1
八月の夜空に、下弦の月が浮かんでいた。
「お疲れ様でした!」
「お疲れ、大和。また明日も頼むな!」
「はい!」
声をかけ合いながら、大和大地は職場の通用口をあとにした。
ほっそりとした姿に優しい面差し、かけた眼鏡に月が映る。
見た目、気弱そうにも見える青年だが、芯は強く働き者だ。
(空が綺麗だな)
今夜は遅番に、三十分ほどの残業が重なった。
それでも職場から自宅アパートまで徒歩十分という近場のため、二十三時前には帰ることができた。
「ただいま〜」
部屋まで着くと、誰が待つわけでもないのに、大和は玄関扉を開いたところで声を発した。
半畳ほどの玄関は、その半分が土間になっており、入居当時は慣れない狭さでもたついたが、今ではスムーズに上がり下がりができる。
大和は、脱いだ靴を左手側面に設置された、天井までのシューズボックスにしまって中へ入った。
短い廊下を進む左手には、トイレ、洗濯機置き場、洗い場に洗面所を兼用した二点ユニットバス。
右手浴室前には一畳程度だが、二口コンロ・グリルが設置されたミニキッチンとスリム型の冷蔵庫が置けるスペース。
そして、奥の扉を開くと、クローゼットを含む八畳ほどの洋間スペースが広がっている。
築二十年を超える十階建て鉄筋コンクリート、七階角部屋1Kバストイレつきだ。
また、部屋を突っ切った先のテラス窓、ベランダからは新宿御苑が見渡せる。
旧・新宿門衛所の前にある職場から、大木戸門方面に十分も歩けば、自宅アパートだ。
会社の住宅補助があったからこそ、実費五万円程度で借りられた。新卒入社二年目の大和の給料からすれば神物件である。
外観内装共に、多少の古めかしさはあるが、まったくもって気にならない。
“コーディネートに困ったら、床とカーテンを同系色に。あとはお値打ち価格の新生活シリーズ家具を同系色で揃えて配置しておけば、あら不思議。ちゃんと整った部屋に見える。あ、ただし照明だけは小洒落たものをこっちで選んで送ってあげるから、それをつけて! これで大概、第一印象・好青年の住まいになるはずよ! あとは、出したものは必ずしまう! いい、必ずよ!!”
ちょっと年の離れた姉の教えどおりに、言われるままに買い揃えたインテリアが、都会の一人暮らしを充実させてくれている。
ただし、最大の言いつけたる“出したものは必ずしまう!”を守っていればだ。
「あ、そういえば、今日は慌てて出たんだっけ」
大和は、部屋に入るや否や、中央に置かれたローテーブル上に出ていたコーヒーカップやポットをキッチンへ移し、洗って片づけた。
また、ゴミになるだけなのに──と思いつつ、中を確認したダイレクトメールなどを捨てて、すっきりしたところでエアコンの電源を入れ、シャワーを浴びてパジャマ兼用のTシャツと短パンを身に着ける。
(ちょっと、お腹が空いたな。こういうときこそ“飯の友”に寄れたら、狼さんの美味しいご飯やおつまみが食べられる上に、烏丸さんのおもてなしを受けて、未来くんたちの可愛い寝顔も見られるのにな)
そうして冷蔵庫を開くと、昨日実家から届いた夏野菜を中心とする食材あれこれが、所狭しと詰められていた。
入りきらない分は隣の部屋で大家の親戚だという、可愛らしい老婦人にお裾分けをしたのに──。
冷蔵庫の上にオーブンレンジを置きたくて、容量控えめなスリードアにしたのが、今にして思えば間違いだったかもしれない。
しかし、月に一度の定期便たるこれらは、大和にとっては貴重な生活費補助。
それより何より、お礼電話をすることで、実家の両親や同居の姉夫婦、甥と姪の様子も窺えるので、心身のいずれをも支えてくれるエネルギー源だ。
とはいえ、今から調理となると、面倒に思える。
だが、引き出し式の冷凍庫を開くも、中にあるのは冷凍可能な実家からの野菜たち。
お腹に溜まりそうなものは、今朝まとめて炊いて小分けした炊き込みご飯しかない。
それも水分が多かったのか、若干べったりな仕上がりになってしまった上に、味も濃くなってしまった残念な品だ。
見れば、まだ四食分入っている。
「前に狼さんのところで食べた、鶏とごぼうの炊き込みご飯が美味しかったから、真似してみたけど。やっぱり囲炉裏の土鍋炊きとは違うのかな? そもそも、豚コマと人参のあり合わせで作ったところで、まったく真似になってない? 同じメーカーのめんつゆを持っていたから、味だけでも同じになればな──と思ったのに」
