青い桜と千年きつね 立ち読み

 

 京都のある祭りの夜。
 古町大吾は、鴨川のほとりで、キツネにつままれた。

 キツネといっても、哺乳綱ネコ目イヌ科イヌ亜科の、あの「狐」ではない。
 背筋をピンと伸ばし、対岸の夏祭りを眺めるのは、狐の面をかぶった人間であり、赤い着物に身を包んだ十歳ほどの少女である。
 縦長の白面に描かれた目元には、燃え立つ朱と漆黒の化粧が絡まり、口元の紅はニヤリと笑みの形を作る。大きな耳は天に向かって伸び、右手には真っ赤なりんご飴を携えていた。
 飴、アメ、雨─―。
 雨といえば、日中は天気雨が降った。
 その偶然と、対岸に躍る提灯の群れを背負う彼女の姿は、まるで怪火をまとう狐の嫁入りそのもので。しかし、周囲を見渡してみても、婚儀を祝う仲間の姿はない。
 キツネは独り佇み、目の前の少年をジッと見つめていた。
 どこにでもいそうな普通の男子高校生─―大吾は、祭りの熱にあてられ、一休みするために対岸に出た訳で、先客が陣取るその場所に用はない。
 いや、彼女の佇む姿があまりにもサマになっていたので、邪魔をしたくなかったのかもしれない。
 大吾は他の場所を探すため、踵を返す。―─が、その足が前に進むことはなかった。
「こん」
 声をかけられたのだ。
 その声は面の下でくぐもっていたが、本来の透明さを失ってはいない。
 天気雨、狐の嫁入り、赤い着物、狐の面─―このような条件が揃った以上、いかように情緒ある出来事と出会えるのかと、大吾は密かな期待を胸に落とす。
 しかし、大吾の期待は一瞬で打ち砕かれることとなる。
「止まれ、そこの阿呆」
 出会ったばかりとは思えない酷い言葉を投げかけられたのだ。大吾はムッとした顔で振り返り、少女を見据える。
「阿呆……阿呆とは、僕のことか?」
「他に誰がいる? 周囲には私とお前しかいないであろう。そんなことも分からないとは、さてはお前、ただの阿呆ではないな。おたんちんのぽんつく阿呆だな」
「意味は分からないが、貶されていることは分かる。もしかして、君は僕の知り合いか? そうでなければ、そこまで言われる筋合いはない」
「知り合いと言えば知り合いなのかもしれないが、お前は私の顔を見たところで、知らないと抜かすであろう。故に、知り合いではない」
 謎かけのような妙な言い方であるが、答えを探る暇すらなく、少女は続ける。狐の面を外さぬまま、真っ赤な飴を携えたまま、穏やかに、しかし、はっきりと。

