テルテル坊主の奇妙な過去帳 立ち読み

 

 午前七時。
 トヨの伝言を住職に伝えるため、お盆におしぼりを載せて典弘は長い廊下を歩きだした。なぜか無性に緊張する。葬儀の連絡をするのが初めてということもあるがそれだけではない。ここの住職に会うこと自体が緊張の元になるのだ。
 天巌寺第三十五代目住職、輝沼照玄。先ほど、トヨが『テルちゃん』と呼んでいたのがそう。鎌倉時代から続く、由緒正しき天巌寺を継ぐ大和尚になる。親しみを込めてか、はたまた皮肉を込めてか……一部の人から、名字と名前の頭をとって『テルテル坊主』などとも呼ばれている。
 そんな住職に会うのがなぜ緊張するかというと、それはこの時間帯だからだ。
 午前七時という、早くもなく遅くもないこの時間帯は正直言って微妙だった。何が?  と、問われれば答えは一つ。それは、照玄和尚が起きているかどうか……だ。
 世間一般的には、和尚さんは早起きというイメージがあるかもしれないが、実はそうではない。確かに行事がある場合は必然的に早起きになるのだが、その他の場合は大抵この時間まで寝ていたりする。
 朝早くから鐘を鳴らしたり、境内の掃除をしたりするのは小坊主の仕事なのだ。特別なにもなければ、毎日、交代で朝の七時半に照玄の寝室に出向いて朝の挨拶をするのだが、生憎今日はその特別が起きてしまったため、典弘が起こしに行かなければならない。
 照玄和尚は、寝起きが悪いことで有名だった。ついこの間なんかは、一人の修行僧が彼を起こしに行ったところ、寝言を呟きながら喝を入れられたらしい。しかも、グーで。そんな話を聞いたら嫌でも緊張するというものだ。
 彼について話すべき点はそれだけじゃない。いや、正直話し始めるときりがないくらい、とにかく普通という言葉が不釣り合いな方だった。
 この寝室の扉にしてもそうだ。まるで宮殿のような重厚感あふれるえんじ色の扉には、金の装飾が施されている。周りは当然、和風なのだが、ここだけ洋風というアンバランスな造りだった。そもそも、お寺の住職なのだから建前だけでも質素にいくべきではないのだろうか、とさえ思ってしまう。
 だが、当然そんなことを言える立場にないため、典弘は小さくため息を吐いて扉を叩いた。
「和尚、照玄和尚っ、典弘です。お伺いよろしいでしょうか?」
 返事はなかった。扉に耳をあててみたが、中の音は一切聞こえてこない。再度、扉を叩いても返事がなかったため、「失礼します」と声をあげて恐る恐る扉を開いた。
 その瞬間、冷たい空気が頬にふれた。クーラーがしっかりと効いている。思わず、「わぁ」と声をあげた。
 今まで、暑いなか作業をしていた典弘にとっては天国のような部屋だった。全く何が方丈だ。四畳半どころか、ここの広さは十五畳はあるだろう。しかも、部屋の中は全て洋風の家具で統一されている。アンティークと思われる棚やテーブル。更にはキングサイズのベッドが置かれていた。
 そんな個人的趣味が多様に盛られた部屋に照玄和尚は寝ているのだ。誰が見ても贅沢だと口を揃えて言うだろう。とてもじゃないが、檀家さんには見せられない世界がそこにある。
 最初に見たときは呆気にとられたが今ではさほど驚かない。事実、偉い立場にいるのだからこんなものか……と、言いきかせるように納得した自分がいた。
 それよりも、問題なのがあのベッド。掛け布団が人の形に盛り上がっている。聞き耳を立てると、うっすらとイビキをかいていた。やっぱり彼はまだ起きていない。むしろ熟睡感が満載だった。
 あぁ……と、落胆の息を吐いた。このまま起こすとなると、どうしても喝を入れられるイメージしかわいてこない。
「全く、七時なんて早くないんだから起きててくださいよ。もう、なまぐさなんだから」
 ボソリと、心の声をもらしたときだった。
「だぁれが、なまぐさ坊主だ?」
 突然、背後から声が聞こえ、典弘は持っていたお盆を床に落とした。それと同時に全身の毛穴が開く。
