そこまで塩分いりません 立ち読み

 

  いや、落ち着け俺。
 もしかして、ただの考えすぎではないだろうか。例えば全ては俺が風邪をひいているせいで起こっている生理現象の可能性だってある。 それがたまたま、志川さんが病室に現れたあの瞬間から起こって、今にいたっているのかもしれない。ちょうど季節の変わり目だし、新しい環境に慣れ始めて気が抜けてきたところで体調を崩すなんて、よくあることだ。
 特定の人物に対する拒否反応と考えるより、こっちの方がよっぽど現実的だ。それならこの場を離れて自室でゆっくりと過ごすべきだ。
 思い立ったが吉日。
 俺以外は話に花を咲かせているし、邪魔しないように、極力足音を立てずに俺は自室へと向かった。幸い、誰も気にしていなかったようだ。
 部屋の扉を開けてすぐ、着替えもしないでそのままベッドに倒れ込む。寝具はまさに神具、なんて馬鹿なことを考えながら寝転がった俺は一つ、気が付きたくないことに気が付いてしまった。
 具合が全くもって悪くない。すぐさま立ち上がってみたものの、先ほどまでの眩暈も、吐き気も、悪寒も何もない。どこにも異常は感じられず、すこぶる健康としか言いようがない状態だ。
 これから一体どんな結論が導き出されるのか、ベッドに座って考えてみる。もしかして、もしかすると、病院で感じた通りってことなのだろうか。
 いやいや、ありえない。冷静に考えれば、実に馬鹿馬鹿しい話だ。危険人物に対して体が拒否反応を起こすなんて、あるわけない。
 とはいえ、俺が常識では考えられない仮説をこれだけあっさりと立ててしまうのには、理由がある。
 小さい頃から、なぜか俺には妙に危険を察知する感覚があるようなのだ。
 例えば道を歩いていて、急に具合が悪くなる。歩行困難になるほどの吐き気や悪寒に襲われて家に帰ると、通るはずだった道で大きな交通事故があったり、通行人を巻き込むほどのガス爆発が起こる。他にも、母親と一緒に電車に乗ろうとしたら、突然気分が悪くなりホームに留まることになる。すると乗るはずだった電車は、その後軽い脱線事故を起こす―─とまあ、こんな具合だ。
 この異常な現象を完全に把握したのは、小学校高学年の頃だった。ことの大きさは大小様々だし、元々のんびりしている両親は、俺のことを体があまり丈夫ではない息子としか認識していない。両親にすらそう思われるのだから、この件に関して誰かに話したことはない。それに、話したとしてもとても信じてもらえるような内容ではないと思う。そもそも、こんな話をしたらどうしたって悪目立ちしてしまう。
 しかし、俺の仮説が正しいとしても一つ腑に落ちない点がある。
 これまで俺の感覚が危険だと認識してきたのは、場所や物に対してだけだ。人間相手に反応したことは一度もない。とはいえ、現在まで犯罪に巻き込まれそうになったこともないし、例えば犯罪者とすれ違っても、直接被害がなければ反応しない可能性は大いにある。
 そう考えればあの志川さん――いや志川は、俺に対して直接害をもたらす人物ということになるのだろうか。
 この推測が正しいとすれば、両親があの男に対して全く違和感や嫌悪感を抱かないのも納得できる。両親にとっては恩人でしかないし、仮に今後害をもたらす存在だとしても、それを察知できるわけではない。
 となれば、今の状況は非常によろしくない。
 志川を見張りたい気持ちはあっても、傍にいては確実に俺の身が持たない。お人好しの両親だが、父親はかつて敏腕刑事と呼ばれていただけはあって、犯罪者に対してかなり嗅覚は優れている方だ。なら、俺は距離を取ってそれとなく志川の行動を観察し、あとは父親に任せるのも手かもしれない。
 幸いにして俺にはバイクという移動手段があるわけで、大学生になってから特に門限などもない。早々にバイトでも探して、志川が滞在している間は極力家に近寄らないようにしよう。夜だけは家に帰るとしても、夕食を外で食べて部屋に篭ってしまえば大丈夫だ。母親のご飯を食べられないこと以外は、それほど問題はない。
