高く澄んだ秋空の下、菅原麻衣はひとり緊張していた。
その視線の先には、三階建て鉄筋コンクリートの建造物。入口正面には、『東京都城北区立詩島図書館』と書かれた金属プレートが鈍く光っている。その武骨で飾り気の一切ない無味乾燥な外観は、まさに公共施設の見本といった佇まいだ。
自動ドアの横に貼られたカエルのイラストすら、お役所的な感情の読めない笑顔を浮かべている。
食欲の秋。スポーツの秋。芸術の秋。行楽の秋。そして─読書の秋。
一般的に、秋というのは気候もよく、何かを始めるのにはうってつけの季節とされている。
知的好奇心を擽る図書館という場所は、ある意味で秋に旬を迎える施設といえるだろう。
けれど、今はその窓には分厚いカーテンが引かれ、ひっそりとしていた。少なくとも、人の気配は感じられない。
麻衣は何度も目の前の建物を見上げては、手に持ったメモと見比べた。それは慎重を期すというよりも、自身を落ち着かせる儀式のようなものだ。そうすることで、少しだけ冷静になれる気がしていた。
これは大学三年の頃に身に付いてしまった癖だ。自分でも馬鹿げているとは思うが止められない。
─―菅原さん……でしたっけ?
ああ、まただ。
頭の中でいつもの声が響く。何かを始めようとする度に、この声が自分の邪魔をしてくるのだ。そして、心臓がぎゅーっと硬くなり、上手く呼吸ができなくなる。
駆け巡る嫌悪感に、体が蝕まれてしまいそうだ。
─―あなた、今まで何してきたの? 無駄な人生送ってきたのね。中身がスカスカじゃない。
どうして会ったばかりの人間に、そこまでいわれなければならないのだろう。
─―正直要らないんだよね、君みたいな人間。何もかも中途半端でさ。
うるさい! うるさい! うるさい! あんたに私の何が分かるっていうのよ!
忌々しい記憶を振り払おうと、再度空を仰ごうとしたその時、静かな朝の路上に馴染みのある電子音が響く。
麻衣は驚いて目を見開くと、慌てて鞄の中からスマートフォンを取り出した。気もそぞろだったせいか、マナーモードに設定するのをうっかり忘れていたようだ。
画面にはメールの受信通知が表示されている。相手は河野夏海だ。
こんな時間に何の用事だろうと、麻衣は不思議に思いながらメールを開く。
『迷わずちゃんと着けた? いよいよ就職の秋だね! 初出勤がんばって!』
不安に押し潰されそうになっている麻衣の気持ちを察してか、そこには短いながらも励ましの言葉が並んでいた。無機質なフォントの中に、夏海の温かさが隠れている気がして、張り詰めていた緊張が少しずつ和らいでゆく。
夏海と麻衣のふたりは幼い頃からいつも一緒だ。家が近所だったのもあるが、親同士仲が良かったのも大きい。控えめで大人しい麻衣にとって、社交的でしっかり者の夏海は、同級生でありながら姉のような存在だった。
学校こそ違うけれど、揃って東京の大学に進学。そのため、上京後もふたりの関係は変わらない。
むしろ、今年の春からはルームシェアを始めたので、さらに距離が縮まったくらいだ。
「それにしても『就職の秋』ってのは、ちょっと強引……」
苦笑いで呟くと、麻衣は左腕の時計に目を向けた。時刻は八時十分。ちょうどよい時刻だ。
覚悟を決めたようにゆっくりと深呼吸をすると、裏手にある通用口へと向かう。
正面玄関から裏手へと回り込んだ所に、通用口はひっそりと存在していた。ちょうど街路樹の陰に隠れていて、どこか湿っぽく陰気な雰囲気を漂わせている。
テンキーロックの蓋を開け、事前に聞いていた暗証番号を入力した。『ピピッ』と機械的な電子音が鳴り、問題なく解錠したことを告げる。
ひんやりとした鉄製のノブを回すと、想像したよりも軽く通用口は開いた。
中は薄暗く、外観よりもさらに地味で殺風景な空間が広がっている。左側にはゴミの一時収集場、右側には簡易給湯室。そして、リノリウムの廊下の先には防火扉。きっとあそこから館内へと出入りをするのだろう。力を入れて扉を押すと、経年劣化した蝶番が軋んだ音を立てゆっくりと防火扉が開く。
その先は、図書館入口前のロビーへと繋がっていた。傘立てやチラシラック、防犯ゲート等が並べられた愛想のない空間だ。そこを正面にして、図書館の入口が設えられている。
シャッターが三分の二程度開かれた図書館内を、麻衣は興味本位で覗いてみた。
