「えっと……ここのわけないんだけど?」
住宅地の一角に、寝具店『白河夜船』はあった。看板も掛かっている。間違いなくこの建物だ。しかし、茜は信じられなかった。
それもそのはず。その建物は教会だったからだ。
時代を感じさせるくすんだ白の外壁にとがった屋根。屋根の上にはお馴染みの十字架が春の柔らかな陽射しを浴びて輝いている。どうやら元々教会だった建物をそのまま、お店に使っているらしい。
もしかして、神父さんがサイドビジネスでやってるんじゃないでしょうね。しんぐだけに! ……やった! 最高のギャグ完成!
ギャグの出来はともかく、茜は店に入ろうかどうしようか迷った。
教会の寝具店というのには興味がある。中がどうなっているのかも見てみたい。それに、商品だって他にはないような風変わりな逸品があるかもしれない。
けれども、同時にためらいもあった。教会をそのまま店にしてしまうなんてまともな経営者とは思えない。閉じ込められて、布団の押し売りでもされたら事だ。
……ここは帰ろう。嫌なことがあった日に、また嫌な目にあうのはたまらない。
そう思って茜が踵を返しかけたその瞬間、背後から声をかけられた。
「うちの店になんか用か?」
ハスキーな声だった。
振り向くと、彫りが深くて端整な顔立ちの男が立っていた。着古したジーンズに白のTシャツ。モスグリーンのジャケットを羽織っている。二十代にも見えるし、四十代と言われても納得してしまうような渋い不思議な風貌だった。
反射的に茜は尋ねた。
「えっと、このお店の御主人ですか?」
「そうだよ。あんた、お客さん?」
そう答える男の目には、茜を値踏みするような、小馬鹿にした笑みがにじんでいた。これが客と思う人物に対する態度かと、茜は少し不愉快になった。が、それを表情に出す前に男は饒舌に続ける。
「客って感じじゃないなあ。ちょっと疲れてるが、たっぷり寝てますっていう顔してるぜ。うちの商品を買うほど追い込まれてるようには見えない。それとも、誰かの代理で来たのかい? ああそうか。バイトか」
「バイト?」
たった今バイトを辞めて来たところにそんなことを言われて、茜はちょっと驚いた。
「そうそう。ほら、そこ見たんじゃないのか?」
男が指さした店の外壁にはパソコンで作ったらしいバイト募集のチラシが貼られていた。
『年齢・応相談。時給・応相談。出勤日・応相談。その他待遇、委細面談にて』
結局全部相談ってことじゃない! こんな怪しいチラシで誰が来るっていうのよ!
茜は思わず顔をしかめた。そんな内心を察したらしく、男は人を食ったような笑みを浮かべた。
「うちは役に立つ人間にはたくさん払うけど、ダメな奴を置いとく余裕はないからね。仕事もちょっと特殊なんで完全能力給なんだよ。能力があるなら、毎日でも来て欲しい。だから仕事して見せてもらうまでは、時給やなんか決められないんだ」
特殊な仕事と聞いて、茜は興味を惹かれた。
「仕事は寝具店の店員じゃないんですか?」
「まあ、店員っていうか事務員なんだがな。もちろん、一般的な事務仕事もして欲しいけど、メインの業務は違うよ。あんたどうやら偶然通りかかっただけらしいが、試しにやってみるかい?」
店主はそう言って促すが、茜は一瞬躊躇した。
一応説明してもらったものの、やっぱり怪しい。寝具店での『特殊な』仕事とは何なんだろう。皆目見当がつかない。
しかし、茜はこの謎めいた寝具店に強い興味を感じ始めていた。
この店主は怪しいが、悪人には見えない。なら、試しにその『仕事』をやるだけやってみようか。やってみて嫌なら断ればいい。友達との話のタネくらいにはなるかもしれない。
茜は迷いを振り払うように質問をした。
「なんで教会なんかお店にしてるんですか?」
すると、男はワシャっと頭を掻き上げながら言った。
「俺、元神父なんだよ。だからしんぐをね。なんてな」
