プロローグ
「どうして、私ばっかり……!」
水瀬葛葉は息を切らせて走りながら、嘆いていた。すれ違う人がときどき何事かと振り返っている。葛葉は春物のカーディガンにロングスカート、トートバッグを持って白いミュールを履いていた。走っているせいでつややかな長い黒髪が舞うようになびく。走って桃色に上気した頬は、ほとんど化粧らしい化粧をしていないが、肌のきめは細かかった。顔全体の作りからすると鼻がやや小振りかもしれなかったが、ほんのり赤い唇と並ぶと、むしろ彼女の愛らしさを引き立てている。だが、形のいい眉は困惑して八の字になり、長いまつげの黒目がちな目はいまにも泣き出しそうに見えた。
葛葉は確かに困っていた。逃げても逃げてもついてくるしつこい存在。元彼でもストーカーでもない。それどころか、相手は普通の人間の目には見えない存在─。
まっすぐ走っていた葛葉が唐突に路地を曲がった。フェイントで相手を撒くつもりなのだが、ちらりと後ろを振り返れば……。
「ついてくるよね!」
そこには、頭から血を流した恨めしげな表情の見知らぬ老人がいた。
しかし─老人には足がない。
それもそのはず。老人は「すでに死んでいる」からだった。だから、周りの人は息せききって走る葛葉に奇異の目を向けるものの、頭から血を流している老人には一瞥もしないのだった。
『おまえなんかがいるから……おまえさえいなければ……』
意味の分からない恨み言を繰り返す老人が、葛葉に手を伸ばす。
「来ないで!」
と、葛葉が速度を上げる。老人は一定の距離をつかず離れず、滑るようについてくる。葛葉の息が乱れていた。わき腹はだいぶ前から悲鳴を上げている。
物心ついたときには、葛葉は悪霊とか動物霊とかあの世に旅立っていない不成仏霊の類や、妖怪妖魔のようなあやかしなど、普通の人間の目で見られない存在を─たまには普通の霊や神様たちも─見ることができた。いわゆる霊視だ。見るだけでなく、声も聞こえた。
けれども、それはクラスメイトとか学校の先生とか両親とかには理解できない感覚。最初の頃こそ、「お化けがいる!」「蛇が絡んでくる!」などと葛葉は周りの人に訴えた。しかし、やがてそれが周りの人間からおかしく見られると分かると、葛葉は誰にもそんな話をしなくなった。
話をしなくなっても、見えなくはならない。可能な限り葛葉は悪霊たちを無視するようにしたが、向こうはちょっかいをやめなかった。?見える人間?は、悪霊側から?窓が開けっぱなしの家?のように見えるらしく、ちょっかいを出したがるのだ。
捕まれば憑依され、心身の不調が続く。相手によっては重病で倒れることもあった。
小学校、中学校、高校と、悪霊たちに脅かされる日々が続いた。
大学に入っても、きっとこのまま何も変化がないのだろう。そう思っていた。
大学のオリエンテーションで、あのカフェの噂を聞くまでは─。
見知らぬ老人の悪霊に追われながら、葛葉は泣きたくなってきた。
誰も、私を助けてくれないんだ─。
これだけ人がいるのに、気づいてくれる人はいない。
そうだ。私は一人なんだ……。
気持ちが沼に引き込まれるようにずるずると落ち込んでいく。周りの物音が聞こえなくなっていった。足が重くなる。走るのが嫌になってきた。追いつかれたってかまわないや……。
その声に耳を傾けてはいけない、と聞いたことのない男性の声がする。
きみは、一人ではない。顔を上げてごらん─。
葛葉は弾かれるように顔を上げた。
そこには町家のような格子の和モダンの店がある。
「『カフェ玉兎』……」
葛葉が息を切らせながら店の名前を口にした。その瞬間だ。いままで沈みきっていた気持ちに、余裕が生まれた。心の中の孤独感にひびが入った。
気づけば、背後にいる老人の悪霊の気配が変わっている。
『ああ……こんなところ……!』
老人の悪霊は明らかにこの店を嫌がっていた。顔をゆがめ、嫌悪の表情をむき出しにし、両手を激しく振り回して拒絶の意思を示している。
この世ではないものを見られる葛葉の目には、その和モダンのカフェの看板が金色に光って見えた。先ほどまでの、どこか投げやりな気持ちが小さくなる。
「カフェ玉兎」については、大学のオリエンテーションで女性同士で話しているのを小耳に挟んだのだ。
―――ねぇねぇ、「カフェ玉兎」って知ってる? 大学の側にあるんだけど、占いとかお祓いとかやってくれるんだって。
―――何それ? 怪しくない?
