死神と善悪の輪舞曲 立ち読み

 

 家に着いたのはもうすぐ十八時になる頃だった。ガレージにバイクを停めてから、俺は外階段を使い佐東探偵事務所の上にある住居用の玄関へと向かった。
「お帰り、トシくん」
 居間で出迎えてくれたのは俺の母親の双子の妹、那美子さんだ。背がすらりと高くて、迫力のある美人というのが、恐らく皆が那美子さんに感じる印象だろう。
 母親は台所にいるのか、那美子さんは一人でテレビを見て寛いでいたようだ。居間のテレビからはニュース番組の音が流れていた。
「ただいま。久しぶり、那美子さん」
「半年ぶりくらいかしら? ちょっと見ないうちに、大人っぽくなったんじゃない?」
 俺の肩を叩きながら、しっかりと口紅の塗られた唇をぐっと上げ、那美子さんは目を細めた。彼女はかなり多忙な弁護士で、俺と会うのは年に二、三回くらいだ。
「そうかな? あんまり変わらないよ」
「結構違うわよ。やっぱり、大学生になったっていうので変わったんじゃないかしら」
「あらトシちゃん、雨は大丈夫だった? 那美子が来るって言ったのに遅いから、心配したわよ」
 俺たちの会話に気付いてか、台所から母親が姿を現した。
 那美子さんと双子だからそっくり……と思いきや、二人はまるで似ていない。母親は小柄でおっとりした雰囲気の顔つきをしている。だが似てなくてもおかしくはない。何せ二人は双子と言っても二卵性なのだから。
「ただいま。雨はもうほとんど降ってなかったよ」
「そう、なら良かったわ。もし濡れたようなら、ちゃんと着替えなさいね」
「大丈夫だよ」
 決して過保護というわけではないが、母親は心配性だ。中学の頃の反抗期にはこういったことも疎ましく思っていたのが懐かしい。
「あら? ここ、私がこの間仕事で行ったところの近くだわ」
 那美子さんの声に釣られてテレビへ目を向けると、長野県の山中で白骨化した死体が発見されたというニュースが流れていた。
「なんだか最近、こんなニュースばっかり耳につくわねえ」
 母親がため息交じりに言いながら、頬に右手を当てる。
「特に美奈子のところは色々あったみたいだし、余計かもねえ」
 二人の外見はただの姉妹として見ても、似たところはほとんどない。だけど、今みたいに二人が並んで頬に右手を当てている様を見ると、角度まで同じだから面白い。
「そうねえ、確かに先月は色々あったから……」
 まずは母親の交通事故から始まり、担当医だった松永が殺人犯として逮捕されたこと、そしてその逮捕に俺が大きく関わっていたことは、母親にとっても衝撃的だったようだ。特に松永は病院ではとても評判の良い医師だったから、余計だろう。
「事件は意外と身近で起こるからね。トシくんも、また巻き込まれないように気を付けなさいよ」
「もっと言ってやってよ、那美子。本当、この前警察から連絡が来た時はびっくりしたんだから」
「うん、気を付けるよ」
 もちろん俺の本心としては二人に言われた通り、事件なんかに首を突っ込みたくない。今後もできる限り避けていきたいと思っているが、それをどう実現するかが今の問題だ。
「本当、気を付けてね。それじゃご飯まで、もう少し那美子の相手でもしてやって」
「トシくんもいいけど、例の恩人さんはどうしたの? 私からもお礼を言いたいのだけど」
 そう言って、那美子さんが目をきょろきょろとさせた。『恩人さん』とやらが誰を指しているかなんて、考えるまでもない。母親が事故に遭った後、俺は会えなかったけど那美子さんが仕事の合間を縫って病院にお見舞いに来てくれたのは知っている。だけど、この口ぶりからするとその時志川には会っていないのだろう。
 母親が壁の時計に目をやる。
「ああ、志川さんね。そろそろお仕事が終わって帰ってこられるんじゃないかしら」
 アイツは一体どんな仕事をしていると説明したんだ。まさか馬鹿正直に死者の魂を回収して回っている、とは言わないだろう。そこまで考えて、俺はようやく志川が普段姿を見せない時は仕事をしているのかもしれないと気付いた。気付いたところで何がどうというわけではないが。
「ただいま帰りました」
 きっとどこかで会話を聞いていたからだろう、タイミング良く志川が居間のドアを開けた。途端、俺の体にはいつもの嫌な空気が纏わり付いた。
「お帰りなさい、志川さん。今朝も言ったけれど、今日は私の妹が来ているの。会うのは初めてよね?」
「初めまして。美奈子の妹の、石崎那美子よ」
 挨拶を受けて、志川が丁寧に頭を下げた。
「初めまして。ここに居候させていただいている、志川渡です」
