そこは、真っ暗で、冷気に満たされていた。
様々に積まれている荷物の影で、銀色のおかっぱ髪の少女たちが、心細さを慰め合うようにぎゅっと身を寄せ合っていた。
──おかあさまに、あいたい。
──おかあさまのところに、かえりたい。
泣きたい気持ちでいっぱいで、実際に何度も泣いて。
けれど、どうしていいのか分からない。
もうどのくらい、ここにこうしているのかも分からない。
その時、部屋のドアが開き、同時に電気が点く。
開いたドアから、温かな空気が流れ込んでくるのと同時に、人が入ってきた。
「えーっと、バニラアイス、バニラアイス……」
何か言いながら探し物をして、彼女たちがいる近くにやってくる。
見つかってしまうかもしれない。
ここから移動したほうがいいのかもしれない。
だが、怖くて体が動かない。
「おい、どこ探してんだよ。そっちじゃねえよ。反対側だ」
外から別の人の声がした。
「あ、すみません」
中の人が言って、彼女たちのいるところから遠ざかっていく。
「おお、あった、あった」
目当てのものが見つかったらしく、それを持ってその人は出ていく。
ガチャン、と音がして扉が閉まると、部屋の中は再び暗闇に包まれる。
人が出ていったことに彼女たちは安堵する。
──よかった。
──うん、よかった。
そう囁き合った後、
──はやく、おやまにかえりたい。
──みんなといっしょにかえりたい。
また、同じように繰り返す。
それは、寒い冬の日の、ある日のお話……。
一
「ああああ、今日も一日、よく頑張ったわ、アタシ!」
コップに注いだビールを一気に飲み干した、妙に色っぽい中性的な顔立ちに艶やかな黒髪をした常連客のサラリーマン──口調がアレだが、れっきとした男だ──が言って、そのまま二杯目をコップに注ぐ。
「俺も今日一日、超頑張った!」
その隣に座した明るい髪色の爽やかな様子の常連サラリーマンもそう言って、本日の突き出しであるタコワサを口にして、
「あー、おいしすぎるー!」
と舌鼓を打つ。
「仕事終わりの一杯は、いつ飲んでもいいもんだな」
一
そう返すのは、平安時代の狩衣にも似た衣装を着てクリーム色の髪をした、線の細い美系男子である。
「いいなぁ。僕はこの後、深夜勤務だから飲めないんだよね」
三人の様子に羨ましそうなのは、オネエ言葉のサラリーマンとはまた違う艶っぽさを持つ美男子である。
着ているものが線の細い美系と同じく狩衣に似た衣装でなければ、「ホストかな」と思ってしまいそうな色気がある。
「私も今夜は冬雪殿と同じく、ですね」
一番奥まった場所で急須からお茶を注ぎながら言う男性は、一番落ち着きがある、正統派イケメンで、つまるところ、集まっているのは全員がそれぞれ趣が違うとはいえ、イケメン集団だった。
「じゃあ、冬雪さんと景仙さんは、ちょっとガッツリ系のメニュー出したほうがいいですか?」
そう聞くのは、この居酒屋の店主である加ノ原秀尚である。
いや、居酒屋ではない。
ここは加ノ屋という、京都市外の、とある山の中腹というよりは下、麓よりはやや上という微妙な場所にある食事処の厨房だった。
加ノ屋の日中営業後、秀尚が翌日の仕込みをする厨房に常連客たちが訪れ、居酒屋状態になったのが始まりだ。
とはいえ、この居酒屋の常連客は人ではない。
全員が、稲荷神──正確には稲荷神の神使のお狐様らしい──だった。
なぜ、閉店後の厨房に稲荷神たちがやってきて楽しくお酒を飲んでいるような事態が起きているのかと言えば、それはまだ秀尚がこの店を開く前、ホテルの厨房で働いていた頃にさかのぼる。
職場トラブルで、しばらく休暇をもらった秀尚は寺社仏閣巡りをしていた。
そして、この加ノ屋のある山の山頂付近にある神社に参拝に行く途中で遭難してしまったのだ。
雨の降る中、足をくじいて身動きができず、そのまま意識を失い──目が覚めるとそこは、「あわい」と呼ばれる、人界と神界の狭間にある場所だった。
そこには稲荷神の候補生となる仔狐たちが集う「萌芽の館」と呼ばれる養育所があり、秀尚はしばらくの間そこに厄介になりながら、彼らの食事の世話をしていた。
その時の縁で、こうして無事、人界に戻ってからも大人稲荷たちがやってきていて、なおかつ仔狐たちへの食事の提供も引き続き行っている。
それも、無料で。
いや、彼らへの食事の提供は「供物」だ。
その分、秀尚は彼らからの加護を得ている。
店の立地は決していいわけではない。
秀尚はここを気に入っているが、幹線道路から外れた山の中にあり、ふらりと立ち寄るというよりも、わざわざ来なければならない場所で営業時間も朝十時半から夕方五時までと長いとは言えない。
にもかかわらず、店は繁盛している。
それも秀尚一人で切り盛りするのに、忙しすぎず暇でもないという絶妙にいい感じの繁盛具合なのだ。
