北鎌倉の豆だぬき 売れない作家とあやかし四季ごはん 立ち読み

 


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 夕暮れ時。
 普段よりも真っ赤な夕日に染まる春の鎌倉の街は、今日も人通りが多い。
 グレーの長袖Tシャツに、地味なイージーパンツを合わせて、貴重品はボディバッグに収めた三浦悠人は、スクーターに跨がって信号が変わるのを待っていた。
 どこにでもいる、十人並みの容姿。無造作に伸びた髪に、おしゃれと縁遠い眼鏡。見るからに普通の会社員ぽくないし、我ながら売れない小説家感をありありと醸し出していた。
 朝のテレビでやっていた星占いでは、『乙女座は素敵な出会いがあります』でランキングは十二星座中六位という微妙なポジションだった。占いはほぼ信じていないので、期待はしなかったが、取り立てて珍しい事件も起きないまま一日が終了に近づいている。
 いや、素敵どころか久しぶりに受け取った仕事のメールには、へこむような文章しか記されていなかったじゃないか。
 黄色や紫とカラフルな袋を下げ、行き交う観光客は笑みを浮かべ、どことなく名残惜しそうに帰路に就く。
 ちなみに黄色は『豊島屋』の『鳩サブレー』、紫は『まめや』の豆菓子だ。鳩サブレーは、しょっちゅう買っている。まめやのピーナッツ入りの豆菓子は悠人も大好物で、どの味を買うか目移りしてしまう。
 悠人が東京のアパートを引き払い、ここ鎌倉に住むようになってちょうど一年。
 古都の春夏秋冬を見届けたのに、まだこの観光客の波には慣れなかった。
 東京だって一大観光地だけど、住民と観光客の比率がまるで違うと感じる。
 最寄りは北鎌倉だが、用事をこなしてから電車に乗ろうと鎌倉駅を使うと、狭いホームは電車を待つ乗客で埋まっていることもしばしばだ。JRの鎌倉駅は人の乗降数に比べて手狭で、ホームは上下線で一つしかない。特に朝の通勤通学時間帯に一度居合わせたときは、誰かがホームから落ちるんじゃないかと驚くほどの混雑ぶりだった。
 実際、観光地としては京都ほど広くはないので、一日かければめぼしいスポットは制覇できてしまう。ちょうどいい山もあるので、体力さえあれば、ハイキングを楽しみ、なおかつ神社仏閣を回るのも可能だ。そうした満足感が、観光客には受けているのかもしれない。
 二ノ鳥居から段葛を北上するのが自動車のルートだが、悠人は左折して小町通りを横断する。鎌倉駅あたりから北鎌倉に行くには、鶴岡八幡宮の脇の県道を通るルートと、横須賀線の線路沿いの小径を抜けるショートカットルートがあった。
 あの『シン・ゴジラ』にも登場した扇ガ谷ガードのあたりを通っていくと、閑静な住宅地に出る。踏切の音は聞こえるけれど、それ以外はしんとしていた。
 鎌倉は山が多い=坂が多いことを意味し、北鎌倉あたりになると山ばかりの印象だ。おかげで、ある程度自由に動くには電動自転車かスクーターは必需品だ。軽自動車も有り難いものの、観光地における駐車料金の高さを舐めては泣きを見る羽目になる。
 路線バスもそれなりに便利だが、鎌倉名物の渋滞に巻き込まれるとダイヤがかなり乱れてしまい、時間の予想がつかなくなる。
 とはいえ、今の悠人は特に締め切りに追われているわけでもなく、べつに時間の予想ができなくたってかまわないけれど。
 ……う。
 気持ちがだんだん鬱々としてきた。
「全没はないよなあ」
 そう、悠人がめちゃくちゃいじけた気持ちに駆られているのも、小説を書く設計図にあたるプロットが全部没になってしまったせいだった。
 設定や登場人物、あらすじ、丁寧に考えた内容がすべて。
 実際に本文に取りかかる前でよかったじゃないかと慰められそうだが、まったくもってそういう問題ではない。プロットは実際に執筆するためのプレゼン資料にあたり、かなりの熱量で一か月以上かけて作り上げた。