―――私も最初そう思ったんだけど、結構、有名らしくって。恋愛相談とかしたら彼氏できたとか、就活で祈禱してもらったら百発百中だったとか。
―――マジ? すごいじゃん。
―――しかもイケメンらしいし。?なんとか晴明?の生まれ変わりとかいう噂でさ。行ってみようよ。
気づけば葛葉は聞き耳をしっかり立てていた。恋愛に興味はないし、大学に入ったばかりだから就活もまだまだだが、その前に話していた?お祓い?には興味がある。本物ならば、だ。
残念なのは「カフェ玉兎」の住所がふわっとしか分からなかったこと。大学の北東。よりによって丑寅の鬼門ではないかと思ったから、むしろ聞き間違えなかった。お互い新入生なのだから、大学周辺の地理にそれほど詳しくないから仕方がないだろう。ただし、「じゃあ、一緒に行きませんか」と自分から声をかけられる葛葉でもなかった。
大学に入ったばかりで友達なんてまだまだ。それよりも先に、大学の研究棟に亡霊を見つけてしまった葛葉には、そのカフェの話だけはとても気になった。
迷った末、怪しくないですよと心の中で言い訳しつつ、そのカフェの話をしていた新入生二人のあとをこっそりつけていたのだが……。
交差点で止まったときに、おそらく交通事故に遭って死んでしまったらしい血まみれの老人の霊に会い、それどころではなくなってしまったのだった。
「本当に、あったんだ……」
背後で老人の霊が悪態をついている。葛葉は少しずつ元気になってきた。これだけ老人の不成仏霊が悪態をつくなら、悪霊が嫌がるもの─つまり、本物の陰陽師がいるのかもしれない……。
葛葉はドアに手をかけた。引き戸を横に引けば、からころとドアベルが鳴った。
中はおしゃれなカフェだった。
「いらっしゃいませ」
と、カウンターの中の若い男性が微笑む。低めで落ち着いたいい声をしていて、その上、甘い顔立ちだった。やさしそうな目をしている。やや茶色で長めの髪を後ろで一つ縛りにしていた。眉は凜々しく、鼻筋が通っている。二十代後半くらいだろうと思うが、肌がとてもきれいだった。俳優顔負けの美青年だ。目を細めて微笑む姿は、たぶんたいていの女性なら胸をわしづかみにされるだろう。身長も百八十センチくらいで人目を引いた。その上、姿勢がよい。よく鍛えられている印象を受けた。腕まくりした白シャツに茶色のベストを着て茶色い腰巻きの長いエプロン─サロンとかソムリエエプロンというらしい─革靴というシンプルな服装がカフェらしくあると同時に、彼のイケメンぶりを引き立てている。
他に店員らしい店員がいないところを見ると、いわゆるマスターなのだろうか。
カウンターには、二人の女子大生がいた。なぜ女子大生と分かったかといえば、葛葉がこっそり追いかけてきた相手だったからだ。よかった。どうやら、あの二人は無事にこの店に辿り着いたようだ。まあ、自分のように悪霊に追いかけ回されたりしない普通の人なら当然か……。
葛葉は敷居をまたいで店の中に入った。
そのときだった。
ばしんっ、という大きな音が耳元で聞こえたような気がした。
「え!?」
思わず葛葉が驚きの声を上げて、後ろを振り返る。特に何もない街の風景があるだけだ。空耳だったのだろうか。先ほどまで葛葉を追いかけていた老人の霊はもう少し向こうで、文字通り恨めしげな顔をしていた。
しかし、葛葉はそのとき、にこにこ笑っているイケメンの目がかすかに細められたのに気づいてはいなかった。
葛葉は気を取り直して「カフェ玉兎」に入る。
温かい。まずそう思った。その温かさは太陽の日射しにも似て、やさしくて穏やかで心が落ち着く類の感覚だ。桜舞い散る大学構内より心が落ち着いた。空調や窓からの日光だけによるものではない。心に沁みる温かさ。この場所が霊的にとてもよい場所だと物語っていた。
ひょっとしたら、?当たり?かもしれない。
ショーケースに入ったスイーツの色彩が美しかった。カウンターの中にはコーヒー豆が入った大きな電動コーヒーミル─グラインダーというらしい─と、横長でノズルや棒がついた機械が置いてある。
落ち着いたBGMが聞こえ、コーヒーの香ばしい匂いがした。
「どうぞ、お好きな席をお使いください」
「あ、はい」
