普段は決して足を踏み入れない高級住宅地の、長い長い坂を登っていると、その先に高さ五メートルはありそうな門が見える。門の脇についているインターフォンを押すと、しばらくして閂が外れる音がする。さらに門をくぐり、色とりどりの花と緑が植えられた庭園を通り抜ける。
そして到着した先にある、長い年月にさらされ一種の風格すらある玄関のドアは、執事の小野さんの手によって開けられる。
それから私はサルーン──玄関広間に通され、そこにある来客用の椅子に座る。サルーンには凝った装飾が施された暖炉や、代々の当主の肖像画があって、これはいつ見ても興味深い。
三日月家のお屋敷は、この街一番の高級住宅地である高台の、これまた一番見晴らしの良い場所にある。建物の外観は英国様式の古い貴族の洋館だ。明治時代、本当に英国の建築家を呼んで作らせたのだとか。
そもそも明治どころか、三日月家は何百年も昔から、この街全体を領地としていたらしい。それだけでもすごいのに、それも領地のたった一部だったというのだから驚きだ。だから今でも、三日月の名前の付いたビルは街じゅうの至るところにある。三日月家はいわゆる大地主というわけだ。素人目にも、きっと莫大な不動産収入で、子々孫々まで食べていけるんだろうなということが想像できる。
椅子から立って玄関広間のそばにある大きな窓から街を見下ろす。
全てがおもちゃみたい。いや、この窓から見える一角に築二十年の我が家があるわけだけど、実際ここに比べたら犬小屋以下のおもちゃに違いないわけで……。格差社会と嘆くつもりもないが、ここまでくるとあまりにも差がありすぎてまるで現実味がない。
『スズちゃん、どうなさったの? 窓の外を見ながらボンヤリして。もしかして疲れていらっしゃるの?』
物思いにふけっていた私に、マダムが話しかけてくる。
彼女はどうやら庭にいたらしい。背中のあたりに葉っぱがついていたので、それを指で取り除きながら首を振った。
「いえマダム。大丈夫です。ただ、ここから街を見下ろしてると、何もかも作り物みたいに見えて」
『そう。でもわたくしは、ここから街並みを見るのが好き。たくさんの灯りがついて、その数だけ……いえそれ以上に人が生きて生活しているのだわって、とてもあったかい気持ちになれるんですの』
マダムは穏やかな雰囲気で私が立つ窓辺に寄り添うように近づき、器用に立ち上がると前足を窓のふちにかける。その横顔は凛として美しく、とても気高く感じた。
まぁ、実際のところはどう見てもシェパード犬だけど、私は彼女を犬のシュヴァルツとは思っていない。マダムはマダムだ。
『そうよ、夕食までいてくださったらいいわ。そうしたら夜景が楽しめてよ?』
彼女が立ち上がると私とそう目線が変わらないので、会話をしている感がとても強くなる。名案と言わんばかりに私に顔を向けるマダムの黒い瞳は、シャンデリアの明かりにキラキラと輝いていた。
だが私は苦笑してマダムの申し出を断った。
「私のアルバイトは夕方の十七時から十九時までの二時間ですから、ちゃんと時間通りに帰らないと。そういう契約ですし」
『まぁっ……小野も融通が利かないわねぇ。困ったこと』
ふうっとため息をつき、マダムは二階へと続く螺旋階段の下にある柱時計を振り返る。
『五分前よ、スズちゃん』
「はい、ではまた一時間後に」
ぺこりと頭を下げて、上へと続く螺旋階段を登る。目指すは最上階の四階だ。
三日月家のお屋敷は四階建てで、一階の端に、東京の高級百貨店にあるような素敵なエレベーターもついているのだが、私はお客様ではないので使えないことになっている。
ただ私としては過去新聞配達で鍛えられた健脚が自慢であることと、優雅な手すりに触れながら螺旋階段を登るのは気分がいいことで、階段を使うことに全く異存はない。
トントンとリズムよく四階まで上がりきると、急に視界が開ける。天井まで届く大きな窓がずらりと並んでいて、外が一望できるのだ。この屋敷じゅうの、おそらく何十とある窓のカーテンは毎朝七時に開けられ、夜の二十時には閉められるらしい。
