週末陰陽師 〜とある保険営業の来世サポート〜 立ち読み

 

 ぬるい風が強く吹いていた。
 黒い雲が慌ただしく流れて、その奥に白い雲がいくつか見える。昼までの大雨が嘘のように、雲間からきれいな夕焼けが出たが、その夕日も沈もうとしていた。
 十月下旬の小平市に台風が直撃したのは久しぶりのことだった。そのため、せっかくの日曜日なのに人影は少ない。
 空を流れる黒雲の一部が、漆黒の闇となって生ぬるい風にちぎれた。
 そのちぎれた雲はしばらく風に流されていたがやがて風に逆らって動き始めた。
 雲ではない。大きな烏だった。
 しばらく場所を確認するようにゆらゆらと飛んでいた烏が、目指す標的を見つけ、急降下する。ビロードのようにつややかな黒い羽の大烏が地面に激突するかと見えたそのとき、白い光がきらめく。その刹那、大烏が姿を消した。
 烏が降り立ったはずの場所には、代わりに風変わりな格好の三人の男女がいた。
 中心に立つ男は白い狩衣に立烏帽子を身につけていた。まるで平安時代からそのまま抜け出してきたような身なりである。年齢は二十代半ば。色白で、やや伏し目がちの切れ長の目はどこかこの世ならざるものをも見据える智慧の光が宿り、まっすぐな鼻筋と軽く引き結んだ口元が整っていて、ますます平安貴族のような印象を与えた。
 狩衣の袖を翻し、白く細い指を複雑に組んで印を結ぶ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
 男の澄んだ声が結界を張る。これによってこの三人の姿は常人に認識出来なくなった。
「真備くん、ありがとう」
 真備と呼ばれた男の横にいた女性が声をかけた。接し方からして男より年上であろう。白衣・緋袴に千早を羽織った巫女装束で、額には釵子を被っていた。ブラウンロングの髪さえもその装束の一部のように収まっている。白磁のような肌に赤い紅を差した柔らかそうな唇、形の良い顎、自信に満ちた瞳に整った眉。目が覚めるほどの美しい女性だった。
「ゆかり様、では」と最後の娘が、その女性に声をかけた。
 娘はまだ若い。十代後半程度だろう。こちらも白衣と緋袴に千早を身につけた巫女装束で、手には鉾先鈴を持っている。髪をサイドテールに結い、利発そうな顔立ちだったが、特に人の気を引くその目は、どこか遠いところを見つめているような深さを持っていた。
 台風の過ぎ去った日暮れ、小笠原真備、御子神ゆかり、そして式神の梨華は小平市内のとある家の前にいた。先ほどの大烏は梨華の変化で、真備とゆかりごとその姿を烏に変じてこの家まで飛んできたのであった。
 理由はただ一つ。
 この家に巣くう魔なるものを調伏するためである。
「梨華、お願い」とゆかりが声をかけると、式神の梨華が鈴を鳴らしながら神楽を舞い始めた。清らかな鈴の音が周りを清め、台風のもたらした湿気をも軽くするようだった。
「なるほど。大きな家ですね。ずいぶん古くからこの辺りに住んでいるんでしょうね」
 梨華の神楽の鈴を聞きながら、真備がゆかりに尋ねた。敷地でニワトリの鳴き声がする。独特の臭いもするから、ニワトリ小屋があるのだろう。
「裏手の農地も含めてすべて所有地らしいわね。この辺りの飛び込みをしていたときに気になっていたんだけど、やっと会えた途端、調伏対象だって分かったわ」
 ゆかりが敷地をぐるりと囲っている柊の葉にそっと触れる。悪霊や鬼を寄せ付けないための結界の名残だったのかもしれないが、住んでいる者たちが信じていなければ効力は限りなくゼロに近づく。
