「ぼく、このひきだしにするー」
「じゃあ、ぼくはここです」
壁面いっぱいにある、たくさんの小ぶりの引き出しがついた箪笥を前に、ふわふわの獣耳と尻尾のある愛らしい子供たちが、興奮した様子で選んだ引き出しを開ける。
「これ、勝手に開けてはいけませんよ」
注意する優美な面差しの青年──にもふわふわの獣耳と、四本の尻尾がある──の言葉に引き出しを開けた子供たちは、
「じじせんせい、いいっていったよ」
「ひとり、いちにちにいちどだけ、あけていいって、じじせんせい、いいました」
そう主張する。
その言葉に青年は一つ息を吐き、
「無理を言って、約束を取りつけたのでは?」
子供たちの可愛いおねだりを撥ねつけられる者は多くない。
たいていの者は根負けするか、最初から白旗をあげて「仕方ないな」とおねだりをきいてしまうのだ。
それを心配して青年は問うが、
「大丈夫ですよ、わりとすんなりOK出されてましたから」
様子を見ていた青年──こちらは耳も尻尾もない普通の人間だ──が言葉を添える。
「ならよいのですが……」
少し安堵した様子の獣耳の青年の語尾をかき消すように、
「ちょこれーと、はいってた!」
「ぼくは、ちょこちっぷくっきーです」
引き出しの中に入っていた大好きなおやつを嬉しげに報告する子供たちの声が、室内に響く。
ここは「懐かし屋」。
不思議な店の、一つである。
一
ここは京都。
といっても市内からは離れた、交通の便もいいとは言い難い、とある山の麓よりはやや上、中腹よりはやや下という微妙な位置に一軒の食事処がある。
名前は「加ノ屋」。三十前の年若い店主が一人で切り盛りする店だ。
もともと、ホテルのレストランで料理人として働いていた彼の作る料理はどれもおいしくて、リーズナブルだと評判で、不便な位置にあるというのに訪れる客は多い。
午前十時半に開店すると、閉店時刻の午後五時まで客が途絶えることがほとんどない。
さて、その閉店後の加ノ屋の夜の厨房では、店主である加ノ原秀尚が翌日の仕込みをしていた。
その彼の背後では配膳台をテーブル代わりに、数名の客が酒を飲んでいた。
平安貴族風の軽装から、普通のサラリーマンらしいスーツ姿の、今夜は常連フルメンバー五人が集まっていた。
「五人」といっても、彼らは人ではない。
今は、耳も尻尾も隠しているが、立派な稲荷神なのだ。
「なんか、久しぶりにこのメンツって感じだねー」
ビールを手酌で注ぎながら言ったのは、人界で「人の動向調査」のため、人間のふりをして働いている稲荷の濱旭だ。快活な青年といった様子の彼がいるといつも場が和む。
「そういやそうだな。暁闇殿も宵星殿も、どちらもいないとは珍しい」
そう返すのは平安風装束を纏った陽炎である。儚げに見える容貌をした彼だが、性格は儚さとは程遠い。
濱旭と同じく快活だが、その快活さは「やらかし系」を伴うもので、彼が何かを思いつくとひと騒動起きるのがお約束だ。
「宵星殿は昨日は来てたよね。暁闇殿は……ここ三日くらい見てない気がするけど」
姿を見せない他の客のことを思い出しつつ言うのは、物腰が柔らかく、妙なフェロモンさえ漂わせている気がする冬雪だ。人当たりのいい彼を、秀尚はこっそり「前世がホスト」だと思っている。もっとも稲荷に前世があるかどうかは分からないが。
「任務に入っちゃったのかもしれないわね」
呟いたのは、濱旭と同じく人界で働いている時雨だ。中性的な容姿と口調から女性と間違われそうだが、男である。なお、一八〇センチ近い長身のため、立っていると女性と間違われることは少ないが、ないわけではない。
「任務にいつ入るか、基本的に外部に告げられぬのが彼らですが……しばらくご一緒していましたから、少し寂しい気もしますね」
そう言うのは、この中で唯一の妻帯者である景仙だ。常連五人の中では一番落ち着いていて常識人だが、それゆえに巻き込まれやすい性格でもある。
暁闇と宵星は新たに、居酒屋に来るようになった双子の稲荷なのだが、所属している部署が隠密行動を主としているため、いつからどんな任務に入るか、ということは同じ部署の者でも知らされないことが多いらしい。
最近、姿を見てないなと思ったら、任務で留守にしていた、といった様子だそうだ。
「まあ、戻ったらここに来るだろ。なんてったって、連中も加ノ原殿に胃袋を掴まれてるんだからな」
笑って陽炎は言い、続けて、
「さて、次に俺の胃袋を満たしてくれる料理はなんだい?」
と、次のつまみを催促してくる。
普通の人間である秀尚の店に、閉店後、こうして稲荷たちがやってくるようになったきっかけは、まだ秀尚がホテルのレストランで働いていた頃にさかのぼる。
職場でトラブルに巻き込まれた秀尚は、与えられた休暇を使って神社巡りをすることにしたのだが、今、この加ノ屋がある山の頂上近くの神社にお参りをしようとした際に遭難しかけ、気がつくと「あわいの地」と呼ばれる、人間の世界と神様の世界の間にある場所に辿り着いていた。
そこで稲荷の候補生の子供たちや、大人稲荷たちと出会ったのだ。
