「いぶし銀って、どういう意味の言葉なんでしょうね。ちょっと検索してもらっても良いですか?」
唐突に頭の中に浮かび上がってきた言葉、いぶし銀。
いつどこで誰の口から聞かされたか思い出せないその単語がどうしても気になり、あたしはスマホで漫画を読んでいた純一さんへ思いきり顔を近づけながら検索をお願いした。
「何だよいきなり。面倒くせぇな。そんなん、鰹節か何かの一種だろ。この上なくどうでも良いわ」
眼前に突き出されたあたしの顔を煙たがるように、純一さんは頭を右へ左へ、結局右へと背けた。
「えー? だって気になるんですもん。いぶし銀。何なんですかねこれ?」
「知るか。つか、邪魔だよ。画面が見えねぇ!」
煩わしそうに唸る純一さんにおでこをくっつけるようにしながら、あたしはその細くて目つきの悪い両目をしっかりと見つめ、視線を固定する。
「じゃあ、ちょっと調べてくださいよ。いぶし銀って。そしたら大人しくしますから」
「……わかった。わかったからスマホから離れろ」
苦々しく口元をへの字に曲げる純一さんへニコリと笑い、あたしはスマホに重ねていた顔を後ろへ下げる。
「全く、いぶし銀なんてどうでも良いだろうに……」
使っていたアプリを終了させ、純一さんはブツブツと文句を垂れながらウェブで検索を始める。
「……いぶし銀。華やかさに欠けるが実力はあることの例え。ベテラン、みたいな意味。後は……いぶしをかけた銀。硫黄とかで金属製品の表面をくすませること、くすんだ状態の銀色のことだとよ」
すっごく興味なさそうに告げる純一さんの回答に、あたしは「あー……、なるほど。そういう意味ですか把握しました」と、全く内容を理解していないこと丸出しな表情でコクコク頷く。
いぶし銀。何だか、想像していたのと全然違っていた。
「ったく、死んだ人間が言葉の意味なんか気にしてどーすんだよ。知ったところで役にも立たねーだろうに」
「そんなことありません。幽霊だって成長するんです、たぶん」
「黙れ、スミレイ」
「その呼び方はやめてください!」
あたしの名前、菜野宮菫と幽霊をもじってスミレイ。純一さんがあたしをからかうときに良く使う呼び名なのだが、正直言われると面白くない。
「わかりやすくて良いだろ? 菫の幽霊でスミレイだ」
プリプリと怒るあたしを面白がるように一瞥してから、純一さんはまたスマホで漫画を読み始めてしまう。
死んだ人間。
純一さんが言うように、あたしはもう五年も前に生身の肉体を失った存在だ。
一般的な言葉で言えば幽霊。もう少し正確に言うならこの世に未練を残して彷徨う浮遊霊というグループに属しているわけだけれど、正直あたし自身にはそんな呼び名が付けられていることにこだわりはない。
だけどそれと同時に、あたしはつい一年ほど前まで諸事情により悪霊になりかけていた身なので、そう考えて比較すると悪霊より浮遊霊の方がニュアンス的にも可愛いし、世間に受け入れてもらいやすいのではと思ったりもしている。
狭い部屋の中を漂うように移動して、あたしは純一さんの背後へ回り込む。
中肉中背、生まれつき備えていたらしい、ほど良く引き締まったその身体へ密着するように寄り添いつつ、あたしは純一さんの手元を覗き込んだ。
「暇さえあればそんなのばっかりいじって、楽しいんですか?」
純一さんが見つめるスマホの画面には、何やら熱血キャラっぽい男の子がボロボロになりながら敵に挑んでいるシーンが映し出されている。
あたしが生きていた頃はもっと画面が小さくてボタンの付いた携帯電話が主流だったのに、今はガラケーなんて呼ばれて過去の産物になりかけているという。
時代の流れって速いわぁ……と、あたし年取ったなぁみたいな気分に浸りながら一緒に漫画を読んでいると、突然スマホからメールを知らせる音が響いた。
「む?」
すぐに純一さんは画面を切り替え、届いたメールを読み始める。
「誰からですか?」
「依頼人からだな。それほど大した内容でもなさそうだが」
スマホから視線を逸らさない純一さんのボサボサ頭にピタリと顔を並べ、あたしもまじまじと届いた文面を眺める。
「……受けるんですか、この依頼」
返ってくる言葉は予想が付くけど、一応の確認。
「もちろん。稼げるときにきっちり稼いどかないと食っていけねぇし。ひとまず、直接会って話を聞く」
予想した通りの返答を言って、純一さんは返信の文章を打ち始めた。
新しい依頼かぁ、とあたしは読んだばかりのメール文を思い返す。
〈初めまして。私は三谷広と言います。ネットのサイトでそちらのことを知りご連絡させていただきました。
