってきましょうか?」
 瑛太は拭いたカップを重ねながら言った。
「そうしてもらえるか? だけど穏便にな、丁寧に頼むんだぞ」
「わかりました」
 瑛太は六人席に向かうと、三人の主婦に頭をさげた。
「お客様、大変申し訳ございませんが、お子さまが走り回られると危険です。席につくように言っていただけませんか?」
「あらぁ、ごめんなさい」
 主婦はおおげさに頭をのけぞらせた。
「ルネちゃぁん、お店の人に叱られるからお席につきなさぁい」
答えは「きゃーっ」という歓声で返る。
「?お店の人?ではなく、ご家族が注意されるのが正しいのでは?」
「子供のすることなんだから大目に見てよ」
 別の主婦が口調をきつくして言う。「そうよそうよ」と他の二人も賛同した。
「わかりました」
 瑛太はテーブルを離れると、ドリンクバーの前を何度もダッシュしている子供を捕まえた。体をぐるっとこちらに向けさせ、顔を近づけて言う。
「ここはお客様のおうちではありません。きちんとお席についてください」
 瑛太は睨んでいるつもりはなかったが、元来怖い、と言われる顔をしている。子供は怯えて泣きだした。
「ちょっと!」
 主婦があわてて駆け寄ってくる。
「大目に見て、って言ったでしょ!」
「お客様、?大目に見る?という言葉は?過失や悪いところを厳しく咎め立てず寛大に扱う?という意味で、注意しないという意味ではありません」
「なに言ってんのよ! ちょっと店長! 店長─―!」

「篠崎ちゃん、またバイトをくびになったって?」
 友人の花邑耀司が声をかけてきた。毎度のことながら情報が早いやつだ、と瑛太は無愛想にうなずく。
 花邑に誘われて、瑛太は学食に移動した。ちょうど昼飯時で食堂は混んでいたが、なんとか席を確保できた。金のない瑛太が食べるのは素うどんだが、関西風のだしがしっかりと効いていてうまい。それにいなり寿司を二個つけた。花邑は11月のおすすめという、かぼちゃと鶏肉そぼろ丼。
「後期に入ってからもう四つ目のバイトだろ?」
 花邑はテーブルの上に課題の製図を放り出した。
「なんでだろうなあ、おまえ真面目なのに」
「……」
 瑛太は答えずうどんをすすった。それは自分が聞きたい、と思う。
 真面目とよく言われるが、真面目というのはどういうことだろう。自分が正しいと思っていることがその店のルールにあわない。もしかしたら自分では常識だと思っていることは間違っているのだろうか。
 今回のファミレスのこともそうだが、その前は、コンビニでレジを通す前に商品の包装を破られてしまったので注意した。それでぶちきれた客が棚の商品を叩き落としたので、はがいじめにした。これは間違いなのか。
 道路工事現場で煙草をポイ捨てした通行人に吸殻を拾って返した。これはやってはいけないことだったのか。
 ドーナツ屋で深夜に他のスタッフたちが裸で商品ケースに入って写真を撮ろうとしたから思わず殴ってしまった。これは─―やりすぎだったかもしれない。
「篠崎ちゃんはガタイがいいし、顔も無表情で怖いからなー、相手には喧嘩を売ってると思われるんだろうな」
 花邑はわけ知り顔でぽんぽんと瑛太の肩を叩いた。
「まあ、そう気ぃ落とすな。またなんかバイト紹介してやるからさ。できれば接客業じゃない方がいいよな」
「悪いな、塚本先生の『建築本論』を買ったら家賃も危なくてな」
「あ、買ったのか。読んだら俺にも見せて。代わりに野田さんの『リノベーションマジック』貸すから」
「ああ、ところでそれ、」
 瑛太は箸で花邑の製図を指した。
「北側の柱のサイズ間違えてる。そのまま提出すると怒られるぞ」
「マジかよ!」
 花邑はシャツのポケットにいれていた眼鏡を取り出して製図を見た。
「あれえ、おっかしいなあ……」
「カツ丼で直してやるぞ」