 財布と携帯をジーンズに突っ込んでから、俺は適当な理由をつけて外出してしまおうと思い、リビングのドアを開けた。
 途端に冷や汗が出始めた俺に、三人の視線が一斉に向けられた。
「噂をすれば、ちょうどいいところに戻ってきたな」
 父親の朗らかな声に、正直嫌な予感しかしない。
「トシちゃん、今から志川さんに駅までの道と、この辺りを簡単に案内してあげてくれる?」
 今なんとおっしゃいましたか、お母様。好ましくない言葉を耳にした気がしますが、俺の聞き間違いですよね、きっと。さもなければ、母親のお茶目な冗談に違いない。
「それは助かりますね。ぜひともお願いします、利雄くん」
 志川が妙な笑顔を俺に向けてくる。
 オネガイシマスって、何語だっけ。聞いたことある気もしないでもないが、英語ではないような気がするから、今期に第二外国語で履修しているスペイン語かな。日本語にも似たような発音の単語があったのかもしれないが、この男の言葉は日本語なんかじゃないと思う。そう信じたい。
 たとえ千歩、一万歩、いや、一億歩譲って日本語だったと仮定しよう。
 答えはノーだ。丁寧な日本語で言えばお断りします。砕けて言えば嫌だ。もっと砕けて言えば、寝言は寝て言え。
 そんな現実逃避にも近い思考を、一瞬で頭の中に巡らせた俺は、叫びながら家を飛び出したい衝動に駆られた。
 しかし理性が俺の足を床から離さない。両親を前にして、そんなことができるはずもない。
 ただでさえ俺は一人息子。突然おかしくなったと、両親を無駄に心配させるわけにはいかない。
 引きつった顔を少しでもほぐそうと、体から力を抜くように息を吐いた。そして、なんとか笑顔を作って俺は頷いた。
「うん、分かった」
「そうだわ。ついでに春巻きの皮、買ってきてくれる?」
 俺が引き受けることを微塵も疑っていなかった母親は、笑顔で千円札を差し出してきた。いつもなら朗報である夕飯のメニューも、今日ばかりは素直に喜べそうにない。
「うん。って、足は大丈夫なの? 俺が作ってもいいよ?」
「大丈夫よ。そんな長い時間立っているわけでもないし、途中で座ったりすれば全然問題ないわ。ここ数日さぼっちゃってたし、せっかく志川さんがいらっしゃるんだもの、腕を振るわなくちゃね」
「俺も横で手伝うから、利雄は心配しなくて大丈夫だ」
 母親も事務所で働いているため、俺も父親も一通り料理はできる。だけどやっぱり、母親の料理が一番だ。無理をしているわけではないなら、久々に食べられるのは俺としても願ったり叶ったりではある。決して、買い物を断ってうやむやなうちに案内役を放棄したいと思ったわけではない、多分。
「分かった、じゃあ買ってくるよ」
 力なく千円札を受け取り「じゃあ行きますか」と志川にぼそりと呟いてから、玄関に足を向けた。
「行ってらっしゃい。今日は暑いから、気を付けてね」
 悪気がないと十分に理解していても、背後から聞こえた声が少し憎らしく感じられる。もう反抗期は終わったのに、情けない話だ。
「行ってきます」
 偶然にも志川と俺の声が重なり、余計に気分が悪くなる。
 既に額も背中も汗でびっしょりだ。志川との距離があまりにも近いせいで、今にも倒れそうなほどの眩暈もする。こうなったらとにかく即行で終わらせてやる。さもないと、俺の身にどれほどの被害が生じるか分からない。
 ふらつく足で踏ん張りながら、黙ったまま早足で最寄り駅である月見ヶ丘駅に向かうことにした。
 道中の説明なんて必要はない。コイツは俺にとって害悪にしかならない人物なのだ。
 常識的に考えれば、証拠もないのに決め付けるのは良くない。だけどこれだけ体が反応していたら、俺の中では確定事項だった。そもそもこの体質自体、常軌を逸しているわけだし、細かいことを気にしたら負けだ。万が一にも勘違いだったとして、どうせそのうちにいなくなる相手だし、嫌われたって構うものか。