こんな怪しい男とギャグセンスが一緒だなんて。やっぱりあのギャグは永遠に封印しようと、茜は決意した。
ニコリともしない茜に、男は不機嫌に顔をしかめて言った。
「理由はないわけじゃないが、今、あんたに言う義理はないな。まあ、バイトしてくれるようになったらその内な」
そうして、男はニタリと笑みを口元に浮かべた。
「でも、教会と寝具店っていうのはそう大きな違いのあるもんでもないんだぜ」
「どういう意味ですか?」
茜がそんなバカなと思って尋ねると、男は訳知り顔の笑みを浮かべた。
「大昔、人間は死と眠りを同一視していたんだ。眠れば魂は体から抜け出る。そのとき見たり聞いたりしたことが夢になる。そのまま魂が戻って来なければ、人間は死んでしまうが、戻って来ればそれは眠りということで、翌日目を覚ます。ギリシャ神話ではヒプノスは眠りの神でタナトスが死の神。この二柱の神々が双子ということも、そういう考えを反映してるのさ」
歌うように語ると、男は先ほどのバイト募集のチラシに目をやる。
「ま、だから葬式をやる教会で寝具店やっても、そう場違いでもなかろうさ。それはいいとして、あんた、ここの但し書きはちゃんと読んだか?」
見るとチラシの一番下には『※眠るのが好きな方に限る』と書かれていた。茜はそれで背中を押された気がした。
バイトで負けが続いている茜は、正直自信を喪失していた。
お金も大事だが、それ以上に茜は社会の中での居場所を求めていた。父に堂々と顔向けできるようになるためにも、大学の中だけでなく、社会の中でちゃんとやっていけるという自信を持ちたかった。
好きなことが仕事になるのであれば、こんなにいいことはない。
「ハイ!」と大きくうなずいて、男の後について店内へと入っていった。
分厚い木製のドアの向こうの薄暗い会堂は、天井が高かった。
高い窓には色とりどりのステンドグラスがはめられており、柔らかな光を落としている。元が教会であることを感じさせる温かみのあるベージュを基調にした内装は、訪れる者の心に温もりを与える。どこかにエアコンがあるのだろう。その微かな音が、会堂内に響く男と茜の靴音をくるんだ。
会堂からは、本来教会にあるであろう机や椅子は全て運び出されてしまっている。代わりに一段の段の高さが四十センチ弱の五段の木製の棚が何列にも並んでいた。
棚は更に細かく仕切りがされていて、それぞれのスペースに枕が置かれている。見る限り、枕そのものは普通に見えるが、ものすごい量だ。
茜には一瞬、その枕の中で、何かがもぞもぞと動いている気がした。まるで養蚕棚の蚕の繭の中身のように。もちろん、この枕達は繭としては大きすぎるが。
教会の会堂に抱かれて育つ、たくさんの枕の繭達。生まれて来るのは果たして天使か悪魔か今夜の夢か……。
茜はそんなことを考えながら、瞠目して周囲を見まわした。とても不可思議な光景だった。
男は茜がついてきたことを確認して目を細めた。
「俺の名前は夜市八彦。この『白河夜船』は俺一人で切り盛りしている。見ての通り、うちの店は枕しか扱ってない」
話を聞きながら、一番近くに置いてあった枕の値段を眺めて、茜は目をむいた。最先端の高級体圧分散枕が、十は買える値段だ。
やっぱりここの枕は特別なのだろうか?
思わず手を伸ばして、そっと触ってみる。見かけは普通でも、中身は何か特殊な素材かもしれないと思ったからだ。
しかし、その感触は普通のパイプ枕である。茜は首をひねった。
枕の群れの向こうにそこだけぽうっと明かりの灯った、パーティションで仕切られただけの空間があった。
どうやらそこを事務所にしているらしい。その向こうに教会の名残として小さな演台が残っていたが、十字架はどこにもなかった。
事務所のスペースに茜を招きながら夜市が語る。
「うちはネットでの通販がほとんど。あとは馴染みの客だけだから、電気代を安くあげるために、ここ以外では電灯をつけずにやっているのさ」
