鈴宮一貴が勤める都立清涼高校1年D組には、奇妙な生徒が一人いる。
名門と言えないまでも上から数えた方が早い都内屈指の高校。黒髪に制服をきちんと着こなした聞き分けの良さそうな生徒たちの中で、生まれたてのヒヨコのような金髪が浮きまくっている、如月零だ。
制服を着崩し、指定されたタイではなくどこぞの男物のそれを緩く締め、そのくせ顔には大振りの黒縁眼鏡をかけたりして、どこを目指しているのかさっぱり分からない女生徒。
当然と言えば当然のごとく、周囲は恐る恐る一線を引き、腫れ物に触るように彼女を遠巻きにした。それは教師陣も同様で、そんなナリでありながらも可も無く不可も無い成績をキープし続ける彼女に好んで近づき、指導しようとする者はいなかった。
非行に走るでもなく、何かに逆らうわけでもなく、ただ浮いている。そういう不自然な生き物が、如月零であった。
「うわ」
突然の衝撃に声を上げると、一貴の目の前に何かが転がった。
ぶつかったのだ、と認識するのに一瞬かかった。昇降口に続く校舎一階の廊下に尻餅をついて倒れ込んだのは、件の女子生徒、如月零であった。
「……おー……びっくりしたー……」
二重の意味を込めて呟く。記憶する限り、一貴は零が疾走する姿を見た事が無い。それも前後を確認せず、誰かにぶつかるほど慌てている姿など前代未聞だ。何事にも興味を示さず、何者にも関わらず、日々をつまらなそうに淡々と過ごす。如月零とはそういう生徒であった。
腕時計を確認すると五限目の終わりを示している。
見てくれはアレだが、授業をサボったためしの無い零がこんな所に転がっているのも妙なことだった。
……できれば関わりたくない。
他の教師同様、一貴も零には不干渉を通していた。と言うより、さしたる志も無く成り行きと惰性だけで教師になった一貴は、全ての生徒に不干渉だ。
若い上に顔と愛想だけは良いので一定の好感を得てはいるが、動物のように嗅覚で世界を察知する子どもたちが一貴を本当の意味で信頼することはなかった。反旗を翻すことの無い代わりに、打ち明け話も進路相談もしない。そういう意味では、生徒たちも一貴に対して不干渉であった。面倒な人間関係を嫌う一貴としては、その位置づけに十分満足していたのだが……。
「大丈夫か」
いくらなんでも目の前で転げた女生徒を無視してその場を離れるわけにもいかず、一貴は零に声をかけた。
「……」
返事は無い。
中々立ち上がらないので動けないでいるのかと思ったが、よく見ると零は床に手をついて何かを必死に探している。つられて廊下に目を走らせると、片隅に吹っ飛んだ黒縁の眼鏡を見つけた。
拾い上げて、気づく。
──あれ。これ、度が入ってない。
奇妙に思って一貴は眉をひそめた。見下ろした先の零は確かに、視力を著しく低下させ、視覚以外の感覚で周囲を認識しようとしているように見えるのに。
近づいてしゃがみ込むと、一貴は零のまだ幼さを残した顔を覗き込んだ。そして再び奇妙な感覚に捕らわれる。
こいつ、探し物をしているのに目を閉じている──?