 俺が無言で足早に進む中、志川はどうしているかというと、ちゃんと後ろを付いてきていた。振り返らなくたって、あの独特な毒々しい気配で分かる。少しでも体調をましにするために距離を取っているつもりだが、まだまだ足りないらしい。本当は更に距離を取りたいが、これ以上離れるのはあまりにも不自然だ。気にしたら負けと思いつつも、ある程度常識的でいたいと思ってしまう自分が憎い。
 どうするか悩みながら近所の公園を通り過ぎようとしたところで、突然、呼吸ができなくなるかと思うくらい禍々しい気配が背後から押し迫ってきた。
 胸を押さえつつ、慌てて後ろを振り返る。
 しかし、振り返った先に志川の姿はなかった。
 押し潰されそうなほど重苦しい空気の中、俺の汗が地面に落ちていく。暑さで流れるような汗ではなく、ねっとりとした汗だった。想像を絶するほどの苦しさに、うっすらと涙すら滲み始めている。
 この感覚は、中学の頃にこっそり手に入れた成人指定にぎりぎり届かないようなアレな本が、俺のいない間に掃除された部屋で位置を変えていたような……いやいや、違うだろ。そんなことを考えている場合じゃない。どんだけ混乱しているんだ。落ち着け、俺。
 とりあえず深呼吸だ、深呼吸。息さえ整えば、なんとかなる。
「やっぱり、利雄くんは勘というか感覚みたいなものが、すごくいいんだなあ」
 耳元で頭に響きそうなほど通る声がして、俺は勢いよくそちらを振り向いた。すると、目と鼻の先に胡散臭い笑みを浮かべた志川の顔があった。
 この嫌な感じは、高校の頃いつもの場所に置いていたあんな本が、机の上に綺麗に並べられていたような……待て待て。だからそうじゃないだろう、俺。落ち着け、落ち着くんだ。
「……は?」
 なんとか喉から声を絞り出した。フルに稼働させた頭で、少し冷静になってみたものの、それでもやはりこの男の言葉の意味は理解しかねる。
 感覚ってなんだ、感覚って。人生始まって十八年、芸術系の才能など皆無な俺が感覚を褒められたことなどただの一度もない。というかこの状況下でなぜ勘とか感覚という単語が出てくるのか、全くもって理解できない。
「感じてんだろ、普通の人間じゃねえって」
 薄い唇の片端だけ吊り上げて、志川が言い放つ。
「な、何を……」
 何をおっしゃっているのですか。貴方の頭は大丈夫ですか。もしかして事故の際、打ち所が悪かったんじゃないですか。それとも最近急に暑くなったから、やられちゃいましたか。脳溶けちゃったんですか。
 頭の中では言葉がぽんぽん出てくるのに、苦しくて肝心の声が出てこない。
「またまた、とぼけちゃって。苦しいんだろ、俺が傍にいると」
 アレな人は春先に活性化されるってよく言うけど、こんな初夏に現れるとは、もしかしてコイツは出遅れてきた珍種だろうか。どこか胡散臭さはあっても一見凄くまともそうに見えるのに、俺がずっと反応していたのはそういうことか。
 息苦しさと吐き気などから少しでも気を紛らわそうと、必死で今後の対策を考えることにした。まずは最終的なゴールを決めて、それで、とにかくこの場を離れないと。
「俺が思っていたより、ずっと鋭いな利雄。そう、俺って実は人間じゃねえんだわ」
 俺の思考を遮るように、志川は言った。にやっと両方の口角を上げているが、まるで本当のことを言っているような雰囲気だ。つまり、彼はきっと真性のアレに違いない。
 体中から一斉に血の気が引いていくのが分かる。
 さあ、今取るべき行動はなんだ。
 そんなの考えるまでもなく決まっている。
 俺は走った。
 息苦しさに、眩暈に、吐き気に耐えて、ただひたすらに走った。小学校の頃の運動会よりも真剣に、中学の陸上部の都大会の時よりも必死で、今までのどんな測定タイムより早いタイムをたたき出しながら俺は走っていた。
 頬を風が刺す。見慣れた風景がめまぐるしく視界に飛び込んでは、去っていく。まるでバイクに乗っているような感覚に陥ってくる。
 少しだけ混乱した頭がすっきりしてきた頃、辿り着いたのは月見ヶ丘駅前の公園だった。立ち止まると急に汗が噴き出してきた。今度は暑さによる汗だからか、気持ち悪さはあまりなかった。木陰に入ってから、すっかり上がってしまった息を整えるために何度か深呼吸をした。