ふと、茜は見慣れぬものがデスクの上にあるのに気づいた。金の雁首の煙管だ。
その脇には炭の入った陶器の火入れと、わずかに水の入った竹製の筒の灰吹きが載ったタバコ盆もある。すぐそばには白銀色の丸薬のようなものが入った袋もあった。きっとタバコの一種なのだろう。
こういった昔ながらの喫煙道具を、茜は高校の日本史の授業で習って、名前くらいは知っていたが、本物を直に見るのは初めてだった。思わずじっと見入ってしまった。
すると、夜市は警戒するように茜の視線を手で遮った。
「おっとこれには絶対に触るなよ」
「高価なものなんですか?」
いたずら好きの子供に対するような制し方をされて、茜がちょっとむっとして尋ねると、夜市は軽く首をそらした。
「さあな。あんたには関係のないことだ」
微かに夕暮れの陽射しがこぼれるステンドグラスの下で夜市は、整った、だが真意の見えぬ笑みを浮かべる。その笑みを見て、なぜだか茜はそれ以上、煙管について追及できなかった。
「あの……それで、私がやる仕事は何なんですか?」
代わりに茜はそう問いかける。
絶対この店には何か秘密がある。じゃなきゃ、ただの枕があんな値段で売れるわけがない。こんな家賃のかかる都会に店があって、枕だけで経営が成り立っているのもおかしい。
茜は強い疑問を感じながら、夜市を見つめた。
しかし夜市は髪を掻き上げながらさらりと茜の視線を受け流し、言った。
「ずいぶん仕事熱心だな。感心、感心。じゃあ、とりあえず事務の仕事でもやってもらおうかな」
が、こここからは茜にとっても夜市にとっても悪夢の時間になった。
「あんた、こんな簡単なタグ打ちもできないのか!」
「こらこら、そのデータをいじるな! グラフが変わっちまうだろ!」
「それを捨てるな! 伝票だぞ!」
「十部コピーって言っただろ! 何でこんなにコピーしてくれちゃってんだよ!」
「左上! 書類はみんな左上でとめるんだよ! そんなことも知らないのか!」
怒鳴りに怒鳴られ、数十分後には茜は頭を垂れていた。
やったことがない仕事とはいえ、なんでこんなにミスするんだろう……。
せっかく見つけた仕事なのに、これじゃあきっと雇ってもらえない。
「じゃあ、メインの仕事をしてもらおうか」
しかし、夜市にそう言われて、茜は気を取り直した。
どうやら夜市はまだチャンスをくれるらしい。
ここが踏ん張りどころだ!
すると、そんな茜を見て、夜市はニタリと笑い、事務室の奥の引き戸を開けた。
その光景を見て、茜は息を呑んだ。
そこは六畳ほどの和室で、真ん中に一組の布団が敷かれていたのだ。
これはもしかして……仕事ができなきゃ体で奉仕しろってこと!? 最低!
茜はそう考えて反射的に叫んだ。
「私帰ります!」
茜は慌てて踵を返すと、荷物を抱え立ち去ろうとした。
すると夜市は影のように音もなく、茜の前に回り込む。
「まあ、まあ。そう早合点しなさんな。見くびらんでもらいたいもんだな。俺は女には不自由してないよ。あんたには、うちの枕の感想を聞かせてもらいたいんだ」
せせら笑うように言われて、茜はまじまじと夜市の顔を見つめた。
怪し気な雰囲気はあるものの、夜市は確かに美男だ。むしろこういった雰囲気に惹かれる女性もいるかもしれない。女に不自由していないというのも、あながち嘘とは言えないだろう。
「……品質保持のために、枕のレビューしろっていうことですか?」
茜は半信半疑の顔で尋ねた。
「まあそんなところだな」
「けど、何も布団に入る必要はないんじゃないですか? 眠るわけでもないし……」
すると、夜市はあきれたように言った。
「眠るんだよ。枕っちゅうのは眠るためのものだろ。本当に眠らないでどうやって正確なコメントができるんだ?」
茜は絶句した。
得体の知れない男と二人きりの場で、いきなり眠れ? ありえない! こいつやっぱりエロいオッサンなんじゃないの?