「この間は、美奈子を助けてくれたそうで、本当にありがとう。ずっとお礼を言いたかったのだけど、仕事が忙しくて遅くなってしまって、ごめんなさいね」
「いえ、人として当然のことをしたまでですよ」
 俺の前とはえらく違う、畏まった態度で志川は首を振る。別人を見ているのではないかという気分になる。というか、お前人じゃないのに何を言っているんだ。
「美奈子から話には聞いていたけど、本当にイケメンね。こんなおばさんで悪いけど、今夜はご一緒させてもらうからよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 志川は世間一般の人間が皆見惚れるくらいの笑みを浮かべるが、俺にとっては胡散臭い笑顔にしか見えない。そして、ご多分に漏れず母親も那美子さんもうっとりとした眼差しを向けていた。
「そうだわ、トシちゃん。そろそろお父さんを呼んできてくれる? 熱中しているのか、さっき内線をかけても反応がなかったのよ」
「分かった、行ってくるよ」
 事務所と住居を繋ぐ内線があるのだが、外線よりは音を小さくしているため、父親が気付かないこともしばしばだ。そういう時は直接呼びに行くに限る。
 一階の探偵事務所には外階段からだけでなく、住居である二階から直接下りることもできる。居間を出てすぐにある、事務所への階段を下りていく。
 階段の先にある扉を開けると、事務所の隅にある机に向かっている父親の姿が見えた。事務所は来客時に使用する応接セットはもちろん、様々な種類の本や書類の入った棚が幾つも並び、実際よりも狭く感じる。
「父さん、もうすぐご飯だってよ」
 俺が入ってきても気付く様子のない父親に向かって声をかけてみるが、反応はなかった。よほど熱中しているのだろう。仕方がないので、もっと近づこう。
「父さん」
 すぐ横に立ってもう一度呼びかけると、父親がようやく机の書類から顔を上げた。
「どうした、利雄」
「もうすぐご飯だって。上がってこられる?」
「もうそんな時間か。そうだな……一度休憩するか」
 ずっと真剣に取り組んでいたのか、父親は背中を椅子にもたれさせてから眉間を軽く摘んだ。机の上には写真や書類、そして昔の新聞記事なんかも広がっている。
「なんか、大変な案件?」
 探偵事務所というとほとんどの人間が何かの事件を解決する存在なのだと勘違いしているが、実際の探偵なんてものは、そう事件に巻き込まれるような存在ではない。聞き込みが中心で、個人の素行調査、企業調査、人探しや物探しという地道な仕事だ。
ただそういった仕事が、簡単というわけではない。調査に障害は付き物だと父親は良く言っている。
「ああ、ちょっと詐欺事件を追っているんだが、実態が掴めなくてな」
「詐欺事件?」
 想像以上に事件の臭いのする言葉に思わず聞き返すと、父親が僅かにしまったという顔をした。守秘義務とか、そういうのを気にしているのかもしれなかった。
「組織的なヤツでな。被害に遭った依頼人が、訴えたいが、そのために実態を知りたいという依頼なんだ」
「なんか物を買わされたとか、そういうの?」
 パッと思い付く詐欺なんて、それ以外は振り込め詐欺くらいだ。
「いや、どちらかというと投資詐欺に近いかもしれないな。何にしてもまだ時間がかかるから、一旦休憩するとしよう」
「そうしなよ。俺になんかできることがあれば後で手伝うし」
「ああ、もしかしたらまた書類整理や資料集めなんかを頼むかもしれん。だが、試験とかはまだなのか?」
 立ち上がった父親の言葉に俺は頷いた。
「来月の中旬から。一応それなりに対策しているし、なんとかなると思う」
「さすが、利雄は堅実だな」
 軽く目を細める父親の言葉に少しこそばゆく思いながら、俺は先に階段を上がっていった。

 夕食後に団欒の時を過ごし、那美子さんを見送ってから俺は自分の部屋に戻った。
 試験対策のため教科書とノートを広げたところで、部屋の扉が勝手に開けられたことに気付いた。
「よう、利雄」
「ノックしろ。そして俺の了承を得てから入ってこい」
 俺が志川の入室を許可することはあり得ないので、つまり入ってくるなという意味を込めて俺は振り返らないまま言い放つ。
「どうせノックしても無視するだろ? 毎度のことながら、その無駄な工程を省いてやってるんだ、俺に感謝して欲しいね」
 俺の言葉の意味をしっかりと理解した上でこの返しなのだから、本当に救いようがない。
「っていうか出て行け」
 万が一にも家族に聞かれないよう、苛立ちを少しだけ抑えて低い声で告げる。知ってはいたが、志川の辞書には礼儀という言葉など載っていないようだ。