その時の縁で、こうして人界に戻っても彼らが遊びに来るようになっている。
彼らに出す料理はすべて「供物」ということで無料なのだが──酒はすべて彼らの持ち込みだ──その代わりと言ってはなんだが、辺鄙な場所にある店にもかかわらず、いい感じに繁盛させてくれることになっているのだ。
実際、店はたいした宣伝もしていないのにかなり繁盛していて、秀尚が一人で切り盛りするのにちょうどいい──時々、手が回らないくらい忙しいこともあるが、待たされて怒り出すような客はこれまで一人もいない──繁盛具合なのだ。
もちろん、そういう契約があるから放っておいても繁盛するなどと秀尚は思っていない。そんなことを思って手を抜いたりすれば、彼らに呆れられるだろうし、約束はなかったことになるような気がする。
もっとも、料理を作ることは天職だと秀尚は思っているので、手を抜くような気はさらさらないのだが。
「次は、ちょっと趣向を変えてこんなものを出してみようかと」
秀尚はそう言ってコンロであぶっていたものを皿に並べて彼らの前に差し出した。
「あ、五平餅だ!」
「珍しいね、どうしたんだい?」
ご飯ものの好きな濱旭は餅系も好きらしく目を輝かせ、冬雪は意外なものが出た、といった様子で聞いた。
「友達が長野へ行ったらしくて、お土産にくれたんです」
秀尚が答える間に、皿の上の五平餅は秀尚の分を残してあっという間に売り切れる。
「ああ、懐かしいな……」
一口食べて呟いたのは陽炎だ。
「何か思い出でも?」
問う秀尚に陽炎は頷いた。
「ああ。俺が初めて使者として、神界の地方の宮を回っていた時だ。もちろん、俺だけじゃなくて他のベテラン稲荷も一緒だったが、緊張の極みでな」
「陽炎さんでも、緊張なんてするんですね」
秀尚の言葉に陽炎は首を傾げた。
「おまえさんの中で、俺はいったいどんなふうなやつになってるんだ?」
「どんなふうって、そのままですよ? ちょっとやそっとのことじゃ動じないっていうか、むしろどうやったらもっと面白くなるかって感じで遊び倒そうとしてるっていうか」
さらりと返した秀尚に、聞いていた他の稲荷全員が頷き、
「まあ、大して外れてないよね」
冬雪が代表して肯定する。
「まったく……。だが、人生は楽しんでいくら、だろう? とはいえそんな俺でも当時は経験値が低かったからな、いろいろと緊張することもあったわけだ。まあその中でちょっと粗相をして、それなりに落ち込んでいた時に向こうの宮の接待役の稲荷が五平餅と茶を持ってきてくれてな」
陽炎が言うのに、
「どんな粗相したのか気になる!」
濱旭が、あえて陽炎がぼかした部分に切り込んだ。
「それを聞くか?」
「アタシだって興味あるわよ。陽炎殿が落ち込むような粗相なんて」
返した時雨に、冬雪と景仙、そして秀尚も頷く。その様子に、
「相手方と、同行した俺の上役稲荷の話が弾んで、その間俺は、相槌を打つ程度でずっと待ちの姿勢だ。足も崩さす、な」
陽炎の言葉に、その後の展開を読んだ全員が、「あー……」という顔になる。
「長い長い話が終わって、それでは、と退室する時、足の感覚が完全になかった俺は二歩目で盛大に素っ転んだ。そりゃあ、もう見事にな」
「……知ってる相手ならまだしも、初対面の相手の前だと、気まずいですね」
当時の陽炎の気持ちを慮って景仙が言う。
「でも、和む系の粗相でよかったと思うよ」
冬雪も続け、それに陽炎は頷いた。
「ああ。今の俺なら、そう思うし、笑ってやりすごせるが……当時の俺には、自分の失態で、暗に『おまえらの話が長すぎるからこうなった』的に取られやしないか、とか、『あの程度の正座ができないとは、本宮の教育はどうなってる』と侮られやしないか、とか、まあいろいろ考えてな。客間に戻って、上役稲荷は酒宴に出たが、俺は微妙にまだ酒宴には不適当な年回りだったから客間に残ったんだ。そうしたら、向こうの稲荷がってわけだ」
「陽炎殿にも、そんなささやかな失態に胸を痛めるセンシティブな時期があったのねぇ」
時雨がしみじみと言うのに、
「いや、俺は今でもセンシティブだぞ?」
陽炎はそう返しながら、五平餅をかじる。
「センシティブって、どんな意味だったっけ?」
冬雪が首を傾げると、
「感じやすい、とか、敏感、とか?」
濱旭が返す。
「ああ、それなら今もそうなのかな。主に敏感な方向が『面白いこと』に振りきれてるだけで」
冬雪の言葉に全員頷く。
「言いたい放題だな、おまえさんたち」
返しながらも陽炎は笑って、
「そういうおまえさんたちだって、失敗の一つや二つはあるだろう? 冬雪殿はどうだ?」
隣に座している冬雪に振った。
「そうだねぇ……、いろいろあるけど、本宮で初めて白狐様にお会いした時に緊張しすぎて、ぼーっとしちゃったんだよね。それで白狐様が心配して大丈夫かって声をかけてくださった時に、『大丈夫です、お母さん』って返しちゃってね」
「お父さんならまだしも、お母さん……」
濱旭が即反応する。
「そうなんだよね、せめて『お父さん』だよね、そこは」