百々とお狐の見習い巫女生活 立ち読み

 

「大おばあちゃん……もしかしてあれ、お稲荷さんだよね?」
「ほほほ、まあまあ、もしかしたらだなんて。正真正銘、稲荷神社ですよ」
 斜め向かいの赤い鳥居─そこは紛れもなく稲荷神社だった。
 一子は、下宿先前まで歩を進めると、旧型のチャイムを鳴らした。
 しばらく二人で待っていると、中でぱたぱたとスリッパの音がし、サンダルに履き替えるような音に変わると、すぐに木の引き戸が開かれた。
「まあ四屋敷の奥様! こんなところまで、ようこそおいでくださいました!」
 出てきたのは、小柄でふくよかな老婦人だった。聞いていた話では一子より若いはずなのに、腰が少し曲がってしまっていて、やや一子より年上の印象を与えている。
「あら、いやですよ、他人行儀は。本当にご無沙汰ねえ。あなたがこちらにお嫁にきて以来かしら」
 この家の主で、今は独り暮らしの老婦人は、結婚前は四屋敷のある地域に住んでいたのだということを、百々は事前に聞かされていた。老人であればあるほど、高齢であればあるほど、「四屋敷」の名は特別な効果を持っている。まさに、三つ葉葵の印籠のようである。
「この子なんですよ、お願いしたいのは」
 一子は、曾孫の百々を前に押し出した。
「えっと、加賀百々です。よろしくお願いします」
 挨拶しながら、まだ正式に跡継ぎになっていないけれど、「四屋敷百々」と名乗った方がよかったかしら、と百々は考えた。
「まあ! 四屋敷さんのこんな可愛らしい跡継ぎさんのお世話ができるなんて、光栄ですわ!」
 そこら辺も一子が話しておいてくれたのか、四屋敷の姓でなくても、老婦人からは何も言われなかった。
「こちら、東紀子さんですよ。以前はこちらで和菓子屋さんをされていたのですけれど、ご主人がお亡くなりになって、お店をたたんでしまわれたの」
 玄関こそ普通の引き戸に替えられているものの、こうして一歩入ると広い土間になっている。それはかつて店舗だったからなのかと、百々は納得した。
 七十を過ぎているであろう紀子は、見た目よりもしっかりした足取りで百々を二階に案内した。その間、一子は玄関先で待っていた。
 普段使っていないという二階は、綺麗に掃除されていた。
 八畳間が一つに六畳間が二つ。続きになっている六畳間を両方使ってくれてかまわないと言われたが、自分一人が暮らすのにそんなに広い空間はいらないと、百々は八畳間だけを借りた。それでも十分広い。畳も襖も障子も色褪せていたが、清潔だ。
 今日は挨拶に来ただけで、荷物を運び込むのは明日になる。
 二階から降りてくると、待っていた一子が「もう一ヶ所、ご挨拶に行きますよ」と言った。
 明日からよろしくと頭を下げ、東家を辞したあと、二人は斜め向かいにある稲荷神社に向かう。
「百々ちゃんがお世話になるんですもの。ご挨拶しておかないとねえ」
 一子は、さも当然という風に言ったが、百々には心配事があった。
 ポケットに手を入れ、中のものをきゅっと握り締める。
「あのね、あのね、大おばあちゃん」
 御守りを持ってきているのだと告げる前に一子が言葉を被せる。
「よかったわ。私がいるのといないのとでは、違いますもの。だったら、やっぱり今日のうちに一緒にご挨拶しておきましょうねえ」
 きっとこれも大おばあちゃんの予想通りなのだろうと、百々は苦笑した。一子の思い通りにならない人生などあるのだろうかと思うことがある。それほどまでに、曾祖母の運命は、彼女の望む方へと転がるのだ。
 ごめんね、香佑焔。居心地悪いよね。
 心の中で呟くと、握った御守りから“ちりり”とわずかな反応があった気がする。
 そして、二人は真っ赤な鳥居の前に立った。
 神社名を示す社号標には、幸野原稲荷神社と彫られている。深々と頭を下げると、鳥居をくぐった。
 手水舎は、鳥居をくぐったすぐ横にある。一子と百々は手を順に清め、それから口をすすいだ。神社での作法は、一子から習ってきた。それは、どこの神社に行っても変わらない。
 途端に、百々は鋭い視線を感じる。
「大おばあちゃ〜ん、やっぱり見られてる〜」
「ほほほ。当然ですよ。さあ、お詣りしましょうね」
 百々の言葉を当然と流し、一子は涼しい顔をして歩き出した。百々もそれにならう。
新潟市の中心にあり、近くに大きなホールや繁華街もある佐々多良神社に比べたらここは民家に囲まれ、規模はずっと小さいが、綺麗に掃き清められた神社だった。
 参道を歩いて拝殿の近くまで来たとき。
『止まれ、百々』
 すぐ側、まるで自分の身の内から響いたような声に、百々が足を止めた。その声は、百々にしか聞こえていないはずなのに、一子まで足を止める。
 その直後、異変が起きた。
 百々のスカートがぶわっと膨らんだかと思うと、ポケットから白いものが飛び出す。
 それは、百々の前で、一つの形となった。
 狐─―体は人間のようであるのに、その容姿はまさに狐。
 白地に金糸で紋様を縫い込んでいるかのような袍と袴姿。真っ白な髪の間から大きめの三角の二つの耳が、袍の裾を持ち上げるように袴の間の腰の部分からふさふさの二股の尾が、覗いていた。背は、百六十センチほどの百々が背後にすっぽり隠れてしまうほどである。
「香佑焔」
 そう名前を呼び、百々はきゅっと後ろから袍を掴んだ。一子は、突然現れた白い狐の異形に、眉一つ動かさない。
 やがて。
『我らが守護する地に』
『堕ちた眷族が立ち入ることまかりならん』
 拝殿の近くの狐の石像から、一迅の風と共に、二匹の狐が姿を現した。
 こちらは、百々の前にいる人形の狐より、獣の姿に近い。
 二匹は、威嚇するように百々たちを睨み付けてきた。その発する気は、怒りで満ちている。
「……香佑焔は堕ちてないもん」
 百々の眉が、へにょっと下がった。
 小さい頃から一緒にいてくれた大事な大事な友人。もはや家族も同然である狐の異形の香佑焔は、百々にとって大切な存在だ。なにも稲荷の神に仕える同じ狐同士でいがみ合うことなんてないのに、と百々は切なくなった。
「百々ちゃん。香佑焔様のことはなぁんにも心配ありませんからね?」
 にこにこと穏やかな笑顔を浮かべたままの一子が、百々に優しく声をかけた。
 そして、その表情を微塵も崩さないまま。

