あとがき

 

 図書室を出てすぐに、天文部の吉川先輩に声をかけられた。
「この間の木星の写真、できたってよ。見に行かね?」
「ああ、はい」
 天文部といっても、三年生が卒業した今、部員はたったの六名。新入部員を規定の十人以上集めなければ、天文部は解散となる。俺たちは四月に行なわれる入学式に合わせて、ポスターやチラシ作りに余念がなかった。
「やっぱインパクトだよなー。そういう点では土星の方がいいと思ったんだけど、あのボケボケじゃあな。もっと大口径の望遠鏡欲しいよなー」
「俺は月も悪くないと思います。モノクロだとかなりきれいに写りますし。あ、昨夜プリントアウトしたのを……」
 階段の途中で立ち止まり、背負っていたバッグパックを下ろす。昨夜は月齢二・五。近くに金星もあって、いいツーショットが撮れたのだ。だが。
「あれ? 確かに持ってきたはずなんだけど……」
 あ。たぶん、図書室だ。先輩には先に行ってもらい、俺は慌てて図書室へと引き返した。さっき座っていた机を目指す。一番奥の壁際。
 そこに、先客がいた。同じ一年の女子生徒が一人、俺が忘れていった写真を見ていた。俺は彼女をとてもよく知っている。
「えー、〈てんのうみに〉……」
 おしい。そこは〈あめのみ〉が正解。
 確か万葉集だったな、と思い出したら気になって、写真の裏側に一首書き留めたのはつい先ほどのこと。
 まだ浅い春の夕暮れは駆け足で、茜色から群青へと変わっていく。彼女の足元にも長い影をつくっていた。声をかけようか迷っていると「あ」と、彼女の大きな目が僕を見つけた。
「服部くん……、だったよね? これ、服部くんの?」
「ああ、うん。そう」
「すごくきれいだね、この月。もしかしてこれも服部くんが?」
 くるりと写真を裏返した彼女に、俺は笑いながら首を横に振った。
「それ、万葉集。ほら」と、窓の外を指差した。そこにはまだ白い、上弦の三日月が浮かんでいた。
「あ、本当だ。舟に見えるかも」
 嬉しそうに笑う彼女の首筋にも、そろそろと夜の気配が忍び込み始めた。
「でも……」と、彼女は少し考えるように小首を傾げて言った。
「猫が空を爪で引っ掻いたようにも見えるね」
 その時「ナッツ! 帰ろう」と、彼女の友だちが図書室の出入り口で呼んだ。
「うん! じゃあね、服部くん」
「ああ、また」
 ふわりと、走り去る彼女の空気が僕のそばを通り過ぎた。
 猫の爪……。確かに。
 俺の手の甲にも、かすかに薄紅の三日月がある。
 一昨日、性懲りもなく俺の部屋に入り込んだ飼い猫に引っ掻かれたのだ。
 かさぶたができていて、何となくむず痒い。
天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ 柿本人麻呂


 最後の最後までご尽力頂きました担当のHさんと編集部の皆さん。抒情的で素敵な装丁画を描いて下さったpon-marshさま、ありがとうございました。
 何よりも、この本を手に取って下さった皆さま。本当にありがとうございます。また次の本でもお目にかかれますように。

太秦あを