私はつい最近、今暮らしているアパートへ引っ越してきたのですが、毎日のようにおかしな現象に悩まされて困っています。
お金は提示されている金額をお支払いできます。どうか一度お会いして話を聞いてはいただけないでしょうか。よろしくお願いします〉
あたしは、確かに大した内容ではなさそうだなと純一さんの意見に同意する。
アパートの住民の身に振りかかる謎の異変。
きっと、その部屋かアパート、または土地そのものに取り憑く地縛霊と呼ばれる存在によって、霊障─幽霊によってもたらされる怪現象のことだ─を受けているだけだろう。文面からも鬼気迫るほどの気配は感じられないし、悩ませているのは低級霊の類だと思われる。純一さんなら、この程度の案件はすぐに解決できるはずだ。
実際、その力でこれまでに何十件もの依頼を解決してきているんだし。
「─よしっと。後は相手の返事を待つだけだ」
スマホの操作を終えた純一さんが、得意げな笑みを浮かべてこちらを見てくる。
「久々の仕事だぞ」
「ですね。気合入れて頑張ってください」
仕事だぞと言われても、ぶっちゃけあたしは特にすることがない。
とりあえずで頷きつつ、あたしは他人事のような返事と共に笑い返した。
三谷と名乗った依頼人からの返信は、律儀なくらいに早かった。
常にスマホを握りしめて待機しているのではと思えるほどスピーディーな対応をしてくれたおかげで、お互いの顔合わせと詳しい仕事内容の説明をする日取りは簡単に決まり、明日の午前十時半に駅前にある喫茶店で待ち合わせることで話がまとまった。
「今日いきなりメールよこして、実際に会うのが明日なんて言ってくるんだから、よっぽど切羽詰まってるんでしょうね。その三谷って人」
ソファに胡坐をかいている純一さんの隣に座りながら、あたしはまだ見ぬ依頼人を想像する。
文面だけで推理するなら、真面目なサラリーマンといった感じだろうか。眼鏡なんかをかけていて、少し気弱そうな印象も受ける。年齢は、二十代後半くらいで、お人好しな人かもしれない。
「そりゃあ、毎日のようにおかしな現象が起きてるって言うなら、普通の感覚の一般人は切羽詰まるだろ。大方、毎晩部屋の中で足音が聞こえるとか勝手にテレビの電源が入る程度の軽いレベルだと思うけどな」
お気楽な調子で告げながら、純一さんは昨日近所のスーパーから半額で購入してきた柏餅を頬張る。
「メールの内容では、今のアパートに住み始めて一ヶ月くらい経ってるらしい。おかしなことが起こり始めたのが、引っ越して三日後あたりから。それからずっと休みなく怪現象が起きて困ってると。まぁ、こんな良くあるパターンなら、駆除対象の霊は完全な下っ端で確定だろ」
「駆除って、害虫じゃないんですから」
柏餅の葉っぱを折りたたみながら余裕綽々に語る純一さんを軽く睨み、あたしは呆れたという風に息をつく仕草を─実際に息はしていないのであくまでも仕草だけ─する。
「大体、そういう油断が怪我の元になるんですよ。逆に取り憑かれでもしたら、大変じゃないですか」
「そんときは、お前が助けてくれればいいさ。頼りにしてるぜ」
「え? いや、あたし特に何もできないんですけど……」
あたしは幽霊だけど、それだけの話で戦ったりするような特殊能力は持っていない。
幽霊同士なら触れ合うことは可能だけど、あたしは所詮十六歳で他界した女の子の霊。それも平凡な浮遊霊でしかないわけで、戦いになれば負けるのはわかりきっている。
純一さんがそんなあたしの非力さを知らないなんてことは今更ないはずだ。それにも関わらず頼りにしてるなんて言ってくるのは、あたしのことを信頼してくれてるってことだろうか。
それともまさか実は幽霊相手に特別な感情を持っちゃってて、気づいたらもうあたしなしじゃいられないとか、それを遠回しに伝えてきたって可能性もあるんじゃ……だとしたらこの人異常じゃん。
「……いきなり真剣な顔してどうした?」
「はぇ? い、いや、別に何でもないんですけどね。純一さんがどうしてもって言うなら一生守護霊として憑いていく覚悟もしなきゃいけないのかなぁとか、そんなことをちょっと考えそうになったりならなかったり─」
「いや、良くわからんが落ち着け。とりあえず、今日の夜は外食にするから夕方出かけるぞ」
不覚にも取り乱すあたしを、純一さんは呆れたように眺める。
「外食? お金ピンチなのにですか?」
ここ数ヶ月、仕事の依頼がほとんどなかったため、純一さんの財布の中身はかなり悲惨だったような記憶がある。
