百々とお狐の本格巫女修行 立ち読み

 
 卒業と最初の試練


 三月最後の日曜日の早朝。
 もう四月になろうかというこの時期だというのに、前日の夕方から夜中にかけて雪が降った。うっすらと積もる程度で、しかもその後雨に変わったらしく足元が溶けかけた雪でぐしゃぐしゃだった。
 新潟はいつも小学校や中学校の卒業式の頃にぐっと冷えるんだけど、今年はそれが少しずれこんだ感じかなあと、百々はコートのボタンを首元までしっかり留めた。
「百々さん。やはり私が運転します」
「いいのっ! お父さんは心配しなくて大丈夫だってば!」
 外に出てもまだ食い下がる丈晴を百々はさすがにうんざりしながら遮った。
「もうお願いしてあるから! ここでお父さんにお願いし直したら、お願いした人に失礼でしょ!」
 玄関の前に古い型の黒いセダンが停まっていた。
 運転席から降りてきたのは、東雲天空だった。
「おはようございます」
「おはようございます、東雲さん。今日は、えっと、大おばあちゃんが本当にもうとんでもないご無理を」
 義父の丈晴の申し出を断ったのは、曾祖母の一子が東雲に同行を依頼してしまったからだった。
 今日、百々は『加賀百々』から『四屋敷百々』になり、『在巫女』となるために、県北部にある神社に向かうのだ。
「このたびは、何と申し上げていいやら。年寄りの我儘に付き合わせることになりまして、お詫びの申し上げようもありません」
 百々以上に、丈晴が東雲に頭を下げる。
 一子は東雲に『百々ちゃんが少し遠出をしなくてはいけなくなって。せっかくですから、感覚を忘れないうちに運転もさせておきたいのですけれど、しっかりした方にご一緒していただかないと心配で心配で。その点、東雲さんは警察官でいらっしゃるから、運転はベテランですわねえ。しかも、若い娘が一人で遠出ともなると心配で心配で』などと突然電話をしたのだ。
 そのときの百々の声にならない恐慌度合いは、今の頭を下げ続ける丈晴以上だった。
 そうして、あれよあれよという間に、一子は東雲と日時まで打ち合わせてしまった。
 あとから自分の部屋で百々は東雲に詫びの電話を入れたが、東雲の方は相変わらず「いえ、担当ですから。ご連絡ありがとうございます」といつもの台詞で答えた。
 担当と言われてしまうと、百々はいつも少しだけもやっとした気持ちになる。
 何がどう担当なのか、そもそも担当とは何なのか、東雲にも百々にもちっとも説明がないまま今日に至る。
 おそらく、四屋敷が関わる事態が警察の介入を余儀なくされるようなことになったときに、担当するということなのだろう。そういう意味なら、そうちょくちょくと東雲と会うこともなかろうと百々は思っていたが、出会った後立て続けに東雲を頼らなければならないような出来事に巻き込まれ、東雲と頻繁に連絡をとることになった。
 その度に東雲は「担当ですから」と言うのだ。
 そりゃあそうだよね……担当とかって言われなかったら、警察官の東雲さんが私に関わるわけないもん―――
 生活安全課に配属されている東雲に、他の形で関わるとしたら、未成年の非行か犯罪か虐待か。
 そのいずれも、百々は当てはまらない。
「百々ちゃん」
 自分も行くと言い出しかねない丈晴を振りきっていると、玄関から一子が百々を呼んだ。
「いいですね? 特別なことをするのではありませんよ」
 ひたりと百々を見据える眼は、笑みを浮かべる口元とは裏腹に真剣な光を帯びている。
「これから赴く神社で、あなたの気持ちを素直にお伝えなさい。心の底から、お願い申し上げなさい。ただ、ひたすら自分の内をさらけ出して、了承を得るのです」
 どうやって、という方法は何一つ教えてもらえない。何をもって了承を得たことになるのかも、百々は知らない。
 ただ、これだけはわかる。
 一人の女神に生涯の護りを助力を乞い、それを約束される。それをしなければ、おそらく本当の修行には入れないし、四屋敷の、ひいては在巫女の地位は継げない。
 だから、百々は行かなければならないのだ。
 助手席に百々が座ろうとしたら、東雲が「違います」と言った。
「加賀さんが運転してください」