ぱぁん ぱぁん

 一子が二度、手を打ったその瞬間、境内の空気が変わった。
 周囲の音という音すべてを圧して消し去り、空間を変異させる。あまりに清白、あまりに冷徹。たった二回手を打っただけで、一子は神の領域である境内の内すら制圧した。神使を前にしてなお。
 二匹の狐が、びくりと体を震わせて数歩後ずさる。
「これなるは、四屋敷一子。『在巫女』のお役目をいただく者でございます。我が血筋に連なる曾孫の百々を連れてご挨拶にうかがいました。どうぞ、拝殿へお通しください」
 在巫女。
 在野にあって、巫女の役割を果たす者。
 神社という聖域に制約を受けない者。
 そこにいるだけで、神の領域を生み出し、神の力の一端を行使できる者。
 それが、四屋敷の代々の女当主に課せられてきた役目。
 八十を越えてなお、一子のその力は損なわれることも衰えることもなく、百々に引き継がれるのを待っている。
 大おばあちゃんの力、いつ見ても綺麗……これ、私もできるようになるのかなあ。
 曾祖母の静謐で壮絶な力に、百々は小さく息を漏らした。
 まだ、百々にこれほどの力はない。
 だがこの役目は、いずれ百々に繋がっていく。
 一子は静かに口を開いた。
「また、これなる香佑焔様は、一度は堕ちたる身なれど、この四屋敷一子により穢れをすべて落とし神使へと戻られました。今は、我が後継の守護を務めておられます。今ひとたびお願い申し上げます。どうぞ」
 一子が一歩前に出る。
 狐たちが下がる。
「どうぞ、我らに道をお空けください」
 拒めるものではなかった。
 お願い申し上げます、などと乞うような言葉を使っているが、そこに一切の妥協はない。通されないなどということは、許されないし赦さない。
 その言葉の強さに、狐たちは拝殿の真下まで後ずさった。
『何という力……人の身でありながら……』
『これが、四屋敷の力……』
 これ以上は下がれないというところまで下がり、さらに一子がもう一度手を打つような仕草を見せた途端、二匹の狐は声にならない悲鳴をあげて、一瞬で姿を消した。
 もちろん、一子が消し去ったわけではない。石像の中に逃げ込んだのだ。彼女が引き寄せ纏わせ放出する、神気を帯びた力のあまりの奔流に抗えず。
「あら、道を空けてくださいましたよ。さあさあ、お詣りしましょうか」
 こともなげにけろりと言う一子の姿に、百々は目をきらきらと輝かせ、香佑焔はため息をついた。
「力ずくで神使を押し退けおって。おまえはいつもそうだ」
「まあ、おほほほ。嫌ですよ、力ずくだなんて。れっきとしたお願いだったじゃあありませんか」
「大おばあちゃん、すごーい!」
「ほほほ。百々ちゃんもいずれこうして、お願いできるようになりますからね」
「百々……頼むから、これにあまり似てくれるな」
 尊敬する目で一子を見ている百々に懇願すると、香佑焔はしゅるりとポケットの中に入り込んだ。
 香佑焔は四屋敷の敷地内にある小さな社に住まい、修行のために家を出された百々を守るべく、今は百々の持つ小さな御守りに憑いて守護している。
 その香佑焔は過去に一度、神使の位より堕ちた。
 香佑焔は昔、小さな稲荷神社を護る神使だった。その神社は参拝する人間が絶え、廃社となり、忘れ去られ朽ちかけた。その上、心ない人間たちが境内で騒いで対になっていた狐の像を壊し、社でボヤ騒ぎまで起こした。
 勝手に祈り、勝手に捨て去り、惨い仕打ちを加える人間に、香佑焔は怒った。
 怒っただけではない。憎んだ。
 憎み恨み、その感情のまま人間を祟るようになり、邪霊悪霊の一歩手前まで堕ちた。
 それを再び神使まで引き上げたのが、一子である。
 一子は四屋敷家近くの古びた神社に香佑焔をおびき寄せ、そこに暴れ狂う彼を封印した。そして千日間もの間一度も休まずに拝み続ける千日行を成し遂げ、堕ちた香佑焔に神性を取り戻させたのだ。正常に戻った香佑焔に、一子が望んだのはただ一つ。