 駆け出しの小説家の悠人は、デビュー三年目。
 比較的大きめの賞を取ったデビュー作の青春小説は、そこそこのヒットだった。
 二作目はまずまずだったが、三作目は完全に売れなかった。
 これは四作目で浮上しないと、小説家生命は終わりかねない。そうでなくとも現代は、たくさんの小説家がしのぎを削る戦国時代なのだ。
 今の悠人の立場では、着想が浮かんだからといって、即座に本文を書き始めていいわけではない。
 もちろん、ネットや自費で発表する場合であれば、思いついたものを自由に綴ればいいが、商業出版を目指している以上は、まずは担当編集者に「こういう話を書きたいんですが」とお伺いを立てるのが常だ。大御所の中にはおおまかなストーリーを口頭で説明して書き始めたり、あるいはその手順すら飛ばしたりするタイプもいるらしいけれど、いきなり完成原稿を渡すと、プロットどころか本文の全没を食らう可能性も多々あるので、悠人にそこまでの度胸はない。
 第四作は渾身の力を込めた青春釣りロマンになるはずだったが、編集長の「釣りなら『老人と海』レベルの作品じゃないと」という謎の突っ込みが入って没になったのだとか。
 正直、駆け出しのエンタメ小説家をノーベル賞小説家と比べられても困る。
 昔ながらの住宅が建ち並ぶ小径を走っていると、前方に何か茶色いものが落ちているのが目についた。
 ごみ? ぬいぐるみ?
 もしかしたらごみ収集車が落としたのかもしれない。
「ん?」
 やけにふわふわもこもこに見えるが、見間違いだろうか?
 眼鏡をかけていても、この距離では朧気に画像しか認識できない。近づいてみると、ほわほわの正体は台湾リスだった。
 鎌倉においては、外来生物の台湾リスは別段珍しくもなかった。
 悠人も初めて台湾リスを目にしたときはその愛くるしさに心を打たれ、凄まじいスピードで動く姿をなんとか動画に収めようとスマホを握り締めて奮闘したが、半日もすれば慣れてしまった。おまけに、鳴き声はぎゃっぎゃっという怪鳥か蛙かという感じで、可愛げがゼロなのだ。
「ぎゃっぎゃっぎゃっ」
 事実、一、二、三……合計五匹の台湾リスが不気味に鳴いている姿は異様だった。
 餌を巡ってほかの生きものと争っているのではないかとの発想が脳裏をよぎったが、それにしてはなんだか様子がおかしい。
 台湾リスたちは白い歯を剥き出しにし、何かを威嚇している様子だ。
 速度を落としてさらに接近すると、彼らは正体不明の物体──仔犬か子猫か……それともぬいぐるみか何かを囲んでいる。
 生物か、あるいは無機物かは不明だが、万が一生きものなら可哀想だ。
 自然界の掟はわからないけれども、多勢に無勢では放っておけない。
「こらっ」
 慌ててスクーターを停めた悠人は、台湾リスの集団のもとへ駆け寄る。
「ぎゃっぎゃっ」
「ステイ! いじめちゃだめ! 離れて!!」
 一生懸命両手を振って身振りで立ち去るよう促すと、台湾リスたちは一斉に逃げ出した。
「なんだ、ぬいぐるみか」
 白と黒、茶色のまだらっぽい色合い。鼻面は真っ黒で、その周りは白い。足先は黒く、茶色い肉球が見えた。
 仔犬のぬいぐるみ──にしてはデフォルメが甘く、リアリティがありすぎるような……。
 それに、短いしっぽが、ぴるぴると震えている。
 むむっと悠人は眉根を寄せ、ずり下がりかけた眼鏡のブリッジを押し上げた。
「えっと、大丈夫? もしもし?」
 うかつに触れて噛まれても困るので、道路にひざまずき、上から、下から、右から、左からとアスファルトに手を突いてじいっと見つめるが、それ以上、動きだす兆しはなかった。
 さっき、しっぽが震えて見えたのは勘違いじゃないのか。とはいえ、放っておいたら自動車が乗り上げてしまうかもしれない。
 轢いても大きな交通事故は起きないだろうけれど、ぬいぐるみが犠牲になるのは見過ごせなかった。