コーヒーの匂いを嗅ぎながら、葛葉は店内を見回した。
カウンターの他にはテーブル席がいくつかあって、二人がけのテーブル席はすべて窓側にあった。他に四人がけのテーブル席がいくつかだった。店内の装飾は扇や陶器など和の小物が品良く置かれ、雰囲気を出している。ごく普通のお店としても葛葉は気に入った。
いまは二時過ぎ。お客さんはあの女子大生二人と自分だけだ。
あとはカウンターの奥、入ってきたときにはよく見えなかった場所で皿洗いをしているメガネの若い男性である。
葛葉はどこに座るか迷って、まず窓際の席を外した。窓に先ほどの老人の霊が見えるからだった。さらにもう少し考えて、カウンターからも適度に離れた四人がけのテーブル席を使わせてもらうことにした。ちょっと迷惑かなとも思ったけど、仮に混んできたら席を譲ればいいだろうと言い訳する。
「えー、?。当たってるー」
と、カウンターの女子大生の声がした。
「そうでしょう? きみの生年月日から占えば、そうなってくるんだよ」
茶髪のイケメンが片目をつぶる。嫌みに見えないのがイケメンのすごさか。
「何かすごい。鳥肌立っちゃった」ともう一人の女子大生が腕をさすっていた。イケメンは笑いながらさらにあれこれと占いを説明していく。流れる水のようによどみなくしゃべっていた。
メニューを広げながら、またしても葛葉は聞き耳を立てる。
占いのよく当たるカフェ、というのは間違いないようだ。
となると、女子大生たちが話していた?なんとか晴明?の生まれ変わり、というのが俄然気になった。?なんとか晴明?というのは安倍晴明のことだろう。平安時代に活躍し、天皇や宮中を呪的に護っていた陰陽師の代表格の名前だった。天文を読み、暦を司り、吉凶を占っては運命を逆転させる一手を指南する。あるいは悪霊を調伏し、病をひき起こす病念や生霊を返す日本版のエクソシストだ。
葛葉は自分の霊的な体質を何とかしようとした結果、オカルト知識がそこそこにあった。陰陽師についての知識もその一環だったが、?有名な○○の子孫?みたいな触れ込みは割と聞く。葛葉が興味を持った相手もいたが、ほとんどは眉唾ものだった。
霊能力は血縁だけでは引き継がれないらしい。そもそも子孫ですらない人物もいた。何しろ、霊的な事象をあつかっているくせに?死んだら何もなくなる??霊の存在は分かっていない?などと言っていたりする。心霊現象を扱いながら、霊魂や来世の実在を否定するのはただの詐欺だろうと、実際に霊現象に悩まされている葛葉は思う。
だが、安倍晴明の生まれ変わり、となると状況はだいぶ変わる。
まず、明らかに転生輪廻を認めている。さらに、安倍晴明という千年前の人物が生まれ変わるということは、当然、死んでから一千年間は霊魂だったと認めることになるだろう。そこまではっきり言うのは結構勇気がいると思うのだ。
女子大生たちの明るい笑い声がまた響いた。イケメンの占いが当たっているらしい。
「陰陽道では、万物は火・水・木・金・土の五つからできているという五行思想があるんだよ。木生火、火生土、土生金、金生水、水生木というプラスの関係である五行相生と、木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木というマイナスの関係である五行相剋があってね。きみの場合はここで木が来てる。だから、相談の男の子との関係は─」
イケメンの話がよどみなく続いている。
これはひょっとして?お祓い?の方も期待できるかもしれないと葛葉は思った。
しかし─和モダンの明るい店内で「あの、悪霊に悩まされているのですが」とは相談しづらい。真昼の幽霊さながらに、場違いなことこの上なかった。しかも、カウンターの茶髪のイケメンは、人当たりのよい笑顔でよくしゃべっている。よくしゃべる美形なんて、葛葉にはどう対処していいのか見当もつかなかった。
するとそのとき、急に男の声がした。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
「ひ!?」
ずっとカウンターのイケメンに意識を集中させていた葛葉は文字通り飛び上がりそうになった。見れば、カウンターの奥で洗い物をしていたメガネの男性がお冷やを置いてくれている。
