百貨店トワイライト おしゃべりシェパードと内緒の話 立ち読み

 

 今から遡ること一週間前──。
「いよいよ夏休みだねっ!」
 朝一番、姫撫子くんがキラッとまぶしい笑顔で、座っている私の前に顔を突き出してきたので、ボーッとしていた私は、危うく椅子から落っこちそうになった。
 教室はこれからまだ暑くなりそうな、ムッとした空気が漂っている。
 地元の難関私立校であるこの桐葉高校は、紳士淑女の卵が多く通う、初等部からのエスカレーター式の名門だ。
 もう少し時間が経たないとクーラーが教室全体に効かないので、普段この時間には私しかいない。日ごろ省エネで生活している奨学金目当ての外部入学者の私は、クーラーのない環境なんて慣れっこだが、育ちのいい持ち上がり組の彼がこんなに早く来るのは、珍しかった。
 彼はニコニコ笑って私の前の席の椅子をひき、勝手に腰を下ろすと、私を振り返る。
「おはよう、白藤さん」
 彼の名前は姫撫子青磁くん。私のクラスメイトでもあり、その華やかな容姿や、物怖じしない明るい性格で、学校のアイドル的存在でもある人気者だ。
 数か月前、園芸部員の彼が世話をしている花や苗が盗まれる事件があった。それを私が──というか、紫檀様が解決したことから、親しく話をするようになった。
 明るい茶色の髪をハーフアップにした彼は、朝でも元気良く、猫に似た大きな目は、キラキラと輝いている。
「……ビックリした……おはよう」
 私もしどろもどろになりながら、挨拶を返した。すると姫撫子くんはずい、と身を乗り出す。
「ねぇ、突然だけども、夏休みの予定ってもう決まってる?」
 夏休みまであと三日に迫った今日、学校内はフワフワとどこか浮ついた雰囲気になっている。基本富裕層だらけのここの生徒の間では、海外旅行がどうのとか、別荘がどうのという、苦学生の私には縁遠い話で持ち切りだ。
 姫撫子くんも海外旅行組だと思っていた私は、彼の質問の意味がよくわからないまま、答える。
「予定って……まぁ、いつものアルバイトがあるだけだけど」
「それって昼間?」
「ううん、夕方十七時から十九時までだよ」
「あーなるほど」
 姫撫子くんは、何がなるほどなのかわからないが、私の返事を聞いて、あごのあたりを撫でながらうなずいた。
「何か困った問題でもあるの?」
 彼がいつもよりかなり早い時間に登校してきたことと、関係があるかもしれない。
「ううん。困ってはないんだけど、ちょっとした提案があってさ」
 姫撫子くんは、椅子にまたがるようにして座りなおすと、内緒話をするように小声になった。
「ほら、藤吾くんって夏休みが終わったらイギリスに行くでしょ? その餞別の品を用意しようって思ってるんだけど、白藤さんもひとくちのらないかと思って」
 藤吾くんというのは、隣の隣のクラスの伊万里藤吾くんのこと。彼は姫撫子くんと同様に、私が窓口になって紫檀様に抱えていた謎を解いてもらった関係者だ。伊万里くんは夏が終わったら学校を辞め、ご両親が住んでいるイギリスに行くことになっている。
 ピアスに金髪という不良のテンプレートみたいな外見なのに猫に優しい彼のことを、私だって姫撫子くんと同じように友人だと思っているので、餞別の品を贈るというのならぜひ参加させてもらいたい。
「うん、のる」
 うなずくと、姫撫子くんの顔がパァッと明るくなった。
「じゃあついでにさ、俺の知り合いの店でアルバイトしない?」
「アルバイト?」
 私が聞き返すと、姫撫子くんは花が咲くような笑顔を浮かべる。
「そう。親からもらった小遣いでプレゼント買うよりも、夏休みにアルバイトしてそのお金で買ったほうが、俺も思い出になるかなーって思って」
「なるほど……確かにそうかもしれないね」
 私のような奨学金を貰っている生徒ならまだしも、姫撫子くんは持ち上がり組だ。アルバイトなんかしたことないのだろう。労働も素敵な夏の思い出というわけだ。
「だからさ、ね、一緒にやろうよ」
 姫撫子くんが、大きな目をキラキラさせながら、顔を近づけてくる。その様子から、かなりワクワクしている雰囲気が伝わってきた。
「うーん……」
 けれど、私は少し考え込んでしまった。
 正直言って、三日月家のアルバイトのおかげで、最近日々の生活にはかなり余裕がある。伊万里くんへの送別の品だって、おそらくねん出できる。だからわざわざアルバイトを増やさなくても、と思ったのだが──。
