花屋の倅と寺息子 柄沢悟と迷い猫 立ち読み

 
   一  柄沢悟と迷い猫


 この街に来て早二年目、俺・柄沢悟も大学三年生になった。
 長い冬を終えた四月上旬。北海道にあるここ、絹子川市にももうすぐ春が訪れようとしていた。
 今日の風はいつもより暖かい。ほんの数ヶ月前まではコートも手放せないくらい冷たい風が吹いていたのに、上着だけで十分だ。空は雲一つなく晴れ渡っているし、輝く日差しも気持ちがいい。こんな日は日向ぼっこをしたくなる。わかる。わかるけれども。 「……かと言って、不法侵入はねえよなあ……」
 快晴な天気と違い、俺は憂鬱な気分になっていた。原因は、足元にいる不法侵入者にある。
「……どうしてくれるんだよ、お前……」
 本堂の階段に腰掛けながら、俺はそいつに話しかける。だが、そいつの返事は「にゃー」の一言だった。
 不法侵入者とは、この子猫のことである。しかも、俺の足にスリスリと好意を示すように体を擦りつけてくる。
 どうしてこんなことになったのか、ぜひとも話をさせてほしい。
 俺の家は寺だ。仕事で忙しい住職の親父の代わりに境内の掃除をしている。今日もこうして一人境内を箒で掃いていたのだが、その最中に桜の木の下で小さな黒い影が動いた。何かと思って見に行ったら、この子猫が?気に寝転がっていたのだ。
 生後三、四ヶ月といった所か。目がくりっと大きく、毛が茶色い雑種の子猫だ。そしてこの通り、なぜかやたらと俺に懐いている。
 こうしてこいつがピッタリとくっつくから離れるにも離れられないでいた。無論、逃げようとも試みた。だが、家の中にまで入ってこようとするし、距離を取ってもすぐに寄ってくる。家の中に入ったら入ったで悲しい声で「にゃーにゃー」鳴かれた。無視してもずっと鳴いているし、何よりもなけなしの良心が痛んだので、仕方がなくこうして様子を見てやっている。
 誰かに助けを求めたいが、親父は仕事、弟の瞑は進学先である大学のサークルオリエンテーションと弓道部の体験入部で夕方まで帰ってこない。このまま夕方までこいつの世話をしなければならないのだろうか。流石にそれはしんどい。
 困惑で短い黒髪をがしがしと搔いていると、子猫は喉をゴロゴロと鳴らしていた。この際誰でもいい。誰か俺を助けてくれ。密かに救いを求めるが世の中そんな都合良くいくはずがない。
 そう思った直後、まるで助けを請う声が届いたかのように寺の境内に一台のバイクが入ってきた。
 運転手は俺の前でバイクを停めると、被っていたフルフェイスのヘルメットを取った。
 頭を振って襟足の長い橙色の髪を直したそいつは、俺の顔を見てニコッと笑う。
「やっほー、こんな所で何してるの?」
 彼の名は高爪統吾。俺と同じ絹子川学院大学に通う友人だ。普段は実家が営む「高爪生花店」という花屋を手伝っているのだが、仕事がない時はこうしてアポイントなしで遊びにやってくる。だが、今回ばかりは助かった。
 先ほどまで俺の太ももで寝転がっていた子猫が統吾に気づいて顔を向ける。視線がぶつかり合う統吾と子猫。だが、警戒しているのは子猫だけで、統吾はすぐに目を輝かせた。
「えー! 何この子ー! どうしたの〜!?」
 統吾の高いテンションに子猫は驚いて体をびくつかせる。しかし、統吾のほうはお構いなしに子猫を軽々と抱き上げた。
「『どうしたの?』って言われても、こっちが知りてえよ」
 だが、話を振っておきながら統吾は聞いておらず、子猫をあやしていた。「話を聞けよ」と思ったが、正直子猫から解放されてホッとしている。
 一方、最初はびっくりしていた子猫はすぐに彼の腕の中で落ち着いていた。どうやら彼の抱き方が上手いようだ。意外にも猫の扱いは慣れているらしい。
「お前……もしかして猫好きなのか?」
「好き好き。断然猫派。多少引っ搔くかもしれないけど、犬みたいに吠えないし。ね〜」
 そう言って統吾はニコニコしながら子猫に頬ずりする。嫌がるかと思ったが子猫も満更でもないようで満足そうに目を細めていた。
