湯けむりの向こうに麗しく見える、日本一の山、富士。
そして、
「おおきい!」
「やかたのおふろよりおおきい!」
反響する明るい子供たちの声。
「こらこら、走るんじゃない。転んだら怪我をするぞ」
窘める大人の声に、走り出そうとしていた子供たちは、ハッとして足を止める。
だが、子供たちの頭にあるふわふわの獣耳とお尻から出ている豊かな尻尾は、好奇心の表れでぴるぴると震え、ふるんふるんと左右に振れている。
「じゃぐち、いっぱいです」
「かがみもすごくおおきい!」
「おふろでおよげそう!」
「泳げそうでも泳ぐなよー。ここはプールじゃないからな」
窘める引率してきた大人の声に、
「ぷーる?」
「ぷーるってなんですか?」
子供がそもそもな問いをする。
その様子に、大きな湯船に浸かっている大人たちが、
「おや可愛い」
「仔狐の館の者であろうか?」
と話しているが、その大人たちの頭にも立派な獣耳があった。
──ここは銭湯、『稲荷湯』である。
一
京都のとある山の、ふもとよりはやや上、中腹よりはやや下という説明しづらい微妙な場所に、食事処「加ノ屋」はある。
「ごちそうさまでしたー」
「ありがとうございました!」
午後二時過ぎ、ランチタイムの最後の客が店を後にし、店には一人でこの店を切り盛りする加ノ原秀尚だけになった。
客がいたテーブルに向かい、食べ終えられた食器を片づけて奥の厨房に戻る。
流しに食器を置くと、秀尚は冷蔵庫を開けた。
「さーて、俺の昼飯、昼飯、と……。まだまだ暑いからさっぱりめで、でもたんぱく質もとりたいから…」
独り言を言いながら秀尚は納豆を一パック、そしてレモン果汁の瓶とつけ麺用の自家製だしを取り出す。
次に野菜室から長ねぎと大葉を取り出して、最後に冷凍庫から冷凍うどんを出す。
湯でうどんを解凍する間に、長ねぎから白髪ねぎを作り、大葉もくるくると丸めて千切りにする。
納豆をパックの中でしっかり掻き混ぜ終える頃、うどんが茹で上がり、それをしっかり冷水で締めて器に盛り、納豆、白髪ねぎ、大葉を盛ってつけ麺用のだしを回しかけ、最後にさっぱり感を求めてレモン果汁を少し振りかける。
この夏、秀尚がハマっている適当冷やし麺シリーズである。
「いただきまーす」
厨房の配膳台の前にイスを出し、きちんと手を合わせて食べ始める。
「あー、やっぱレモン汁入ると爽やか……」
八月下旬。
殺意の湧くような盆地の夏の暑さからは、ほんのちょっぴり逃れつつあるとはいえ、まだまだ誤差の範囲内だ。
それでも、山の中にある加ノ屋はマシなほうだ……と思いたい秀尚である。
さて順調に食べ終える頃、店に新たな客がやってきた。
ランチタイムは終わっているので、やってくるのは基本的に飲み物だけか、そこにプラス軽食程度の客である。
大学生くらいの三人組の女子で、全員がデザートセット──デザート代金に飲み物代二百円を足した値段で提供している──の注文だった。
「デザートセットが三つ、プリン・ア・ラ・モード、季節のパフェ、和風パフェ、以上の三つ、飲み物はアイスコーヒーが一つ、アイスティーストレートが二つ、以上で間違いありませんか?」
注文を確認すると、はーい、と返事があり、少々お待ちください、と返してから秀尚は厨房に入る。
そして、胸の内で「助かった……」と呟く。
夏の厨房は、クーラーを入れていても暑いものだ。それはこの仕事をしていれば当然のことで割り切っているが、冷たいものばかりの注文で火を使わなくてすむのは、やはり助かる。
もちろん、この後、明日の仕込みなどで火を使うわけだが、それでも少し嬉しいのだ。
手早くデザートセットを作り、順に運んでいく。
先にプリン・ア・ラ・モードと季節のパフェを運び、次に和風パフェと飲み物を持っていくと、三人は先に運んだプリン・ア・ラ・モードと季節のパフェの写真を撮っていた。
それらと一緒に並べられているのは、加ノ屋で販売しているメニューイラストの絵ハガキである。
「めっちゃ、このイラストどおりですねぇ」
プリン・ア・ラ・モードと絵ハガキを一緒に撮影している女子が秀尚に言う。
「むしろ、イラストのほうがおいしそうに見えませんか?」
秀尚が言うと、女子は、
「そんなことないです。ていうか、店の商品と見本がいい意味じゃないほうで違うってこともわりとあるのに、本当に見本のままで感動してます」
と言い、他の女子も頷く。
「この絵ハガキ持ってるってことは、以前もここに来てくださったんですか?」
加ノ屋は通いやすい場所にあるとは言いづらい店だ。
車があれば大丈夫だが、そうでなければ少しつらい。
公共交通機関で来ることができるのはふもとにある「参道口」というバス停までで、そこからは徒歩になる。
そして車で来ることができるのはこの店あたりまで。
参拝客はここからは徒歩で神社まで向かうことになる。
