喫茶ルパンで秘密の会議 立ち読み

 

 ゴールデンウィークが終わって、いつも通りの日常が戻ってきた。外回りのサラリーマンや町内を散歩してきたというお年寄りで賑わうルパンも例外ではない。
 珠美が三時頃に製菓学校を終えてルパンにやってくると、カウンター席で富さんがコーヒーを飲んでいた。
「ただいま。富さんいらっしゃい」
「あら、珠美ちゃんおかえり。学校どうだった?」
 富さんは誰よりも珠美の上達を気にかけてくれている。
「いい感じだよ。ちょっとコツがわかってきた気がするんだ」
「それは頼もしいね。そうだ、来月はチーズケーキが食べたいわ」
「わかった。楽しみにしてて」
 コーヒー代をカウンターに置くと、富さんは店番の時間だと言って帰っていった。
「おじいちゃん、見た? 富さん昨日とは別人みたいだね」
「あれでもさっきまでは落ち込んでたんだ。昨夜はなかなか眠れなかったらしい」
 富さんでもそんなことがあるのかと驚いた。けれどずっと近くで生活してきた仲の良い友達の家が強盗に入られたりしたら、落ち着いていられないのも無理はない。珠美には心配をかけないように、気丈に見せていたのかもしれない。
 ようやく静かになったルパンで、珠美はカウンター席に座る。
 製菓学校から直行してアルバイトをする前に、おやつ代わりに食べるトーストは、毎度のことながら格別だった。近くのパン屋が毎朝焼き立てを持ってきてくれる食パンを、厚めに切ってほんの少し焼く。そしてバターをたっぷり塗った上に、イチゴジャムやマーマレードを好みで載せて。サクッとした表面と中のもっちりした食感がたまらない。
 至福のひととき、と頬を緩めていたのもつかの間。カウンターに置かれた新聞の記事に目が釘付けになった。そこには「星が丘で空き巣発生」と書かれていた。
「おじいちゃん、今度は空き巣だって。最近強盗とか空き巣とか多いね」
 テレビ画面の向こうの出来事のように日々やり過ごしてきたけれど、こうも近くで連続で起きるとやはり気味が悪い。トーストをかじり、いつものカフェオレを飲みながら、おじいちゃんが幸せそうにコーヒーを淹れている姿に視線を移した。
「物騒だな。珠美も学校の行き帰りは気を付けなさい」
「うん。あ、星が丘って佳代の家のあたりかも」
 住所を細かくは覚えていないけれど、電車に乗ればひと駅の距離にある星が丘は、親友の佳代が住んでいるところだった。梅が丘といい、星が丘といい、このあたりで丘とつく場所は豪邸が建ち並んでいて、彼女の家も例外なく大きな家だったのを覚えている。初めて佳代の家に入ったときは吹き抜けの玄関に驚いた。下町育ちの珠美とは住む世界が違うと思ったものだ。
「佳代ちゃんの家じゃないといいがな」
「うん。でもゴールデンウィークで旅行中に入られたんだって。犯人と鉢合わせしなかったのが不幸中の幸いだよね」
 おじいちゃんの言葉に、新聞の文字を目で追いながら珠美は答える。
 犯人と鉢合わせしたために殺された、そんな話もよくあると聞く。昨日先生が読んでいた資料にも、強盗と鉢合わせした住人がケガを負わされたと書いてあった。
 そこまで思ってふと親友の佳代も、ゴールデンウィークは旅行すると言っていたことを思い出した。確か行先は北海道だったと聞いている。とはいえゴールデンウィークに旅行に行く家庭など、日本中に何万もある。そう珠美は自分に言い聞かせてみるけれど、一度思いついてしまうと胸がドキドキと早鐘を打った。
 昨日の午後、商店街の時計店に押し入った強盗と鉢合わせした正蔵がケガをしたばかりなのも、その胸が騒ぐ理由のひとつだった。