「え、嘘! ほほほ本気ですか、東雲さん!」
 一子が電話で頼んだのは、東雲を呼び出して百々を送らせる口実だと思っていた。
 しかし真面目な東雲は、それを担当としての仕事の一つととらえたのかもしれない。
 一子の言い方も、本当にそれらしかったのだ。
「しっかりした方にご一緒していただかないと」「東雲さんは警察官でいらっしゃるから」「運転はベテランですわねえ」などなど。
「免許証は持ってきていますか」
「はい」
 身分証にもなると、百々は免許を取ってからずっと持ち歩くようにしている。写真写りにかなり不満はあるのだが、しばらくその顔のままだ。
 知った道の方がいいからと言われながら、百々はおずおずと運転席に乗った。
 サイドミラーを確認すると、心配で顔色まで変えている丈晴が映る。
「座席の位置を調整してください。ルームミラーも同様に」
「は、はい!」
 まるで自動車学校の教官だと思いながら、百々は座席の下のレバーを引いて前に出た。大柄な東雲に合わせた座席では、足をピンと伸ばしてもアクセルやブレーキを上手く踏めない。
 言われるがまま調整して、ようやくエンジンをかける。
 発進する前に、東雲から一通り説明を受ける。車種によって、レバーもボタンも違うからだ。シフトレバーからウインカー、果ては窓の開閉まですべて教わり、一度動かしてみてから車幅灯を点灯させると、百々はそろそろとアクセルを踏んだ。
 ミラーに、今にも走り寄ってきそうな丈晴と、にこにこと手を振る母の七恵が映る。
 玄関の中の一子は見えない。
 大おばあちゃん、どんな顔で私を送り出したんだろう―――
 今日、私がやり遂げられるって本当に思っているのかな―――
 私が大おばあちゃんの後継に相応しいって―――
 そんな風に考えるのも、四屋敷の塀を越えるまでだった。



 百々が高校を卒業したのは、今から約四週間前、三月最初の金曜日。
 十八歳、三年間通い続けた新潟県立江央高校の卒業証書授与式だった。
 卒業式前の教室で、久々に会った友達と会話が弾む。
 百々は卒業後、実家の四屋敷を継ぐための本格的な修行が始まる。
 そして百々の友人たちも、それぞれの道を歩むことになっている。
 高校生活で大したことも起きず、それなりに仲のいい学級でいられたのは、百々をはじめこの学級の生徒たちにとって、幸せなことだった。
 友人らの中には式の途中で泣き出してしまう子もいたが、これが終わったら卒業しちゃうんだなあと、ぼーっと考えていた百々に涙はなかった。
 退場後、百々は級友らと担任を待ち構えて記念撮影をし、プレゼントを渡した。
 その後親友たちと別れた百々は、いつもと変わらず自転車に乗って学校を後にした。
 式には母が来ていた。朝、他の家庭のように校門前の卒業証書授与式の立て看板の前で写真を撮ったが、帰りの約束はしていない。
 こんな日も、百々には神社が待っているのだ。
『宮司も言っていたではないか。今日くらいは、家族で卒業を祝ってくるといいと』
 コートに下の制服のポケットに入っている御守りから、香佑焔の声が百々の頭の中に響いてくる。
 香佑焔は稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神に仕える神使である。狐の耳と二股の尾をもつ青年の姿をしている。
 元々いた神社が廃れて、紆余曲折の末人間を憎み堕ちたのだが、四屋敷の当主である一子によって、元の状態に戻ることができた。
 今は、四屋敷の敷地内に建てられた小さな社に住まい、分身を御守りに憑けて百々を常に守っている。
 耳と尾を除けば、真っ白い髪をもつ端正な顔の青年なのだが、それを見ることができるのは、今のところ百々と曾祖母の一子だけである。
「けど、佐々多良神社で働くのも、あと数日なんだもん。ちょっとは頑張らなくちゃって思わない?」
 ペダルを踏みこみながら三月の冷たい空気を深く吸い込むと、つきりと肺が痛い。
『そういう生真面目な面は評価しよう』
「それにさ、お父さんの勤めている学校だって今日卒業式でしょ。そんなに早く帰ってこられるわけじゃないし、いいのいいの。それより、大変なのは引っ越し後かなあ」