まだ薄暗く、電気は点いていない。けれど、高窓から帯状に陽光が差し込み、埃がきらきらと舞っている。その光景はどこか厳かで、見る者の心を幻想的な気持ちにさせた。
本が音を吸収してしまうせいか、館内は必要以上にしんと静まり返っている。まるで雪が積もった日の朝のような静けさだ。
これは、関係者だけが目にできる光景なのだろう。そう思うと、背筋がしゃんと伸びた気がした。
その荘厳な情景をいつまでも眺めていたかったけれど、そういう訳にもいかない。
エレベーター横に貼られた案内板を確認すると、麻衣は事務所のある三階を目指し階段を上った。
「おはよう。菅原さん」
麻衣が事務所の扉を開けると、受付カウンターから待ち構えていたように声が掛かった。
声の主は四十代前半くらいの女性だ。前髪を伸ばした知的な印象のミディアムボブで、グレーのパンツスーツに身を包んでいる。声や表情は穏やかなのに、なんとなく近寄りがたい雰囲気だ。細く整えられた眉と薄い唇が、そう思わせるのだろうか。
この女性とは、採用試験の際に一度顔を合わせている。就活に失敗し続けて、やぶれかぶれの気持ちで受けた面接の担当者だったのだ。今思い返しても、当時は相当やつれた顔をしていたと思う。
そんな酷い状態だったのに、彼女は麻衣の顔を見た瞬間、「いつから働ける? あなたがよければ、うちへいらっしゃい」といってくれたのだ。
正社員雇用でないとはいえ、こんなにあっさりと採用されるなんて予想もしていなかった。気まぐれに弄ばれているのかとも思った。けれど、その言葉は確実に麻衣の心の琴線に触れた。疲れ果てていた心に、優しい音色が響いたのだ。
後日、正式に採用通知が届き、晴れて麻衣は詩島図書館の配属となった。
「おはようございます。あの、今日からお世話になります。よろしくお願いします」
心構えもできぬうちに話し掛けられたので、そう返事をするのが精一杯だった。
「菅原さん……私たちは今日から同僚よ? 『お世話になる』なんて挨拶は良くないわ。お互い支え合って頑張りましょう。ね?」
困ったような笑顔で小首を傾げると、女性は麻衣の目を見てにっこりと微笑む。
「マネージャーの吉見彩です。事務所での作業が多いので、フロアにはあまり下りないのだけれど、何かあったら気軽に相談してね。それから……あそこに座っているのが館長」
彩の指し示す方向に視線を移すと、白髪交じりの男性がお茶をすすっていた。事務所全体が見渡せる壁側中央の席だ。
『図書館の自由に関する宣言』と書かれたポスターを背景にして、館長はお茶を楽しむのに全神経を集中している。まるでこちらに注意を向ける気配はない。
見かねた彩が咳払いをすると、ようやく気付いて湯飲みから視線を上げた。
「どうもー、館長ですー。よろしくねー」
おっとりした口調でそういうと、館長は人畜無害そうな笑顔を浮かべた。五十代前半くらいだろうか? けれど、白髪の目立つ頭髪や、余裕のある立ち振る舞いを見ると、もう少し上なのかも知れない。反面、無邪気な笑顔には、少年のようなあどけなさも残っている。
年齢不詳だし、名前も不明。館長の自己紹介は、まったく自己紹介になっていない。ただ何となくお茶を濁しただけだ。
けれど、積極的に知りたい情報も特にないので、麻衣は当たり障りのない返事を選ぶ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
麻衣がぺこりと頭を下げると同時に、彩は後方にある扉に目を向けた。事務所の隅、麻衣が立っている位置からだと対角線上に当たる場所だ。
「後で案内するけれど、あの向こうには更衣室と書庫があるの。そろそろ早番のみんなも着替えて終わって─あ、ほら来た、来た」
彩の言葉通り、紺色のエプロンを着用した人々が談笑しながら事務所に入ってくる。事務所といっても机や作業台や棚が所狭しと並べられていて、お世辞にも広いとはいえない空間だ。そこに新たに三人が加わって、事務所はさらに窮屈さを増してゆく。
「あ! もしかして、この人が昨日いってた新人さんっすか?」
麻衣の存在に気付くなり、事務所に入ってきた青年が彩に尋ねた。
麻衣と同年代くらい─二十代前半だろうか。全体的にヒョロッとしたシルエットが特徴的な人物だ。似顔絵なら目も鼻も口も線で描けそうな、そんなあっさりとした顔立ちをしている。特徴がないのが特徴的、というようなある種個性に満ちた顔だ。