すると、夜市はそんな茜の内心を見透かしたように笑った。
「何かするつもりなら、もうこの時点でしているさ。違うか?」
そう言われれば確かにそうだ。
この一時間足らずの間にも、茜と夜市はずっと二人きりだったし、パソコンの操作を教えてもらっている間など、息もかかるほどの近さだった。茜が寝るのを待つ必要は、夜市にはない。
思案する茜の目の前で、おもむろに夜市は、先ほどの金の雁首の煙管にタバコ盆の火入れの炭で火をつける。茜はタバコの匂いが苦手なのだが、不思議と夜市の煙管からは爽やかな良い香りがした。
「あんた、今日嫌なことがあったんだろう? 会ったときそういう顔してたぞ。で、理由はわからないが、バイトの話は渡りに船っていうところだったんじゃないか? なら、向こう岸まで渡ってみろよ。ちっとは違う自分になれるかもしれないぜ」
夜市はふうっと煙を吐き、ニタリと笑う。
「それとも今のままでいいのか?」
その言葉で茜は考えた。
このまま家に帰れば、今日はバイト二連敗、と心が半ば自動的に判定してしまう。そしてそうなれば、気持ちは更に俯き加減の度合いを深めるだろう。
それは絶対に避けたい。一発でもいい。パンチを返したい。
茜は無言で和室に入って、引き戸を閉めた。夜市は満足げにそれを見送った。
和室は部分的に会堂を改築して作ったものらしく、天井も低いし窓もない。
部屋の中にある家具と呼べるものはエアコンぐらいだ。愛想もない裸電球が、天井から一つぶら下がって灯っている。
茜は乱暴に掛け布団をはいだ。中に何か隠してあるかもしれないと思ったからだ。
しかし、何もなかった。じっと布団を観察し、手でまさぐって調べてみたが、特におかしなところはない。
枕もひっくり返してみるが、何の仕掛けもない。さきほど会堂の棚で見たパルプ枕と同じもののようだ。どこかに隠しカメラやなんかがあるかもしれないと和室の天井や壁も調べたが、そういったものは一切なかった。
どうやら本当に夜市は、眠ることだけを求めているようだ。
その証拠に、薄い壁で隔てただけの夜市のいる外側からは、何の物音もしてこなかった。寝付きやすくするために配慮してくれているのだろう。
壁にはハンガーがかかっていたので、茜は薄いグレーのスプリングコートを脱ごうとしてやめた。やっぱり少し怖い。
しばらく逡巡してから、結局茜はコートのまま布団に入った。夜市は文句を言うかもしれないが、これくらいは乙女の正当な権利だろう。電灯もつけたままにした。
こんな状況で眠れるかな?
茜はいぶかりながら体を横たえた。
けれども日頃の疲労のせいか、意外なほど早く眠りの波が茜の意識をさらい始めた。
バイト先での失敗や、今の不可思議な状況に思いをはせているうちに、疲れ切った体はゆっくりと弛緩して、眠りへと落ちて行った。
気がつくと茜は帆船で航海をしていた。
自分は何かを探して船旅をしている。だが、どうやっても目的の港に着くことができない。見渡す限り、三六〇度の大海原。海図と羅針盤以外に手がかりはない。そのうちお腹が減ってきた。船には食べ物はない。
これは困った。早く陸地にたどり着かねば。
そう考えた途端、港での歓迎パーティーに場面が切り替わった。皆が陽気に盛り上がっている。食べ物も一杯ある。むしゃむしゃとご馳走を頬張りながら、茜がグラスにジュースを注いでいると、視線を感じた。
振り向くと、ローブ姿の老人がこちらを見ている。顔はフードで見えない。
ああ。自分はこの人に会いたくて旅して来たんだ……!
唐突にそう茜は思ってその顔を見ようとすると、老人はくるりと踵を返して立ち去った。
茜はその老人の顔をどうしても確かめたくなって、後を追う。
しかし、友人に呼び止められ見失ってしまった。
老人を追いかけたかったはずなのに、茜はなぜかホッとしていた。微かな恐怖感の残り香が胸を覆っていた。
「そろそろ起きてもらおうかな」
突如かけられた声にハッとして、茜は目を覚ました。
目の前に夜市の整った顔があって悲鳴をあげそうになる。反射的に腕時計を見ると、夕方の五時を回っていた。
夜市は嬉しそうに腰に手を当てる。
「あんたなかなかやるな。普通見知らぬところで若い女がここまで熟睡できるもんじゃないぜ」
夜市に言われて、茜は慌てて布団から出た。
文句あんの! お望み通り眠ってやったんじゃない!
茜が内心そう罵倒してにらむと、夜市は茜の顔をじっと見てから、口元をぬぐう素振りを見せた。
よ、よだれ!? うそ!?
茜が焦ってとっさに自分の口元をぬぐうと、夜市はケケケと至極愉快そうに笑った。
「引っかかった」
からかわれたと気づき、茜は頬が真っ赤になるのを感じる。
なんなのよもう! 和室で眠らせたのも、こうやってバカにしたかっただけだったんだ! どうせダメなんでしょ! こんなとこ、二度と来るか!
茜がそう思って立ち上がろうとすると、夜市は意外な言葉を放った。
「合格だ」
「へ?」
狐につままれたような表情の茜に、夜市は真剣な顔で言った。
「あんた、合格だよ。明日から大学が終わったら来てくれ」
そうして、今日の分だと言って、封筒を茜に手渡した。
何が何やらわからず受け取った茜は、その日はそれで寝具店・白河夜船を後にした。