「うっわ、嬉しい! わかったよ、待ってな」
 花邑は立ち上がるとカツ丼のチケットを買いに行った。瑛太はうどんを食べ終わり、製図を引き寄せて修正箇所を確認する。
「篠崎くん」
 背後から声をかけられ、振り向くと、選択している近代建築学ゼミの本橋准教授の大きな体があった。
「となり、いいかな」
 本橋はカツカレー特盛りを載せたトレイを瑛太の横に置く。瑛太は製図を丸め、少し体をずらした。
「どうぞ」
「ありがとう、実はちょっと頼みたいことがあってね」
 准教授は秋も終わりだというのに額に汗をかいている。縦と横がほぼ同じサイズの体形なら、歩くだけで一仕事なのかもしれない。
「僕の友達に出版社で漫画雑誌を作ってる男がいるんだけど、その彼が漫画家のアシスタントを探しててね」
「はい」
 ハンカチで額の汗を拭くと、それをシャツの襟の中に押し込む。カレー予防なのだろう。
「未経験でも技術がなくてもいいから、とにかく肝が据わってて我慢強い性格の人間をと言うんだ。で、君、どうかなって思って」
「それならぴったりですよ!」
 カツ丼を載せたトレイを持って、花邑が戻ってきていた。
「篠崎はとにかく肝がスワッてますから。どのくらいスワッてるかというと、立てばシャクヤクってほどですから」
「花邑、それまったく使い方違うから」
 瑛太が眉をひそめて言うと、花邑はトレイをテーブルに置いて、
「そんなんいいじゃん、どうでも。それで時給はおいくらくらいで」
と、准教授を見やった。本橋は丸っこい掌を広げて、
「交通費もついて、日給で五万出すって─」
「やります」
 瑛太は本橋のふくふくとした手を握りしめた。ぎゅうっと力をこめたせいか、准教授は顔を引きつらせる。
「即答だな!」
 花邑が笑うが瑛太は真剣な表情で准教授に顔を寄せた。
「いつからでもできます、どこへでも行きます」
「そ、そう言ってくれて嬉しいよ」
 本橋は瑛太の顔から逃れるようにのけぞった。
「で、アシスタントってなにをすればいいんですか?」
「詳しくは友人に聞いてくれ」
 本橋はポケットから出したスマホで電話をかけた。すぐに相手につながり、その会話で瑛太は神保町にある出版社に行く流れとなった。
「えー、じゃあ篠崎ちゃーん、俺の製図はぁ?」
 花邑が情けない顔でカツ丼と広げた製図を見る。
「会うのは夕方だから時間はあるさ。食ったらやる、任せろ」
 瑛太は宣言すると猛烈な勢いでカツ丼をかきこみ始めた。

「いやぁ、君、大きいね。身長どのくらいあるの?」
 神保町にある出版社へ出向き、少年ホップ編集部の山中さんを、と受付に伝えると、すぐにつるはしのように痩せた男性がエレベーターで降りてきた。
 その第一声がそれだ。
「先月測ったときには一八九センチでした」
「なんかスポーツとかやってんの?」
「高校まで柔道をやってました」
「へえ! すごいね、強かったの?」
「いえ、県大会レベルです」
 そんな会話をしながら、山中はロビーにあるテーブルに瑛太を促した。
「本橋さんから紹介してもらったんだけど、建築学科なんだってね」
「はい」
「漫画はよく読む方?」
「中学生までは自分で雑誌も買ってましたが、今はあまり読んでいません」
 学食やゼミの教室に置いてあるのをパラパラ見る程度だ。コミックスも中学生のとき、柔道を扱ったシリーズを買って以来、手を出していない。
「漫画は描いたことある?」
「いいえ。でも建物なら描けます」
 山中はパンと手を叩いた。
「そうか、じゃあ背景とかお願いするかもしれないけど、明石先生は基本一人で描いちゃうから、まあベタとトーンが中心になると思うよ」
「明石先生……」
 聞いたことがない。昔からいる人、というわけではなさそうだ。
「今までアシスタント使ってなかったっていうのもスゴイんだけど、さすがに連載を持ったらね、一人じゃ限界があるから」
