俺サマ作家に書かせるのがお仕事です! 立ち読み

 


 東京都町田市。駅から十五分ほど歩いた住宅街の中にある、少し古めかしい日本家屋の玄関の前で、櫻井真央は大きなため息をついた。
「はぁぁ……やっぱりいないかぁ……。そうだよねぇ……いきなりだもんねぇ……」  何度かチャイムを鳴らしたが返事はない。真央はいったん諦めて、その場から離れ敷地内の広い庭を見回す。
『方丈』と書かれた表札は、ずいぶん長く雨風にさらされているようで、墨の色がだいぶ薄れていた。家屋と同じくらい広い庭は手入れが十分とは言いづらく、梅の木が数本あるだけであとは雑草だらけだ。その一方で庭の隅にはこのたたずまいに不似合いな、立派な蔵が立っている。
(なにが入ってるんだろう、あの蔵……って、それどころじゃなかった。とりあえずRUI先生にお会いできないなら、名刺だけでも置いていかないと)
 真央はその場にしゃがみ込み、バッグからボールペンと名刺を取り出す。名刺の表には真央のフルネームと連絡先である『一葉書房』のアドレスが記載されている。とりあえず裏返した白紙の部分に伝言を残そうとしたところ――――。
「にゃあ〜!」
 突然白くて大きな塊のようなものが、真央の膝にゴッツンと体当たりをしてきた。
「わあっ……!」
 思わず声が出たが、正体を確認して真央は途端に笑顔になる。
「うわー、おっきい猫ちゃんっ!」
 真央に額を押し付けてきたのは、なんと大きな白い猫だった。
 顔を覗き込むと蜂蜜のように黄色い目と視線がぶつかる。猫は基本的に見知らぬ人と視線を合わせないと聞いたことがあるが、この子は相当人懐っこいらしい。じっと真央を見つめたあと額や首の後ろを、真央の足に熱心にすりつけ始める。
「ふふっ……君のこと撫でていい?」
 猫の毛はビロードに似ている。なめらかで温かい。
 手のひらを優しく首の後ろから腰まで移動させると、猫はのびのびと体をそらせながら、別の場所を撫でろといわんばかりに、その場にひっくり返った。
「お前、お餅みたいに真っ白できれいだね。骨太でもちもちしてかわいいね〜」
 真央は名刺とボールペンをバッグに仕舞い、土の上に横たわった猫を両手で撫でる。真央の手つきが気に入ったらしい白猫は、ご機嫌にゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「ああ〜癒される……」
 猫のゴロゴロ音は、人間のストレスを軽減させる力があると聞いたことがある。
 そうやってしばらく、大きな白い猫を両手で撫でまわし、うっとりしていると、背後から低い声が響いた。
「あんた……誰だ」
「ひっ……!」
 ビックリして声のしたほうを振り返ると、蔵の前に二十代半ばくらいの青年が立っていた。
 身長は百八十センチないくらいだろうか。長身だが少しだけ猫背で、七分丈の大きく首が開いたカットソーと黒のストレッチパンツの上に、カーキ色のロングカーディガンを羽織っている。ほんの少しだけ波打つくせのある黒髪と、同じ色をした少し吊り目気味のくっきりした二重で切れ長の目、そしてすっと通った鼻筋にどこか不機嫌そうな唇。
 愛想がいいとはとても思えないが、顔立ちは非常に整っている青年だ。
「失礼しました。一葉書房から来ました、櫻井真央と申しますが……。あの、RUI先生は、御在宅でしょうか?」
 真央は慌てて猫から手を離し立ち上がった。
「一葉書房?」
 真央が名乗った瞬間、青年は不機嫌そうな顔を、さらに歪めて眉を吊り上げる。顔が整っている分、迫力があって、真央は一瞬気圧されそうになった。
「――――帰れ」
「はい?」
「帰れ。失せろ。今すぐ俺の目の前から消えろ」
「ええっ!?」
 真央は目的があってここに来たのだ。どこの誰かもわからないイケメンに、帰れと言われても困る。
(初対面の人間に、失せろ消えろって、なんなのこの社会性のない男は! でもここはRUI先生のご自宅なわけだから、もしかしたらRUI先生の息子とか……弟とか……親戚とかかもしれないし!)
