調香師 成瀬馨瑠の芳醇な日常 立ち読み

 

 「君、珈琲は好きかい?」
 促されるままにカウンターに座ると、開口一番に彼女はそう質問してきた。
「えっ?」
 マニュアル通りの『いらっしゃいませ』を想像していた僕は、少々面食らってしまい言葉に詰まってしまう。
「珈琲は好きか……と聞いたのだが?」
 やや不機嫌そうな声で、彼女は再度問う。
「……あ、はい。好きです」
「そうか、それはよかった! それなら飲んでいくといい」
 サーバーの底を熱しながら、満足そうに彼女はいう。
「今し方珈琲を淹れてね、誰か飲まないかなと思っていたところだよ」
 その発言に、大きな疑問符が浮かぶ。
 改めて店内を見渡すと、お客さんの姿はない。彼女以外の店員もいない。それどころかメニューすら見当たらない。ショーケースには茶色い瓶やらスポイトやら乳鉢といった理科の実験で使うような道具が入っているし、遠近感の狂った壁には干草が吊られている。店の奥は、寄り掛かるように段ボールが積まれていて、今にも崩れ落ちそうだ。入口付近には商品らしき品物がディスプレイされているけれど、それが何に使う物なのか僕には分からない。
 客もいない、自分でも飲まないとしたら、この人は何のために珈琲を淹れていたのだろう。
 それにこの店は一体─―?
 次から次へと浮かぶ疑問に、頭が追いつかない。
「残念ながらシャレたカップはなくてね」
 彼女はそういうと、猫の描かれたマグカップに珈琲を注ぎ、カウンターに座る僕のところへ運んできた。そして、僕のすぐ後ろに立つと、回り込むようにマグカップを置いた。静寂の中コトンと音が響く。
「あ、ありがとうございま─―!」
 振り向きながらお礼を伝えようとして硬直した。
 彼女の整い過ぎた顔が、僕のすぐ近くあったからだ。
 彼女は僕のうなじと肩の間に顔を寄せ、ちょうど吸血鬼が血を吸う時のような体勢になっている。
 初対面の人に急に距離を詰められた動揺と、美人の髪や吐息が首筋をくすぐっている恥ずかしさで、血液が体中を全速力で駆け巡る。全身が心臓になったみたいだ。自分の置かれた状況が飲み込めず、僕はパニックになった。
―─な、なな、な、何なんだ!
 さっきから何もかもがおかしい。この店は……この人は一体何者なんだ!
 固まる僕をよそに、彼女はスンスンと鼻を鳴らしてから深呼吸をして、静かにカウンターの中へ戻って行く。
 聞きたいことは色々あるけど、謎が多過ぎて脳が許容量を超えてしまった。頭の中を飛び交う疑問が上手く言葉に出来ず、珈琲に映る自分の顔をただ見つめていた。
 でも、時間が経てば経つほど喋るタイミングが掴めなくなってしまいそうだ。流れる沈黙が痛い。
「……もしかして、猫舌かな?」
 一向に珈琲に口を付けない僕を疑問に思ったのか、彼女は怪訝な顔で話し掛けて来た。
「いえ、大丈夫です。それより─―」
 とりあえず、聞きやすいことから質問からしてみよう。
「……お姉さんは珈琲飲まないんですか?」
 恐る恐る聞くと、彼女は驚いたように目を開け、愉快そうに「クククッ」と笑った。
「お姉さんは止めてくれよ、照れるじゃないか。私の名前はカオル。ナルセカオルだ」
 そういって彼女は、カウンター内にあるカフェ黒板に白いチョークで『成瀬馨瑠』と書いた。
「あ、どうも。僕は、シライシソウタです。白い石に颯爽の颯に太いで白石颯太です」
 意図せずに自己紹介合戦になってしまった。
 これじゃあ僕の質問の答えになってないじゃないか、と落胆していると、彼女……馨瑠さんは珈琲ド リッパーの持ち手に指を絡め、鼻の高さに持ち上げた。
「私が必要だったのはこっちでね、珈琲はその副産物さ」
「ドリップし終わった珈琲豆が、ですか?」
「そうだ。仕事柄、鼻が疲れてくるのでね、そういう時にこの匂いを嗅ぐんだ。本当なら鼻うがいでもした方がいいんだろうが……あれはあまり気持ちのよいものではないからね」
 そういって彼女は顔をしかめて、心底嫌そうな表情をして見せる。
「仕事柄?」
「私の仕事はチョウコウシだ。ここは店舗兼ラボ兼住居─―といったところかな」
「……チョウコーシ?」
 聞き慣れない単語に僕が首を捻ると、馨瑠さんは黒板に『調香師』と書いて見せた。
「その調香師? っていうのは、どんな仕事なんですか?」
「調香師は……そうだな、簡単に説明すると、香料をブレンドして匂いを作る仕事だ。香水や食品の香料、石鹸なんかの匂いを作るっていったら分かりやすいかな? 私の仕事はお客様の用途要望に合わせた香りを作り出すことだ。─そうだ、これも何かの縁だし、君も何か買っていくといい」
 さらりと商売っ気を出されたが、その手に乗るつもりはない。
「あいにく、僕は香水とかには興味ないので」
 珈琲を振舞ってもらって心苦しいが、欲しくない物を買うほどの金銭的余裕は、学生の僕にはない。ここはスマートに断ることにしよう。