「すいません。自分はその明石先生という人を知らないのですが」
「明石妖介先生。うちの雑誌の増刊で、今までシリーズもの描いてたの。あ、これコミックスね」
 山中は持っていた紙袋の中から五冊の単行本を取り出した。表紙を見ると少年が主人公の熱血系の絵に見える。カラーの着彩がきれいだった。
「本誌で連載することになって、先生はアシなんて必要ないって言ってたんだけど、一話目を描いたあと、さすがにやっぱり人手が欲しいってね」
「はあ」
「それで何人か紹介したんだけど……アシスタントさんが居つかなくて」
 山中の言葉に、瑛太はコミックスから目をあげた。
「居つかない……それは厳しい現場ということですか」
「いや、まあ……厳しいといえば厳しいんだけど」
 バリバリと頭をかきながら山中は言葉を探すように間を置いた。
「―─明石先生自体はそんな厳しい人じゃないよ、ちょっと変わっているけどのんびり
した人で、ちょっと変わっているけど暴力とか振るう人じゃないし」
 ちょっと変わっている、と二回言った。
「その、なんていうか、仕事場がね。あれは─事故物件とでも言うのかなあ、僕も一
度見たんだけど、あそこね、……出るんだよ」
 山中は声をひそめた。瑛太は聞き取るために顔を近づける。
「なんですか?」
「あとで恨まれても困るから言うけど、幽霊っていうかお化けっていうか」
「……」
 瑛太は背筋を起こして山中を見下ろす。編集はそんな彼の視線に唇をとがらせた。
「あ、信じてないね。ほんとに出るんだよ」
「そうですか」
「そうですかって、幽霊だよ! お化けだよ!」
「自分、そういうの信じない方なんで」
「でもほんっとに出るの、だから人が居つかないの!」
 山中はむきになったようで、両の手で拳を作って振り上げる。
「はあ……」
 しかし、瑛太の気のない口調に振り上げた手を膝に下ろし、ため息をついた。
「……まあ、漫画家の現場なんて特殊なもんなんだけど、明石先生のところはその中でもトップクラスだと思うよ。よくあんなところに住んでいるなって感心する。先生もそうとう変わっているけど」
 三回目だ。しかも、「ちょっと」から「そうとう」にレベルアップした。
「明石先生はどんなふうに変わってらっしゃるんですか?」
「それはまあ……一言では言えないかなあ。まあ、仕事をしていればそのうちわかるよ。今から先生の仕事場に行こう」
 山中は携帯で明石という漫画家に連絡をいれた。かなり長い着信音のあと、相手が出たようだ。
「あ、お世話になっております、少年ホップの山中です。どうですか? 進捗は……はい、はい。ああ、それでね、新しいアシスタントさんをこれから連れて……は? いや、今度は大丈夫だよ。……いや、そう言わず。一人では無理だよ、絶対。背景描ける子だし……そんなこと言って間に合わなかったらどーすんの……ね? 大丈夫大丈夫。逃げやしないって、なんなら縛りつけても……ははは、ね? じゃあ今から行くよ」
 最後なんか不穏な台詞があったな、と瑛太は眉をひそめる。山中は携帯をパチンと折ると振り向いて─―瑛太の表情に気づいた。
「あ、今の冗談だから。身の危険を感じたら逃げていいから。でもできるだけ頑張って。幽霊とか信じないんだよね?」
「信じません」
「うん、今は君のその言葉が頼もしいよ。じゃあ行きましょうか」

 明石先生の仕事場は足立区にあった。JRと東武線、地下鉄千代田線が乗り入れる賑やかな北千住が最寄り駅だ。
 駅ビルもおしゃれだし、周辺にはファッションビルや商業施設が並び、人出も多く賑わっている。ハロウィーンが終わったばかりなのに、もうクリスマスの装飾もあった。駅から続くアーケードには柊と金色のモールが飾られている。
