第1話 早春 新しい同居人と変わり餃子
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北鎌倉の春は、花とともに始まる。
たとえば足許に咲く可愛らしいたんぽぽ。おおいぬのふぐり。ご近所の庭に揺れる清楚な水仙。
そうした身近な花だけではなく、鎌倉のお寺は花で有名なところも多い。
紅梅、白梅、蝋梅。年が明けてから見かけたものを指折り数えると、すぐに両手が塞がってしまう。
あと二、三日のうちに、若宮大路の段葛の桜が可憐な蕾を綻ばせるのだろう。
「あのきいろいのはなんですか?」
三浦悠人の傍らを歩くのは、ぽんた。
見た目は三、四歳児で、トレーナーの上にフリースを着ている。人間の姿になると毛皮がないせいか、ぽんたは悠人以上に寒がりだ。
「あれはレンギョウだよ。初めて見る?」
「まえからしっていましたが、なまえはいま、しりました」
つま先立ちで、ぽんたがつんつんとレンギョウの花をつつく。
「春って感じだね」
長い枝に楚々とした黄色の花が並び、春の訪れにふさわしい華やかな色味だ。葉っぱが出るより先に花が咲くので、そこがまた面白い。
「ぽんた、今日のいいことは見つかった?」
「いま、みつかりました」
「ん?」
「レンギョウのなまえを、おぼえました! とても、きれいなのです!」
獣たちの神様なるものとの約束で毎日地道に『いいこと』を探すぽんたの心に、レンギョウの花の愛らしさは刺さったらしい。
「それはよかった。でも、そろそろ戻らないと……」
「もっと、いいことさがしたいのです!」
「でも」
もこっ。
ジーンズの尻のあたりが大きく盛り上がり、悠人はぎょっとする。
「帰ろう!」
「ふえ?」
「変身が解けかけてるよ!」
「えーっ」
ぽんたが驚いたように振り返ったが、今度は被っていた帽子が上部にぐわっと膨らむ。
まずい。
まだ夕方で人通りも多い時間帯だ。悠人は慌ててぽんたを小脇に抱えると、急な上り坂をダッシュする。
はあはあと息を切らせて門から飛び込み、玄関の鍵をかちゃかちゃと開けてぽんたを家の中に押し込む。同時に、「ふしゅうううう」とぽんたが気の抜けた声を出した。
「セーフ……かな……?」
ご近所さんに見られたかは謎だが、とにかく、間に合った──のだろう。
「すばらしいのです!」
三和土に下ろされたぽんたが、ぱちぱちと手を叩く。
対して、悠人はぜえぜえと肩で息をしていた。
毛羽立ったフリースに、首元のゴムが伸びかけたトレーナー、そしてゆるゆるのジーンズ。これらの衣服は、ぽんたと暮らしているのに気づいたご近所さんがくれたお下がりだ。
──ちっちゃい子と二人で大変ねえ。お父さんなの?
──ええ、まあ。
どうやらご近所さんの設定では、悠人は奥さんに逃げられたシングルファーザーとなっているらしい。
しかし、それは大いなる誤解だ。悠人は独身で、恋人はいない。デビュー四年目で売れない駆け出しのエンタメ作家で、ここ北鎌倉にある友人の家を管理するのと引き替えに、無料で住ませてもらっている。そこに転がり込んできたのが、ぽんただった。
急に降って湧いて同居を始めたぽんたが、じつは赤の他人だと明かせば社会的に大問題なので、ご近所さんに特に弁明をしていない。幼稚園や保育園に行かせないのは、ぎりぎり、教育方針で言い訳できる。
そう、この子は悠人にとっては親族でも何でもない。
何を隠そう、ぽんたの正体は鎌倉でも有名な化け狸──の生まれ変わりなのだ。
何でも、彼を可愛がってくれたのが江戸時代の建長寺の住職で、彼は和尚様にもう一度会いたいがために生まれ変わっているのだそうだ。
神様との約束は、人間に『いいこと』をするというもの。そうして、昔ぽんたが犯してしまった罪を償うのだ。
そして、ちびっこにしか化けられないぽんたを悠人は放っておけず、彼を拾った縁で同居している。
ちなみに、この家の敷地はたまたま動物たちにとっては貴重な霊地で、ぽんたが変身をキープできるのも土地のもたらす力のおかげなのだとか。ほかの動物たちもここでは変身ができるのだから、驚きだった。
そんなぽんたをすんなりと受け容れられたのは、鎌倉という土地柄と、悠人自身が作家という想像の世界に生きる人間だからだろう。
「ごしゅじん、おなかがすいたのです!」
「待っててね、すぐに何か作るよ。夕食何がいいかなあ」
「ゆうごはん! ゆうごはん!」
嬉しげに声を上げるぽんたは、食い意地が張っているので、料理を作るには張り合いのある相手だった。
「きょうもおいしいゆうごはん!」
妙な歌を歌いながら、ぽんたが靴をぽいぽいと脱いで洗面所へ向かう。その靴を揃えてやりながら、これをきちんと片づければ『いいこと』に加算されるんじゃないだろうか、と悠人は密かに考えるのだった。
「ゆうごはんはなににするのですか!?」
「そうだね……たらの芽とふきのとうをもらったから、天ぷらはどう?」
「天ぷら?」
「うん、さくさくでほくほくの天ぷら。あじもあるしね」
「ごちそうだらけなのです!」
ぽんたが浮かれた様子でスキップをしたので、それが微笑ましい。もともと悠人は食べることそのものや自炊は好きだったが、ぽんたと暮らし始めてそれが加速している。食卓は複数で囲むのも楽しいと、ここに来て実感していた。