「……何も君が使う必要はないだろう」
 不服そうに唇を窄めて馨瑠さんは続ける。
「─―例えば……そう、入院している親しい人間のお見舞いに持っていくとか、ね?」
 そういって馨瑠さんはにっこりと微笑んだ。
「な、なんでそれを?」
 当たり前のように断言する彼女に、僕は驚きを隠せない。
「さっき君から聞いた」
「いっていません!」
 この人はやはり、読心術をマスターした魔女か何かなのだろうか? 思わず肩に力が入る。
「そう警戒しなくてもいいじゃないか。君の匂いが、教えてくれた」
「えっ? 匂い?」
 先ほど至近距離で匂いを嗅がれたことを思い出す。
「君から病院特有の、ケミカルで鼻を刺す様な臭いがした。それに配膳食独特の篭るような臭いも。入院しているようには見えないし、お見舞いに行ってきたのだろう? しかも朝から何も食べていないようだね。膵液が胃で分解される際に出るガスの臭いがする……いわゆる口臭と呼ばれるものだ。ストレスで食欲も唾液の分泌も減っているのだろう。それらを総合して考えた結果、親しい人が入院してお見舞いに行ってきた、と推測した訳だ」
 馨瑠さんは流れるようにいうと、フフンと鼻を鳴らし「違うかね?」と得意げに聞いてきた。
「……僕の口、そんなに臭いですか?」
 口を手で覆って息を嗅いでみたけれど、自分では分からない。もしかすると気付かぬうちに口臭を振り撒いていたのだろうか? 想像しただけで、恥ずかしさで死んでしまいそうだ。
「ふふふっ……落ち込み過ぎだよ。安心していい、普通の人はそこまで匂いを感じないだろうさ。私は人より鼻が利くのでね」
 馨瑠さんは満足そうにニタリと口角を上げた。
「なんだ、よかった……でも、匂いでそこまで分かるものですか?」
「分かるとも! 君が思っている以上に匂いは雄弁だ。匂いは嘘を吐かないからね。性格、趣向、生活パターンまで如実に知ることが出来る。今度試しにやってみるといい」
 自信満々に言い切られても、僕は無遠慮に人の匂いを嗅ぐなんて、そんな不躾な真似は出来ない。どうやらこの人は物凄く美人であると同時に、物凄く変わり者のようだ。そんな感想を抱いている間にも、彼女は熱心に商品を売り込んでくる。
「病院は臭うからな。アロマペンダントなんかどうだろうか? いい匂いを嗅げばリフレッシュ出来るぞ。うちは既製品以外にオリジナルオーダーも承っているから、好みに合わせて調香することも可能だ。精油は治癒力を高めてくれるし、お見舞いにうってつけだと思わないか?」
「まあ、確かに。そういわれるとそんな気がしてきました」
「だろう? 分かってもらえたなら話は早い!」
 僕の肯定を購買意欲と捉えたのか、彼女は足早にカウンターを回り込み僕の隣に座った。
「あ、いや、でも、だからといって買う訳じゃないですよ?」
「買うか買わないかは置いといて、私で良ければ話を聞こうじゃないか。食事が喉を通らないくらい不安なんだろう? 見ての通り、この店は暇でね。ちゃんとした客が来るのは久々なんだ。それに……実をいうと、ここまで私のセールストークを聞いてくれたのは君が初めてさ。何故だかみんな早々に出て行ってしまうんだ。何がいけないのだろうね? やっぱり店の見た目が問題なのかな?」
 店内を見回し、馨瑠さんは深いため息を吐く。でも、店の外観が問題なら店内に入ろうとは思わないのではないだろうか。
「あの、まさかとは思いますが……お客さんの匂いを嗅いでいる、とかはないですよね?」
「匂いを嗅ぐのは、私の仕事であり、生きがいであり、習性だ。新しい匂いと出会えば、嗅いでみようと思うのは自然なことだろう?」
 それが何か? とでもいった表情で馨瑠さんはきょとんとしている。
「……それが、お客さんの長居しない原因では……?」
 呆れ顔で指摘する僕を見て、彼女は驚きの表情を見せた。
「そんな……だって猫や犬も、匂いを嗅ぎ合ってコミュニケーションを図るじゃないか。出会い頭に匂いを嗅ぎたいと思うのは、ごく普通のことだと思っていたのだが……?」
 青天の霹靂みたいな顔で、馨瑠さんはあんぐりと口を開けている。
「でも、人間は挨拶がてらにお尻の臭いを嗅いだりはしませんよね?」
 馨瑠さんはそれを聞くと、「むむむ……」と顎に手を置き考え込んでしまった。そんなに難しいことを指摘したつもりはないのだけれど、哲学者のような表情だ。
「なるほど、つまり、それが原因だったのか。誰も教えてくれなかったから、思い至らなかったよ。よし、今度からはもっと工夫をして、気付かれないように匂いを嗅ぐとしよう!」
「いや、そういう問題じゃなくてですね……」
 誰に教えられなくても、常識で考えたら分かるだろうに。この人は今までどんな人生を送ってきたのだろう。僕はこの馨瑠さんという人間に密かに興味を抱いた。