「バイト代、弾みますぜ旦那」
 姫撫子くんが悪巧みするような顔をしながら、親指をグッと立てた。
「──やります」
 お金はあるならあったほうがいいだろう。
 その言葉に、速攻で返事をしていた私を許して欲しい。

 その日、学校を終えて三日月邸に向かうと、空調が効いた玄関フロアで、マダムはお気に入りの緞通の上で手足を伸ばし寝そべっていた。
「こんばんは、マダム」
 周囲に人がいないのを確認し、彼女のもとにしゃがみこんで、挨拶をする。
『こんばんは、スズちゃん。最近日が長くなってきたから、いつまでも暑くて困るわね』
 マダムは背中を猫のように伸ばしながら立ち上がると、私を見上げてキチンと前足を揃えて座った。
 今日のマダムのリボンは、水色のオーガンジーだった。涼しげで、とてもよく似合ってたが、少し斜めに傾いている。それを指で整えていると、
『さっきまで、ここに子猫ちゃんがいたんですのよ。小野に連れて行かれましたけれど、わたくしのリボンを引っ張って遊んでいましたわ。あんなに暴れて、暑くないのかしら?』
 と、マダムが目を細める。
 伊万里くんから引き取った猫ちゃんたちは、私のアドバイスで子猫の生まれた季節から名前をとって、紫檀様に母猫は小春、子猫は皐月と名付けられ日々のんびりと過ごしている。マダムとも仲良くやっているようで、私としても一安心だ。
「でも夏はこれからですよ」
 玄関脇に置いてあるカゴからブラシを取り出し、マダムの背中を梳かしながら、ふとあることに気がついた。
「そうするとあれですね……散歩、もう少し遅いほうがいいんじゃないんですか?」
 自分は靴を履いているが、夏のアスファルトは肉球がヤケドするくらいに熱いはずだ。それにマダムは、地面から六十センチ程度の高さしかないのだから、夕方とはいえ、照り返しもきついだろう。
『そうねぇ……どちらかというと朝のほうがいいかもしれないけれど、それは申し訳ないわ。スズちゃんがわざわざ朝、うちまで来ないといけなくなってしまうもの。だから、お気持ちだけ受け取っておくわ』
 そしてマダムは私のブラッシングを気持ちよさそうに受けた後、『朗読の時間が終わるまで、敷地内を散歩してくるわね』と出て行ってしまった。
 うーん……。
 尻尾をフリフリしながら立ち去るマダムを見て、思わず考え込んでしまった。
 マダムはああ言ってくれたけれど、やっぱり気になる。
 マダムの肉球はきちんと手入れをされているからか、ぷにぷにで柔らかいし、日中太陽に照らされ続けたアスファルトは、さすがに熱すぎるのではないだろうか。
 それに姫撫子くんから誘われたアルバイトの一件もある……。
 玄関フロアにある柱時計をちらりと見て、朗読の時間が差し迫っていることに気がつき、そのまま階段を駆け上がった。

 夕方十七時を告げる時計の鐘の音を聞き終えて、私は三日月邸の四階にある紫檀様のライブラリーへと足を踏み入れる。
「失礼します」
 声をかけると、左手で頬杖をつき、物憂げに窓のほうを向いていた紫檀様がゆっくりと私のほうに顔を向ける。
 身長は百八十センチを優に超えるしなやかな長身。絹糸のような金色の髪がサラサラと額にかかっている。その前髪の奥には、赤や青、緑色の遊色に輝く瞳があり、長いまつ毛が頬に影を落とす。すっと高い鼻は上品で、その下のしっかりと引き結ばれた赤い唇からは、美しさ以上に、意志の強さを感じる。
 いつ見てもとても優美で、そして力強い。まるで宝石でできた天使みたいだ。
「紫檀様、今日はこれですか?」
 私はいつものソファーに腰を下ろし、目の前のローテーブルの上に重ねてある本の表紙を見つめて、手を伸ばす。
 志賀直哉の《暗夜行路》だった。
「いや、今日はいい」
「そうですか」
 本に伸ばしかけた手を、膝の上にのせた。
「──最近、何かなかったか」
 何かあるとは本気で思っていなさそうな、けだるげな声である。
「何か……って。そうですねぇ。夏休みになるから、ちょっとみんな浮足立ってる感じはします。うちはほとんどが付属の大学に進学するので、あまり勉強しなきゃって雰囲気もないですし」
「そうか」
 紫檀様は長いまつ毛を伏せて、びっくりするほど長い脚を、左右で組み替えた。
