喫茶ルパンで極秘の捜査 立ち読み

 

「先生、お疲れさまでした。はい、ババロア」
 お預けにしていたおやつと、淹れたてのコーヒーを一緒に一番奥のテーブルに運ぶ。
「僕もショートケーキがよかったな」
「ババロアが不満なら私が食べますけど」
「だめだめ、これは僕の。ババロアも大好きだから食べます。たまみんが作ってくれたものに不満なんてあるわけないでしょ」
 先生は目の前のパソコンを隅に追いやり、一気に笑顔を浮かべて姿勢を正した。その冗談なのか本気なのかわからない言葉の真意が読めず、珠美が困惑していることも知らずに。
 軽口をたたきながらも、先生は温かいおしぼりをアイマスクのように目元に当てて、疲れを吐き出すかのようにはあっと息を吐いた。
 時計を見ると、午前十二時を少し過ぎている。確か今日は開店からずっと吉井に見張られて書いていた。少なくとも四時間近く集中を余儀なくされていたはずなので、疲れているのも頷ける。
「ちゃんと予定を立ててやらないから、ぎりぎりになって大変な思いをするんですよ」
「そんなこと言われても、予定通りに書けるものでもないんだよ」
 いまいち納得は出来なかったけれど、単純作業ではない以上予定通りいくとは限らないのかもしれない。
 吉井のカップを下げていると、入口でドアベルが軽快な音を鳴らした。振り向くと、そこには波奈子と見知らぬ女性がいた。
「いらっしゃいませ」
 笑顔で迎えると、波奈子と後ろに立つ女性は神妙な面持ちで軽く会釈した。ただの客として来たわけではなさそうだった。
「波奈子ちゃん? 今日は学校は?」
「今試験休みなの。あの、ちょっと相談が……」
「もしかして先生に?」
「うん」
 ちらりと振り返ると、先生はババロアを食べていたフォークを皿に置いて小さく頷いた。どうぞと先生のテーブルに促すと、ふたりは小さく頭を下げてから進んでいった。
珠美がオーダーされたコーヒーとミルクティーを運んでいくと、波奈子に声を掛けられた。
「珠美ちゃんもいて欲しいんだけど」
「いいのかな」
「私からもお願いします」
 珠美はカウンターに戻ろうとしたけれど、波奈子ともうひとりの女性に引き留められ、先生の横に座った。
「先生、急に押し掛けてごめんなさい。おばあちゃんが困ったことがあったら先生に相談するといいって言ってたから……また来ちゃった」
「いいんですよ。今ちょうど時間が空いたところでしたから」
 原稿が出来上がる前だったら、吉井に阻止されていただろう。しかしついさっきその吉井も帰っていった。常連客たちもそれぞれ帰っていったので、ゆっくり相談をするのにちょうどいい。
「この人は、この間話した希美のお母さんなんですけど」
「初めまして、石丸涼子といいます」
 波奈子に紹介されて、涼子は硬い表情で先生に頭を下げた。実家に帰ったと聞いていた希美の母がなぜここにいるのかと疑問に思いつつも、余程の事態が起きているのだと察したのか、先生は安心させるように穏やかな表情を浮かべている。それに倣って珠美も出来るだけリラックスした態度に努めた。
「初めまして、高峰昴です」
「藤岡珠美です」
 それぞれ自己紹介をしたものの、緊張した空気で次の言葉が出てこない。それを察した先生が、頬を緩めるとコーヒーを一口飲んで、波奈子たちにも勧めた。
「それで、今日はどういったご相談ですか? 僕でお力になれることならいいんですけど」
 先生の言葉に波奈子はちらりと涼子の顔を窺った。涼子が頷く。とりあえず波奈子が話すことに決めたらしい。
「えっと、この間希美がお母さんと一緒にお母さんの実家に引っ越したところまでは珠美ちゃんにも話したよね」
「うん、見送りに行ったって言ってた日だよね」
 製菓学校の帰りに希美を見送りに行った波奈子と駅で会い、ルパンで話を聞いたときのことだ。
「うん、それでおじさんひとりでこっちに残ってたんだけど、昨日工場で倒れたって病院から連絡があったんだって」
「希美ちゃんのお父さんが倒れたの?」
 驚いている珠美の横で、先生はいつものように黙って話を聞いている。