「…………」
 不意に視線を感じた悠人が四つん這いのまま振り向くと、近くの家のおばあさんが一人、夕刊を手にこちらを凝視している。
「あ、どうも」
 さすがに可哀想なものを見るような目で眺められるのは恥ずかしく、ぬいぐるみをそっと拾い上げた。
 あたたかい。
 息、してるんだ。それなら、やっぱり仔犬に違いない。
 近所の人ならばこの仔犬について何か知っているかもしれないと、悠人は精いっぱいの営業スマイルを浮かべて振り返った。
「あのっ」
 ……いない。
 おばあさんはすでに、家の中に引っ込んでしまったようだった。
 さて、困った。
 抱き上げた仔犬は目をつむったきりで、ぴくりともしない。見たところ首輪もないし、飼い主が判別できるものはつけていなかった。
「大丈夫? ねえ?」
 応答なし。
 かかわると面倒なことが起きそうだが、いったんは抱いた仔犬を置いていってしまうのは、あまりにも非情すぎる。さっきみたいに、ほかの動物にまたしても襲われるかもしれない。
 迷い犬ならば、病院で聞けば手がかりが見つかるかもしれない。ひとまず悠人は自分のハンドタオルを後部に括りつけた段ボールの箱に敷き、仔犬をそこに載せた。野菜でごつごつしているが、そこは我慢してもらう。
 早く家に帰って寝かせてあげたいけれど、だからといってスピードを出すと揺れてしまう。できる限りゆっくり運転しよう。
 亀が急坂を登ろうとしてひっくり返った──という逸話が残るほど急な亀ヶ谷の切通に突入すると、安全運転だったスクーターの走行速度はさらに低速になる。これさえなければ近道なのにと思いつつ、とろとろと悠人は自宅へ向かった。


 悠人が間借りしている一軒家の所在地は、北鎌倉でもかなりの高台だ。きつい坂を登り切ったところに、築五十年以上の日本家屋が建っている。
 建物は今時珍しい瓦屋根で、ドアも横にからりと開くタイプで磨り硝子が嵌まっていた。
 もっとも、部分的に十五年くらい前にリフォームを終えていて、水回りや浴室はさほど問題を感じていない。残念ながらドアホンが昔ながらのチャイムで通話できず、鳴らされるといちいち玄関に出向かねばならない点が不便だった。
 床は板張りで磨き上げられているし、庭を眺められる縁側が嬉しい。
 ハイキングコースが設定された山に面した広々とした庭は、植木も多少あるが、八割方が家庭菜園に変貌している。これは悠人の仕業ではなく、元からの仕様だった。
「どこかに動物病院ってあったかな」
 残念ながら、ペットを飼った経験がなく、動物病院には全然注意を払っていなかった。これから探して出かけても、夕方なのでもしかしたら診察は終了しているかもしれない。
 一度縁側に仔犬を下ろし、悠人は物置から空き箱と使い古しのタオルを持ってくる。
 その中に仔犬を収納してしばらくじっと見つめていると、やわらかそうな毛の生えたお腹が、規則的に上下しているのがわかった。
 ちなみに性別は雄。
 よく見ると枯れ葉や小枝がくっついていてきれいとは言いがたいし、箱ごと玄関に置くのが一番いいと思うけれど、さすがにそれは可哀想だ。
 普段は締め切っている板の間が玄関脇にあるから、そこに寝かせておこう。床だったら、万が一少しくらい粗相をされても掃除が簡単だ。
 悠人は仔犬を入れた段ボール箱を、そっと持ち上げて板の間に運ぶ。
 静かに床に置いても、仔犬が目を覚ます兆しはなかった。
「待ってて」
 一応、ぼそりと声をかけてみたが、無反応だった。
 今のところ使っていない小皿を探し出すと、レンジでぬるめにあたためたミルクを注ぐ。
 こうした小皿なども全部、家主の持ち物だ。居抜きで借りた店のようなもので、タオルやらシーツやらは買い換えたけれど、生活必需品は大半が揃っていた。
 寝ている仔犬の傍らにミルクの皿を設置し、そろりそろりと板の間から退室した。