 救急車に乗って付き添った骨董品店の柴田から、たいしたケガではないと連絡をもらうまで、生きた心地がしなかった。珠美のおじいちゃんだって、店を放り出して駆けつけようとしたくらいだ。大切な人になにかあったら辛い。
 そんなことを考えながら、トーストを食べ終える。開いていた新聞を綺麗に畳み、制服に着替えてエプロンをつけると、珠美はおじいちゃんから渡された淹れたてのコーヒーを一番奥のテーブル席に運ぶ。
「先生、お待たせしました」
「ありがとう」
 パソコンから顔を上げた先生は、コーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込んで、微笑んでからカップに口をつけた。
「たまには自分の家で書かないんですか」
 狭い店内で、毎日毎日テーブルをひとつ占領して、先生はパソコンに向かい小説を書いている。基本的にお年寄りの常連客ばかりで、満席になることの少ないこの小さな店には、これほど若い客は先生と珠美の友人だけ。だからおじいちゃんが喜んでいるので、あまりうるさく言わないようにしている。しかしそれをいいことに入り浸るのはどうかと思う。
 ただ、一日に何杯もコーヒーの出前を運ばせられるよりはまし。そんなことになったらポットで持っていってやろうと思っているのは先生には内緒だ。
「ここが一番落ち着くんだよね。美味しいコーヒーも飲めるし。家には事件が落ちてないし。それにたまみんが一生懸命コーヒーを淹れる練習をしてる姿って、健気でぐっとくるんだよ」
 珠美は思わず渋い顔になる。おじいちゃんのコーヒーを褒めてくれるのは嬉しいけれど、「家には事件が落ちてない」と言われても、こんなレトロな喫茶店にだって事件など落ちているわけがない。それに練習に必死で先生がコーヒーを淹れる姿を見ているとは思わなかった。
「ここに事件なんて落ちてると思います?」
「いや、わからないよ。常連さんたちの話の中にだって、ヒントは紛れ込んでいるかもしれないでしょ」
 そういえば先生は、以前この店を舞台にした探偵小説を書いたと聞いたことがある。
「だけど人の話に聞き耳立てないでくださいよ」
「そりゃ無理だよ。皆さん、耳が遠いせいか声が大きいんだもん」
 この喫茶ルパンはおじいちゃんの友達や町内会の人たちの憩いの場で、利用客の平均年齢は七十五歳くらいらしい。最高齢は八十六歳。先月ここでお誕生日会をしていたから間違いない。
 元気なのはいいことだけれど、年々耳が遠くなっていらっしゃるのは確かだ。
 後、たまに集まる母の友達の主婦層なんかは、耳はいいけれどテンションが上がると声が大きくなる。みんなあの歳になるとそうなるものなのだろうか。仮にも飲食店にたまにお菓子を持ってくるときは正直引くけれど、おじいちゃんがなにも言わないのでそのままにしている。
「でも先生も気を付けないと。あんまり家を留守にしてると、泥棒に入られますよ」
 ふとさっき読んでいた新聞の記事を思い出した。町内のほとんどの人が、日中先生が家を留守にしていることを知っている。いつも窓際の席に座っているから、ルパンにいることも。先生の担当編集者に至っては、ずいぶん前から家に行かずにここに直接来るくらいだ。
「大丈夫だよ。盗られるものなんてないから」
「そんなのわかりませんよ」
 先生の家に入ったことはないけれど、売れっ子作家なら狙われても不思議はない。
「どうしても盗みたいなら、締め切りを盗んでいって欲しいけどね」
 先生が真剣な表情でそんな風に言い出したときは笑いそうになった。それが本当の願いなのだろう。けれどそんなもの盗れるわけがない。締め切りに追われる人気作家も、想像以上に大変だということだ。
「そんなこと言ってると、書いたばかりの原稿盗られちゃいますよ」