秀尚ももちろん、メニューの研究は怠らないし、日々努力はしている。
だが、彼らの力添えがなければここまで順調にはいかなかっただろうと感謝をしている。
その感謝を示すのが食事の提供だと思っているが、とはいえ、彼らとの関係はさほど堅苦しいものではない。
「ガッツリ系のメニュー、心惹かれるね。頼もうかな」
ホスト系稲荷の冬雪が言い、
「嬉しいですが、加ノ原殿の負担では?」
もう一人の落ち着き系イケメン稲荷景仙が気遣ってくれる。
「大丈夫ですよ。酒飲みチームの野菜を増やして対応するんで」
秀尚が笑って言うと、
「おいおい、一日の仕事を終えた俺たちも肉を欲してるぞ?」
線の細い稲荷の陽炎が即座に返してくる。
「帰ったら寝るだけなんですから、そんな高カロリーのものは必要ないです」
「そうなのよねー、帰ったら寝るだけなんだけど、夜の高カロリー系って背徳っていうスパイスも手伝って、魅力的なのよね」
ため息交じりに言うのはオネエ稲荷の時雨である。そして、
「ていうか陽炎殿、一番飲み食いしてんのに、ぜんぜん太らないよね? ある意味すごくコスパ悪い」
明るく笑うのはこの中で一番若手の稲荷である濱旭だ。
若手といっても、百五十歳はカタく、普通の人間である秀尚からすれば超年上である。
「そうなんだよね。陽炎殿、昔っから食べても全然太らないんだよね。もしかして、お腹に虫でもいるのかな?」
おいしいものは食べたいが太る、と気にしている冬雪が、疑惑の眼差しを陽炎に向ける。
「さすがにそれはないだろう。失敬だな」
そう言いながら陽炎は笑っている。
「あー、でも有名なオペラ歌手が痩せた理由が寄生虫だったって噂があったわよね。真偽のほどは分からないけど、確かにすごく痩せたもの」
時雨の言葉に、他の稲荷たちは「壮絶」と呟く。
「女子は体重が一キロ増えただけで大騒ぎよ。でも、コンビニに行けば魅惑の商品の群れなのよねぇ」
悩ましげに言う時雨に、
「クリスマスからお正月、それで来月にはバレンタインでチョコレートっていう食の祭典みたいな流れだもんね!」
納得したように濱旭が言う。その言葉に頷いてから、時雨は秀尚を見た。
「そういえば秀ちゃん、今年はお正月休み取らないの?」
毎年、加ノ屋は正月も休まずに営業している。
今年もそうだった。理由は、さすがに年末年始は山の上の神社に参拝する客が増えるからだ。
その代わり一月下旬に遅い正月休みを取ることが多い。その間は、居酒屋も休みにすることがほとんどだ。
そもそも、この正月休みだけは、里帰りで留守にすることもある。
「あー、今年は二月に取ろうと思ってます」
「二月に? 何か予定があるのか?」
陽炎が問う。
「専門学校時代の友達が結婚するんですよ。その結婚式に呼ばれてるんですけど、東北なんです」
「冬の東北って、雪がすごいわよ」
時雨がやや心配そうに言う。
「ええ。だからついでに、その友達に、スキーでも楽しんでいけばって言われて、雰囲気のいいコンドミニアムを紹介されたんですよね。知り合いの人がやってるところで、友達割引価格にしてくれるっていうんで、久しぶりにちょっとゆっくりしてこようかと思ってます」
「ってことは、その間は店も休みになっちゃうんだよね?」
確認するように濱旭が問う。
「そうですね、すみません」
謝る秀尚に、濱旭は慌てて頭を横に振る。
「謝んないでよ、おめでたいことで出かけるんだし」
「そうよ? それに秀ちゃんだって、たまには命の洗濯も必要だわ」
時雨も続けて言うのに、秀尚は、ありがとうございます、と返す。
確かに普段は休みらしい休みはない。
加ノ屋の定休日は毎週水曜日と、第一、第三火曜日だが、その日はあわいの地から萌芽の館の子供たちが秀尚に会いに、遊びにやってくる。
もちろん彼らが来れば遊び相手をしなくてはならないし、ご飯作りもある。
それでも、疲れを感じないのは、彼らに癒されているからだと思うし、こうした夜の居酒屋(明日の仕込みも兼ねているが)にしても、客の彼らが稲荷という特別な存在だからかもしれないとも思っている。
「子供たちには、もう話してあるのか?」
陽炎が問う。
「薄緋さんには話してあるんですけど、子供たちには明日、俺から直接伝えようと思ってて……。それで、俺がいない間の子供たちのご飯なんですけど、皆さんにお弁当とか買ってもらうことになるんです。お手数をおかけしますけどお願いします」
秀尚が言って頭を下げる。
「加ノ原くん、そんなふうに改まらないでよ。そりゃ、一応はこの店を繁盛させるっていう約束もあって、僕たちや子供たちの食事を提供してもらってるわけだけど、充分すぎるくらいにしてくれてるんだから」
冬雪が言うのに、濱旭も頷く。
「そうだよ、大将。大将もたまにはちゃんと休まないとだし」
「ありがとうございます」