もともとこの店は、山頂近くにある神社への参拝客をターゲットにして作られていた、老夫婦の営む食堂だった。
車で参拝する客は店の前の敷地に車を停めるしかなく、その時の名残で店の周囲の駐車スペースはかなり広い。
店の前に車を停めた大半の客は、駐車料金のつもりも兼ねてこの店で食事をしていったのだと老夫婦は以前話していた。
だが神社の神主が亡くなり、今は参拝客の多くなる祭礼の日や休日に、系列の神社から神主が派遣されてくるだけになっている。
もともと平日の参拝客は多くはなかったが、神主不在ということで休日でも参拝客が減り、老夫婦も年齢的な問題で店を閉める決意をしていた。
秀尚は偶然その頃にこの店と出会い、老夫婦から店を譲り受け、ここで加ノ屋を始めたのだ。
老夫婦時代のうどんとそばの味を守りながら。
ここまで聞けば美談だろうが、それだけではない理由も秀尚にはある。
秀尚は、もともと京都市内のホテルのメインダイニングで料理人として働いていた。しかしそこで職場トラブルに見舞われ──紆余曲折あって、ここを継いだのだ。
もちろん不便な場所ゆえの集客など、不安要素は少なからずあったが、一人で切り盛りしていけるだけの客がいればいいと割り切って始めた。
今は、とある契約のもと「一人で切り盛りしていける客数ながら、いい感じの繁盛具合」である。
「この絵ハガキはお姉ちゃんからお土産にってもろたんです。お店もめっちゃええ感じやから行ったほうがええよって」
絵ハガキを持っていた女子が笑顔で教えてくれる。
「この二つの絵ハガキもあったりします?」
季節のパフェを頼んだ客が自分の商品と、もう一つ和風パフェを指差し、秀尚に聞いた。
「あー、多分あると思います」
「レジ横の棚、見せてもうたんですけど、置いてなくて」
「そうなんですね。ちょっと待ってください」
秀尚はレジに向かうと下の引き出しを開け、その二商品のラベルの仕切りの場所を確認する。
五枚ずつ残っていたので、全部取り出し、一枚ずつを手に持って客席に戻る。
「どうぞ」
「お会計の時に一緒の支払いでもいいですか?」
「もちろんです」
秀尚が言うと、二人は早速、絵ハガキと商品を写真に収める。
この絵ハガキのイラストは、店に時々ふらりとやってくる、食品に関してのイラストなら神レベルの元餓鬼・結が手がけるものだ。
そう、元餓鬼。つまり妖怪である。なお、今は何なのかよく分からない。
きっちり成仏したはずなのに、餓鬼時代に秀尚が『脱・餓鬼』の可能性を求めていろいろとご飯を食べさせた結果、しっかり餌づけしてしまったかたちになり、今でも時々ふらりとやってきては、何かしら食べて帰る。
その結の描く食品のイラストを店のメニューに使ったところ好評で、さらに絵ハガキにしてお試しで販売し始めたところ、結構売れた。
ちなみに、食品以外のイラストを描かせると、たとえば人物などは、棒と丸で構成された、かろうじて人か? と分かるレベルという不思議さだ。
とりあえず、その売り上げは絵ハガキの製作コストなどを引いて「結貯金」として秀尚がちゃんと管理しており、結が食べたものの料金はそこから引いている。
ついでに言えば、結が店に来ると「飲み物だけ」のつもりで来た客も、元餓鬼の威力で、何か食べたいなという気持ちになり、追加で軽食を注文してくれることが増えるので、秀尚にしてみれば福の神といったところである。
しかし、不便な立地にもかかわらず繁盛しているのは何も結の力だけではない。
実は秀尚は、お稲荷様と契約をしている。
職場トラブルに見舞われ、数日の休暇をもらった秀尚は神社仏閣巡り──縁切り神社を含む──をした。
この山の頂上近くにある神社にもその一つとして行くつもりでいたのだが、秀尚はその途中で道を間違え、遭難してしまったのだ。
その時に何が起きたのか、目が覚めたら、「あわい」と呼ばれる、人の世界と神の世界の狭間にある不思議な場所にいた。
そこで秀尚は人界に戻るまでの間、稲荷神の候補生である仔狐たちの食事作りを担い、その時の縁で、今も彼らの毎日の食事を提供する代わりに「いい感じの繁盛具合」の加護をもらっているのだ。
しかし、秀尚がその加護をいいことに堕落すれば、彼らはすぐに手を引くだろう。
対価がふさわしくなければ当然のことである。
だからこそ秀尚は、今もよりおいしいものを作るようにいろいろ試行錯誤をしている。
客たちが食べ始めると秀尚は厨房に戻った。
すると、配膳台の上に一枚のメモが届いていた。
あわいの地にある仔狐たちを養育する萌芽の館で彼らの世話をしている養育狐の薄緋という稲荷からだった。
「えーっと、明日から一人分追加をお願いいたします、か……子供増えんのかな?」
一人分が増える程度なら大して問題はない。
秀尚はすぐに返事を書くと、薄緋から預かっている送り紐という紐でそのメモを囲う。