「つれねえなあ。せっかく次のネタを用意してやったってのに」
「頼んでない。勉強の邪魔だから出て行け」
 強く伝えても、志川は出て行く様子がない。それどころか勝手にベッドに腰をかけ、那美子さんのお土産の煎餅を食べながら寛ぎ始めている。ベッドの上で煎餅を食うなんて、食べカスが落ちたらどうしてくれるんだ。あれ、布団に入り込むと地味に痛いんだぞ。
「根詰めてもいいことねえし、少しくらい息抜きしようぜ。ほれ、煎餅食うか?」
「お前に関わることが息抜きになるなんて、地球が爆発してもない。けど、煎餅は貰う」
 手を伸ばすと志川が一枚渡してきたので「どうも」と言ってから、口に運んだ。
「この煎餅、うめえな」
「ああ、俺の好物だから那美子さんがいつも持ってきてくれるんだ」
 ほど良い歯ごたえと、噛めば噛むほど醤油の香ばしさが広がるこの煎餅は本当に美味しい。派手さはないが、ホッとする味というのはこういう物を言うのだろう。
「それにしても、地球爆発とか訳の分からない規模のたとえを出すなんて、疲れてんな。大丈夫か?」
 煎餅の味を堪能していて忘れるところだったが、志川に勉強の邪魔をされていたんだった。気を取り直すように軽く咳払いをしてから、俺は口を開いた。
「お前みたいなヤツが周りをうろちょろしているせいで、全然大丈夫じゃない。分かったらさっさとこの部屋から出て行け。というか、いい加減この家から出て行け」
 この男が我が家に居候を始めて早一ヶ月。本当に、一体いつになったら出て行ってくれるのだろうか。我が家を選んだ理由が母親の料理だと言っていたから、それに飽きてくれるのを待つしかないのだろうか。俺が十八年食べても飽きていない事実を考えると、いつまで経ってもその時が訪れないような気さえしてくる。それならいっそコイツがいることに慣れる方が、俺にとっての平穏になるのだろうか。いやいや、冷静に考えたらそれはないな。
「残念ながら、ご希望には沿えかねます」
 志川が優雅な仕草で一礼して、再びにやけながら口を開いた。
「俺はまだまだママさんの料理を食いてえし、お前で遊びてえからな」
 そう言った志川は俺の頭に向けて手を伸ばしてきたが、触れられる前に思いっきり払ってやった。
「人をおもちゃ扱いするな。遊ばれる気はないって、まだ分からないのか? それと、気安く触るな」
「おお怖い怖い。ぼちぼち俺を受け入れてもいいんだぜ? むしろ、実は少しずつ受け入れ始めてんだろ?」
「あり得ない。というか、お前はなんで俺に執着するんだ。大人しく母さんの料理だけ食ってろよ」
 もちろんそれだって受け入れがたいけど、この人外に構われるよりずっといい。
「ママさんの料理は最高だ。けど、お前も結構面白いもん持ってるぜ。ひょっとすると、かなり、かもな」
 面白いもんってなんだ。平々凡々を目指す俺が、面白いなんてあるわけがない。むしろ対極の位置にいるはずだ。
「それに、お前こそまだ分かってねえのか? いやいや言いながらも、なんだかんだ利雄だって楽しんでんだろ。自分に嘘をついてもいいことねえぞ。もっと素直になれよ」
「……俺がいつ楽しんだんだ。お前の目は腐ってるのか?」
「いつになったら素直になんのかねえ。まあ、とりあえず、だ。いくつか見繕ってみたから最後はお前に選ばせてやるよ」
 俺の言葉を完全に無視した志川は、楽しそうに告げてきた。
「一番、俺が楽しめる事件。二番、俺が愉快になれる事件。三番、お前が苦しい思いをする事件。さあ、どれが好みだ? なんなら……」
「どれも結局一緒だろ。そんなことするくらいなら、俺は高梁とボランティアに参加する」
 言ってみて、この上ない名案だと気が付いた。桧原さんにもボランティアに参加するから時間がないと言えば、当面の時間は稼げる。志川に何か言われても突っぱね続けられるし、高梁の言う通りこの先の就職活動にだって役に立つ。
「ボランティア? 捻くれている上に、実は限りなく自己中心的で、他人に対して無関心なお前が? へえ?」
「黙れよ。とにかくもう決めたから、何を言っても無駄だ」
 とてつもなく酷いことを言われているが、いちいち突っ込みを入れる方が疲れるので止めておく。
「なるほど、利雄先生の決意は固いわけだ」
「ああ、そうだ」
 強い視線を送ると、志川は人を試すような笑みを浮かべた。
「ボランティア、ねえ。まあ、そうしたいならそれでもいんじゃねえ? 気が変わったらいつでも言えよ」
 妙にすんなりと引き下がったような気もするが、構うものか。
 善は急げとばかりに、俺は早速高梁にライムで連絡をしたのだった。