あとがき

 

 残業をして、いつもより三時間ほど遅い帰宅になったある冬の夜のこと、私は寒さに震えながら帰路を急いでいた。時間が時間なだけに、私以外誰もバスから降りなかった。自分の足音だけが、コツコツとアスファルトに響き、街灯は等間隔についてはいるが、赤くぼんやりと光っているさまはディストピアじみていて、無機質なのに不気味な雰囲気があった。
 私が住む町は昔ながらの古い住宅地と、バブル期以降、宅地開発で山を切り開いて作られた新興住宅地とが一本の川によって分断されており、その川にはたくさんの橋が架かっていて、町の住人は住んでいるエリアによって橋を使い分けていた。
 当時、古い住宅地に住んでいた私が使う橋は、ひまわり橋だった。正式名称は違う。けれど橋にはタイル風でひまわりの絵が描かれているので、小さいころからひまわり橋と呼んでいた。おそらくどの橋も耐震構造上、揺れる造りになっているのだろう。その夜のひまわり橋は強風にあおられ、特によく揺れていた。
 私は幼いころから妄想が激しく、残念ながら、いい大人になった今でもありとあらゆる場面でくだらない妄想をしている。その時のテンションによって、時代劇だったり、ミステリーだったり、ライトノベルだったり、恋愛小説だったりする。
 ちなみにこういう時の私は、とても人様には見せられない、通報レベルの気持ちの悪い顔をしているので、冬はマスクがあって助かる。
 そんな風に妄想をしながら、あちらとこちらの町の境界線である川の上の、ひまわり橋を残り三分の一としたところで、私は白い塊のような何かを前方に発見して、立ち竦んだ。
(い、犬神様ーっ!)
 それはどこをどう見ても、国民的アニメの「もの〇け姫」に出てくるような、真っ白な犬神様の様相で、この世のものとは思えなかった。
(いいものを見た……せっかくだからもっとよく見よう。そしてネタにしよう)
 そんなことを考えながら歩き始めたところで、
「こんばんはー!」
 なんと犬神様が、威厳あるお姿とはおよそ似つかわしくない雰囲気で、私に向かって声を掛けてきたのだった。
(しゃべった!)
 息をのむ私の前に、犬神様は尻尾をフリフリ近づいてきたのだが――その背後にはダウンコートを着た、ごっついリードを持った女性が立っていた。
 なんてことはない。散歩中の犬とその飼い主だった。
「こんばんは、きれいな犬ですね」
 挨拶をした流れで話を聞いてみると、白くて大きなその犬は、ホワイトスイスシェパードという犬種らしい。
 私は女性に許可をもらって犬を撫でさせてもらい、お礼を言って自宅に帰った。
 そしてしゃべる犬神様という私の恥ずかしい勘違いは、この小説で、「マダム」という存在として生まれ変わった。
 残業で遅くなった夜は、またあの白いシェパードに会えないかなと考えているけれど、残念ながらその機会はいまだ訪れていない。

あさぎ千夜春