 三月半ばに、百々は三年間近くお世話になった佐多家から自宅へ戻ることになっていた。
 実家の四屋敷を継ぐため、後継は代々三年間佐々多良神社で修行するのだと言われ、高校の入学とともに実家を出されたが、それがもうすぐ終わるのだ。
『まだ二週間ほどあるではないか』
「二週間しかないんだってば。それに、家に戻ったら、大おばあちゃんからどんな厳しい修行を申し付けられるやら……考えただけでとほほなんだけど、そこはまあ、ね」
 代々四屋敷の女当主が通ってきた道だ。
 百々だけが例外になることはない。
 新潟の三月にしては穏やかな天気の日だったが、自転車で風を切って走るにはまだまだ寒く、手袋をしていても指先が冷える。空気は冷たく、イヤーマフで耳を保護していなければ切られるように痛いくらいだ。マフラー越しに吐き出される呼気が白い。雨の日は歩きやバスで通ってきた高校も、今日のような寒いくらいで済むような日は自転車だ。
 神社の駐輪所に着いて自転車を降りるころには、百々の鼻の頭も耳も寒さで真っ赤になっていた。
 社務所の受付で挨拶をし、更衣室に鞄を置くと、着替える前に朝持たせてもらった弁当を取り出す。
 そこへ、ちょうど巫女の中でも百々の姉的存在の桐生華が入ってきた。おっとりした女性で、実家はこの神社からさほど遠くない場所で洋菓子店を経営している。
「あら、もう来たの、百々ちゃん。卒業おめでとう」
「ありがとう、華さん」
「はい、これ、卒業のお祝い。と言っても、うちの店の焼き菓子の詰め合わせなんだけどね。代わり映えしなくてごめんなさい」
「そんなこと、ちっとも! ありがとう、華さん! わあ、こんなに可愛くラッピングしてくれるなんて嬉しい!」
 百々は、華と一緒に弁当を食べたあと、さっそくマドレーヌを袋から取り出し、二人で半分ずつ食べた。
 バターの香りと風味が、幸福感を否応なしに高める。
 百々はご機嫌なまま午後の自分の仕事を始めた。
 いつものように夕方暗くなるまで仕事をしようと思っていたら、この佐々多良神社の宮司である佐多忠雄老宮司に声をかけられた。
 厳格な老人だが、百々に接するときはずいぶんと物腰が柔らかくなる。
「百々ちゃんや。今日はこれでお帰り」
「え、でもまだ手水舎から参道の方の掃除が」
「今日は史生も卒業式の日だからの。二人そろってとはめでたいめでたい」
 家ではご馳走を用意しているよと言われ、一瞬百々はぱあっと顔を輝かせたが、すぐに真面目な表情に戻った。
 佐多家の長女、佐多史生は、百々と同い年である。
 佐多家に下宿することになった百々は、最初は友達になれるかもとわくわくしていたのだ。
 なのに、史生に最初から嫌われ、仲良くどころか同じ屋根の下にいても、ほとんど口をきくこともなかった。
 仲良くなりたいと思っていた百々には、史生がここまで自分を嫌悪する理由がわからず、しかしなるべく波風立てぬよう下宿生活して一年と少し。
 とうとう史生が百々に対して感情を爆発させ、百々は喧嘩になるよりはと自ら身を引き、一時下宿先を変えた。
 それが、高校二年の二学期のことである。
 その後、紆余曲折があり、百々は佐多家に戻ることができた。
 史生との仲が好転したかと言われると、微妙なところだ。確かに以前より百々に対するきつい態度は緩んだ。だからと言って、通う高校も違い、受験を控えて神社の方にもあまり顔を見せない史生と、じっくり話をしたことはほとんどなかった。
 それでも百々が話しかければそれなりに返事を返すようになったのだから、それでよしとしてきたのだ。
 その史生は、一月の大学一次試験ののち、先月末に二次試験を受けた。地元の国立大学の一般入試である。
 合格発表は、卒業式の日からさらに六日後だ。ということは、まだ史生は大学の合否を知らない状態で、ある意味一番ぴりぴりしているはずである。
 史生は、滑り止めを受けなかった。落ちたら、浪人してもう一度受けると両親に言ったのだ。
 二年の途中までは、三つ上の兄と同じ東京の私立大学に行くのだと家族に言っていたらしいので、見事な方向転換である。