 なんにしろ、今から仕事を頼みたいと思う人の身内に、失礼があってはいけない。
(我慢、我慢よ、真央! 私は一葉書房の編集者! ここは一人の社会人として大人の振る舞いをしなければ!)
 言い返したい気持ちを必死に押し殺し、バッグから名刺を取り出して青年に差し出す。
「私、RUI先生に、新作を書いていただきたくやってきました! ご挨拶だけでもさせていただけないでしょうか!」
「――――」
 だが青年は真央が差し出した名刺には一瞥もくれなかった。そのまますうっと目をそらし、面倒くさそうに「はぁ……」と息を吐く。
(いやせめて受け取ってよ〜! RUI先生にお仕事を受けていただかないと、私の仕事場がなくなっちゃうの、それは絶対に困るのよ〜っ!)
 真央は若干半泣きになりながら、こんな事態に陥ってしまった昨日の出来事を思い出していた――――。






  第一話  二年目編集者・櫻井真央、奮起する


 ゴールデンウィークが終わった最初の月曜日。その日は櫻井真央にとって間違いなく幸先のいい月曜日だった。
「今日はありがとうございました!」
 スマホに録音した音声データが無事クラウドに保存されたのを確認して、真央はソファーから立ち上がり、跳ねるようにペコッと頭を下げる。
 腕時計をちらりと確認すると時計の針は午後二時。この時間までに終わると言っていた約束の時間をかなり過ぎてしまっていた。
(三十分の予定だったのに、めちゃくちゃ盛り上がってしまった……)
 パッと顔を上げて「予定より長くなってしまって……ご迷惑おかけしなかったでしょうか」と軽く首をかしげる。
 肩に届くほどのさらさらの髪、黒目がちの丸い目は少しばかり垂れ目のせいか、それだけで犬っぽく見える。人に警戒心を持たせない容姿の真央は、職場の同僚たちにはインタビューに向いていると言われるが、自分ではよくわからない。
「いやいや、俺だってインタビューなんて柄じゃないし、三十分で十分だろって思ってたのに、あんたが聞き上手だからさ。おすすめのレシピだとか、思わずたくさんしゃべっちゃったよ!」
 照れたように笑う白い半袖作業着の男は、この町の繁華街のど真ん中で営業している、お豆腐屋のご主人だ。歳は真央の父親とそう変わらない。気難しいという前評判とは違い、楽しく話が聞けたように思う。
「記事ができましたらプリントアウトしたものを見本としてお送りしますね。インタビュー記事で気になることがあったら、なんでも言ってください。問題がなければ六月下旬発売の夏号に掲載になりますので」
「おう、雑誌にのるんだな。楽しみにしてるわ」
 すっかりご機嫌になった主人に両手いっぱいの豆腐や油揚げを持たされて、真央は小さな豆腐屋の事務所を後にした。今回のインタビューにはカメラマンも同行していたが、先に写真を撮って会社に戻っている。
「いい写真が撮れてるといいな〜。ふふふ〜ん♪」
 ご機嫌な鼻歌がこぼれるが、仕事がうまくいくと足取りも軽くなって当然だろう。私生活のゴタゴタも忘れられそうだ。  つい二か月ほど前、真央は同じ会社の先輩だった彼氏に浮気され、破局したばかりだった。
 ちなみに浮気相手も同じ会社で、総務で一番のかわい子ちゃんである。そのことを知ったときは心底へこんだ。せめて社外の人にしてほしかった。
 元カレである染谷健人のことを思うと、真央の胸の奥は今でもモヤモヤが止まらなくなるのだ。
 彼に未練があるわけではない。別れを選んだのは自分だ。
 自分たちは結婚しているわけでもないし、将来を約束したわけでもなかった。だが同じ会社というのはなかなか難しい。気を抜いているときに限って社内ですれ違うときもあるし、彼の噂を耳にすることもある。
 そうなると真央の心は揺れてしまう。その揺れはどうしようもないものだ。だからそのうち忘れられると自分に言い聞かせて、なんとか日々を乗り越えようと努力している。
(そうよ、今の私には仕事があるんだからね! 恋愛なんかどうでもいいしっ!)
