――ねぇ、柴田。 立ち読み

 

  窓側から二列目、一番後ろの席。いつものようにどっかり座りながら、窓の方に背を向ける。窓側から三列目の、一番後ろにやって来た矢野といつものようにくだらない話をしながら、背中では気配を探っていた。窓から入り込む春風が心地よく髪を揺らした、まさにその瞬間─―
「おい、中嶋」
 いつものように背後から声がかかる。来た来た。来ましたよ。はやる心を抑えながら、努めて冷静に顔だけを後ろに向けた。
「何?」
「邪魔」
 秒殺かと思われるくらいの速さで棘のある声が返ってきた。真っ直ぐに見下ろす冷めた視線が、痛みを通り越してむしろ快感。
「はいはい、どきますよ」
 座席と教室の後ろの壁との隙間を塞ぐように座っていたのは、わざとだ。座っていた椅子を少しだけずらす。ギリギリ一人が通れるだけのスペースを作ると、チッと小さな舌打ちが聞こえた。そこをスッと通り抜けていく気配と後ろ姿を、あまり見つめすぎない程度にそっと目で追う。
「柴田こわっ」
 一緒に話していた矢野がおどけながら小さな声でそう言った。
「聞こえるって」
「イヤホンしてんだから、平気だろ」
 教室後ろの出入り口から出ていこうとする柴田の耳からは、白くて細いコードが制服のポケットに向かってつながっている。柴田は授業中以外ほとんどイヤホンをつけている。それでもああやって普通に何か言ってくるから、たぶんこちらの声のほとんどは聞こえているのだと思う。
 矢野の話に適当に相槌を打ちながら、視線は柴田の後ろ姿を捉えていた。廊下を進んでいく横顔は、さっきと変わらずやけに傲慢そうだ。昼休みの喧騒の中であいつの周りだけが切り取られたみたいに浮きあがっている。
 高二になって初めて同じクラスになった柴田優。あいつが、噂通りの変人であることに間違いはない。周囲の人間の日常に強烈なインパクトを与える彼女は、僕の中でもその存在感を着実に強めていた。

