シャーベット・ゲーム 四つの題名 立ち読み

 

  私の新しい友達である穂泉沙緒子の、我が私立朝霧学園高校での最初の数日間は、実にあっけなく過ぎた。
 イギリス帰りの帰国子女というもの珍しさ。そして、そのイメージとは対極に位置するような、長くつややかな黒髪と白い肌、端正な容貌。それらが相まって、編入初日はクラスメイトばかりか、ほかのクラスからも注目を集めていた。
 休み時間のたびに沙緒子の周りには人だかりができ、矢継ぎ早の質問が飛ぶ。ティータイム、映画、ショッピング、スポーツ観戦、旅行――そんな夢のような英国生活を空想の中でなぞって歓声をあげる級友たち。
 けれども、それも束の間だった。穂泉沙緒子はすぐに、二年B組の〈三十八人のうちのひとり〉になってしまったのである。
 それは彼女自身にも原因があった。いくら英国帰りの黒髪の女神とはいっても、普段の彼女はいたって普通の女子高生だったのだ。
 授業中は私語をすることもなく、おとなしくノートを取っているし、休み時間は席で文庫本のたぐいを読んでいるか、あるいは煙のようにどこかにかき消えている。昼食は机を寄せて――彼女の席を私の隣に作ったので――一緒に食べるが、話しているのは八割がたは私のほう。放課後は、気づくともう席にはいない。
 そんなふうにして何日かが過ぎ、ようやく私は気づいた。彼女がクラスメイトの期待に応えることのないのと同様、私の期待にもそう簡単には応えてはくれないのだということに。
 並外れた観察眼と推理力、そして身体性能で、あの〈オレンジ色の事件〉─―私と沙緒子が出会ったあのコンビニ強盗とOL刺殺事件をひとくくりにそう呼んでいる─―を見事に解決した彼女の華麗なる登壇で、私の高校生活は大きく変貌を遂げるに違いない。
 ─―というのは私の勝手な思い込みだった。
 彼女にスーパーヒロインという役を与えて、次なる冒険譚を楽しみに待っていた私が、早計だったのだ。
 思い返してみれば、あの日コンビニで立ち読みしていた彼女も、喫茶店『真麻』で霧 野中央署の連城玲人刑事の戻りを待っているときの彼女も、はたから見れば折り目正しき〈優等生〉だったではないか。
 それにそもそも、彼女が目をらんらんと輝かせて大活躍をするような事件が、こぢんまりとした平凡なこの町にそうそう起こるはずもない。〈オレンジ色の事件〉のようなことは、二度と起こらないかもしれないのだ。
 私の期待度が高すぎた。ただそれだけだ。
 でも。
 それでも─―。