どこか異様なその光景に呑まれて言葉を失っていると、零の細い指先が一貴の足に触れた。それが何であるのかすぐには分からなかった様子で、零の手が一貴の足首を辿る。
「如月」
雛鳥のように頼りないその仕草に動揺して、一貴は零を呼んだ。
「これだろ、眼鏡」
「!」
肩口に眼鏡の縁を押し付けてやると、ひったくるようにして零がそれを奪った。
何て言うか、行動が一々癇に障る生徒だ。
手探りで眼鏡をかけた零が、確かめるようにそっと目を見開く。色の薄いシャンパントパーズに似た、薄茶色の大きな瞳が、猫の目のようだと一貴は思った。
視覚に異常が無い事を確認すると、零が無言のまますっくと立ち上がる。軽くスカートの乱れを直して、そのまま一瞥もくれずに一貴の脇を通り抜けようとした。
「いやいや。ちょっと待て、お前」
シカトか。教師をシカトか。ぶつかって、眼鏡を拾ってもらって、立ち去る前に何か一言くらいあってもいいんじゃないのか。
反射的に腕を掴むと、びく、と零の細い肩が大きく跳ねた。
「触んなっ!」
鋭い声で拒絶して、零が一貴の手を振り払おうとする。驚いて、かえって強く握りしめると、色の白い零の顔がみるみるうちに赤く染まった。
「え」
「は、はなっ、はなせっ!」
動転したのか真っ赤になった零が掴まれた腕をぶんぶんと振り回して一貴から逃れようとする。
「き、如月。如月。落ち着け」
首まで赤くなってぶるぶる震える零に一貴の方が狼狽える。
ギャルめいた容姿に反して、なんだこの初な反応は。
「お、おれに触んな! この……変態っ!」
「変態って。言うに事欠いてお前」
男のような言葉遣い。粗雑な言い回しに反して耳に滑る澄んだ声質。そういえば、こいつの声をまともに聞くのはこれが初めてだと思い出す。
「変態じゃないなら人でなし! 女泣かせ! 男のクズ!」
「お前なあ」
俺の何を知っている。何を。
ゆでダコみたいになった零が、わたわたと必死に一貴の手を引き剥がそうとする。
これがあの如月か。教師からも生徒からも遠巻きにされ、何事にも関心を示さず、醒めた視線を寄越すばかりの、如月零か。
「── 女!」
がば、と顔を上げて一貴を睨み上げると、めいっぱい威嚇して零が叫んだ。
「女っ! 髪が長くて美人だけどちょっと陰気くさい感じの、女……っ!」
「は?」
唐突に繰り出された零の言葉に虚を突かれる。一貴の顔色を見て取って、畳み掛けるように零が続けた。
「背は低めで淡い色の服をよく着てる! 笑う時軽くこぶし作って口元に押し当てるのが癖の! 怒った時怒鳴るんじゃなくてじっとこっちを睨んで来る、女!」
「!」
指摘された女に心当たりがあって、一貴は絶句した。誘われた合コンで好意を向けられるまま体を重ね、その後、短い期間だが付き合いのあった女のことだ。
後腐れ無い付き合いを好む一貴は、女に体以外のものを求めなかったが、女の方は違ったようで、日が経つにつれどこに行っていたの、誰といるの、何をしていたの、私のことどう思っているのとしきりに尋ねては一貴の関心を欲しがるようになった。鬱陶しくなった一貴は別の女──こっちは後腐れの無いただのセフレ──を使って、手ひどくこれを振ったのだ。……そのことを。
どうしてこいつが知っている。
でまかせかとも思ったが、それにしては好んで身につけた服や癖を、零は不気味なほど正しく言い当てた。
「ケータイ」
いつの間にか零の赤かった頬が青ざめている。狼狽しているのは一貴の方なのに、なぜか零は自分が身を切られたような顔をして、それでもなお言い募った。
「風呂場のシャンプー。口紅のついたコップ。ベッドの上の、長い髪。──あんた、恨まれてるよ」
予言者のごとく言い放った零に、思わず一歩後ずさる。
並べ立てられたのは全て、一貴が別の女に仕込ませた細工のことだ。
他に女がいる形跡をあからさまに見せつけ、愛想を尽かさせ、別れ話に持ち込む。そういう算段であった。その上、この通り女には困ってない、面倒な女はごめんだ、お前はもういらない、と言って捨てたのだから、きれいさっぱり光の速さで別れられたものの、零の言う通りさぞ恨まれたに違いなかった。違いないが、何故。
何でお前がそれを知っている──?
ひるんだ一瞬の隙をついて、零が素早く自分の腕を取り戻す。馬鹿力、と小さく吐き捨てると、くるりと背を向けてまんまと昇降口へ向かって走り出した。
窓から差し込む秋の日差しが遠ざかる零の髪をきらきらと照らす。その背中を追う事もできずに、一貴は零を見送った。
まるで見てきたような口ぶりの零の言葉にうそ寒さを感じて、一貴はしばらくその場から動く事ができなかった。