ベストは着ておらず、黒のパンツにシャツで腕まくりをし、黒のサロンという服装だった。黒髪でメガネで色白。ほんわりした感じだが、こうして近くで見ると端整で凜々しい。まつげも長いし、鼻筋も通っている。やや薄い唇もどこか頭良さそうに見えた。メガネのおかげで二割増しかもしれないけど。ただ、その表情はどこかほんわりしている。自分と同い年くらいか、せいぜい二十代半ばだろう。いまだって、葛葉がびっくりしたせいか、メガネの男性の方も眼をまん丸くしていた。
顔だけ見れば、圧倒的にインドア派な感じがする。ところが、水の入ったコップを置いた腕が思ったよりもがっしりしていて、びっくりした。
そんなことを考えている場合ではない。注文、注文―――。
エスプレッソ、カプチーノ、カフェ・ラテ。さらに何種類かのティーも並ぶ。けれども、葛葉が注文しようとした言葉はここになかった。本当に?この?注文であっているのだろうかという不安が頭をもたげる。けれども、信じるしかなかった。
「えっと……?ブレンド?を─」と言いかけて、改める。「?晴明専用ブレンド?をブラックで。あとミルクをつけて」
メニューのどこにも「晴明専用ブレンド」というコーヒーはない。この奇妙な注文の仕方が、占いやお祓いを相談するときの合い言葉なのだと、カウンターの二人が大学で話していたのだ。
「かしこまりました」と答えたメガネの男性が葛葉の眼を覗き込むようにした。「お客さまも心霊相談をご希望ですか」
心霊相談。なるほど、この店ではそのように言うのか……。
「はい。お願いできますか」
「少々、お待ちください。─それで、本当のご注文は」
「エスプレッソって……どんなコーヒーでしたっけ?」
普段の葛葉なら、この手の質問はしないのだが、走って?安全地帯?に辿り着いたことでテンションが上がり、合い言葉による注文も通ってさらにテンションが上がっていて尋ねてしまった。まさに?しまった?で、葛葉はちょっと後悔している。
すると、メガネの男性はにっこり笑った。カウンターの茶髪さんと比べると、さらに人が好い印象を受ける。
「エスプレッソというのは深煎りにしたコーヒー豆を極細挽きにして、エスプレッソマシンで圧力をかけながらお湯をコーヒーの粉の中に瞬間的に通して抽出したものです」
「はあ……」と曖昧に頷く葛葉。メガネの男性がカウンターの中の、コーヒー豆の入った機械の隣にある、横長でノズルなどがついた機械を振り返った。
「あれがエスプレッソマシンです」
「機械でやるんですか」
葛葉が驚く。メガネの男性が苦笑した。
「?機械で淹れたコーヒーを喫茶店で売るってどういうこと??みたいな質問は、よく受けます。日本だとフィルターで濾過するドリップコーヒーとか、サイフォン式のコーヒーの方が喫茶店らしい印象がありますからね。機械で淹れるなんて邪道だ、みたいな」
「あー」と、また葛葉は曖昧に答えた。葛葉自身がそう思ってしまったからだった。
「そもそもエスプレッソってイタリア語で、本場イタリアやフランスでもっともよく飲まれる飲み方なんです」
「そうなんですか」
「いわゆるドリップコーヒーとは豆は一緒ですが挽き方が違います。エスプレッソ一杯分の粉で二十五?くらい。普通のコーヒーの六分の一くらいの量に濃縮して淹れますから」
「六分の一!? じゃあ、相当苦いんじゃないんですか」
と、言いながら、エスプレッソは量が少なくて苦いコーヒーと漠然と思い出した。
「苦いですね。さっぱりしてますけど、苦い。だから本場では砂糖をたくさん入れて飲むんですよ。日本ではミルクをたっぷり入れて、カプチーノにしたり、カフェ・ラテにして飲む人が多いです」
「あ、カフェ・ラテってエスプレッソだったんですか?」
カフェ・ラテなら聞いたことがある。某コーヒーショップのおかげだ。
「日本ではエスプレッソを温かいミルクで割ったものがカフェ・ラテ。ドリップコーヒーだったらカフェ・オレ。うちはエスプレッソ専門店なので、カフェ・ラテです」
メガネの男性は丁寧ににこやかに教えてくれるが、あまり長くしても申し訳ない。本命は?晴明専用ブレンド?の方なのだし。窓の向こうにはまださっきの悪霊がうろうろしているし。