ちなみにそれをするのは三日月家の執事である小野さん。今日も、私を屋敷に迎え入れた後はまたどこかに行ってしまった。
小野さんは時間にとてもうるさい。一分一秒だって、予定がずれることを許さない。私が時間の五分前までサルーンで待機しているのはそのせいだ。まぁそれもすべては、この三日月家の御曹司のため、なのだけど。
四階の長い廊下の一番奥、南向きの部屋の前に立ち、腕時計を確認する。ちなみに私の腕時計も、自動的に時間が合う電波時計だから一秒の狂いもない。
ご、よん、さん……。
秒針を確認しながら大きなドアをノックする。
「紫檀様、白藤鈴蘭です」
言い終えると同時に、扉の向こうからボーン、ボーン……と、十七時を告げる柱時計の音が聞こえる。
そして、「入れ」と入室を許可する低い声。
ここに来るようになって今日で十日目。紫檀様の声はとても低くて、体に響く気がするからいつまで経っても慣れる気がしない。
まぁ、迫力があるのは声だけじゃないんだけど……。
「失礼します」
緊張しながらドアを開けると、目の前に広がるのは紫檀様が一日を過ごすライブラリーだ。ただ、本格的な図書室は別にあるらしいので、ここは書斎兼私室といったところか。
二十畳くらいの部屋はグルッと天井まで届く本棚に囲まれていて、部屋の真ん中あたりに、ソファセットが一つ。天井は高く丸いアーチを描いていて、見上げれば天使のステンドグラスがはめ込まれている。そこに太陽の光があたると、キラキラと輝いて、無垢の木の床に虹色の模様を作るのだ。
そして、窓際のひとり用ソファに座っている紫檀様のそばには、お茶のワゴンや丸テーブルがある。
相変わらずここは下界とは別世界で、芸術的センスがまるでないと自覚している私でも、感嘆のため息を漏らしそうになる。それを飲み込み、紫檀様の横顔を見つめながら前に進み、彼の前に立った。
「白藤鈴蘭、土の匂いがするな」
紫檀様は、毎日違うフルオーダーの三つ揃えでソファにゆったりと座り、長い脚を組み、左手で頬杖をついて右手側の窓の外を眺めていた。紫檀様のいつものスタイルだが、いくら見ても見飽きるということがない。あのドアを開けて入るたび、紫檀様の彫刻のような美しい横顔や、座っている姿に見とれてしまうのだ。
私はいつものように一瞬呆けながらも、紫檀様の言葉を繰り返した。
「つち、ですか?」
「ああ、そうだ」
紫檀様は肯定し、明らかに私の次の言葉を待っている。
こうなるときちんとした答えを出して納得していただくしかないので、記憶を少し巻き戻すことにした。
つち、土……。何かあっただろうか……。
「えっと……あ、そうだ! そういえばお昼休みに学校の花壇に行きました。園芸部が花をくれるというので、それで」
「なるほど。昨晩は雨が降っていたので花壇の付近はぬかるんでいた。汚れに気づかないままここに来た。だから肥料の混じった土の匂いがするのだ」
「すみません……」
「なぜ謝る」
「お屋敷の廊下を汚したと思います」
そもそも三日月邸は、玄関で汚れを落としてはいるが、土足がはばかられるレベルの美しい屋敷なのだ。
「それは気にしなくていい。お前の職務とは違う」
そこで初めて紫檀様は顔を上げ、私に視線を向けた。
琥珀色に輝く金髪の奥からブラックオパールの瞳がのぞく。黒の中にオレンジやグリーンの遊色が揺らめいて、妖しいほど美しくきらめいている。
初めて三日月家に来て紫檀様のお顔を見たとき、あまりの迫力に倒れそうになった。世の中にはこんなにド迫力美男子がいるのかと、心底びっくりしたのだ。
ただ彼自身は自分の美しさを全く、これっぽっちだって理解していないのだけども……。
「今日は何を読みましょうか」
「テーブルの一番上の本を」
紫檀様が部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上を指さす。
「はい」
持っていた通学バッグをソファの下に置き、指示された本を取ってソファに腰を下ろした。
「オスカー・ワイルドの短編集ですね」
私への問いかけの答えなのか、紫檀様は無言で長いまつげを伏せ、ブラックオパールの瞳を隠してしまった。これで間違いないと思っていいみたいだ。