 真央は脳内から染谷のことを追い出して、スマホを手に取る。
【インタビュー、終わりました。私も社に戻ります】
 社内のグループチャットにメッセージを送って、真央は駆け足で駅へと向かった。
 ちょうど来た電車に滑り込み空いた席に腰を下ろす。仕事柄か、意識してなくても車内の週刊誌の中吊り広告が目に入る。
「日本の三十代社長」という見出しとずらりと並ぶ社名の中に、一葉物産の名前を発見した。
 真央が勤める一葉物産は、医薬品や化粧品、日用雑貨などを主に扱う中堅商社だ。創業は明治三十年の老舗企業である。新しい社長は前社長の孫で、海外駐在経験もあるT大卒のエリート銀行マンだったが、祖父たっての願いで去年の九月に社長に就任したという。
(おっかない顔してた気がするけど……三十代だったんだ)
 顔を思い出そうとしたが、うまくイメージできない。背が高くやたら威圧的な眼鏡男だった気がする。
 ちなみに真央は入社二年目、一葉物産の広報編集室で働いている。社内報や企業資料の保存業務全般以外にも、年に四回発行のPR誌や、インタビュー記事をまとめたビジネス書を『一葉書房』の名前で発行している。
 流通事業がメインの一葉物産の中では、少し特殊な部署だ。ちなみにPR誌内のインタビューも、いずれ一冊のビジネス書としてまとめられる予定である。
(まぁ、社長なんて直接話す機会もないし)
 すぐにどうでもよくなって、真央は膝の上にのせているバッグの中から200ページ程度の単行本を取り出した。
 えんじ色の表紙の真ん中に金色の額縁が描かれ、とんがり帽子をかぶった旅装束の少年の後ろ姿が描かれている。表紙に書かれたタイトルは『マオの旅』。作者はRUI、発売元は「一葉書房」。十年前に発売された児童書だ。
 今でいうところの、日帰り異世界モノとでもいうのだろうか。東京の外れの町に住む少年マオが、町中いたるところにあるいろんな扉から異世界へと旅立ち、剣と魔法の大冒険を繰り広げながらも、夜には必ず扉をくぐって自分の家に帰るというファンタジー小説である。
 真央は十年前から、自分と同じ名前を持つ少年主人公の冒険ストーリーを、心から愛していて、いつでもどこでも読めるように、単行本を持ち歩くくらいの大ファンだった。
(今日はどこから読もうかな?)