首を傾げながら、ついぼやく。
自分で聞いていても、突っ込みどころは満載だが、それでもお腹の足しにはなるので、一人前を取り出してレンジにかけた。
きゅうりやトマトなら丸かじりですむが、仕事帰りの深夜には物寂しいからだ。
「あ、そうだ。卵かけご飯にしたら、気にならないかも」
思いつくと当時に、チン──と音がした。
大和はさっそく、豚と人参のべったりご飯を丼に移して、野菜と一緒に送ってもらった生卵を割った。
「大丈夫。これに旨味三昧とお醤油をちょっと垂らしたら、絶品具入り卵かけご飯になるはず」
幼少の頃より、絶対的な信頼を寄せているアミノ酸系旨味調味料をパッパとかけて、お醤油も垂らして、箸と共にローテーブルへ。
「いただきまーす」
だが、意気揚々と混ぜて、一口頬張ったところで「ん?」と首を傾げた。
一つ一つは間違いがないはずの具材、調味料なのに、どうしてか美味しいとは思えない。
それでも、空腹に負けて、二口、三口と食べ進める。
「ん──っ」
今更だが、卵かけご飯は、ご飯が美味しく炊き上がっているからこそ絶品なのだという基本的なことを実感した。
そして、あれは白米と卵だからこその黄金メニューであって、味ご飯との相性はまた別だ。
もともと卵かけを前提にして作られた炊き込みご飯ならまだわからないが、一品料理として作られた、それも炊き上がりが残念な味つけご飯となると、こういうことになる。
「いっそ、次はこれを焼いてみる? 海苔とか加えたら、また違う? あ、おじやにすればよかったのか!」
誰も突っ込む者がいないので、一人であれこれ考える。
だが、このままいくと、どうもアレンジャー系の飯マズになりそうだ。
何より人間の脳とは不便なもので、一度“美味しくない” “失敗した”と認識してしまうと、そこから焼こうが煮ようが“やっぱり美味しくない”と認識されがちだ。
それこそ他人がどうにかしてくれるならまだしも、美味しく作れなかった自分がこの上何をしたところで、美味しくなるはずがないという思い込みも生じるのかもしれない。
ただ、そうした脳の記憶や錯覚を抜きにしても、今夜の卵かけご飯は微妙だった。
食べられなくもないが、美味しくないのは、一番踏ん切りがつかずにモヤモヤするパターンかもしれない。
いっそ「まずっ!」と言いながら「でも、もったいないから食べよう」のほうが、まだ納得がいきそうだ。
「よし! 明日は“飯の友”へ行こう! もう、この行き場のない残念感を払拭できるのは、狼さんの美味しいご飯と烏丸さんの最高接客、そして未来くんたちの可愛い笑顔しかない! 抱っこして、ぎゅーして、撫で撫でするぞ!」
結果、大和は出勤前外食を決めて、使い終えた食器を洗って片づけた。
これ以上、余計なことは考えたくないので、歯磨きを終えたらスマートフォンの画像をチェック。
以前撮った豆柴の幼犬&ベビーにしか見えない未来・永・劫を眺めて、ニンマリ。
気分を回復させてから、眠りについて明日を待つことにした。
ただし、冷凍庫の中に、まだ残念な炊き込みご飯が三食分ストックされている現実は、変わりようがなかったが──。
2
残念ご飯で凹んだ気分は、美味しいご飯で!
大和は気分を回復するべく、昨夜から幾度となく口にした?飯の友?という名の食事処へ行くことにした。
(今日のランチはなんだろう。そもそも夕方から夜の十時までしかやってないのに、“そっちは遅番早番といった縛りもあるだろうし、まかないでよければ出すから、いつ来てもいいぞ”って。狼さん、男前すぎて嬉しいよ〜)
食後はそのまま出勤するために、必要最低限の品だけを入れたリュックを背負って、軽快な足取りでアパートから一路、旧・新宿門衛所へ向かう。
しかし、この“飯の友”、普通の食事処とは大きく違った。
新宿御苑に扉を設けた“狭間世界”と呼ばれる異世界にあり、店を切り盛りしているのが人間や獣人に変化ができる店主のニホンオオカミで、接客は鴉。
また、この店を常連とするのも人間界で変化して働き、生活している狐や狸といった変化できる妖力を持つ動物たちが大半なのだ。
当然、初めてこれを知ったときには、夢かうつつか幻か?
