花屋の倅と寺息子 高爪統吾と心霊スポット 立ち読み

 

 大橋先輩を見送ってから二時間後。とある空き講の時間にて、俺たちはいつも通り学生会館の二階でくつろいでいた。種岡とさとりんが談笑している中、俺は窓から見える紅葉を眺めながらぼーっとしていた。
「おーい」
 種岡が俺の顔の前で手を振る。隣でさとりんも「大丈夫かこいつ」と俺を心配していたが、それでも俺の魂は散歩に出かけたまま帰ってこない。さっき会った大橋先輩の姿が頭から離れなかったからだ。それに、明らかに動揺していた牧穂も。
 二人の間に何かあったのだろうか。大橋先輩は確実に落ち込んでいたし、牧穂も気まずそうだった。それに─―俺は視てしまった。
「……ちょっといいか?」
 その声に俺の意識はすぐさま戻り、勢いよく振り向いた。そこには今まさに一番会いたかった人─大橋先輩がいた。でも、なぜか彼の目はどこか虚ろで、元気がない。
 突然現れた大橋先輩にさとりんも種岡も不思議そうな顔をしていた。
「えっと、どちら様?」
 そう尋ねる種岡に大橋先輩はすぐに名乗った。
「経済学科二年の大橋だ。統吾とはサークルが同じなんだ」
「ああ、軽音サークルの」
 大橋先輩を見て、種岡は合点がいったかのように手を叩く。
 でも、呑気に自己紹介なんてしている場合ではなさそうだと俺は思った。大橋先輩の顔は真っ青で、今にも倒れてしまいそうだったからだ。
「一体どうしたんですか」
 とりあえず彼に座ってもらうために俺は椅子を引いた。さとりんたちは「サークルの話なら」と席を立とうとしたが、それを大橋先輩が止めた。
「よかったら、君たちも聞いてくれないかな……」
 大橋先輩は暗い顔のまま椅子に座る。その彼が発している重々しい空気から見てどうやらただ事ではないようだ。
「関係ないお前を巻き込むなんて本当に悪いと思ってる……でもだめなんだ。他の奴らに言っても引かれるだけだし、旭なんて目も合わせてくれない。もうお前しかいないんだよ」
 そう言いながら大橋先輩は俺たちを縋るように見つめる。けれど、そのざっくりとした話では何一つ本題が見えてこない。かと言ってこんな状態の彼を放っておく訳にはいかないだろう。
「俺らでよければ、相談にのりますよ」
 俺は俯く彼の顔を覗き込んだ。気まずそうな空気が流れる中、やがて大橋先輩は意を決したように俺たちに語り始めた。
「お前ら、隣町の廃墟知ってるか?」
「はいきょ?」
 突然の彼の発言に、つい表情が固まる。でも、大橋先輩はそんな俺の気も知らずに話を続けた。
「今から四、五年前か……その家で一家心中事件があったんだ。父親が家族を皆殺しにして、そして自殺……いや、一人は生き残ったんだっけな」
 彼の話を聞いているうちに俺から血の気がサーッと引いていく。間違いない、これは怪談だ。
「待ってください! なんでいきなり怖い話なんか始めるんですか!」
 怪談が苦手な俺は両耳を塞ぎながら抗議する。でも、大橋先輩は「いや、本当にあった事件だ」と断言する。けれど、断言したからこそ、これから話される話にいい予感がしなかった。種岡もこの異様な空気を察し始めているし、さとりんにいたっては大橋先輩をじっと睨みつけていた。
 その緊迫した中で、ついに大橋先輩は俺たちに告げた。
「……そこに肝試しに行ったんだ」
「は?」
 その発言に俺の眉がぴくりと上がる。恐怖よりも先に怒りの感情が出てきた。肝試しとかひと時の悪ふざけで幽霊たちの住み家を荒らすだなんて、死にに行くようなものだ。幽霊たちの怒りを買わないはずがないではないか。
「なんてことをしてるんですか!」
 机を叩き、声を荒らげる……はずだった。
 だが、その前に大橋先輩は鈍い衝撃音と共に椅子ごと吹っ飛ばされていた。突然の出来事に俺は目が点になった。横を見るとさとりんが席から立ち上がり、拳をぶらんと下げていた。 さとりんが大橋先輩の顔面を拳で殴ったことに気づくのに、俺も種岡も時間を要してしまった。
「何してんだよお前は……」
 ぎろりと血走った目で睨むさとりんは、そのまま先輩の胸倉を掴む。大橋先輩の発言がさとりんの逆鱗に触れたらしい。いや、もしかしたら初めから彼の導火線には火が点いていたのかもしれない。
「霊の怒りを買うようなことをやった癖に、助けて、だ? ふざけたこと言ってんじゃねえぞ!!」
 さとりんの怒鳴り声に、大橋先輩は目を?いたままあんぐりと口を開けた。この展開に誰よりもついていけなかったのは彼だったかもしれない。でも、この状態はまずい。さとりんは殺気にまみれ、いつ大橋先輩をタコ殴りにするかわからない。このままだと、大橋先輩が本気で死んでしまう!