 儀式のように表紙をそっと撫でて、適当なページを開く。鼻先にふるいインクのにおいがする。視線で文字を追うと、真央はいつでもどこでも本の世界へと飛び込める。
(何度読んでも面白いけど……続きが読めたらなぁ……)
 この十年でシリーズは累計一千万部まで部数を伸ばしているが、もともとは素人のWEB小説だ。誰に宣伝するわけでもなく、自分のブログで細々と物語を書き続けていたRUIを見出したのは、現在は引退した一葉物産の前社長だった。
 たまたまネットサーフィン中に目にした『マオの旅』に一方的に惚れ込んで、なんとこの作品のためだけに「一葉書房」を立ち上げた。社長の道楽がベストセラーを生んだという、稀有な例だった。
 だがRUIは『マオの旅』シリーズ全五巻を刊行した後、二度と筆を取ることはなかった。最終巻の五巻は新たな旅立ちを意識させる終わり方で、回収されていない伏線も多数あることから、熱心なファンの間では、『マオの旅』は未完というのが定説だ。
 あくまでも都市伝説ではあるが、過去何度もアニメ化や映画化の話があったらしい。それも全部断っているRUIが、今どこでなにをしているのか、誰も知らない。
 これから先もきっと、続編は出ないのだろう。
 けれど十年経った今でも、真央は物語の続きを諦めきれないでいた。

 一葉物産本社ビルは東京駅から徒歩五分、東京メトロ京橋駅から徒歩三分の場所にある。一階のエントランスは、スーツ姿の男女がいつも忙しそうに行き交っている。
 一葉物産の十二階、総務部のあるフロアの一番端のドアが「広報編集室」だ。ドアには付け足されたように、「一葉書房」と書かれた小さなプラスティックの板が、打ち付けられているが、劣化して今にも外れそうな気配がある。
「ただいま戻りましたー! お土産いただきましたよ!」
 真央は元気よくドアを開けて部屋の中を見回す。だが五つあるデスクはひとつしか埋まっていなかった。
「あれ、井岡さんだけ?」
 自分たちのデスクとは別に、「編集長」と札が立ったデスクがひとつあり、広い部屋を区切るように、書籍や雑誌がぎっちりと詰まった書架がいくつか並び、窓際にはファックスが三つ並んでいる。
「おかえりー。葛西編集長はなんか上のほうから呼び出しだって。写真データ見たけど、いいのが撮れたみたいね。インタビューも手ごたえあったんじゃない?」
 先輩の井岡は赤ペンをくるくると指で回しつつ、手元の原稿から顔を上げた。どうやら来月発行される予定の、社内報の原稿をチェックしていたらしい。
 社員は編集長である葛西康文と井岡侑子、そして真央の三人だけだ。その他雑務をこなしてもらうためのアルバイトで、中野恵美という女の子がひとりいるが、時間になったので帰ったのだろう。
「そっかぁ……じゃあこれ、お土産にいただいたので、井岡さん持って帰ってください」
 持っていたビニール袋を自分のデスクの上に置く。
「わー、油揚げ、いい匂い! あたしまでもらっていいの? うちの子たち、すっごい油揚げ好きなんだよね〜」
 井岡が目を輝かせながら、ビニールの中を覗き込む。
 井岡は歳はアラフォー、中学生と小学生という食べ盛りの息子がふたりいて、毎月の食費が大変だとよく笑っている。いつもはバリバリのキャリアウーマンの顔をしている井岡だが、こういうときはよき肝っ玉母さんの顔になる。
「お金を払うって言ったんですけど、受け取ってもらえなくて。とりあえず今からお礼状を書こうかと」
 真央は椅子に座って引き出しを開ける。引き出しの中には、季節に合わせたカードやレターセットが入っていた。インタビューを受けてもらった人には、必ず手紙を出すことにしているのだ。
「櫻井ちゃんはそういうとこがマメでえらいよね〜……。今回だってインタビュー決まったら、こっそり買いに行ってお豆腐食べてたでしょ」
「それは私が、実際に食べてみないと、どうインタビューするか切っ掛けがつかめないからで、マメとかじゃないですよ。あ……豆腐なだけに?」