翌朝、悠人は着古したトレーナーによれよれのスウェットの格好で、軍手をきっちりとはめていた。右手に持つのは、新品のくわだ。先代は年季が入りすぎて柄が折れてしまったので、買い換えたのだ。平らな鉄板はぴかぴかで、今日がデビューだ。
「いくぞ」
悠人は自分に活を入れるように小さくつぶやき、くわを頭上に振る。
「おお、ごしゅじん! ぽーずがのうかさんみたいです!」
ざくっ。ざくっ。
くわを振り上げて、地面に向かって下ろす。それだけの動作なのだが、作家という仕事柄、普段から運動不足な悠人の場合はかなり腰に来る。
「ぽんた、そこにも」
リンリンの指示で、身体を屈めたぽんたが小石を拾う。
髪の長いリンリンは、ぽんたより少し年上と思われる愛くるしい幼女だ。向こうで雑草を抜いているのは、ロンロン。リンリンの兄だった。二人は普段はなぜかチャイナ服を好むが、さすがに今はTシャツとズボンだ。リンリンは髪の毛をツインテールに結わえ、ロンロンはポニーテールにしている。
彼らの正体は台湾リス。彼らはやはり、この霊地の恩恵で変身していられるそうだ。
「よし、あとちょっと」
今のうちに区切りがつくところまで、終わらせたい。
ここに引っ越す以前は狭いアパートで生活していたので、こうして土いじりに没頭する楽しさを知らなかった。
「お荷物でーす」
誰かの声が聞こえてきて、悠人は顔を上げた。
その場にくわを置いてそちらへ向かうと、門前に宅配便会社の制服を着た青年が立っている。
「玄関の前に置いてください」
近頃では習慣になった言葉を告げて畑に戻りかけたが、青年は「あの」と申し訳なさそうな口ぶりで呼び止めてきた。
「たくさんあるけど、いいですか?」
「たくさんって、二個とか三個とかですか?」
「五個です」
「五個!?」
驚きのあまり、悠人の声が上ずった。
確かに悠人も人並みに通販を利用するけれど、だからといって五箱も届くほど買い物をした覚えはない。
「じゃあ、玄関に置いてもらえますか?」
「かしこまりました」
門とドアを開けて、屋内に荷物を運び込んでもらう。
運ばれてきた荷物は、間違いなく五箱あり、いわゆるみかん箱より大きい。たぶん、宅配便で送れる最大サイズに近いのではないだろうか。
送り主は、ここの家主の羽山だった。
献本やら何やらを送ってくれるのはままあるが、こんなにたくさんというのは初めてだ。
「とりあえず、片づけるか」
さすがに五箱も玄関にあっては、邪魔で仕方がない。一番上の一つを持ち上げようと底に手を差し込む。
「うっ」
重い。
数センチ上げかけたところで、一瞬、腰に痛みが走った。
これは──まずい。
羽山の部屋は二階にあるが、そこまで持っていく自信がない。
「ごしゅじん、それはおいしいものですか?」
わくわくした面持ちのぽんたに聞かれ、悠人は苦笑した。
「残念ながら、服と本って書いてある。食べ物じゃないみたいだよ」
「えーっ」
ぽんたは至極残念そうな顔で肩を落とす。
「だれのごほんなのですか?」
「羽山からだから、羽山のかなあ」
そのとき、ぽんたがいきなり振り返った。
「そとに、おきゃくさまです!」
耳を澄ますと、門前にタクシーが停まったようだ。エンジン音や話し声、ドアのばたんと閉まる音からそう推察できる。
門を押し、慣れた様子で鉄扉を閉ざす軽快な音。
玄関のドアを開けて入ってきたのは、羽山だった。
「おはよう! って、荷物もう届いたんだ? 時間指定しなかったのにラッキー」
さすがイケメン、朝から爽やかな空気を身にまとっている。
「おはよ。この荷物、どうしたの? すごい量なんだけど」
悠人が尋ねると、羽山はにこっと笑った。
「じつは、しばらくテレワークになっちゃって」
「あ、そうなんだ」
昨今では、テレワークを導入する会社が増えている。それもあって、都心に毎日通勤しなくて済む層を中心に、鎌倉や藤沢に引っ越してくる人も増加傾向だという記事をネットニュースで読んだ。
「それで、せっかくだから、当分こっちで暮らそうかと思って」
「えっ」
悠人は一瞬はびっくりしたものの、ここは羽山の家で、自分は管理人にすぎない。家主が戻ってきたっておかしくはなかった。
「ごめん、まずかった?」
「まさか。ここの家主はおまえだし、べつに僕に気兼ねする必要ないよ。僕のほうこそ、いると邪魔じゃない?」
「にぎやかで楽しいんじゃないかな。それに、今は悠人に貸してるんだから、おまえがここの主人だろ? 決定権はそっちだよ」
かえすがえす、羽山はいいやつだ。
俺が家主なんだから好きにさせろと言えばいいのに、こちらを気遣ってくれている。
羽山は顔もよく性格もよく頭もいい。三拍子揃った奇蹟のイケメンで、悠人のように清潔感以外は取り立てて長所がない人間からみれば、嫉妬する気も起きない。
大手出版社に勤務する彼は悠人の担当編集で、悠人に投稿を勧めてくれた。危なっかしい二人三脚をしながら、何とか仕事を仕上げている。
「担当編集と二十四時間一緒っていうのも、ちょっと嫌かもしれないけどさ」
「そうかな? 校正とかすごく楽そうだよ」
「いやいや、おまえの場合は著者校正に行き着くまでが大変だろ?」
「うっ」
なかなかプロットが編集会議を通過しないことを思い出し、悠人は言葉に詰まった。
「ごめん、冗談だって」
悪戯っぽく笑った羽山は、右手に引っかけた保冷バッグを振ってみせた。