「この子って野良? 首輪はしてないし、体も汚れてないけど」
「さあな。でも、体は泥がついてたからさっき雑巾で拭いた」
「雑巾って……可哀想に……」
「泥ついた体で寄られたらこっちが汚れるだろ。ていうか、野良猫ってこんなに人懐っこいものか?」
「うーん……捨てられたのかなー」
「寺の境内に? 罰当たりな奴だな。仏もキレるぞ」
「仏っつうか、キレるのはさとりんだよね。あと、もうキレてるよね」
 眉間にしわを寄せた俺を見て統吾は半笑いする。この「さとりん」という呼び名にも突っかかりたい所だが、今はそれすらどうでもよく感じるくらいイラついていた。
「まあ、捨てることに関しては俺も怒るけど……とりあえず警察に電話してこの子が迷子届け出されてないか聞いてみるね」
「お、おう……そっか。そういうの聞かなきゃいけないのか。なんか詳しいな」
「前にちょっとだけ捨てられた子犬の世話をしていた時があってね。その時色々と調べたの」
 そう言って統吾は子猫を「高い高い」するように掲げた。どうやら雄か雌か見ているようだ。俺は気にしていなかったが、確かにこういう情報もちゃんと伝えなくてはならない。珍しくこいつが頼もしく見える。
「よし、雄な。ちょっとこの子抱っこしてて」
 と、統吾は俺に子猫を手渡し、少し離れて電話をし始める。
 統吾の腕の中にいた時は大人しかった子猫だったが、俺の所に来た途端、生き別れてからの再会のごとく体を擦りつけてきた。やたらと擦りつけてくるからスマホで調べてみるとどうやら自分の匂いをなすりつけて自分の物にしようとしているらしい。俺はお前の所有物じゃねえよ。
 とはいえ、猫の扱いに慣れている統吾より俺に心を開いているのは確かなようだ。だからといって困ることには変わりないのだが。
 こうして統吾の電話を待っている間も子猫は俺に懐き、ついには自ら進んで腹を見せるようになった。「へそ天」とはこのことか。ここまでリラックスされるのは悪い気はしないが、相手は子猫。嬉しくはない。とりあえず「にゃー」と強請られたので、適当に腹を撫でておく。
 しかし、統吾のほうも電話がなかなか終わらない。どうやらたらい回しにされているようだ。やっとの思いで電話を終えた統吾だったが、戻ってきた彼は浮かない表情で「うーん」と唸っていた。
「どうだった?」
「いろんな課にめっちゃ電話回された……しかもすぐにはわからないから、調べてみるってさ。折り返し連絡は来るけど、時間はかかりそうだよね」
「あー……だよな」
「あとは動物管理センターにも電話してって言われた。でも、今日は日曜日だしね。明日電話してみるけど、どちらにしろ今の所は連絡待ちだね」
 そんなすぐに手放しで喜べる状況にはならないか。しかもこのまま飼い主が見つからなかったらこいつは殺処分。ここまで懐かれておいてそれは心苦しい。
「お前……猫飼う気はないか?」
「今まさに同じことを訊こうとしてたよ。とりあえず俺の家は店もあるし世話できないから無理かな。店の金魚で手いっぱい」
「そうだよな。金魚が食われるかもしれないもんな」
「物騒なこと言わないでくれる!?」
 率直に言うと、統吾に凄い剣幕でツッコミを入れられる。その声に驚いた子猫はビクッと体を震わせ、統吾から逃げるように俺の背後に隠れた。
「ごめんごめん。驚かしたね。えっと……」
 子猫に謝った所で統吾が言葉を詰まらせる。子猫の名前を言いたかったようだが、残念ながら今はこいつに名前はない。
「『子猫』って呼ぶのも可哀想だし……とりあえず仮の名前つけてあげる?」
「仮の名前って……なんか候補でもあるのか?」
 なんとなしに尋ね返すと、統吾は「そうだな」と腕を組んで考え出した。
「とりあえず『ゲレゲレ』は?」
「『ゲレゲレ』って……もっと可愛らしい名前ないのかよ」
「えー……んじゃ『チロル』」
「なんかチョコレートみたいな名前だな……まあ、茶色いからいいか」