葛葉はカフェ・ラテを注文した。
メモを取り、復唱したメガネ男子がにこやかなままカウンターに戻っていく。やっぱりほんわりした人だなと思った。
メガネの男性がグラインダーに取り付き、スイッチを入れた。黒光りするコーヒー豆を挽く音がする。しばらくしてその音が止むと、挽いた豆を入れた杓のような形のモノに何か体重をかけるような動作をしていた。それも終わって、挽いた豆の入った杓を?エスプレッソマシン?という機械にはめ込み、スイッチを押した。
見るからに濃い色のエスプレッソが抽出されている。
メガネの男性は、足元の冷蔵庫からミルクを取り出すとピッチャーに移し、エスプレッソマシンの端にあるノズルをミルクの入ったピッチャーに差し込んでスイッチを押した。店内のBGMが一瞬聞こえなくなるくらいには大きな音がした。まるでこぼれた液体を吸い取っているような音だ。
コーヒーの入ったカップを持ったメガネの男性が、ノズルを入れていたミルクを注いだ。
最後に手元を小刻みに揺らし、カップをソーサーに置く。
するとメガネの男性が茶髪さんにカップを委ねた。茶髪さんは女子大生たちとの話を切り上げると、そのカップを葛葉のテーブルへ運んでくる。
「お待たせしました。カフェ・ラテです」
茶髪さんがいかにもイケメンな─でも若干軽さを感じさせる笑顔でカフェ・ラテを置いた。
「あ、これ─」
と、なみなみと注がれたカフェ・ラテを見て葛葉が呟く。葛葉は「カフェ・ラテ」とだけ頼んだのだが、その表面には美しいリーフ模様が描かれていたのだ。
「ああ、これ? サービス、サービス。ラテ・アートっていうんだ。きれいでしょ?」
「はい。とても」
「SNSに上げてもいいよ。むしろ上げて宣伝してくれるとうれしいな」と、からりと笑ったあと、茶髪さんが表情を引き締めた。「それで、ここからは特製ブレンドの時間。俺は日野穂積。よろしく」
瞬間、茶髪さん─穂積の後頭部が柔らかい光を放ったように見えた。後光だ。きちんと心の修行をしてきた人物特有の調和の光だった。ますますもって信頼できる。
実は、と話しかけたときに窓に何かが当たる音がした。
「何? 風?」
「びっくりしたねー」
とカウンターの女子大生が言っている。
どうやら二人には見えなかったらしい─窓の向こうで悔しげに暴れる老人の霊が。っていうか、まだいたのか。葛葉がうんざりした表情で窓を一瞥するのを穂積が目敏く見つけた。
「ふーん。きみ、見えるんだ」
と穂積がにやにやしている。葛葉は慌てて窓から目を逸らした。
「な、何がですか……?」
「大丈夫。俺も見えているし」と穂積が笑顔で肩をすくめた。まるで何でもないことのように。「あれが、今日の特製ブレンドの内容だったりする?」
「いえ、あれではなくて」
と、思わずそう言ってしまった。また?しまった?である。穂積の雰囲気がそうさせたのだ、と言ってしまえばそれまでかもしれない。するりと人の懐に入り込んでしまう感じがした。これが陰陽師─これが安倍晴明の生まれ変わりの力なのだろうか。
信じて、乗ってみるべきなのだろうか。
「じゃあ、ここに来る途中でついてきた、ただの通りすがりの悪霊ってとこかな」
穂積の言葉に、葛葉はどきりとした。的確な指摘だ。葛葉の表情の変化を確かめると穂積がにやりと笑って一度手を叩いた。葛葉も女子大生たちも驚いた。
「びっくりしたー」と女子大生たちが笑っている。
葛葉もびっくりしていたのだが、それは女子大生たちとは段違いの驚き方だった。穂積が手を打った衝撃に、窓の向こうの老人の霊が怯み、逃げ出したのだ。穂積はただ手を打ったのではなかった。場を浄化する法力を込めた?柏手?だ。
当然ながら、葛葉にはできない。
お会計お願いします、と女子大生たちが声をかけ、レジに向かう。メガネの男性がレジへ回った。
「穂積の特製ブレンドはいかがでしたか?」
と、メガネの男性がほんわりと尋ねる。
「すごくよかったです」
「参考になりました」
二人が笑顔で支払いを済ませ、外へ出ていった。メガネの男性が、ありがとうございました、と丁寧に頭を下げ、女子大生たちのカップ類を片付ける。