「それは洒落にならないって言いたいところだけど、書けてないから大丈夫」
 冗談で言ったのに、なんとも情けない返事が返ってきた。胸を張って言うことかどうかはさておき、笑顔で言い切る先生にさすがに笑ってしまった。
「あ、出版社の人だ」
「ウソ! いないって言って!」
 さらにいたずら心で窓の外を指さすと、先生はどれだけ編集者が怖いのか、慌ててテーブルの下に隠れる。その姿は本当におかしかった。一八〇センチはゆうに超えているだろう身長をいくら折り曲げたところで、頭が全然隠れていない。そんなに怖いならちゃんと期日までに作品を書き上げればいいのにとさえ思う。
「冗談ですよ」
「もぅ、勘弁してよ。たまみん……イテッ」
 先生はおでこをテーブルの角にぶつけながら立ち上がった。おでこを擦りながら、担当編集者がいないとわかって安心したのだろう。鼻歌を歌いながら、パソコンの前に再度腰を下ろした。
 しかも三十歳のおじさんのくせに、テーブルに頬杖をついて上目遣いで珠美を見てくる。そうすれば珠美が黙ると思っているからずるい。実際、珠美は先生のこの甘えたような表情には弱くて、不覚にもときめいてしまいそうになる。相手は三十歳のおじさんなのに。珠美も一応年頃の女の子なのだ。そんなことをするなら、せめて髭ぐらい剃ってからにして欲しい。
 そのときだった。
「いらっしゃいました〜!」
 入口のドアにつけられたベルの鳴る音と、元気のいい声が店内に響く。珠美は入口に目を向けた。自分でいらっしゃいましたと言って入ってくるのは彼女しかいない。
「佳代ちゃん、いらっしゃい」
 おじいちゃんはもうひとりの孫でも来たみたいに目じりが下がっている。
 声の主はおじいちゃんのお気に入りで、珠美の親友の佳代だった。
 胸の前で両手を千切れそうなくらい振る仕草が、小動物のようで相変わらず可愛い。その姿は珠美と同じ二十二歳には見えない。ただ幼く見える珠美と違って、きちんと社会人に見えるのに可愛らしくて、そんな仕草も嫌味じゃない。それも全て、笑うとなくなるあの大きなたれ目のせいだと常々羨ましく思っている。珠美にとって自慢の親友だ。
 珠美が先生に「頑張って」とだけ言って背を向けると、佳代はすでにおじいちゃんにいつものカフェオレを注文していた。そして珠美がカウンターに戻るよりも先に、佳代はカウンター席に座る。カウンターに腰掛けた佳代の、白くすらりとした足がまぶしい。珠美はあんなに短いスカートははかない、いや、はけない。足が太いわけではないけれど、背が低いせいでバランスが悪いだけだと思うことにしている。
「佳代、いらっしゃい。旅行どうだった」
 そう声をかけた途端に、佳代のテンションが一気に落ちて驚く。なにか悪いことでも言っただろうかと考えても、心当たりはなかった。浮かない顔のまま、佳代は包みを差し出してくる。珠美がリクエストした、北海道土産といえば誰でも思いつくホワイトチョコレートが挟まったクッキーだった。
「これお土産。旅行は楽しかったよ。天気もよかったし、おばあちゃんも喜んでくれたし」
「ありがとう。でも、それならどうしてそんなにテンション下がってるのよ」
 珠美は包装紙を外しながら暗い表情の佳代を覗き込む。
「たまちゃん、聞いてよ。実はね、家に帰ったら泥棒に入られてたの」
「えっ、もしかしてあの新聞に載ってたのって佳代の家だったの?」
「うん」
 先ほどの空き巣事件の記事が脳裏に甦る。テンションが下がるのも納得だった。新聞にはどの家に入っただとか詳しいことは書かれていなかったけれど、ケガ人がいなかったことは不幸中の幸いだ、とさっきおじいちゃんと話したばかりだった。まさかそれが、本当に佳代の家だったとは。