 なんとなくだけれど、紫檀様、ちょっぴり残念そうだ。
 私は学校内で一部生徒に『美少女探偵』なんて言われて面白がられているが、実は毎回謎を求め、一緒に考え、私にヒントをくれたり、解決しているのはこの紫檀様だ。
 紫檀様はこの三日月邸の敷地内から一歩も出ず、私を使ってあちこちに調査にやったり、聞き込みをさせたりしている。姫撫子くんや伊万里くん、そしてクラス委員の若桜真樹さんと親しくなったのは、そういった謎解きがきっかけだった。
 紫檀様は周囲には隠しているが、実はほとんど視力がない。
 昔から体が弱かった紫檀様が、財産目当ての信用ならない親族にそそのかされたりしないようにと、マダムと、紫檀様のお父様である和豊さんが周囲に隠していたこともあって、そのことを知っているのは、今や小野さんとマダムと私だけだ。
 学校にも行かず、ご両親から英才教育を受け、隔離された世界で生きていた紫檀様は、十四歳の時にそのご両親が亡くなられてから、三日月邸から出ることはなくなった。もともと感情も乏しかったらしく、私が出会った頃は完璧なロボットのような人だった。
 そんな紫檀様は、私との謎解きを通じて何か感じるものがあったらしい。曰く「他人を理解することが、己を理解するきっかけになる」とのことだ。そのため、常に私に『面白い出来事や不思議な事件』を持ってこいという態度を示し始めるようになった。
 それからさらにいくつかの事件を解決したが、紫檀様は知的好奇心の塊のような人なので、満足することもなく、時折私に「何かなかったか」と尋ねるのだ。
 少し落胆した様子の紫檀様に、思わず私はフォローの言葉を探す。
「あのですね、学校は行かなくなりますが、私、夏休みの間だけ短期アルバイトをすることになりましたので、そこで何か面白いことがあるかもしれないですよ」
「短期アルバイト?」
 私の言葉に、紫檀様は少し怪訝な表情になった。
「はい。姫撫子くんと一緒に、伊万里くんへのプレゼントを買おうという話になりまして。それで姫撫子くんのお知り合いのお店でアルバイトをすることになりました」
 そう話しながら、ふと気がついた。
「あの、紫檀様。それで、よかったらマダ……シュヴァルツの散歩の時間を早朝に変えてもらえないでしょうか。夕方はまだアスファルトは熱いですし、アルバイトに行く前にシュヴァルツの散歩をして、それからアルバイトに行って、朗読係としてここに来るっていうのはどうでしょう」
「──ふむ」
 紫檀様は私の提案を聞いて、目を伏せる。
 ブラックオパールの遊色に輝く瞳が瞼の下に隠れてしまった。
 そしてしばらくして、紫檀様は口を開く。
「確かに早朝の散歩のほうがいいだろうな」
「あ、本当ですか。よかった。では今日の帰りにでも、小野さんに時間変更を伝えておきますね」
 どうやら私の提案は受け入れてもらえそうだ。
 これでマダムの肉球は守られる。私はホッと胸を撫でおろしていた。
「いや待て、白藤鈴蘭」
 紫檀様は片手をあげて、それからゆっくりと目を開ける。
「もっと効率のいい時間の使い方がある」
「というと?」
 いったいどういうことだろうと首をかしげると、紫檀様は耳を疑うような言葉を口にしたのだ。
「夏休みの間、ここに住めばいい」
「──はい?」
 今、なんと?
 紫檀様の発言に理解が及ばず、目が点になる。
「ここに住め。そうすればシュヴァルツの散歩も、私の朗読係も、融通が利かせられるだろう」
 紫檀様はどこか満足げに小さくうなずくと、ソファーの背もたれから体を起こした。そして彼の右に置いてあった丸テーブルの上のベルを掴むと、チリンと鳴らす。
 それは執事である小野さんを呼ぶ合図だ。
 えっ……ええっ……ええーっ!
 ぽかんと口を開けた私は、そこでようやく言葉の意味を呑みこんだが、驚きのあまり何も言うことができない。
 それからすぐに小野さんがライブラリーにやってきて、紫檀様が私をここに夏休みの間住まわせることを告げると、小野さんの顔色が笑顔のまま、サーッと青ざめた。
 小野さんは表面上にこやかに紫檀様の話を聞いていたが、ソファーの上で硬直している私を見下ろして、眼鏡の奥の瞳をカッ! と見開いた。
 殺される……!
 本気で身の危険を感じた瞬間だった。