「ふふっ……櫻井ちゃんはそういうの、当たり前だってやるからえらいんだよ。じゃあ冷蔵庫入れておくね」
 まじめに首をかしげる真央を笑って、井岡は冷蔵庫にビニール袋ごと豆腐と油揚げを仕舞った。
「さて……」
 ただいまの季節は春。五月だ。少し考えて、春らしいアヤメが描かれたハガキを取り出してペンをとる。
 貴重なお時間を使ってお話を聞かせていただいたこと、仕事ではあるけれどそれ以上に楽しい時間を過ごさせていただいたことへの感謝など、丁寧に言葉を書き連ねていく。
「――――できた」
 宛先を書き、切手を貼って完成だ。本社の目の前にポストがあるので、帰りにでも投函しよう。
「はい、コーヒー」
 井岡がタイミングよく、真央のデスクの上にマグカップとチョコレートをのせた小皿を置く。
「ありがとうございます!」
 真央はコーヒーを飲み、チョコを口に入れてうっとりと目を閉じる。じわじわと糖が脳に補給されていく気がして、気分が仕事モードへと変わっていく。
「さて、やるかー!」
 真央はぱちんと頬を手のひらで叩き、録音データを文字に起こすための準備を始めた。
「向こうで作業してますね」
 井岡に声をかけた後、真央はタブレットとスマホを持って、書架で区切った向こうにある作業スペースへと移動した。長机をふたつ合わせただけの簡素なスペースだが、間に書架をいくつか挟むだけで驚くほど静かになるものだ。
 真央はスマホにつないだイヤホンを耳に差し、タブレットを立ち上げる。
 かつてインタビューのテープ起こしといえば、レコーダーに録音したものを耳で聞きながら、テキストとして文字を打ち込んでいた。だが耳で聞きながら打ち込む作業は、一時間のインタビューなら倍以上の時間がかかってしまうものだ。
 今はスマホに録音したデータをイヤホンで聞きながら、それを自分で読み上げてタブレットの音声認識でドキュメントに保存する方法で、インタビュー時間とそう変わらない時間でテキストを書き起こすことができる。
 自分で読み上げる必要があるので、周囲への配慮として自分のデスクではできないことが難点でもあるのだが、こればかりは仕方ないだろう。
 真央は再生ボタンを押して聞き取った声を、タブレットへと話しかけ始める。
『─普段のお仕事、一日のおおまかな流れを教えてください』
 音声入力の精度を高めるためにハキハキと話す。自分の声を初めて聴いたときはなんだか不思議な心持ちになったが、三か月前からひとりでインタビュー仕事をまかされてからは慣れたものだ。
(このお話、すごく面白かったから……いい記事になるといいな)
 そうやって一時間強のインタビューをテキストに起こし終えたところで、ガチャリとドアが開き、ぼそぼそと話し声が聞こえた。編集長が帰ってきたのだろうか。
「おかえりなさい編集長、冷蔵庫にお土産がありますよー!」
 パイプ椅子から立ち上がり、デスクへと戻りかけた真央は、そこで言葉を失った。
 本来編集長が座るべきデスクの椅子に、グレーのスーツを着た長身の男が、ポケットに手を入れてふんぞり返っていたのだ。
(だ……誰……!)
 書架の奥から出てきて、きょとんと目を丸くし立ち尽くす真央に、井岡がささっと近づいてきて耳元でささやく。
「櫻井ちゃん、ぼーっとしないっ、社長だよっ……」
「えっ、社長!?」
 驚いて大きな声で叫んでしまっていた。失敗したと慌てて口を押さえたが、もう遅い。
「ほう……社長の顔も知らん社員がいるとはな」
 男は低い声で笑うと、椅子から立ち上がってツカツカと真央の前まで歩み寄り、胸元から出した名刺を一枚、真央に差し出した。社長が自分の顔を知らない社員に名刺を渡すなど、イヤミ以外のなにものでもないのだが、書店営業もやる真央は、ついとっさにそれを受け取ってしまった。
「あっ……ありがとうございます……」