これが世に言う、あやかし? などと、大和も首を傾げた。
だが、そこは持ち前の臨機応変ぶりというのか、あまり気にしない性格というのか。
とにもかくにも、
“こんな素敵な世界にご縁があった僕は、最高についている! 絶対にこれからも行きたい! みんなと会いたい!”
──と願い。
むしろ、これが夢でないことを祈り、二度目に店へ訪れることができた後には、早々に常連客の仲間入りを果たしたほどだ。
それほど、この食事処のメニューや店主たちが魅力的だったのもあるが、中でも店主の甥と姪である未来と双子の姉弟、永・劫が人懐こくて可愛かったのもある。
人間の幼児や赤子に変化している姿も可愛いのだが、スマートフォンの画像にあったような、元のオオカミっ子が豆柴に見えるようなサイズと容姿も最高だ。
お兄ちゃんしている未来が抱っこサイズなら、もっちりしたお尻と短い手足が魅力の永と劫は更にコンパクト。
とにかく大和は、初めての子供の誕生に歓喜する両親を飛び越し、初孫誕生にメロメロなジジババ状態に陥ってしまったほどだ。
今となっては、日々働く自分へのご褒美が、この“飯の友”での食事であり、小さな友達となった未来・永・劫とのスキンシップになっている。
(誰も見てないよな? というより、変にキョロキョロしたら、逆に怪しまれるか)
浮かれた大和は、足早に歩いたためか、十分もかからずに旧・新宿門衛所へ到着した。
ただ、開門している門ではなく、あえてその隣に設置されている通用口のような門へ向かう。
年季がかった片開きの鉄製扉に利き手を伸ばし、押し開くようにして通り抜ける。
(確か、日中に通る場合は、抜けると同時に門衛所のほうへ曲がると見せかけるのがいいって、言ってたっけ)
閉じられたままの通用門を抜ける姿が他人に、実際どう見えるのかはわからない。
だが、普段から空を行き来する鴉からは、
“たとえ誰かが近くにいても、普通に門から入ったように見えるだけなので、そこは大丈夫です。また、入るときに意識して衛所側へ身体を向けると、門を通った直後に建物で姿が見えなくなるという効果も与えられますので、より安全です。あと、御苑内にいる人間からは、もともと出入りしている姿は見えませんので、ご安心を”
などと言われたので、それを信じて、大和は門を通り抜けた。
(それっ!)
なんとなく勢いづけて踏み込むが、体感的には何がどうということはない。
ただ、狭間世界へ入った瞬間、大和の視界には緑の木々が美しい森が広がった。
一見すると新宿御苑内のそれにも見えるが、木々の隙間からは日本家屋の食事処“飯の友”が見える。
暖簾のかかった引き戸の脇には、準備中の札がかけられていた。
(やっぱり、忙しいかな?)
あれほど浮かれて来たのに、一瞬、遠慮から足が止まった。
「おう、大和。お前もか」
「ひっ!!」
しかし、いきなり背後から声をかけられ、小さな悲鳴が漏れる。
「あ、悪い。脅かしたか」
「孤塚さん」
背後に立っていたのは、二十代後半から三十過ぎくらいの男性に見えるよう変化している、人間名・孤塚と名乗る狐だった。
白のスーツにグレーのストライプが入った黒のシャツ。
金髪をワックスで軽く跳ねさせ、金のイヤーカフスにチョーカーを身に着けた派手な出で立ちでの勤め先は、歌舞伎町のホストクラブ。
聞けば店ではナンバーワンらしいが、今は耳に尻尾が生えている獣人バージョン。
艶やかな尻尾がもっふもっふしており、大和の触りたい、愛でたい衝動を駆り立てる。
さすがに大人相手なので、我慢したが──。
「いえ、ちょっとビックリしただけです。おはようございます。ランチですか?」
「まあな」
挨拶をしながら、自然と店へ足が向く。
僅かに生じた躊躇いも、同伴者を得たことでなくなった。
想定していなかった孤塚にも会えたし、大和からすれば、今日は幸運なスタートだ。
しかも、「ちわーっす」のかけ声と同時に暖簾を潜り、引き戸をガラガラと開けた孤塚に続いて入ると、
「いらっしゃいませ。ああ、孤塚さんに大和さん。今日はお早いですね」
第一声を上げたのは、接客担当の烏丸だった。
スラリとした身体に、漆黒のスーツ、シャツ、ネクタイ。足下の靴までもが黒で統一されているのが、鴉の変化らしい二十代半ばに見える男性だ。