身長は平均的なものの、色白で胸板が薄く、猫背なこともあってどこか頼りない雰囲気をしている。
「そうよ、今日からうちで一緒に仕事をしてもらう菅原麻衣さん」
「す、菅原です。よろしくお願いします」
先刻と同じ要領で、麻衣はぺこりと頭を下げる。
「へぇー菅原さんね。自分は鮎川智也っす。雑誌と視聴覚の担当をしてるんで、何かあったらいって下さいねっ!」
そういって智也はニィィと口角を上げた。糸目はより一層細くなり、大きな口と相まってまるで狐のお面のようだ。
「それで、菅原さんの得意分野は?」
「得意分野……ですか?」
急に得意分野と聞かれても、何のことだか分からない。麻衣は返答に困ってしまう。
「図書館で働くからには、本が好きなんすよね? したら得意分野ってもんがあるでしょうよ。それとも、オールジャンルいける口っすか? それはそれで凄いっすけど!」
興味を抑えきれずマシンガントークを続ける智也に、麻衣はすっかり気圧されてしまう。
「えっと……ごめんなさい。あの、本はあまり読まなくて。その……漫画なら多少は……」
とっさにそう返してしまったが、実際は漫画もそれほど詳しくはない。
ここで働こうと思ったのは、勤務場所が『家から近いから』という合理的な理由からで、応募のきっかけも何気なく求人を目にしただけに過ぎない。だから、図書館で働くことに特別な思い入れもないし、自分が本を好きかどうかなんて、考える発想すら持ち合わせてはいなかったのだ。
そもそも麻衣には、長期に渡ってここで働くつもりは毛頭ない。あくまでも、きちんと就職するための繋ぎのつもりだ。
「えええ……じゃあ、特に興味ないけど働くってことっすか?」
「……すみません」
明らかに落胆した智也の顔を見て、麻衣は思わず謝ってしまった。
「いや、別に謝る必要もないんすけどね、ただ辛くないのかな? って」
智也の真意が汲み取れず、麻衣は不思議そうに首を傾げる。
「ほら、自分の場合で例えると、全然運動が好きじゃないのにスポーツクラブで働くことに決める─みたいな感じじゃないっすか? それって想像するとキッツいなーって思って。だって絶対楽しくないし、続けるの無理っすもん」
スポーツクラブで働く智也を、麻衣は想像してみた。
色白で病弱そうな彼が、筋骨隆々のインストラクターに混ざり仕事をしている─それは端から見たら、「なぜここで働いてるの?」と疑問に思うだろう。そこまで説明されて、初めて智也の主張を理解した。
それと同時に、自分と智也の仕事に対する姿勢のギャップも感じた。
麻衣にとって、仕事というのはつまらなくて当たり前、耐えることが当然の理だと考えていたからだ。それ故、仕事に興味も楽しさも求めたことはなかった。
それなのに、智也は楽しくないと仕事は続けられないと語る。これは少なからずカルチャーショックだった。
「それに図書館の仕事ってイメージ以上にやることあるんすよ? 給料だって恐ろしく少ないし……好きじゃなきゃ、やってらんな─―」
「はい! はい! はい! 新人をビビらすのはそこまで!」
いつまでも負の情報を垂れ流す智也に、隣の女性からストップが入った。
「ごめんなさいね。この子、後輩ができたから嬉しくなっちゃったみたいで……悪気はないんだけど、素で性格が悪いのよ。許してあげてね? 私は五十嵐菜穂。児童担当やってます。主婦なので出勤はみんなより少ないんだけど、一緒の時はよろしく、麻衣ちゃん」
菜穂と名乗る人物はそういってにっこりと笑った。
年齢は三十代半ば、髪は明るいショートボブ。ナチュラルな風合いのボーダーチュニックで、紺色エプロンをラフに合わせている。おしゃれなカフェの店員みたいだ。快活に喋る姿はとても気さくで、初対面で名前を呼ばれても不快感は抱かなかった。
「……素で性格が悪い、なんてあんまりな言い草じゃないですかーっ!」
不服そうに智也が頬を膨らますが、菜穂を始め、誰も気に留める様子はない。
「菜穂さんはね、お子さんがふたりいるの。それにね、前職は保育士さんだったのよ。おはなし会なんてもう、凄いんだから!」
彩が口元で手を合わせ、心底尊敬した表情で菜穂を称えた。菜穂は「嫌だ、もう! 褒め過ぎだから」と照れてはいるが、満更でもない表情を浮かべている。それを聞いていたもうひとりの若い男性スタッフが、彩の意見に同調した。