 そんな史生の合否がまだわからないのに、卒業を祝っての夕食会というのはいいのだろうかと、百々はおそるおそる老宮司に尋ねてみた。
「そりゃあ、よかろう。卒業というのは、人生のいくつかある節目の一つで、三年間学業を無事に修めたというめでたい日じゃ。百々ちゃんも史生も、よく頑張った」
 自分の家族には滅多に温和な笑顔を見せない忠雄が、にこにこしながら何度も頷いた。
 別に家族に対して情がないわけではない。むじろ、本来は愛情深い人物なのだ。
 ただ、代々続いてきたこの佐々多良神社に奉職する家系だからこそ、家族びいきにならないよう、そのように外部から見られぬよう、常に厳しく接してきた結果、身内に対してよりきつく当たっている印象を与えていただけなのである。
「さあさ、お帰り。連絡を入れたい相手もおるじゃろうし」
 昼食を終えて、さあ! 働くぞ! とはりきってからまだ一時間も経っていないのに、結局百々は帰ることになった。
 華にそのことを告げると、その方がいいわと忠雄の配慮に賛同されてしまった。
 せわしなく着替えながら、連絡を入れたい相手って誰だろうと、百々は考えてみた。
 母は卒業式に列席してくれたので、それでいい。
 父は勤務校の卒業式なので、忙しい日中に直接声を聴くのは難しいだろう。メールを入れておくくらいが関の山だ。
 曾祖母の一子には、さすがに電話するつもりでいた。
 今後の生活について、話し合っておかなければならないからだ。
 家族以外の知り合いで、連絡を取っておかなければならないとすれば……。
「……東雲さんかなあ」
 高校二年の秋、佐多家から曾祖母の知り合いの家に下宿することになった百々に紹介された警察官、東雲天空。百々の「担当」として連れてこられた東雲は、百々の実家がある区の警察署の生活安全課の警部補だ。
 これまで、何度か世話になり、百々の人とは違う力も受け入れてくれた、身内以外ではもっとも信頼できる人物の一人である。
 百々が佐多家に戻ることになったとき、月に一度のメールでの安否確認と、月に一度以上の佐々多良神社訪問による確認をするということになり、それ以降一年以上一度も反故にされることなく続けられてきた。
 百々や四屋敷の「担当」が、いったいどういう役目をもつのか、東雲だけでなく百々自身も正しく理解していない。
 一子がまったく説明しないまま、ここまできたからだ。
 自分と十七歳も離れた東雲に、卒業しましたという報告をわざわざ入れるべきなのだろうかと、百々は迷った。
 しかし、佐多家から実家に戻れば、もうさしたる用事がない限り、会うことはなくなるかもしれない。
 一子担当だと自分で言っている刑事の堀井とて、実際に四屋敷に顔を出したのは百々が空き家に入って保護されたからであって、その前に頻繁に一子と連絡を取り合っていた様子もない。
 夜、東雲にメールをしようと決め、百々は佐多家に戻った。
「ただいま帰りました」
 声をかけながら玄関を開けると、百々の声を聞きつけて私服姿の史生が出迎えた。
「あ、しぃちゃん」
「あんた、こんな日まで神社に行ってたの?」
「あー、うん。でも、佐多のおじいちゃんに帰れって言われちゃった」
 百々は靴を脱ぎながら史生と話した。
 会話が弾むところまでは仲が深まっているようには思えないながら、百々とそれなりに口はきいてくれるようになった。
 元々、史生は陽気な質ではないのかもしれない。つんけんした態度と誤解されるような言動も彼女にしてみれば普通通りに話しているだけのようで、百々も遠慮せずにしゃべるようにしている。
 高校二年の冬、史生は自身をも傷つけかねない行動に出て、伊邪那美命の荒魂の力の一部にさらされた。激しい消耗以外は精神の変調もなく済んだことに、百々は胸を撫で下ろしていた。
 そんな史生は、退院してしばらくすると、髪を切った。日本人形のようにまっすぐで黒々とした長い髪をばっさり切り、ベリーショートにしたのだ。
 カットして帰ってきた史生を見て、史生の家族が絶句した。