 それは種岡も察知したのか、俺らは一斉に鬼気迫るさとりんに飛びかかった。
「悟! 落ち着けって!!」
「逃げて先輩! 超逃げて!!」
 剣道で鍛えぬかれた彼の肉体を止めるのは二人がかりでないと無理だ。俺が前からさとりんの腰にしがみつき、後ろから種岡が羽交い締めにする。それでやっと大橋先輩をさとりんから救い出すことができた。
 大橋先輩はケホッと小さく咳をし、服装を整える。
「わ、悪い、出直すわ」
 そう言って大橋先輩はそそくさと退散した。でも、その体は小刻みに震えており、完全にさとりんに怯えているのが見て取れた。
 気がつけば、周囲の学生たちの視線は俺らに集まっていた。さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだ。視線が痛い。
「おい、もう離せ」
 低いトーンで、さとりんが種岡に言う。さっきよりは落ち着いているが、まだ彼の気持ちは収まってはいない。その証拠に今でも空気がびりびりするような怒りが伝わってくる。そのオーラに負けた種岡は手を離し、さとりんと距離を取るように退いた。だが、さとりんは何事もなかったかのように座る。
「悟……?」
 恐る恐る俺は彼の名前を呼んだ。このシリアスになった空気の中、とても普段の呼び名では呼べなかった。じゃないと、多分今度は俺が殴られる。
 彼は意外と短気だ。だからすぐ手が出るし、よく怒る。でも、ここまで激怒する彼を見たことがあっただろうか。
 名前を呼んでも悟は返事をしない。そのまま机に両肘をつき、ぐしゃっと髪を握る。
「腐ってやがる」
 そう舌打ちして呟く彼に、俺たちはかける言葉が見つからなかった。
 そんな俺のほうに、悟が向き直る。
「お前はどうするんだ……統吾」
「え?」
 いきなり名前を呼ばれ、俺の思考は止まる。彼は真剣な目つきで俺を見つめてきた。
「お前は、あんな奴でも助けたいのか?」
 射抜くような視線のまま、彼は言う。
「初めて会った時、お前、言ってたよな? 『困っている人がいるのに見て見ぬふりをするなんて、自分のプライドが許さないんだ』って」
 俺はドキッとした。確かにそれは俺が彼に言った言葉だけど、今、このタイミングで持ち出されるとは思わなかったからだ。悟は構わず続けた。
「肝試しなんてふざけたことをやったんだ。どうなるかなんて俺の知ったこっちゃない。でも俺なら自分の家が知らない奴に勝手に荒らされたら、キレる」
 その低い声の鋭さが、彼の怒りを表していた。
 彼の言い分に俺は何も言い返せなかった。
 俺は大橋先輩と部室ですれ違った時から、彼の異変に気づいていたからだ。恨みと怒りが複雑に入り混じった気が大橋先輩に纏わりついていたことに……だからこそ彼が気になって仕方がなかった。
 悟だって視えていたはずだ。だから彼も大橋先輩のやらかした行動を察していた。
 たとえ幽霊になったとしても、人間だった頃の感情は変わらない。そして幽霊が憤怒した時どうなるかということを、大橋先輩は知らない。いや、俺だって知らない。どうなるのかが怖くて、今までずっと避けてきたのだ。幽霊が視える俺たちだからこそ、知っている恐怖があるのだ。
 悟の言うことは正論だ。今回は大橋先輩が間違っている。だけど……。
「お前は誰を助けたいんだ?」
 彼の言葉が一つ一つ、胸に突き刺さる。大橋先輩の肩を持つと幽霊はさらに荒ぶるだろう。けれども、このまま放っておくと大橋先輩が危ない。
 俺は机に額をつけるほど苦悶した。
 俺は誰を助けたいんだろう。
 先輩に居場所を荒らされた幽霊? それとも先輩?