「ひとつだけ、願いを叶えてやろう」

 こうして、大吾と、狐の面の少女は出会った訳であるが、その邂逅は奇奇怪怪と言わざるを得ない。ひとつだけ願いを叶える、などという仰々しい台詞も、一般的な生活をしていれば、物語に出てくる悪魔の甘い罠の文句でしか耳にすることはない。物語の中の悪魔が求めるものは、大抵「魂」と相場が決まっているが─大吾は少女の姿を見直し、安堵の息をついた。
 何故なら、目の前に立っているのは、悪魔でもなければ神さま仏さまでもない。テレビやアニメで覚えた口上を試したい、ただの子供なのだ。
 大吾は人混みにあてられた熱も冷めていたので、暇つぶしに子供の悪戯へ乗じることにした。
「それじゃあ、その面を取って顔を見せてくれないか?」
「願いはそれだけか?」
「ああ」
「子供の戯れとでも思われたか。くくく。まぁ、よい」
 少女は細い指で狐の面の顎先に触れ、ゆっくりと外した。右耳の上で一つに結われた黒髪が、夏の温い風に揺れる。
 少女の素顔が見えた瞬間─大吾は目を大きく見開いた。
 白くなめらかな肌も、桜色の唇も、通った鼻筋も、まだ小さな子供とは思えない人目を惹くものであり、胸を射抜かれそうになったのだ。
 だが、最も目につく箇所は別にあった。
 少女の後ろに見える満月の色に似た、金色の瞳だ。猫のような大きな瞳のふちが、金色の瞳を囲み、五歩ほど離れた場所であっても、睫毛の差す影が見える。
 想像すらできない美しいものを見かけたとき、人間は言葉を失うものなのだな、と大吾が実感している最中、少女が口を開いた。
「お前の願いは叶った。どのような気持ちだ?」
「……どこにでもいる子供の顔が見られただけで、どのような気持ちもないだろう」
 少女は呆気にとられた様子で、一時目を丸くしていた。
「他には何もないのか?」
 あるにはある。というより、どのように考えても、一番気になるのは金色の瞳である。しかし、少女が欲しい返答が「それ」であると分かるくらいに得意げな笑みを浮かべていたので、なんとなく思惑通りの言葉を吐くのが躊躇われた。天邪鬼と言われようとも、何だか負けた気分を味わいそうだったのだ。そこで、大吾は一時吟味して別の言葉を選ぶ。
「そりゃ、かわいらしい女の子だとは思ったけれど……」
大吾はかわいいだとか、綺麗だとか言いなれていないのか、照れるように頭を掻く。
「かわいい、かわいいか。うむ、うむ。なかなかいい返答だ。だが、この眼にもっと驚くと思っていたがな。それどころか、どこにでもいるかわいい子供ときたか」
 少女は嬉しそうな笑みを浮かべてうなずき、ギロリと大吾を見つめた。
「しかし、お前が望んだことだ。対価はいただく」
「対価? 何を?」
 後ずさる大吾を気にせず、少女は言葉を続ける。大きな瞳を半分だけ閉じて笑う姿は、少女とは思えない大人びたもので、大吾の背中がヒヤリと寒くなる。
「こういうときの対価は、決まっているであろう」
 決まっている。そう、こういったときの対価は決まっている。大吾は嫌な予感がして、なお一層、身構えた。少女の口はニヤリと音がするかのような形に曲がり、その幼い顔に似つかわしい台詞が飛び出した。
「タマシイ、だ」
 そう、それはまるで物語に出てくる悪魔のように。少女が口を結んだちょうどそのとき、大吾は友人が呼ぶ声にハッとなって振り返った。
「そろそろ行くぞ」という呼びかけを背に、大吾は少女に別れを告げようとするが、これは一体何が起こったのか。一瞬目を離した隙に、少女はいなくなっていた。
 煙のように消えてしまった少女を捜し、大吾は視線を走らせる。河原の石、喧騒が広がる対岸、草むらの方角にも、遠く橋のほうにも視線を走らせた。
 しかし、どこにも少女の姿は見られない。
 真夏の夜、遠く喧騒が響く祭りの最中、大吾は鴨川のほとりで立ち尽くした。
 キツネにつままれたのだろうか。眼前に広がる水面には、少女の眼を思い出させる金色の月が、静かに揺らめくだけであった。