さっそく本の表紙をめくり、文字に目を走らせた。
「──昔々、とある街の上にある高い柱の上に、幸福の王子の像が立っていました……」
最後まで一文字一文字ゆっくりと読み終えて、何気なく壁にかかっている大きな柱時計を見ると、まもなく夕方の十八時になろうとしていた。読書の時間は終わりだ。
とにかく紫檀様は時間通りに生活される。起床、就寝の時間はもちろんのこと、お茶の時間、お風呂の時間、トレーニングの時間などなど、何から何まできっちり決めて行動するらしい。執事の小野さんからも、決して紫檀様のスケジュールを乱さないよう、雇ってもらった際に長い契約書を交わし、その後も再三の忠告を受けている。
「白藤鈴蘭、紅茶を飲むといい」
「ありがとうございます」
紫檀様は手元をまったく見ずに左手でポットを掴むと、慣れた様子でカップに紅茶を注ぐ。いつもならこれは執事の小野さんの仕事なのだが、今日は紫檀様自らの接待だ。
私は立ち上がってワゴンの上の紅茶をとり、またソファに戻る。
紅茶はティーバッグでしか飲まないから、この紅茶がなんなのか全くわからないのだけれど、とにかくいい匂いがしてとても美味しい。紅茶を飲み終えると、柱時計がちょうど時間を告げた。
空になったティーカップを目の前のローテーブルに置く。
「ごちそうさまでした。失礼します」
「ああ」
紫檀様は物思いにふける様子で窓の外に顔を向けていた。
何を考えてるんだろう……。
一瞬気を取られてしまったが、私から紫檀様に話しかけるのは違反行為だ。しかも何を考えてるんですかなんて、聞けるはずがない。すぐに立ち上がって即座に部屋を出る。
とにかく時間厳守だ。モタモタしていると小野さんに怒られてしまう。
駆け足で階段を降りると、サルーンにマダムが寝そべっているのが見えた。私の姿を発見すると、ピンと耳を立てて体を起こす。
『お疲れ様、スズちゃん』
「お待たせしました、マダム。お散歩に行きましょう。一応リードをつけますね」
『構わなくってよ。でないとスズちゃんが叱られてしまいますものね』
馬具を作っているメーカーの特注らしい、柔らかなレザーでできたリードを玄関に置いてあるカゴから取り出し、マダムにつけて三日月邸を後にする。
散歩道は彼女の行きたいように、だ。ただ、彼女と会話しながらだと、一般的には私がペラペラ独り言を言っているように思われてしまうので、極力人目は避けての散歩になってしまうのだけど。
私は十日前からこうして、平日十七時から十八時までは紫檀様の朗読係、そして毎日十八時から十九時まではマダムとお散歩をするアルバイトをしている。これで日給五千円と、驚くほどいいので、苦学生の身分としては本当にありがたい。
『スズちゃん、今日の紫檀はどうだった?』
アスファルトの上を爪音をチャリチャリ言わせながら歩くマダムに正直に答える。
「オスカー・ワイルドの《幸福の王子》を読みました」
『まぁっ、わたくし、あれ辛気臭くて大嫌いだわ!』
マダムは身を震わせながら空を見上げた。本当に嫌そうだ。
オスカー・ワイルドの《幸福の王子》。
宝石でできた王子は身を削って貧しいものを助け、それを助けたツバメは力尽きて冬の寒さに耐え切れず死ぬ。ふたりは現世で認められることなく路上で朽ち果てる……。
確かに辛気臭いと言えば辛気臭いかも。
「あ、そういえば紫檀様、紅茶を淹れてくれましたよ。あと、私から土の匂いがするってズバリ言い当てられてびっくりしました」
『紫檀は視力以外の感覚がとても発達しているの。それに紅茶を淹れるのに限らず、屋敷の中でのことはなんでもできるよう、幼い頃から小野が厳しく教え込んだから、大抵の人間は目が見えないなんて気づかないんですわ』
「ああ、なるほど……」
私はリードを持つ手を見つめた。
紫檀様はまるで、宝石でできた王子様だ。
彼の瞳はサファイアではなくオパールだけども、本当にきれいで、海外の古い絵本に出てきそうな、繊細なタッチで描かれた王子様そのものだと思う。
そんな彼には──三日月家には大きな秘密がある。