 この声は……。
 止まりかけのブリキのおもちゃみたいにゆっくりと振り向くと、作務衣を纏って腕を組む男性の姿が目に入った。
 見た目は三十代前半。細身ながらも肉付きのいい体格をしたその男は、鬚を生やし長い髪を後ろで一つに縛り上げている。その風貌は、まるでどこか戦国武将のようだ。
「しょ、照玄和尚……どうして?」
 ベッドと彼を交互に眺めた。今も尚、ベッドの膨らみはあり、そこからイビキが聞こえているのだ。目をぱちくりさせる典弘に、照玄は「あぁ、あれか?」と、口角を持ち上げた。
「自分で確認してみるがいい」
 顎でベッドを示され、言われた通りに掛け布団を引きはがすと、そこにあったのは、黒猫のイラストが描かれた細長い抱き枕だった。よく見ると口の辺りに穴があいており、そこからイビキ音が流れている。
「音声録音機能付き最新型抱き枕だよ。どうだ、良い代物だろう?」
 どうだ? と聞かれても何が良いのかさっぱり理解出来ない。そもそも、なぜ抱き枕に録音機能が付けられているのか、その製作者の意図もわかりかねる。
 反応に困り、典弘はとりあえず「そうですね」とだけ返した。
「侵入者に、寝込みを襲われたときのことを想定して設置してみたのだよ。お主を見る限りどうやら成功したようだな」
 そう言って、彼はどこか満足そうに顎鬚をなぞっていた。
 相変わらず考えていることが理解出来ない。そんなシーンがある訳ないでしょう? と、突っ込みたかったが、それを言ってしまったら面倒なことになりかねない。黙って、落としたお盆を拾い上げた。
「すみません。今、新しいおしぼりをお持ちします」
「もう良い。なまぐさ坊主にはこれで充分だ」
 床に落としたおしぼりを掴むと、彼はそのまま顔を拭き始めた。
「あっ、いえ……それは違くて、その……」
「別にそんなことは気にしていない。私は大人だからな」
「本当、すみません。あの……その……」
 しどろもどろになる典弘に、照玄和尚は手のひらを向けて無言で言い訳を遮った。ピシャリと相手を制止するときに、よく彼がする仕草でもある。こうされると、言葉がない分された側も黙るしかない。照玄和尚は、抱き枕を乱雑に避けてベッドの上に腰をおろした。
「それよりも、まだ七時だ。いつもより早いということは、何か用があって来たのだろう?」
 本当に怒っていないのか照玄和尚の顔は穏やかだった。それはそれで不気味なのだが、水に流そうとしてくれている折角の好意を受け取らない手はない。典弘は、最後にもう一度だけ謝罪の言葉を述べて、「実は……」と切りだした。
 先ほどトヨが葬儀の知らせを受け、折り返し連絡する手筈になったこと。そして、亡くなられたのが安田家のお婆ちゃんであることを告げると、彼の眉が吊り上がった。
「安田さん? それは妙だな。あれだけ元気そうだったのに。何かの事故か?」
「すみません、そこまでは」
「そうか」と照玄は頷くと、おもむろに立ち上がった。
「では、一度連絡して自宅に伺うことにしよう。典弘、お主もついてきなさい」
「えっ、僕がですか?」
「そうだ。良い勉強になるではないか。それとも、ついてくるのに何か問題でもあるのかね?」
 いえ……と、典弘は慌てて顔の前で手を振った。
 檀家さんと話すことはあっても、自宅に出向くのは初めてのこと。しかも、いきなり照玄和尚と一緒に出向くことになるとは思ってもみず、一気に身体がこわばった。
「では、私は着替える。三十分後に本堂の前に来なさい」
「すぐに出られるのですか?」
「そうだ。あまりお待たせしても遺族の方に失礼になるだろう?」
「ですが、そうなりますとお勤めの時間と被ってしまうのですが、僕はどうすれば……」
 修行僧の一日は全て時間ごとにやることが決められている。朝の作務と呼ばれる掃除のあとには、日中諷経と呼ばれるお勤めを行うことになっていた。