 真備とゆかりは東京郊外の小平市を中心に、平日はエメリー生命保険株式会社の営業マンとして飛び込み営業をしながら、霊的に問題のある家や悪霊で苦しめられている人を探し、週末にはその本来の力を使って悪霊調伏や生霊返しを行う陰陽師なのである。
 不倫問題で嫉妬や愛欲にまみれた人を翻弄している蛇の霊や、吝嗇の心に取り憑いた餓鬼霊、荒々しい仕事のなかで、闘争の世界に心を追いやってしまった人に憑依している阿修羅霊や鬼などを、人知れず祓っているのであった。
「姉弟子が、俺とふたりがかりでの調伏をお願いしてきて珍しいと思いましたけど」
 真備が懐から霊符を何枚か取り出した。
「結構、でかいですね」
「でしょ?」とゆかりが苦笑しながら、隙なく立つ。
「ちりも積もればってヤツよね。家の敷地全体がただの動物霊のたまり場と言うより、魔の障りである魔障をもたらしかねないってすごいわよね」
 本来、週末における調伏は、その家の魔物を見つけた方が担当する。しかし、今回、ゆかりが見つけたこの家は特殊だった。
 梨華の神楽によって家、庭、裏の畑、それら敷地全体から薄く白い布のようなものが浮き上がってきた。熱い鉄板に載せられた貝類のように蠢いている。
「これが全部、低級な悪霊や動物霊の類なんですよね」
 真備が呆れたような声を出す。台風で叩き落とされた葉のこもった臭いを遥かに圧倒する生ゴミのような臭いが立ちこめる。霊的な臭い、いわゆる地獄臭だった。
「特定の誰かのせいというよりも、古くからの家なので代々のしがらみがいろいろと積み重なっているみたいね。ここ何代かは結構若くして死んでる人が出てるみたいだし」
「集合霊の一種でしょうね。いや、もうここまでくると本物の魔や鬼がいつ来てもおかしくないレベルだ」
 真備が厳しい眼差しになる。その間にも真備は法力を練り上げ続けている。
「どうやる、真備くん?」
 ゆかりが問いかけた。その声は年下の弟弟子に対してではなく、圧倒的な実力者への畏敬の念がこもっている。
 鈴の音がひときわ大きく空気を震わせ、梨華が神楽を終えた。
 こびりついた汚れが水に浸かって浮き上がるように、集合霊が敷地から少し遊離している。
「まず、俺が大祓詞を唱えるので、姉弟子は不動明王の火炎で浄化してください。梨華は俺と姉弟子がふっ飛ばした破片を潰してくれ」
「真備くんの負担が大きくない? って、真備くんの陰陽師の実力なら愚問だったわね」
 ゆかりが両足を肩幅に開いて呪法の準備をした。
「あいあい」と答えた梨華が敷地の反対側に向けて走り出す。
 ゆかりが手にした霊符を投げつけた。
「のうまくさんまんだばざらだんかん」
 印を結んだゆかりが不動明王の真言を唱える。一切の魔を焼き尽くす火炎がゆかりから発される。火炎呪はゆかりの得意とする法力の一つ。踊るように火炎が動き、家の敷地をぐるぐると渦巻くように走り回る。集合霊が文字通りあぶられ、身をよじる。
 真備が厳しく周囲に息を吹き付けるように吐きながら、霊符を放って両手を印に結び、秘術を行ったあと、改めて別の印を結んだ。

「高天原に神留まり坐す皇が親神漏岐神漏美の命以て八百万神等を神集へに集へ賜ひ神議りに議り賜ひて―─」

 真備の澄んだ声が辺りに響く。渺々たる祝詞によって高天原の息吹が招かれ、集合霊の上に光が降りてくる。べったりとまとまっていた集合霊に亀裂が入り、蛇、犬、狐、狸といった個々の動物霊に分解されていく。人霊から動物霊に堕したものもいれば、双頭の大蛇の霊もいた。逃げようとするがゆかりが放つ不動明王の炎が巨大な城壁のように周囲を取り囲み、逃がすまいと燃え盛る。