 失敗したと思ったがもう遅い。指先、足先がひんやりと冷たくなっていくのがわかる。顔を上げる勇気もなく、名刺を凝視するしかない。
 そこには『一葉物産 取締役社長 柳澤進士』とあった。
(柳澤さん……。前社長の孫って聞いてたけど、苗字が違うってことは母方ってことなのかな)
 顔どころか名前すら憶えていなかった自分に呆れながら、ピカピカに磨き上げられた柳澤の靴のつま先から上へ、視線をゆっくりと上げる。
 身長は百八十センチを超えているのではないだろうか。堅物を絵に描いたらこうなりますといわんばかりの鉄面皮で、メタルフレームの眼鏡の下のすっきりとした一重は、よく切れる刀を連想させる。
 顔立ちもスタイルも端整だが、スーツ姿の彼は、見下ろされるだけでヒエッと声をあげたくなるような独特の迫力があった。
「あの……ところで社長がわざわざここに来られたのは……?」
 真央はここで働きたいという気持ちがあり、望みの部署に配属してもらったが、広報編集室は花形部署とは言いづらく、むしろ日陰の存在扱いされている。
 彼が社長に就任してから半年以上経つのに、なぜ今になって広報編集室に姿を現したのだろう。そういえば編集長が上に呼ばれたと井岡が言っていたが、関係しているのだろうか。
 真央は胸の奥に、どこか不安な気持ちを抱えながら問いかけた。
「広報編集室を……正確に言えば『一葉書房』を九月に閉めると伝えに来た」
 柳澤はさらりと言って、眼鏡の奥の目を冷たく細める。
「えっ……?」
「諸経費と採算を考えれば今の時代、紙のPR誌は無駄だ。今後はWEBにする。お前たちは全員広報部に移動だ。首というわけじゃない、安心していいと言ってやるために、わざわざ私がここに来たんだ。どうだ、理解できたか」
「まっ、待ってくださいっ!」
 聞き捨てならない情報を耳にして、真央は目の前が真っ白になる。
 上から目線を隠さない、社長への緊張はすでに吹っ飛んでいた。真央は柳澤に詰め寄る。
「あ、あの、PR誌のWEB移行はわかります。大手出版社さんだって、次々にWEBに変わってるし……時代の流れだからしかたないかもしれないです。で、でも、一葉書房を閉めるってどういうことですか? 『マオの旅』はどうするんですか!? あれはいまだに書店さんから客注が来る、シリーズ累計一千万部の大ベストセラーですよ! 一葉書房を閉めちゃったらそれはもう損失ですし、PR誌をなくすどころではないはずですっ!」
 PR誌はいずれなくなるだろうというのは、真央たちも以前から予測していた。紙の雑誌がなくなるのは寂しいが、ビジネス書を買う購読層を考えれば、WEBのほうがより広く読者に届くだろう。
 だが『マオの旅』はそうではない。一葉書房を立ち上げるきっかけになった児童書で、大事な本だ。
「なのに、一葉書房をなくすなんて……」
 真央は唇を震わせながらきつく柳澤を見据える。そんな真央の視線を受けても、柳澤はあっけらかんとしたものだった。
「だから版権を売る」
「え?」
「出版社はこれから探すが、いまだに客注が途切れない児童書だというなら欲しいところはいくらでもあるだろう。すぐに売れるさ。RUIだって大手出版社から出しなおしてもらうとなれば、損はない」
 柳澤は背後の編集長のデスクにもたれるように体を預けると、はっきりと真央を見つめて言い放った。
「『マオの旅』は過去の遺産だ。祖父の道楽がたまたま当たっただけ。私の時代ではもう必要ない」
 過去の遺産――――。
 真央は頭を殴られたようなショックを受けた。あまりの衝撃に胸の奥が締め付けられて、息がうまくできなくなる。
 もちろん真央だって、出版社を変えて新たに発行されるものが、悪いと言いたいわけではない。ただ一葉書房の『マオの旅』が、自分にとって唯一無二の宝物なのだ。
「いっ……いやですっ……」
 気がつけば口がなによりも先に動いていた。
「は?」
「一葉書房の『マオの旅』は過去の遺産じゃありません!」