「何か起きないかなあ……」
 昼食の弁当を食べ終えて弁当箱のふたを閉めた私の口から、ついに不謹慎なその言葉がこぼれて落ちてしまった。
「何かって?」
 沙緒子がサンドイッチの包装紙をレジ袋に押し込みながら訊き返す。
「あ、聞こえ……た?」
「こんな目の前で言われれば、誰だって聞こえるわよ。それで何かって?」
「ええと、事件……のようなもの、かな」
「事件って?」
 私はむずがゆくなってきて、代わりに不謹慎さにあらがっている気持ちがどこかへ吹き飛んでしまった。
「事件は事件よ。たとえば学校にある何か大切な物が失くなるとか、生徒の誰かが失踪して行方知れずになるとか……」
「園子は大事件が起きてほしいわけね」
 私はちょっと返答に困った。
 あらためてそう言われて、自分の言っていることがなおさら物騒な感じに思えた。
「でも、沙緒子だって何か事件が起こるほうがおもしろいと思っているんじゃないの? ほら、あのとき――例のコンビニ強盗が入ってきたときも、『おもしろいことが起こりそう』って言っていたじゃない」
「相変わらずよく覚えているわね、園子は」
 沙緒子がにやりと笑う。
「まあたしかに、まるで何もない一日よりは何か事件が起こってくれたほうがおもしろいわね。でも実際には何も起こらない一日なんて、まず存在しないわ」
「どういうこと?」
「事件なんてどこででも起きている、ということよ」
「どこででも?」
「そう。大小を問わなければね。園子は『ハインリッヒの法則』は知っているかしら。ひとつの重大な事故の背景には二十九の小さな事故があり、さらにその背景には三百の危険な出来事がある、という」
「聞いたことはあるけど」
「これを『事件』に置き換えてみるとこんなふうになる。─―ひとつの大事件の背景には二十九の小さな事件があり、さらにその背景には三百の謎めいた出来事がある。つまり、真相を解明するに値する謎めいた出来事というのは、そこらじゅうに転がっているというわけ」
「そこらじゅうってことは、この学校にも?」
「当然よ。まあ、すでにそのいくつかは私が解決したけれど」
 私は驚いた。いつの間にそんなことをしていたのだろう。始業前か休み時間か、あるいは放課後か……。
 彼女はかまわず続ける。
「もちろんこの教室にも。たとえば─―そうね、あの塀内さんの机の上」
 沙緒子がその細く白いあごで軽く指し示すので、私は上半身をねじって、クラスメイトの塀内准奈の机を見た。
 准奈は席にはいなかったが、その机の上には一冊の本がある。書店がサービスでかけてくれる薄い茶色の紙製カバーが巻かれており、サイズは文庫版、ページ数はおよそ三百ページから四百ページといったところか。残り数十ページくらいのところからしおりの端がはみ出しているのがここからでもわかる。
「あの本のこと?」
 言いながら沙緒子に向き直る。
「そう。あの本ひとつ取っても謎だらけよ。─―まず、あれは何の本なのか……」
 沙緒子らしからぬ問いかけだった。あの本については准奈がきのう、私に話してくれていたからだ。沙緒子はじかに会話に参加してはいなかったが、すぐ近くにはいた。私と准奈の会話の内容が聞こえていなかったはずはない。
 どうしてそんなことが謎なのかわからなかった私は、少し探るような気持ちも込めて丁寧に回答した。
「今ベストセラーになっている学園モノの長編青春小説を、准奈もおとといから読んでいるんだって」
「ええ知っているわ。塀内さんがきのう、園子に話していたから」
「なあんだ、やっぱり聞いていたんじゃない」
 私はすっかり肩の力が抜けてしまった。
「じゃあ、どうしてそんなことを訊くの? ─―あ、わかった。ミス研所属の准奈がなぜミステリーではない小説を読んでいるのかが謎ってことね。でもそれは謎でもなんでもない。准奈はたしかにミステリーファンだけど、推理小説しか読まないってわけじゃないんだから」
 私はちょっと鼻を高くして答えた。准奈は一年でも同じクラスだったし、なんとなく話も合うので仲がいい。彼女のことなら私に一日の長がある。
 しかし、沙緒子はさらりと言った。
「それも知っているわよ。その青春小説の前はSF小説だったもの。私が訊いているのはきのう読んでいた本についてではなくて、今机の上にあるあの本についてよ」
「えっ」
 私が驚くと、沙緒子は「やっぱり気づいていなかったのね」と苦笑した。
「塀内さんは書店で本を買うと必ず紙のブックカバーをかけてもらうわよね。きのう読んでいた本にも巻かれていたし、あの本もそう。どこの書店のものもデザインは似たり寄ったりだから、園子が注意を払いきれなかったのもうなずけるけど、よく見るとカバーの柄がきのうの本のとは違う」
 私は本を振り返った。
 まさかとは思ったけれど沙緒子の言うことだ、確かめにいくまでもない。
 私の鼻はたちまち元の高さに戻ってしまった。
「気がつかなかった……。じゃあ、あれは別の新しい本ってことね」
「そう。それがひとつめの謎」
「どうしてそれが謎なの?」
 私は沙緒子の言っていることがまだ飲み込めていなかった。
「では聞くけど、きのうの下校の時点で塀内さんはどのくらいまで読み進めていたか覚えている?」
 そう問い返されて、私は言葉に詰まった。
─―どうだったろう。きのうの記憶をたどり、本を読んでいる准奈の手元や、差し込むしおりの位置を思い出す。
「たしか……半分くらいだったんじゃないかな」
「そうね。きのうの本もあの文庫本と同じくらいの厚さだったから、四百ページくらいかしらね。残り半分とすれば二百ページほどということになる。塀内さんが文庫を読むスピードは、平均して二分で三ページと熟読タイプとしてはやや速め。それでも二百ページを読み終えるには二時間以上かかる。きのうはミス研の活動日だったから、本を読む時間を二時間確保することはおそらく不可能だったはず。塀内さんは自転車通学で、私みたいに通学時間を読書に充てることもできないしね。つまり、塀内さんはきのうの本をまだ読み終えてはいない。にもかかわらず、新しい本に手をつけている。それは一体どんな本なのか。─―それが最初の謎。そして次の謎はあのブックカバー。きのう塀内さんが読んでいた本にかけてあったのはバス通り沿いにある書店のものだったけど、あのカバーは照瀬川駅の構内にある小さな書店のものなのよ。塀内さんは自転車通学だから、照瀬川駅は利用しない。三つめの謎はしおりの位置」
 私はまた、本を見た。
「今あの本には残り数十ページのところにしおりがはさんである。つまり、すでに三百ページ以上を読み終えていることになる。しかしさっき話したように、きのうの塀内さんにはそのページ数を読み終えるのは到底不可能。以前に買って途中まで読んでいたという可能性もあるけれど、見たところ紙のカバーも新しそうだからまだ買ったばかりの本だと思う。あまり時間のないきのう、彼女はどうやって三百ページ以上を読了したのか」
 私はうーんと考え込んだ。
 准奈は小説をななめ読みするようなことはしない。それはミステリーに限らない。青春小説でもSF小説でも、どんなジャンルでも同じことだ。
「そのうえ、きょうの塀内さんは午前中のどの休み時間にもあの本を読んでいない。一時限めの始業前に一度バッグから出して開いていたけど、すぐに閉じてしまって、それから後はバッグから取り出すことすらなかった」
 私はこれまでの休み時間の場景を思い起こしてみたが、沙緒子の言うとおり准奈は一度も本を読んではいなかった。移動教室などで本を読む余裕がないこともあるが、きょうは一日じゅう、この教室での授業だった。
 沙緒子の流れるような検証は続く。
「そしてこの昼休みになってようやく本を取り出しておきながら、今度はそれを置き去りにしてどこかへ行ってしまっている。きのうまで読んでいた本を途中で投げ出してまで読み始め、始業前のわずかな時間も惜しんで開いた本を、すぐに閉じ、休み時間にも一度も開かず、昼休みにも置き去りにしているのよ。─―これはもう、謎を通り越して立派な事件よね」
「たしかに……」
 たしかに事件だ。あの本好きの准奈が本を持っていながら読まないなんて……。
「さあ、園子の推理はどう?」
「どうって……私が推理するの?」
「事件が起きたらいいのに、って言ったのは園子のほうじゃない」
 沙緒子はこれ見よがしににやりとする。
 それはそうだが、私の求めているのは少し違うのだ。
「沙緒子はもう答えを出しているんでしょう?」
「ええ、もちろん」
 彼女はそう軽やかに答えると、ペットボトルのミネラルウォーターで少し喉を潤してから話し始めた。