 真備はさらに深く精神を統一し、個別の悪霊すべてを絡め取るように大祓詞で祓おうとする。
 葛藤、嫉妬、愚痴、暴力、呪詛、孤独、不信、殺意─。
 何代にも亘ってこの家にたまっていた愛憎のすべてを、真備は祓っていく。
 大祓詞が終わったところで真備がゆかりに促した。
「晴明桔梗」
 真備とゆかりが共に右手を刀印に結ぶ。
「バン・ウン・タラク・キリク・アクッ」
 ふたりが声を重ねて晴明桔梗、つまり五芒星を切る。
 この星は、天界の象徴、宇宙の秘儀を表し、悪を封印し、撃退するための力へと変える。
 真備たちの力による晴明桔梗が敷地全体を覆う規模で法力を放った。
 辺りの空気自体が浄化され、地獄臭が消え去っていく。
 目には見えないすさまじい法力の奔流に、この家に集まっていたすべての邪霊どもが一掃されたのだった。
 少しして梨華が帰ってきた。
「真備様、逃げようとした邪霊、見える範囲で叩き潰してきたよ」
「お疲れ、梨華」
 すべてが終わって、真備が緊張を解く。
「ありがとう。やっぱり真備くんに来てもらってよかったわ」
 ゆかりが女神のように微笑んだが、真備は息をついて言った。
「単体ではそれほどでもないとはいえ、あれだけ集まっていましたからね。もう少しだけここにとどまって、周囲の安定を見ておきましょうか」
 調伏にあたって、真備は最後の最後までとどめを刺す性格なのだった。
 三人でぐるりと敷地の周囲を歩いて一周する。
「平日の真備様の保険の仕事もこのくらいうまくいったらいいのにね」
「梨華、うるさい」
 真備と梨華の軽口の叩き合いにゆかりは思わず笑い声を上げる。
 だが、仮にいま悪霊が出現したら、真備も梨華も一瞬にして撃退するだろう。それだけの力はきちんと確保した上での漫才行為だった。
「うふふ。じゃあ、せっかくだからここで保険のお仕事の進捗確認でもしましょうか」
「マジですか」
 保険の仕事においてもゆかりは真備の先輩にあたるのだ。
「明日からの営業予定は?」
「えーっと……あ、木曜日に二条桜子さんの家に行きます」
 真備が出した名前に一瞬、ゆかりが考える顔になったが、すぐに思い出した。
「おおっ。桜子さんのところに行くんだ」
「海外で仕事しているお父さんが日本に一時帰国するんで、保険の話をして欲しいって」
「あの子、お父さんとの関係で心に傷を負って生霊となったりしたけど、小笠原くんに救ってもらったんだもんね。元気になって、お父さんとも仲良くなって、良かったわね」
 ゆかりが心の底から安心したように言った。仕事の話では名字を呼ぶルールだ。
「俺がしたことはそんなに大したことではないですけどね」
「謙遜しなくていいわよ。……あ、そうだ」
 ゆかりがとてもいいことを思いついたという笑顔になった。
「木曜日、私も同行しよう」
「えっ」
「何よ、何か都合が悪いことでもあるの?」
「いや、ないですけど」
「桜子さんのお父さんって教育関連のお仕事でしょ? 真面目な方だと思うから小笠原くんで粗相があってはいけないと思うの。小笠原くんの今月の営業成績にも貢献したいし」
 ゆかりがわざとらしく頬に手を当てて深刻そうな顔をした。
「……とにかく同行したいんですね」
「うん」相変わらずいい笑顔だった。
 真備はやれやれといった感じで肩をすくめた。
 次の瞬間、真備が鋭い目つきに一変する。
 ぱっとしない生命保険の営業マンの姿ではない。百鬼夜行をも一蹴する熟練の陰陽師の顔だ。
「悪霊退散、急急如律令ッ」
 素早く霊符を地面に叩きつけた。地面を這って逃げだそうとした悪霊を、稲妻のような素早い一撃のもとに地獄に送り返す。
「これで、全部かな」