「今日はタクシーで行くけど、バスもけっこう出ているから、通うときはそれでお願いね。交通費は別に出るから、毎回請求して」
 山中はタクシーの中でそう言った。
 北千住駅前の喧騒を過ぎると大きな道路に出る。旧日光街道だと山中が教えてくれた。少し先には荒川が流れている。日光街道までは雑居ビルも店舗も多く、賑わいを感じさせるが、そこを過ぎるとやや寂れた雰囲気だ。昔ながらの金物屋があったり、リサイクルショップ、古そうな畳屋があったりする。
 住宅地になるのか高い建物がなく、空が広く見える。
 家と家の隙間からスカイツリーが見えた。ちょうど太陽が落ちる頃で、夕焼け雲がいっぱいに広がっている中、金色に輝いている。
 タクシーは10分ほど走って停まった。青居町という表示が見える。
「このアパートだよ」
 木造二階建て外階段。壁には枯れた蔦の蔓が這い、外階段は錆で真っ赤になっている。アパートの前は駐車場スペースとなっているのか砂利がまかれ、塀のかたわらにだけ草が生えている。その草むらの中に朽ちかけた小さな祠があった。なにを祀ってあるのかは、扉が閉まっていてわからない。
 建物は夕暮れに真っ赤に染まった空の中に黒々とうずくまり、ホラー映画のオープニングのような雰囲気を漂わせていた。
 ひゅうっと冷たい風が瑛太の短く刈ったうなじを撫でた。どこで咲いているのか、季節外れの金木犀の香りが混じっている。
「うう、今年は寒くなるのが早いね」
 山中は肩をすくめて階段をあがった。瑛太はそのあとをついていったが、ふと、気になって振り向いた。背後になにか……いたような気がしたのだ。
 しかしなにもいない。砂利の上を空き缶が悲しげな音をたてて転がっていくだけだ。
 瑛太は首を振ると、山中のあとを追った。
「明石先生、ホップの山中です」
 山中の叩いているドアはアルミだな、と瑛太は音で判断する。
「明石先生はここと隣の二部屋借りているんだ。こっちが仕事部屋で向こうが私室ね。私室の方には出入りしなくていいよ」
 明石が出てくるまでの間に山中がそう説明する。やがてノブがゆっくりと回り、ドアが向こうから押し開けられた。
「ああ、山中さん。こんにちは」
 現れた男を見て、瑛太は一瞬老人かと思った。だが、それは彼の髪の色が薄く白っぽいせいだ。まるで河原になびくすすきの穂のような色で、ふんわりと柔らかく、そして肩を越えて背中の中程まで伸びていた。
 たぶんまだ30前、眠そうな目をしているが顔だちは整っている。目の下のクマと不精ヒゲがなければファッション誌に載りそうな美形だ。黒いタートルネックのセーターの上に、白茶の紬の着物をまとっている。藍色の兵児帯がだらりと前に垂れ下がっていた。
「明石先生、こちらがアシスタントの篠崎くんです。篠崎くん、こちらが明石妖介先生」
「篠崎です、よろしくお願いします」
 瑛太は頭をさげた。明石はとろんとした目で瑛太を見ると、「………ああ、君はいい人間みたいですね」と呟いた。
「え?」
「入ってください」
 明石は体を引いて部屋へと促したが、山中はバタバタと両手を振って、焦った様子であとずさった。
「いや、僕はこれで。今日は篠崎くんを案内してきただけだから」
 編集は笑顔を引きつらせながら、瑛太の手を握った。
「篠崎くん、頼むね。原稿があがるかどうかは君の働きしだいだからね!」
「はあ」
「〆切は明日のお昼だから。よろしくね」
 山中はそう言うと、身を翻して鉄階段を駆け下りて行った。一度も後ろを振り向かない。一秒でも早くこの場から逃げ去りたいとその背中が言っていた。
「どうかしましたか、どうぞ」
 重ねて言われて瑛太は「失礼します」と玄関に一歩足を踏み入れ、
「……」
固まった。
 お化けや幽霊ではない、それよりも瑛太が苦手なものが目の前に広がっている。