「昨日の夜、病院から希美のスマホに連絡がありました。それで希美とふたりで、今朝病院に行ったんです。幸い主人の命には別状がなかったのですが、しばらく入院することになりました」
「そうですか」
 命に別状がないと聞いて珠美は安堵した。
「ただ……、看護師さんから救急車を呼んで病院まで付き添ってくれた人の話を聞いた途端に、希美がどこかへ行ってしまって」
「希美ちゃん、いなくなったんですか?」
「ええ」
 涼子は心配そうに頷いた。
「救急車を呼んでくれた人って誰なんですか?」
 先日先生と石丸製作所に行ったとき、門には休業のお知らせが貼られていた。倒れたのが何時かはわからないけれど、工場には他の従業員はいなかったはずだ。もしひとりで工場にいたとしたら、倒れてもすぐに発見される確率は低い。休業中の工場で、発見して病院まで付き添ったという人物が気になるところだ。
「それが名前は名乗らなかったらしいんですけど、看護師さんの話では高校生くらいで、髪が長くてハーフアップにした女の子らしいんです。それを聞いたらどう考えても優菜しか思いつかなくて。もしかしたら希美も優菜だって思って会いに行ったのかなって」
「でも優菜ちゃんって学校にも来てなくて、家に引きこもってるって言ってなかった?」
 もしそれが優菜だとしたら、なぜそんなタイミングで石丸製作所に行ったのかが気になる。そしてなぜ名乗らずに帰ってしまったのか。
「それが……」
 と、波奈子は若干戸惑ったような表情で言った。
「実は昨日、優菜のお母さんから家に電話があって。優菜が私のところに来ていないかって聞かれたの。なにかあったんですかって尋ねたんだけど、来てないんなら大丈夫、たいしたことないって、すぐ切れちゃって……」
 ということは、優菜も家にいないのだろうか? 珠美は不思議に思った。
「そっか……。希美ちゃんも優菜ちゃんも、ふたりとも心配だね」
 波奈子の話を黙って聞いていた涼子が、心細そうに言う。
「私ひとりでは希美の行きそうなところもよくわかりませんし、波奈子ちゃんに相談して一緒に捜してもらったんですけど、見つからなくて……」
 夫が倒れてすぐ娘がいなくなった涼子の心労は計り知れない。肩を落とす姿になにか出来ることはないかと珠美は思案した。
「電話してみなかったの? 希美ちゃんに」
「それがいくら掛けても電話に出てくれなくて。それにメッセージも見てないなんてありえない」
 いい案だと思ったけれど、もちろん波奈子が試していないわけがなかった。しかも全くの成果なしと聞いて珠美も肩を落とす。
「そうなんだ……。どうしたんだろ」
 波奈子の話をずっと聞いてきた珠美には、どうしても希美が連絡もせずにいなくなるとは思えない。なにか理由があるはずで、トラブルに巻き込まれていなければいいと願うばかりだ。
「それでおばあちゃんの言ってたことを思い出したから、ここに来たんだけど……」
 人捜し。もちろん探偵でも警察でもない先生や珠美にどうにか出来ることではないけれど、先生はさっきから黙ったまま口元に拳を当ててなにやら考えている。このポーズをしているときの先生なら、なにかヒントが思いつくかもしれない。そう期待を込めて先生を見ると、ようやく先生が口を開いた。
「希美さんは、藤城町の自宅にも帰ってないんですよね」
「はい、十時過ぎに一度荷物を置きに戻ったんですけど、あの子が部屋に戻ってきた様子はありませんでした」
 涼子は一度自宅に戻って荷物を置くと、希美が帰っているかもしれないという淡い期待を持って希美の部屋に行ってみたらしい。玄関に靴はなくても、せめて立ち寄った形跡でもないかと探したという。
 そして希美からの連絡がないかと、自宅の電話に残された留守電をすべて聞いてみたけれど、昨日の夜掛けられた病院以外の記録はなかった。
「なにかあったときに希美さんが頼りそうな人は、波奈子さんや優菜さんだけですか」
 涼子に聞いた質問だったけれど、涼子はわからないらしく、波奈子に答えを求めた。波奈子は少し考えてから口を開いた。
「クラスに友達はたくさんいると思うけど、こんなときに希美が頼りそうな子はいないと思います」