「ねぇ、あの子。すっごいキレー」
 柴田はどこにいても目立つ。一五〇センチメートルあるかどうかという小柄な身体からすらりと伸びた長い手足。抜けるように肌が白く、肩にかかるくらいの髪は陽に透かすと綺麗な茶色になる。二重の大きな目に長い睫毛が影を落とし、やけに大人びた表情を見せる。
 長い髪に気だるそうな、いかにも女子高生という群れの中に入ると、その存在感はひときわ目を惹く。入学式の時にはもう、誰もが柴田に釘付けだった。
 加えて、あいつは恐ろしいほどに頭がいい。入学後すぐに行われた学力テストで、柴田は全教科満点という偉業を成し遂げた。……となると、たいていの場合人気者というか高嶺の花というか、羨望の眼差しを向けられるのが筋ってもんだ。
 だけど、彼女の場合はそうはいかなかった。なぜなら、
「おい、お前。邪魔」
 初対面の人間であろうが何であろうが、威圧的な口調と傲慢な態度を見せる。
「そこ、私の席」
 基本的に笑わない。興味のないことや都合の悪いことはすべて無視。何か言われれば十倍以上のダメージを与える辛辣かつ容赦ない反論に打ちのめされる。なまじ頭がいいので、計算しつくされた理論武装で攻められたら誰も歯が立たない。
 黙ってればいいのに、そんなだからかえってタチが悪い。外見に騙されて告白しに行ったヤツのほとんどが、げんなりして帰ってきた。
 一度、逆ギレして彼女に手を上げようとしたヤツがいたらしいが、逆に急所を一撃されたという。どうやら、運動能力や瞬発力も半端じゃないらしい。
 そして、授業が終わると柴田は決まってイヤホンを装着した。クラスの人間と必要最低限のやりとりはするけれど、自分から何かアクションを起こすようなことはしないし、もちろん女子の群れにも属さない。
 そんなだから、あいつは周りから確実に避けられるようになった。とっつきにくいとか、なんか怖いとか、変わってるとか、そういうのが柴田に対する周りのイメージだ。
 やがて、他校の女子をシメたとか、本当は男なんじゃないかとか、実は援助交際をしているらしいとか、本当かどうか怪しい噂が陰で流れるようになった。柴田の背中に視線を向けながらひそひそと交わされる言葉にどれほどの信憑性があったのかはわからない。
 だけどある日を境にその噂もパタリと止んだ。噂を流した張本人に柴田が徹底的に仕返しをしたのだ。いったい何をしたのかは明らかにされなかったけれど、帰りのホームルームで泣きながらそいつが柴田に頭を下げて謝ったという。以後、ますます柴田が腫れ物扱いされるようになったのは、当時クラスが違う僕にもわかった。
 そんなことがあっても、柴田が調子に乗るようなことはなかった。自分から目立って何かをすることはない。周りが何かしなければ、あいつは害を与えるようなことはしない。ただ淡々と毎日を送り、周りの人間とも日常生活を送るのに必要最低限のやりとりはしているようだと、昨年も同じクラスだった矢野が言っていた。
 矢野は柴田のことを『よくわかんねー女』と言って時々話題に挙げていた。外見からはまるで想像もできないその柴田のエピソードに、正直なところ僕は興味があった。時々廊下で見かけるその姿を目で追いながら、決して笑わない、他人を寄せつけようとしない空気をまとったあいつが教室でどんな風に過ごしているのか、チャンスがあるならこの目で確かめてみたいと思った。
 だけど、現実にはそんなチャンスなんてほぼない。そもそも、柴田自身が周りと必要最低限の関わりしか持たないのに、クラスも違う、委員会や部活が一緒なわけでもない僕と、何をどうしたら関わることがあるのだろう。そんなことを思いながら、時々柴田の姿を見かけるだけで、日々は過ぎていった。
 そして今年─高校生活二度目の春、四月。
 柴田と僕は同じクラスになった。
「げ。またあいつと一緒か」
 うんざりした顔でクラス替えの表を見ていた矢野も同じだった。
「縁があるな」
 笑ってそう茶化した僕だったけれど、実際に縁があったのは僕の方だった。最初の席替えで僕と柴田は隣同士になってしまったのだ。驚くと同時に、僕は正直、面白いことになったな、と内心笑いそうになった。
「縁があるな」
 ニヤリと笑ってそう言ってきた矢野に、心の中を悟られないよう冷たい視線を送った。
 突然舞い込んだこのチャンスを生かさないのはもったいない。この一ヶ月、同じクラスでありながら、柴田とはまだ口も利いていなかった。あの鉄壁は誰に対しても変わらないということを傍から観察しながら様子を窺ってはいたが、チャンス到来。小さな悪戯心が僕の中に芽生えていた。こんな変人と関わる機会は、この先ないだろう。だったら、慎重に柴田を観察しながら、出来る限りの接触を試みるのも悪くないんじゃないか。
 クラスの雰囲気が落ち着きだした五月初めのこと。校庭の桜は、その枝に青々とした葉を茂らせ、季節の移り変わりを教えていた。
 中だるみし始めた高校生活へのスパイスと、ちょっとした興味から思いついた出来心のつもりだった。

「……おはよ」
 隣同士になった翌日。教室に入ると柴田はすでに座席に座って本を読んでいた。耳にはやはりあのイヤホンが装着されている。
 それでも隣だし、と、とりあえず声をかけてみた。噂の柴田なので、ちょっと緊張して声が小さくなった。
 そんな気持ちなんてお構いなしに、柴田はこちらを見ることもなく、もちろん挨拶も返ってはこなかった。まぁイヤホンしてるし。聞こえていないのだろう。仕方ねぇな、と受け流して席に着く。
 柴田に挨拶するヤツは基本的にはいない。そこにいるのにまるでいないような、空気のような扱いだ。柴田もそれに慣れきっているのか、結局ヤツは必要なければ誰とも会話をしないまま一日の大半を過ごしていることもある。
 何もしないのも、したところで反応がないのも、両方つまんねーな。
 授業中、そんなことを思いながらそっと横目で柴田の様子を窺った。
 ……お?
 黒板から絶え間なく響いてくるカツカツというチョークの音に被さるように、ノートの上でシャーペンを動かす音があちこちから聞こえてくる。
 そんな中、柴田はまったくノートを取っていなかった。というか、ヤツは校庭の方を向いて頬杖をついたまま微動だにしていなかったのだ。さすがに授業中だけあってイヤホンはとっているけれど、この教室で行われている授業からは切り離されたみたいに、まるで他人事な空気をまとっている。
 五分経っても十分経っても柴田はその姿勢を変えることなく、ただじっと窓の外を見つめていた。そしてとうとう、そのまま授業の終了を告げるチャイムが鳴った。