─―百々を─―
─―百々と、これからも続いていく四屋敷家の女当主たちを、守ってほしい─―

 乞い願われ、四屋敷の庭に建てられた小さな社に祀られ、香佑焔はそこを新たな住処とした。幼くして実父を亡くした百々にとって、寂しさにぐずっていた自分をあやしてくれた香佑焔は、父代わりとまではいかなくても、大切な家族なのだ。
「それにしても、少ぅし境内がピリピリしているみたいねえ」
 そう言いながら、一子は百々を伴って拝殿まで来た。きちんと掃除がされた境内、手入れの行き届いた拝殿。なのに、どことなくピリピリした空気─二匹のお狐様が香佑焔に過敏に反応した空気が、まだ続いている気がする。
 自分が香佑焔を連れてきたからか、もしくは四屋敷の当主である大おばあちゃんが来たからか、と百々は考えた。
 拝殿に向かい、二人揃って二度礼をし二度手を打つ。
 そのまま手を合わせ、百々は目を閉じて心の中で念じた。
 私は加賀百々と申します。いつも、私たちを見守ってくださってありがとうございます。斜め向かいの東さんのところで、お世話になることになりましたので、本日は、そのご挨拶に参りました。どうぞよろしくお願い致します―─。
 曾祖母から、神社で手を合わせるときに言われてきたこと。
 まず、名乗ること。それから、感謝すること。
「それはねえ。神様だって、いきなりお賽銭だって言ってお金投げつけられて、幸せにしてほしいだの合格させてくれだの言われてもねえ。はあ!? ってなるじゃあありませんか」
 そう教えられて、素直に受け入れた百々に、一子は続けた。
「名乗ることは、それはもう大事なことなの。特に、お相手が神様であるのならば、なおのこと。私たち在巫女は、神様の大いなるお力の一端をお借りするのですもの」
 他にも、言霊がどうの、真言がどうのと一子は教えてくれた。しかし、それを耳から聞くよりも、一子と共に神社に詣でることで、百々は体感していったのだ。
 百々が顔をあげてもう一度手を打つと、一子がにっこり微笑んだ。
「よくできました」
 その後、二人はこの神社の宮司宅を訪ねた。
 社務所の裏手、境内の横には宮司の自宅がある。どうやら自宅と社務所は繋がっているらしかった。
 一子の来訪に、宮司が慌てて出てきた。どの神社に行っても、「四屋敷」の名の効果は絶大だ。
 一子が百々を紹介すると、幸野和人と名乗った宮司は何かあったらいつでも来なさいと親切に言ってくれた。
 年齢は秀雄おじさんと同じくらいだけど、こちらの宮司さんはおっとりしてるなあと、百々は挨拶をしながら考えていた。
「あらあら、そんな不届きな方がいらっしゃいますの」
 一子の、無邪気な驚きの声が聞こえる。幸野宮司と一子が何か話しているらしい。その声に、散漫になっていた百々の意識が、二人の会話の方へ向く。
「そこいらの子供の悪戯なんでしょうが。困ったもんです」
 どんな悪戯か明言を避けた幸野宮司は、どうにも外聞を気にしている風だった。
 百々は、それが気になった。
 どんなことが、この神社で起こっているんだろう。もしかしてそれが、狐たちを過敏にしている原因なのではないだろうか。
 幼い頃から自分の近くにいて守ってくれている香佑焔が、ここの神使にあれだけ怒りを向けられたのだ。その悪戯とやらが原因でお狐様が殺気だっているのなら、何とかしたい。
 しかし一子がそれ以上深入りしなかったので、百々がしゃしゃり出て聞くのも憚られた。
─―そのうち機会があれば聞いてみよう。
 そんな曾孫の様子を、一子は感じていたのだろうが、何も言わなかった。