昨日の夜なんか、千円札三枚をテーブルに並べて自殺直前のサラリーマンみたいな顔をしていたのに。
「明日には金が入るんだ。前祝いにパーッとやってもバチは当たらねぇだろ。つっても、行くのは近所のファミレスだけどな」
そう言って、純一さんは嬉しそうに口角を上げる。
そんな彼の笑顔を今度はあたしが呆れて見つめながら、ボソリと思ったことを正直に告げた。
「……純一さん。そんなんだから、いつまで経っても貯金が増えないんですよ」
翌日、葉桜の連なった土手沿いの道を歩く純一さんにくっつきながら、あたしは澄み渡った青空を見上げ、上機嫌に目を細めていた。
「あー……、春ですねぇ。やっぱり冬とは空の色が違いますよね」
しみじみとした気分で告げるあたしを肩越しに一瞥して、純一さんは「どう違うんだよ?」と小声で問うてくる。
「うーん、はっきりこう! っては言えないんですけど、濃さというか暖かみというか、そういうのですよ」
あたしはどうにか自分の頭の中にあるイメージを言葉にしようと試みるけど、これがなかなかに難しくうまく表現することができない。
暖色や色彩。こんな感じの単語を混ぜて話せれば、それっぽいことを言ったように聞こえるだろうか。
こういう場面で的確な言葉が出てこないのは、何ともモヤモヤした気分になり落ち着かないのだけれども、こればかりは生前きちんと勉強をしていなかったあたしの責任だから仕方がない。
会話とは難しいものだとしみじみ実感しながら移動している間に、あたしたちは駅前の通りへと抜け、目的地である店の前までやってきた。
こじんまりとしたその喫茶店は、数十年前からここで営業を続けているらしい。
控えめなドアベルが鳴る扉を開き、純一さんは店内へ足を踏み入れる。
あたしは別に壁をすり抜ければそれで済むけど、生前の癖というか気分的な理由でそれはせず、普通に純一さんの背中へ続いてそそくさと移動した。
「いらっしゃいませ」
白髭を生やしたマスターが、柔らかい笑みを浮かべて声をかけてくる。
「アイスコーヒーを」
そんなマスターを一瞥もせずに注文を告げると、純一さんはぐるりと狭い店内を見回した。
客の姿は三人のみ。
一人は二十歳前後と思しき地味な女の子。その比較的近くの席にはスーツ姿のサラリーマン。そして三人目は、二十代半ばくらいの無精髭を生やした男性。
その三人を順番に見つめ、純一さんは迷うことなく無精髭の男性へ近づいていった。
「あんたが三谷広さんか?」
「え? あ、はい、そうです。えっと、あなたが?」
突然声をかけられ驚いたように顔を上げた男性、三谷さんは純一さんの容姿を観察するように眺めながら、頷きを返してきた。
「ああ、『破怪屋』の矢式森純一だ」
ニコリともせずに答え、純一さんは三谷さんの正面へ腰を落ち着ける。
「結構やつれてるな。あんた、ほとんど寝てないだろ?」
純一さんは遠慮の欠片もなく、ジロジロと三谷さんを見る。
その言葉通り、三谷さんの顔にはほとんど生気を感じなかった。
栄養失調になってる人みたいな青白い肌と、くっきりと目立つ目の下のクマ。愛想笑いを浮かべる表情も弱々しく、全然生きる人の魅力を見出せない。
「はい……。今住んでる場所へ引っ越してきてからの一ヶ月、ほとんどまともに睡眠をとっていません。ずっと頭の中に靄がかかったような感覚で、何だか、自分が今現実にいるのか夢の中なのかわからなくなりかけていますよ」
掠れた声でそう言うと、三谷さんはズズッと音を立ててコーヒーを啜った。
「今住んでるっていうその部屋を借りるとき、不動産屋か大家から何か話は聞かされなかったのか?」
「いえ、特に何も……。見た目はごく普通の二階建てアパートで、古い感じもしませんでしたし。家賃だって他の部屋と一緒ですからね。その、俗に言われるような?いわくつき?ってイメージは僕としては全くなかったんです」
店のマスターが純一さんの注文したアイスコーヒーを運んできた。
「ごゆっくり」と、穏やかな笑みで告げカウンターへと戻っていくのを待って、会話を再開する。
「ということは、少なくともあんたの前にいた入居者が問題の原因にはなっていないな。他の部屋に住んでる住民とは、話をしたりしないのか?」
「引っ越しの挨拶をしたくらいで、それ以降は特に。すれ違えば挨拶くらいはしますけど、それだけですね」
そう言ってボリボリと頭を掻く三谷さんを、あたしはジッと見つめて視線を固定させる。
……女の人。あたしより五つくらい上か。
三谷さんの頭部。
そこに、透けて色の薄い女の人が両手を絡め、しがみついていた。