 敷地を歩き切って、真備が全身で敷地中の様子を感得して呟いた。
「じゃあ、帰ろうか」
 梨華が頷き、真備とゆかりの背後に立つ。
 一瞬の間を置いて、三人の姿はかき消え、大きな烏が空に飛び立つ。
 敷地に飼われているニワトリが小さく鳴いて、眠りについた。
 真備たちが祓った家の居間に灯りが点く。何も知らない家族の楽しげな笑い声が、柊の垣根の外にまでかすかに響いてきた。


「こんにちは。エメリー生命の小笠原ですが、本日十三時にお約束していたのでお伺いしました─―」
『はいっ。はいはいはーいっ。お待ちしていましたー』
 若い女性の声で、喜び勇んだ返事が飛んできた。
 生命保険の営業で訪問しているのに、この対応はまずない。インターホンを押した真備は、思わず吹き出しそうになった。
 表札の「二条」の文字を眺めてネクタイを軽く直しながら、門扉をくぐる。この辺りではかなり大きな家だった。
 この家は真備が飛び込み営業で訪れたことのある家だったが、そのときは娘にしか会えていない。今日は初めて娘の父親、つまり一家のご主人に会えることになっていた。
 海外での仕事が一段落つき、一時帰国出来たのだという。
 生命保険の契約は、保険に入る人の署名が必要である。だから、この一時帰国のタイミングでせめて医療保険でもというのが、娘の意見だったのだ。
 そんなわけで今日は、紺色のスーツを着ている。真備の勤めるエメリー生命保険には飛び込みの営業マンもいるため、世間一般よりもひと月長く、十月いっぱいまではクールビズが許されている。しかし、相手は教育関連の仕事に就いているとのことなので、きちんとした服装を選んできていた。
 整った眉と切れ長の目、色白の肌。真備はスーツもよく似合うのだが、もっさりした前髪とメガネのおかげで垢抜けない素朴な印象の方が強く感じられる。狩衣を着た陰陽師姿の切れ味とは比べようもなかった。
 その前髪に隠れた額の汗をハンカチで押さえた。
 ここまで自転車を二十分程こいで来たこともあるが、それ以外の理由もあった。
 玄関前に来ると、扉の向こうからパタパタというスリッパの音が大きく聞こえる。続いて「すぐ出ますっ、いま出ますっ」とスリッパの主の女性の声がして、真備は同行してきたふたりの女性に苦笑した。
「元気そうね」と、まんまと同行したゆかりが真備の背後から声を掛けた。きらめくような美しい笑顔だった。
 ゆるやかにウェーブがかったブラウンロングの髪に、秋らしい色使いのスーツ。顔立ちはそれ自体が一級の芸術品のように整っていて、いかにも仕事が出来そうな颯爽とした美人だ。スタイルもたいていのモデルは裸足で逃げ出しそうなボディーラインと脚線美である。しかも真備と共にこの家まで自転車をこいで来ていて、汗一つかいていなかった。
 玄関のチェーンロックが外され、鍵を開ける音がした。
 ロングヘアを揺らして出てきたのは、清楚な若い女性だった。
 二十歳の大学生。「ぬばたまの」と言いたくなるようなしっとり濡れたようにつややかな黒髪と、色白でありながらほんのり桃色に染まった頬、薄い唇。そして線の細い姿が、深窓の令嬢を連想させる。羽織っているカーディガンもロングスカートも品があり、何より彼女の美しさを引き立てていた。大切に育てられてきたことがよく分かる。
「お待たせいたしまし─えっ!?」
 その女性、桜子は真備を見て絶句した。正しくは、真備の左隣に立つ人物を見て。
「真備、さん? その、隣にいるのは……」
「ははは……。さっきそこで一緒になってね」
 真備が鼻の頭を掻きながら苦笑いして、自分の左隣に立つ人物に顔を向けた。