他のお客さんがいなくなったことで、葛葉は気持ちが落ち着いた。穂積の?力?を目の当たりにしたせいもある。相談するだけ相談してみよう。ダメならダメで、今まで通りなだけだ……。
「実は―――」
「あ、ストップ」と穂積が制止した。
「はい?」
「カフェ・ラテ。まず飲んでよ」
言われて、葛葉はカップを手にした。独特の、持ち手の小さいカップの縁ぎりぎりまで注がれている。リーフ模様がかすかに揺れたが、不思議とこぼれなかった。その模様を崩すのがもったいなくて、葛葉はそっと唇をつけた。
「え……!?」
濃厚なミルクを感じて、思わず唇を離してしまう。これが、本当に?カフェ・ラテ?なのだろうか。ましてやカフェ・オレではない。いままで飲んできたコーヒーチェーン店のモノとは触感がまるで違っていた。丁寧に泡立てた生クリームに唇をつけたような、小さな子供のほっぺにキスしたような。穂積が楽しそうに笑っていた。
「普通のお店なら蒸気で泡立てたフォームドミルクたっぷりのカプチーノだと思うかもね。うちの店は、ミルクのやさしさに特徴があるから」
「ミルクのやさしさ……」
思わず繰り返す。その言葉がぴったりだと思ったからだった。
「このミルクがね、難しいんだよ。ちなみにカプチーノはカフェ・ラテにさらにミルクの泡の層がのっているからふわっふわになるよ?」
これ以上のふわふわ……。葛葉は想像した。いまので子供のほっぺなのだから、これ以上となったら天使のほっぺだ。
「すごいです。こんなの飲んだことありません」
葛葉が改めてカフェ・ラテに口をつけた。コーヒーの旨み、ミルクの風味、それらが豊かにお互いを引き立て合っている。砂糖は入っていないはずなのだが苦くなく、ほのかなミルクの甘みだけで十分やさしい気持ちになった。甘い物をお腹に入れたときのような幸福感。時間がゆっくり感じられた。
「うん。落ち着いたみたいだね。じゃあ、改めて話を聞くよ?」
「あ……」
話を聞く前にカフェ・ラテを勧めたのは、飲み頃を逃してほしくないだけではなかったらしい。そんな気遣いがうれしい─。
葛葉が自分の?悩み?を穂積に打ち明けた。いつの間にか穂積が葛葉の前に座って話を聞いている。葛葉は話しながら穂積の様子を観察した。真面目に聞いてくれている。馬鹿にしたり笑ったり、要するに信じていない素振りは見えなかった。
ところが、穂積は小さく一回頷くとこう言った。
「きみの担当は俺じゃないね」
朗らかにあっさりと穂積が言ったせいで、葛葉は拍子抜けする。
「え?」
「ちょっと待ってて。カフェ・ラテ飲んで待ってて」
穂積が立ち上がった。
そんなに?簡単な?内容だっただろうか。見たところ穂積はすばらしい法力を持っている。その人が担当についてくれないとは……。さっきの女子大生たちは穂積が担当していたはずなのに。自分が抱えている?相談事?はあの女子大生たちの相談事よりも深刻だと思うのだけど……。
いろいろな思いが交錯する中、カフェ・ラテを再び口にする。冷めてきているけど、まだラテ・アートも健在で、味わい深いままだった。
「おいしい……」
するとカウンターの方からこそこそとした話が聞こえてきた。
「出番だぞ。?晴明?」
「その言い方やめてって」
「だってホントのことじゃん、智成」
「それは穂積が勝手に言ってることで……」
葛葉はカップを口にしたまま、カウンターの方を伺う。
「ほらほら。おまえの出番だ」と、穂積がメガネの男性の背中を押した。
「おいおい」
と、つんのめりそうになりながら、メガネの男性がカウンターから出る。穂積も一緒だ。
その状態のまま二人が葛葉の席の所までやってくる。メガネの男性が困ったような顔をしていた。その背後から穂積がひょっこり顔を出し、小さな皿を葛葉の前に置く。
小皿には四つ葉のクローバーの形をした若葉色のクッキーが二枚置かれていた。
「初回だからこれもサービスだよ。俺の占い以上の正真正銘の『カフェ玉兎』裏メニュー。四つ葉のクローバーのクッキー」
「はあ……」
葛葉がクッキーを手に取る。その間にメガネの男性が向かいの席に座っていた。相変わらず人の良さそうな微笑みだが……穂積の助手か何かだろうか。そんなふうに考えながらも、失礼のないように愛想笑いを浮かべて頭を下げた。
「改めて、初めまして。高倉智成です」