 修行僧全員が本堂に集まり、供養のための経をあげなければならない。そのことは当然、照玄和尚も知っているのだが、彼は「大丈夫だ」と手を振った。
「先ほど、抱き枕を見抜けなかったお主は修行が足りん。その分を含めて、後でたっぷりと勤めてもらうから安心しなさい。そう……たっぷりとな」
 では準備しなさい、と照玄和尚は戸棚を開いて背を向けた。その顔はどこか楽しそうで、まるで悪戯を企む少年のようだった。一体、何をさせられるのか、後のことを考えただけで身震いがする。
 何が大人だから気にしていない……だ。しっかり気にしているじゃないか。
 部屋を出て、典弘は自分の失態に肩を落とした。


 午前八時半。
 間もなく日中諷経が始まろうとしていた。およそ十五名の修行僧が本堂に集まり、三列になって畳の上に座っていく。このとき、本堂の正面扉は解放されているため、その様子を外から眺めることが出来る。そこに座る面々は、まだ初々しい小坊主もいれば結構なお年の方など、その年齢層は幅広い。はたから見て、勢ぞろいした修行僧の坐禅姿は見応えがあった。
 そんな中、典弘は本堂の外にいる。なぜアイツは、あんなところに突っ立っているのだ? と、皆は思っているに違いない。時おり向けられる視線が痛かった。
 三十分後に本堂で、との指示だったはずだが、あれから一時間以上が経っている。まだ照玄和尚の姿は見えない。こんなに待たされるのであれば、慌てて準備することもなかったじゃないか……と、典弘は抱えた鞄を覗き込んだ。
 中には、供養のための仏具がいくつか入っている。その中に、ちゃんと過去帳が入っているかを再度確認した。
 過去帳とは、亡くなられた方の戒名や命日などを管理する台帳のことで、葬儀の準備をするために必要な仏具の一つ。これがないと戒名の相談がスムーズに出来なくなってしまうので、なくてはならない大事な台帳になる。
 とりあえず忘れ物はなかった。あとは彼の登場を待つのみだったのだが、これが中々現れない。まさかとは思うが、皆の晒し者にするためにわざと遅れているのではないだろうか。彼ならばやりかねないな、と照玄和尚の意地悪そうなニヤケ顔を思い浮かべたときだった。
 本堂に異様な空気が流れ始めた。騒いでいる訳ではない。どことなく、皆の背中がざわついたように見えたのだ。直後、その原因が横から現れた。照玄和尚だ。
 紫色の大衣に、銀の刺繍が施された袈裟を纏った彼は、修行僧の様子を一望したのち端の階段をおりて下駄を履き始めた。
 普段は黒色の大衣と呼ばれる衣の上に、山吹色の袈裟を片方の肩から斜めに掛けたスタイルになるのだが、今回は仏事ということで身につけた袈裟も特別なものだった。
 その出で立ちは、先ほどまでとはまるっきりの別人に思える。やはり、正装した彼は独特の雰囲気を持っていた。
 カランカランと、小気味よい下駄の音を鳴らしながらこちらに向かって歩いてくる。
「典弘、持ち物は全部揃っているな?」
「はい、万全です」
 こっちは一時間前から準備を済ませて何度も確認しているのだ。自信満々に鞄を持ち上げて見せたのだが、照玄は肩を落としてため息を吐いた。
「何が万全だ。大事なものを忘れているではないか」
「えっ?」と、声をあげ、典弘は慌てて中を覗き込んだ。そんなはずはない。全て揃っているはずだ。それに、中身を見てもいないのに忘れているなど判断出来ないはず。
 また意地悪をされているのかと思い、「いえ、仏具は全て揃っておりますよ」と、鞄を開いて見せた。だが、彼は中を見ようとはせず何故か空を見上げている。
 つられるように上を向きハッとなった。空に灰色の雲が集まりだしている。いつ雨が降ってきてもおかしくはなかった。
 袈裟を雨で濡らす訳にはいかない。そのための大きな専用傘がある。開くと百五十センチメートルもある大きな傘だ。
「すみません。今、持って参ります」
 気付いたことに満足したのか、「私は先に行ってるぞ」と照玄和尚は一人で歩き始めた。