 柳澤が眼鏡の奥の目を見開く。それも当然だろう。一社員でしかない真央がここまで社長の決定に「いやだ」と言い返してくるなど、考えもしなかったに違いない。
「どうしたら一葉書房を残してもらえますか!」
「なぜそこまで一葉書房にこだわる。君はまず一葉物産の社員だろう」
 柳澤は怪訝そうに眉を寄せた。
「そうですけど……でも私は一葉書房に入りたくて……『マオの旅』の続きを出したくて、一葉物産を受けたんです」
 就職活動の最終試験は、前社長と一対一の面接だった。そこで真央はこの十年、いかに自分が一葉書房から発行された『マオの旅』を愛してきたのか、人生の指針としてきたのかを切々と語り、この一葉書房に配属された経緯がある。
(そう……私、本当は『マオの旅』の続きを出したかったんだ)
 研修を終え念願の広報編集室に配属された真央は、当然その希望を口にした。だが編集長や同僚にも、「それは無理だ」と本気に取ってはもらえなかったのだ。
 必死の真央に向かって、柳澤は馬鹿にしたようにふっと鼻で笑う。
「RUIは稼ぐだけ稼いでやめたんだ。今更十年前に終わった作品の続きを出すはずがない」
 そして、誰もが柳澤と同じことを言うのだ。
 無理だと、RUIが新作を書くはずがないと決めつける。
(でも本当にそうなの?)
 真央は首を振った。
「お金ってそんなに大事でしょうか! 私はRUIが……お金を稼いだからもう書かないなんて……信じられないんです!」
 根拠はなんだと言われたら、真央だってはっきりと答えられない。ただ『マオの旅』は未完だ。きっとRUIが思い描いた続きがあるはずだ。
 あれほどの物語を書いた人が、続きを考えていたものを書かずにいられるものなのだろうか。
 真央はどうしてもその可能性を捨てきれなかった。
「金は二の次だと言いたいのか。余裕のある人間の戯言だな」
 柳澤の声が一段低くなる。なにが彼の機嫌を損ねたのかわからないが、真央も負けてはいられない。
「不要とは言ってません。ただお金を持ってるからもう書かないっていうのは、理由にはならないかもしれないって言いたいんです!」
 真央は背の高い柳澤を見上げて、首を振った。
「─勝算は?」
 柳澤が問う。
「ないけど作ります!」
 間髪入れずに真央は答えた。その瞬間、明らかに柳澤は呆れたようだったが、真央はそれでも目に力を込めて柳澤を見返す。
 確かに仕事ができる人たちから見れば、ばかばかしい確率かもしれないが、幸い自分は社会人二年目だ。失敗して笑われたとしても失うものはない。
「そもそもRUIが書かない理由だって、一葉書房にいる人間は誰も知らないんですよ……絶対書かないなんて、言い切れないと思います!」
 真央はぎゅっとこぶしを握って、唇をかみしめた。
 もう社長が怖いなんて思っている暇はなかった。まっすぐに柳澤を見上げる。
 その視線に、柳澤は戸惑うように瞬きをした後、ふと何かを考えこむように目を伏せた。
 沈黙が流れたのはほんの数秒。おそらく十秒にも満たない時間だっただろう。
 ふと思いついたように、柳澤は中指で眼鏡を押し上げながらニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「わかった。だったら……RUIに新作を書かせる確約を取ってきたら、すべてを考え直そう」
「え……?」
「RUIの新作が出せるなら、版権を他社に売るのは惜しい。むしろ新作を売るために大型プロジェクトを立ち上げてもいい。金になる」
 薄い唇の端をニヤリと持ち上げて、柳澤は真央を見下ろした。
「期限は一か月。それまでにRUIに『一葉書房から続きを出す』と言わせたら、お前の勝ちだ。一葉書房は残すことにする」
「いっ……一か月っ!?」
 首の皮一枚が繋がったようだがとんでもない。それはある意味死刑宣告だ。
(ちょっと待って、一か月でなにができるって言うのよ!)