 わからない。本当にわからない。
 そんな俺の様子を悟は氷柱のように冷たく、鋭い目つきで黙ったまま見つめている。
「統吾……」
 種岡が苦しげに名を呼ぶ。
「俺は……」
 びっくりするほど、声に力が入らない。それは、俺がこの先進むであろう、険しい道のりを暗示していたからだと思う。大橋先輩に直接憑いている訳ではないのにあそこまで異様な気を纏わせているということは、とんでもないいわくつきの霊が廃墟にはいるのだろう。そうなると、関わった俺もどうなるかわからない。
 それでも俺は、貪欲でいたい。
「俺は……どっちも助けたい」
 俺は弱々しく、それでも悟に届くようにそう答えた。
 すると彼は「……そうか」と呟きながらスッと目を閉じた。そして椅子を引き、床に置いていた荷物を肩にかける。
「勝手にやれよ。付き合いきれない」
「おい、悟!!」
 そんな彼の態度にいても立ってもいられなくなったように種岡が、悟の肩を?拙む。だが、それもすぐ悟に払われた。
「俺の命は、そんな腐った奴のためにかけるほど安くはないんでね」
 悟はそう言い捨て、振り向きもせずに去って行く。種岡は立ち去る悟をただ呆然と見ていた。
 俺は顔を上げることができないまま、悟の足音がどんどん遠ざかるのを聞いていた。
 これを人は仲間割れや喧嘩というのだろうか。喧嘩なんて、お互いの価値観の押し付け合いだと思っていた。そしてそれは、俺たちには無縁だと思っていたのに。
 俺はぎゅっと拳を握る。
 これまで悟に頼っていたツケがここで来たのだろうか。今まで正反対だからこそお互い支え合ってきたと思っていたが、どうやらそれは俺の思い込みだったらしい。むしろ、今までよく俺に付き合ってくれたものだ。
 そんな感傷に浸っても、事態が最悪なのは変わりない。廃墟だろ? 心霊スポットだろ? 幽霊がいっぱいいるんだろ!?
 それを悟なしで行けとか、光の玉なしでラスボス倒すのと同じだよ!
「どうしよう種岡〜……」
 俺はがっくりと項垂れたまま動けなかった。俺だってできることなら行きたくない。でも、あんなやばいもの見てしまったら大橋先輩を放っておけない。
 俺の中の相反する思いが天秤のように揺れ動く。すると、それを傍観できなくなったのか、種岡がついに動き出した。
「しっかりしろよ、情けない」
 種岡は活を入れるために、パシンと俺の頭を叩いた。
「あいつなしでもやれることをここで証明してやれよ! 悟がなんだってんだこの野郎!!」
 種岡はそう気合いたっぷりに吠える。そしてぐっと俺の両肩を?拙み、叱?するような鋭い声で俺に言った。
「俺も行くから、もう一度先輩の話聞きに行こうぜ」
「種岡……」
 俯いた顔を上げると、種岡がニッと歯を見せ笑う。
「どうせ俺、視えないから怖くないし」
 その言葉に、急に目頭が熱くなってきた。
「ありがとう種岡」
「いいって。お互い様だろ?」
 種岡は立ち上がり、慰めるように俺の肩をぽんっと叩いた。
 ただ、立ち上がったその膝は明らかに爆笑している。だが俺は敢えて突っ込まない。なぜなら俺の膝も相当震えていたから。
 本当に俺たちだけで大丈夫だろうか。今から先行きがかなり不安だった。