 名前が決まった所で俺は子猫、もといチロルを抱きかかえ、自分の太ももの上に置いた。
 俺の前にしゃがみ込んだ統吾が「チロル〜」と名前を呼ぶ。こいつも気に入ったのか、しっぽをピンと立てて統吾を見た。仮名は合格したらしい。だが、仮名をつけたのはいいとして根本的な問題は何も解決していない。
「とりあえず連絡が入るまで飼い主か親猫探す?」
「探すって、どうやって?」
「うーん……聞き込み……は、難しいか」
 統吾が困り顔で考え込む。提案したは良いものの、彼自身次の一手が決まらないようだ。
 正直、俺はまだ飼い猫か野良猫かもわからない状態で聞き込みをするというのは難しいと思っていた。闇雲に探した所で時間の無駄だ。それに、まだ捨て猫という線も捨てられない。こういう時、魔法でもなんでも使えればいいと思うのだが……。
 ─ああ、そうだ。魔法ではないが、これなら行けるかもしれない。
「統吾。お前、チロルについてる?気?を追えないのか?」
「え?」
 俺の案に統吾が裏返った声をあげる。しかし、ここはこいつの特技を生かす絶好の機会だと思っている。
 そもそも?気?というのは人や物が発している独自の『オーラ』だ。『陰気』や『陽気』などの言葉があるように森羅万象?気?を放っている。統吾はその?気?を感じ取るのが得意で、人や物探しは勿論、霊視なんかもできる。その過敏な体質のせいでこの世のものではない─俗に言う幽霊も視えてしまう。ただ、幽霊が視えるのは俺も同じ。明るくて目立つ統吾と不活発で控えめな俺という二人がこうしてつるんでいるのはこの『視える』という共通点からなのだが、残念ながら俺にはそんな高度なことはできない。
 ただ、いつもは「任せて」と胸を張る統吾だが、今は困ったような表情を浮かべていた。
「俺……動物の?気?を探るなんて上手くいった試しないんだけど、大丈夫かなあ」
「感覚って違うのか?」
 統吾はコクリと頷く。彼曰く、俺と会う前に友達の飼い猫や知り合いのペットの探索を手伝ったのだが、その時は気配がぶれて探ることができなかったらしい。
「多分、俺たちと見ている世界が違うんだろうね。動物だからきっと俺たちよりずっと辺りを警戒しているんだ。それがシールドみたいになって自分を護ってしまうから、探ろうにも探れない」
「へー、そんな違いがあるんだな」
 万能だと思っていたから、そういった縛りがあることが意外だった。それでも統吾は「やるだけやってみる」とそっとチロルの額に手をかざした。
 辺りに集中しているのか、統吾は静かに目を閉じて動かなくなった。
 ピクリとも動かない統吾に、見ているこっちまで緊張してきた。ただ、チロルだけが不思議そうな表情でかざされた統吾の手のひらを見つめていた。
「……ん?」
 緊迫した空気だったのに統吾が気の抜けた声をあげる。どうやらチロルの?気?を探り終わったようだ。
「どうだった?」
「うーん……多分だけど、行けた」
「え? 行けた?」
 あれだけ自信がなさそうだっただけに思わず聞き返す。ただ、一番成功を疑っているのは統吾自身で、「あれー?」と小首を傾げていた。彼がこんなリアクションを取るのは珍しい。
「そんなに感触ないのか?」
「いや、逆にはっきりと視えすぎて怖い。今まで霊視した時ですらこんなに視えたことないのに」
「それは、成長したってことか?」
「う〜ん……よくわかんない。俺自身、何か変わった感じはないし」
 腑に落ちない統吾は神妙な顔つきで考える。違和感が彼を困惑させているようだ。
 無言の統吾をチロルはつぶらな瞳で見つめる。統吾はそんなチロルに力なく笑い、優しく彼の頭を撫でた。
「どうした?」
 やけにテンションが低い統吾に尋ねるが、統吾は「なんでもない」と首を振る。
「とりあえず行ってみようか。この子のためにも」
 そう言って統吾は撫でていたチロルから手を離し、背中を向けた。その態度が統吾らしくなくてしっくり来なかったが、チロルはそんな彼に頼み込むように、「にゃー」と小さく鳴いた。