「なにか盗られちゃったの?」
 恐る恐る聞くと、佳代は肩を落としながら答えた。
「両親の部屋の現金と貴金属、それとおばあちゃんが大事にしてたオルゴールが盗られたみたい」
「オルゴール?」
 珠美は思わず聞き返した。泥棒が盗むほどのオルゴールとは、いったいどんなものなのか。それに、現金や貴金属と同じようにショックを受けるということは、余程大切なものなのだろう。
「おばあちゃんが昔、初恋の人からもらった宝物なんだって。ないとわかった途端、それまで気丈に振舞ってたのに倒れちゃって。そのまま寝込んでるの」
 そういうことなら佳代が落ち込むのも無理はない。佳代は昔からおばあちゃん子だったのだから。
「犯人はまだ捕まってないんだよね」
「うん。早く捕まって、オルゴールだけでも返して欲しいんだけどね」
 現金や貴金属も返ってきたほうがいいけれど、佳代のおばあさんのオルゴールは何物にも代えられないもののようだった。
「でもどうしてオルゴールなんて盗んだんだろう。そんなに凄いものなの?」
「そんなことないよ。普通の宝石箱も兼ねたオルゴールで、宝石なんて入ってなかったし」
「そうなんだ……」
 宝石が目的なら、中身を確認するはず。入っていないなら盗む必要もない。珠美には犯人が持ち去った理由がわからなかった。出来立てのカフェオレを佳代に出すと、珠美も佳代の隣に腰掛けた。
 佳代が精神的に参っているのは、目の下のクマを見れば一目瞭然だった。おじいちゃんが淹れた湯気の立つカフェオレを、一口飲んでため息を吐く姿が痛々しい。聞けば旅行から帰ってホッとする間もなく、ホテル住まいをしているらしい。まだ警察が調べているため自宅にも帰れず、それでも日中は仕事にも行くので、気が休まる場所もないということだった。
「なにか出来ることない?」
 ないとはわかっていても言わずにはいられなかった。おじいちゃんも佳代を不憫に思ったらしく「ルパンで良ければいつでもおいで」と声をかけていた。ふたりの気遣いに、佳代もわずかに頬を緩めて温かいカフェオレを飲む。
「ありがとう。明日少し荷物を出してもいいって言われてるんだ。着替えとかいろいろ必要でしょ。午後から半休取って帰ることにしたの」
「そうなんだ。解決するまで入れないのかと思ってた」
「本当はもう少し我慢したほうがいいのかもしれないけど、このままだと仕事に行けなくなっちゃうし。警察の人がついて来るのを条件にOKしてもらったの」
「あ、私も付き合おうか。ふたりのほうがたくさん荷物持てるし」
 警察の人に手伝ってとは言えないはず。それに下着などを用意しているところを見られたくないだろう。女性警官が来てくれるということも保証出来ない。
「でも悪いよ」
「製菓学校が早く終わるから大丈夫。おじいちゃん、いいよね」
「あぁ、手伝ってあげなさい」
 普段なら学校から帰るとルパンでアルバイトをするのだけれど、親友が困っているのだから、そっちが最優先だ。それくらいしか珠美にしてあげられることはない。
 最初は遠慮していた佳代だったけれど、珠美の熱意に押されて「じゃあよろしく」と頷いた。それから少し旅行中の話をして、佳代は泊まっているというホテルに帰って行った。
 カウンターに残されたカップを片付けながら、珠美はふと視線に気付いて顔を上げた。
 視線の犯人は、想像通り一番奥に座っている先生だった。ニヤリと笑みを浮かべながら手招きしている。こういうときは必ず良からぬことを考えているのだ。呼ばれたからには無視するわけにもいかず、仕方なく一番奥のテーブルに向かい、先生の目の前に座る。不審げに見てくる珠美を気に留める様子もなく、先生は嬉しそうに言った。
「事件が落ちてたね」