 百々は、『うわー、しぃちゃんて髪の毛短くしても似合うんだなー、モデルみたいに小顔だから、ショートにしても美人だー』などとふわふわ笑っていたら、史生に睨まれた。なので、素直に似合うねなどと言ったら、変な顔をされた。
 百々が本気でそう言っているのか嫌味なのか、史生としては迷うところだったらしい。
 自分に睨まれた百々がにこにこしているので、一応誉めているのだと判断し、史生はぶっきらぼうに「ありがと」と返してきた。
 今、玄関で百々と話している史生は、スキニージーンズに白いニット姿で、相変わらずショートヘアである。
「待っててね、着替えてくるから」
「なんで待ってなきゃいけないのよ」
「いいじゃん。しぃちゃんとこの卒業式の話でも聞かせて。私立と公立って違うよね?」
「あんた、何気に上から目線に聞こえるわ。卒業式なんて、どこも一緒でしょ」
 返ってくる言葉は柔らかくないが、刺々しさもない。
 百々は、キッチンにいた史生の母親に帰宅の挨拶をし、手を洗いうがいをすると、部屋に行き私服に着替えた。
 着替えてダイニングへ降りていくと、史生の母親が用意しておいてくれたのか、テーブルの上にコーヒーとシュークリームが置いてあった。
「わあ、シュークリームだ!」
「あんたはいいわね。シュークリームだけでそんな喜べて」
「なに、しぃちゃん、嫌いなの。じゃあ、もらうよ、遠慮しなくていいから」
「嫌いじゃないわよ! あんたに遠慮なんかするわけないでしょ!」
 百々が手を伸ばすと、史生は慌ててシュークリームの乗っていた皿を自分の方に引き寄せた。
 コーヒー用のポーションミルクを持ってきた史生の母親が、二人のそんな様子を見て笑っていった。
 百々は、シュークリームを手にとって、かぶりついた。
「これさあ、失敗するとクリームが思いっきり出ちゃうよね」
「お店によって、下からクリーム入れてるとこと、シュー生地を切って挟むところがあるじゃない」
 あと、クリームがカスタードだったり、生クリームとのハーフだったりなどと、そこからはそれぞれの好みの話になる。
 最後の一口を先に口に放り込んだのは、史生だった。
「それで、いつ実家に帰るの?」
 突然、引っ越しの話に切り替わる。
 百々は、口の中のクリームを、ごっくんと飲み込んだ。
「二週間くらいしてから? 三月半ばって言われたから」
「すぐにって言われなかったのね」
「むしろ、三月末までだと思ってた」
 今百々が通っている佐々多良神社は、当然のことながら佐多家から通った方が近い。百々の実家の四屋敷邸からだと、区を跨がなければならない。
 今は三月でここ数年は小雪と言われていても、雪がまったく降らないわけではない。高校を卒業して、平日も一日中働けるようになったのに、神社から離れた実家に戻ったのでは通うのが大変になる。
「だからね、どうしてって聞いたら、まだ高校の友達がこっちにいる間に遊んでおけばって言われた。確かにこっちの方が交通の便がよくて集まりやすいもんね」
 県外に進学する友人たちとの時間を、曾祖母の一子は百々のために許してくれた。
 何故なら、その後は大学生活を送ることになる友人たちと全く異なる生活を送ることになるからだ。
「じゃあ、遊べばいいじゃない。神社はこれまで通り朝と夜だけで」
「いやいや、そういうわけにはいかないよー。修行のためにここに下宿させてもらってるんだし」
「修行なんて、これからいやってほどできるんでしょう」
「その予定」
 ただし、どんなことをさせられるのか、まったく聞いていない。
 百々が曾祖母の一子から出されている宿題は、たった一つ。
『お力をお貸しくださりお護りくださる女神様をお一人決めておきなさい』
 四屋敷の女主人が代々就く「在巫女」。
 巫女でありながら、神社に仕えず。
 在野にあって、神域を作り出すもの。
 どこであろうと、神の力をお借りできるもの。
 神職にあらず、唱える祓詞も祝詞も神社で聞かれるものとは異なり、素人の女性が読み上げるような独自のもので。
 にもかかわらず。
 ただいるだけで。
 息をするだけで。
 望むだけで、願うだけで。
 在巫女はそこにあることができる―――そんな存在なのだ。