鋭く冷淡にも見える眼差しをしているが、とても気立てがよく、目元を覆うように流れる前髪は鴉の濡れ羽色そのもので、艶々としていて、とても美しい。
本人曰く、もとから口角が下がっているので、接客に不可欠な笑顔を作るのには、そうとう苦労しているようだが、大和からすればまったく問題に感じない。
内面からにじみ出る彼の穏やかさだけでも充分なのに、クールな見た目と言動から醸し出される品のよさと言ったら、英国貴族の館に出てくるような執事さながらだ。
腰に巻いたソムリエエプロンが似合う最高の接客係である。
「珍しいな。二人一緒か」
「おはようございます。早くから、すみません」
「丁度、店の前で会ったんだ。ってか、もう腹減って。何を出されても二人分は食べられそうだから、よろしく!」
そして、続けて声を発したのは、当店の店主であり調理担当の人間名・大神狼と名乗るニホンオオカミ。
元が大柄かつシャープな肢体に鈍色の毛色をしているためか、変化した姿も長身に鈍色の長髪を後ろで一つに結んだ、どこから見ても三十代半ばのイケメン男性だ。
大和はオオカミにも容姿端麗や端整な面差しという言葉が似合うものがいるのだな──と、彼を見て知ったほどだ。
また、彼が纏う粋な藍染めの着流しにたすきがけ、腰にきつく巻いた前かけ姿が、一枚板で作られたカウンターテーブルと共に、こぢんまりとした造りの“飯の友”を、最高に小洒落た大人の隠れ家的な和食処に見せる。
それこそ見た目だけなら、素材に拘る気難しい高級料亭の板前だが、当人は「食えれば文句ない獣舌」を自覚し、企業努力の結晶をリスペクトしまくる調味料コレクターだ。
特にめんつゆは気に入っているようで、一般家庭でよく見るメーカーからご当地物まで、それはもう豊富に買い揃えている。
ある意味、大和が彼の正体を知るよりも驚いた事実だったかもしれない。
だが、そうした調味料使いもあって、狼の作る食事は家庭料理のそれと同じ安堵感を覚える素朴な味がする。
これはこれで自宅に帰ったような気分まで味わえる、大和にとっては最高のご飯だ。
さっそく五席ある席を勧められたが、すぐに腰をかけたのは孤塚だけだ。
なぜなら、
「あんあん!」
「きゅおん!」
カウンターと対面に設置された四畳ほどの座敷スペースからは、画像で見るよりも何万倍も可愛い双子の姉・永と、弟・劫が、サークルに掴まり立って、尻尾をブンブン振っていたからだ。
狼の姪と甥でありながら、ベースの毛並みは金茶色。
これがオオカミなのに豆柴ベビーに見える一番の理由ではあるが、精一杯伸ばしても短い足からチラリと見えるピンクの肉球が、これまた可愛さ爆発で。最近大和は、「このままでは危ない人になってしまう!」と、危機感を覚えるほどだ。
しかし、この危機感はまったく役に立っておらず──。
「おはよ〜。永ちゃん、劫くん、今日も可愛いね〜っ」
「あんっ」
「きゅお〜ん」
大和は座敷へ直行すると、まずは両手に永と劫を抱っこし、その場に腰を下ろした。
間違っても落とさないようにしてから、二匹を抱いた腕を胸元まで上げて、両の頬を永と劫のそれとくっつける。
二匹も抱っこが嬉しいのか、小さな耳をぴょこぴょこ、尻尾をフリフリ。
大和の頬をペロペロしたあとは、小さな肉球でぺんぺんしながら、「おはよう」「いらっしゃい」をしてきた。
(幸せ!)
だが、至福にはまだ足りない。
大和が店内を見渡す。
「──あ! 大ちゃん来た!」
すると、店の奥から満面の笑みの未来が現れた。
奥で何かしていたのか、園児ほどの姿に耳と尻尾を出した獣人姿で駆け込んでくる。
「未来くん! おはよう!!」
「わーいわーい! 大ちゃん、おはよう!」
未来は両手を目いっぱい広げると、大和が抱えた永劫ごと“抱きっ!”としてきた。
何から何まで愛らしい。これぞ至福だ。
この時点で、残念ご飯の記憶も抹消だ。
視界に映るぴょこぴょこ動く耳と、大きく左右に振られる尻尾は、もはやこの世のすべての残念を吹き飛ばしてしまうほどの威力がある。
ただし、この効果を感じるのは、大和とこれに共感できる一部のモフモフスキーに限定されるが──。
なんにしても、可愛いと美味しいは正義だ。
今やこれが大和の座右の銘だ。
「大和さん。未来さんたちも、用意ができましたよ」
そうこうしている間に、カウンターテーブルには、ガラス皿に盛られた見た目にも涼しげな冷やしきしめんが並んだ。