 波奈子によると、希美が引っ越す日に見送りには何人か集まった。それでも引っ越してからも連絡を取っているのは波奈子だけらしい。クラスメイトという結びつき以上の絆が三人にはある。先生も珠美もそれを否定するつもりはない。今現在希美の母がこうして波奈子を頼っていることが、なによりの証拠だから。
「付き添ってくれた人の話を聞くまでは、学校を休んででも主人に付き添うって言ってたのに……」
「希美さんはお父さん子なんですね」
「はい。小さい頃から主人にべったりで、時間があると工場に行って仕事を見てました」
「そうそう。希美と遊ぶ約束をして家に行ってもたいていいなくて、いつも工場でおじさんと一緒だったんですよ」
 波奈子と涼子の話を聞いていると、どれだけ希美が父を好きだったかがわかる。だからこそどこへ行ってしまったのかと、みんなが心配しているのだ。
「いつも希美さんは工場に行ってたんですよね」
「えぇ、主人が工場にいることが多いので、必然的に希美も工場に行ってただけだと思いますけど」
 涼子の口ぶりからすると、誰もいない工場に希美が行く理由はなさそうだった。
「ところで発見したのが優菜さんだとして、工場に来る理由に心当たりは?」
「もしかしたら、自宅に来てくれたのかもしれません。それで誰もいなかったので工場に行ったのかも」
 今までもそういうことがあったので、そうではないかと涼子が言う。その意見に波奈子も頷いた。
「優菜さんは、希美さんが引っ越したことは知らなかったんでしょうか」
「私、優菜に何度もメッセージを送ったんですけど、いまだに見てないみたいなんです。スマホの電源も入ってないみたいで、全然電話も繋がらないし……。だからきっと知らないと思います」
 どういう心境で優菜が工場に行ったのかは本人にしかわからないけれど、優菜以外に哲平を見つけた人物は思い浮かばない。
「わかりました。僕たちが希美さんの行きそうな場所を考えてみます。だからお母さんは自宅で待機していてください。もし希美さんが自分で帰ってきたら、家にお母さんがいたほうが安心するはずです」
 そして先生は波奈子のほうに向き直ると優しい口調で告げた。
「波奈子ちゃんは、優菜ちゃんのお母さんの所に行ってあげてくれるかな。たいしたことないって言ってても、もしかしたら希美さんのお母さんのように心細い思いをしているかもしれない」
 壁にかかった時計を見ると、時刻は午後一時を少し過ぎていた。
「まだ日中ですし、警察から連絡がない以上、希美さんが何らかの事件に巻き込まれているという可能性は低いはずです」
 不安そうな涼子と波奈子は先生の力強い言葉に、小さく頷いた。
 ふたりに説明するのは難しいけれど、珠美もきっと先生にはなにか考えがあるはずだと確信していた。なにか閃いたときの先生のいつもの表情を知っているから。
なにかわかったら連絡する約束をしてふたりを見送った。
 客が途絶えたタイミングで、珠美は先生の前に腰を下ろす。
「で、先生はなにか考えがあるんですよね」
 身を乗り出しても先生はいっこうに口を開かない。まだなにやら考えを巡らせているらしい。口に拳を当てたまま、数分が過ぎた。
「希美ちゃんって本当にいなくなったのかな?」
「いなくなったってお母さんが言ってましたけど……」
 今更なにを言っているんだと言いたい気持ちを辛うじて堪えた。
「希美ちゃんが家出をする理由ってないよね。お父さんが心配だろうし」
「そりゃ、お父さん子だって言ってましたから。でも実際お父さんが倒れたのを発見した人の話を聞いて、どこかへ行ったって……」
 それから全く連絡も取れず、希美の部屋にも帰った形跡がなかったと涼子は言っていた。
「やっぱり捜しに行ったほうがいいんじゃないんですか」
 もし先生が捜しに行くというのなら、今すぐ珠美も出掛けるつもりでいる。涼子たちには帰宅を勧めたものの、珠美自身は困っている人を放っておけない性格のため、じっとなどしていられなかった。
「たまみん、とりあえず落ち着いてよ。僕の想像だけどね……」
 テーブルに両肘をつき、重ねた両手に顎を載せて、先生はいつものように語り始めた。