 大吾が少女と再会したのは、祭りの日から数日後。
 夏休みの補習を終え、家に帰る途中であった。
 教師が教室を出ていき、生徒たちがチラホラと立ち上がったころ、大吾は高校指定の青い鞄を肩に掛け、席を立った。
 中には街に出て遊ぶ者もいるようであるが、そうした学生の大半は、そもそも自由参加の補習に参加したがらない。参加者のほとんどが帰宅組であり、大吾も例に漏れなかった。昇降口でスニーカーに履き替えると、太陽が照りつける校庭に出た。
 白い服は太陽の光を反射すると言うが、この灼熱の前では、どれだけ役に立っているのだろうか。さすがに黒い服よりはマシだろうが─―。
 大吾は照りつける太陽に目を細めつつ、校門をくぐった。
 いつ覗いても客がいない時計屋、タオルを頭に巻いた親父が小さく折り畳んだ新聞を睨みながら退屈そうに店番をする八百屋、十分百円と書かれた看板が立つコイン駐車場。
 人々や自動車が行きかう大通りには、いつも通りの風景が流れる。
 大吾は途中、古本屋に立ち寄ると、空調の効いた店内で、涼みながらの立ち読みにふけった。十分、目利きした上で、三冊の漫画を購入すると、鞄に突っ込む。
 立ち読みに夢中になりすぎたのか、店を出ると、時計はすでに十七時を刻んでいた。大吾はコンビニ角の小道を抜けると、静かな住宅街に入る。住宅街に入ってすれ違うのは、買い物帰りの主婦くらいで、校門前の賑やかな通りと比べれば、退屈を感じずにはいられない。住宅街を抜けると、今度は更に退屈な風景─山の緑が視界に広がる。
 山道特有のゆるやかなカーブを何度か曲がると、水神を祀っているという神社の参道が見えるのだが、本殿ははるか先、山の中腹に立っており、大吾の場所からは鳥居すら見えない。大吾は歩きながら「いつも通りの一日が終わるのか」とぼんやり考えていたが─―。
「こん」
 予想を裏切るように、突然、声が響いた。誰もいないと油断していた大吾は、構えるような格好で飛び退く。さまよう視線は、左右を走り回ったあと、上─―石段にたどり着いた。
 下から数えて二十段目ほどの石段には、祭りの日に見かけた奇妙な少女が座っていた。祭りの日ではないのに、出会った日と同じように赤い着物を身に着け、狐の面をかぶっている。
 膝の上に両肘を載せた少女は、仮面で表情こそ見えないものの、明らかに退屈そうな態度で大吾を見下ろす。街中で見かければ不自然な格好であるが、神社の前だからか、気にならない。
「こん」
 石段の左右に広がる森の木々が風に揺れ、少女の髪がふわりと揺れる。
 何事かと飛び退いた大吾は、自身の過剰な行動に頬を染めつつ、コホンと咳払い。何事もなかったかのように、神社の前を通り過ぎた。少女の呼びかけは、聞こえないふりである。祭りの日の出来事を思い返せば、嫌な予感しかしなかったのだ。
 しかし、背中を追う「こん」という言葉は、距離をとるごとに大きくなっていく。
 こん、こん、こん。
 しつこい。
 こん、こん、こん、こん、こん。
 しつこい、しつこい、しつこい。
 思った以上にしつこい。十回目の「こん」は最早、大声になっており、無視できないと思った大吾は、仕方なく来た道を戻ることにした。大吾は呆れと諦めが混ざった表情で、少女を見上げる。
「こんなところで何をしている?」
 大吾の呼びかけを耳にした少女は、先ほどの退屈そうな様子とは打って変わり、飛び出す勢いで石段を駆け降りた。
 少女は最後の三段を一気に跳び降りると、狐の面を外し、いつぞや見せた悪い笑みを浮かべる。ニヤリという擬音が聞こえてきそうだ。
 大吾が少女の金色の瞳を見るのは二度目であったが、整った顔や独特の雰囲気が交わり、簡単に見慣れるものではない。
 大吾はひきつった顔で後ずさりするが、少女は気にする様子もなく、左腕を上げ、道の先を指さした。
「お前を捜していた。さあ行こう」
「行こうって……どこへ?」
「お前の家だ」
 大吾は予想外な展開に呆然とせざるを得ない。少女に声をかけられた時点で、そこそこ困る状況に陥るのではないかと予感していたが、まさか「家に行く」などと言われる状況は予想していなかったのだ。
「それは困る」
 慌てて拒否する大吾に、少女は悪びれた様子もなく続ける。
「お前の魂は私のものになったじゃないか。私の言うことには従う必要があるのだ」