こぎつね、わらわら 稲荷神のはらぺこ飯 立ち読み

 陽炎が来たのは、翌日の居酒屋タイムが始まる少し前だった。
居酒屋タイムは特に明確に時間が決まっているわけではなく、八時頃から稲荷たちが集まり始め、流れで開始される。
だが、今日は七時過ぎに陽炎がやってきた。
 すでに店は休みに入っていたが、秀尚は厨房で館に送るための作り置きのおかず調理をしていたので、今夜も居酒屋は開く予定ではあった。
 なので陽炎が来てもおかしくはないのだが、
「今日はずいぶん早いお越しですね。それに、初めましてのお稲荷様がご一緒で」
 秀尚は陽炎と共に現れた見慣れぬ稲荷へと視線を向けた。
 陽炎の友人、というには随分と大人しそうな様子の稲荷で、どことなく神原に似ている気がした。彼は秀尚の視線を受けると軽く目礼し、
「お初にお目にかかります。私は、本宮の厨にて勤めをしております萩の尾と申します」
 そう名乗った。
「萩の尾さん……。初めまして加ノ原秀尚です。今日はまだ、つまみの準備できてないんですけど、簡単なもの、ちゃちゃっと作るんで……」
 座って待っててください、と続けようとした秀尚に、
「いや、萩の尾殿は居酒屋目当てで来たわけじゃないんだ。実はおまえさんに、折り入って用があってね」
 陽炎は言うと、促すように視線を萩の尾へと向けた。
「折り入って……?」
 首を傾げつつ秀尚は萩の尾を見る。萩の尾は話の切り出し方を少し考えるような顔をしていたが、
「厨では宇迦之御魂様や白狐様をはじめとした皆様方の食事をお作りしているのですが……近頃、白狐様が少し違ったものを食したいと強くおっしゃられまして」
 そう言った。彼らにとっての「食事」とは腹を満たすためのものではなく、旬のものを食べて活力の底上げをしたり、日々の「潤い」としても必要なものだ。とはいえ、単純に「食べることが好き」な者も多いらしいが。
「はぁ……」
「そこで、加ノ原殿に私が非番の時に料理指導をお願いできればと思いまして、参上した次第です」
 続けられた言葉に秀尚は目を見開き、陽炎を見た。
「マジで、ですか?」
「ああ」
「白狐様って、あの白狐様だよね? 陽炎さんたちのトップだっていう……」
「そう、その白狐様だ」
 陽炎はあっさり肯定してくる。
「そうって……! そんなすごいお稲荷さんに出す料理の指導を俺が? 無理、無理無理!」
 そんなすごい人──人ではないが──に出す料理の指導を自分ごときがしていいとは思えず、秀尚はブンブンと頭を横に振った。
「そこをなんとか! お願いいたします! もちろん、無償でとは申しませんので……」
 よほど切羽詰まっているのか、萩の尾は食い下がってきた。
 そこで詳しく話を聞けば、厨で作られる食事は和食と昔から決まっているらしい。
 だが、近頃白狐は人界にいる稲荷から差し入れられた手作りピザを食べたり、ドリアを食べたり、果ては本宮を家出してしばらく加ノ屋に滞在していた、うーたん──宇迦之御魂神──から人界で食べたものをいろいろと自慢されたりして、人界の料理に興味津々らしいのだ。
 そこでまずは、ピザを手作りしたという稲荷に料理指南を頼んだらしいのだが、
「人界に、稲荷と親しくしてる料理人がいるみたいですよー? 俺より本職のその人に頼んだほうが丁寧に教えてもらえるんじゃないですかー?」
 とアドバイスされたらしい。
 そこで人界によく出入りしている稲荷にリサーチをしたところ、それは、以前あわいの地にいたことのある人間の料理人で、陽炎たちが親しいと言われ、連れてきてもらった、ということのようだ。
「加ノ原殿のことは、実は私、存じておりまして……」
 萩の尾の言葉に秀尚は驚いた。
「え、そうなんですか?」
「はい。以前あわいにいらした頃、加ノ原殿からの依頼のあった食材の手配を何度かさせていただいたことがあるのです。その際に、とてもおいしい料理をお作りになる方だと話題になっておりましたので……。人界に戻られた今も交流が続いているとは存じ上げませんでしたが」
 どうやら、当時、萩の尾に世話になっていたようだ。
「そうでしたか……」
「加ノ原殿の料理を食べたことのある他の稲荷たちからも話を聞いたのですが、やはりおいしいものをお作りになると。ですので、是非お願いしたいのです」
 萩の尾はそう言うと深く頭を下げた。
「え、あの、頭、上げてください!」
 仮にも神様または神様に属する存在に頭を下げられると思っていなかった秀尚は慌てる。
「ここまで頼んでるんだ、どうせおまえさん、店が休みの間、時間があるんだろう? その時間を使って教えてやっちゃどうだ?」
 陽炎が気軽に言ってくる。
「教えるっていっても……厨で働いてるってことは俺より多分知識とか深いっていうか……そんなお稲荷さん相手に教えることなんてないような気もするんだけど……」
「いえ! そのようなことは! 厨では和食以外を作ることはありませんので、その『けちゃっぷそーす』や『まよねーず』というものを、どのように使えば効果的なのか、そういったことも分からないのです。どうぞなにとぞ!」
 再度頭を下げられ、秀尚は折れた。
「……あんまり、期待するほどのことはできなくてがっかりされると思いますけど、俺でよければ」
「よろしいのですか!」
 萩の尾が期待いっぱいの目で確認してくる。
 それに秀尚は頷いた。
「はい、俺でよければ」
「ありがとうございます!」
 萩の尾が喜びと安堵の混じった顔で言う。
 こうして秀尚が料理指導をすることになったわけだが、
「でも、教えるっていってもどこで教えればいいんだろ……。ここの厨房は工事に入るから使えないし……」
問題はそこだった。
 ホテルの厨房で働いていた頃、試作をした時などに借りたキッチンスペースをレンタルするのが一番いいかな、と思った時、
「あわいに来てもらえないか?」
 陽炎がそう聞いてきた。
「あわいへ? え? それヤバくない?」
 秀尚は難色を示した。
 以前、秀尚があわいの地にいた頃、そもそも不安定な空間であるその地に秀尚という異分子が入り込んだことでさらにあわいの地のバランスが崩れて、よからぬモノを呼び寄せてしまい、危機を呼び込んでしまう状況になってしまったのだ。
 ──もう、あんなバケモノ騒動、こりごりだ……。
 当時の騒ぎは思い出すだけでぞっとする。
 だが、陽炎は、
「あの時はおまえさんも、負の感情を持ってたからな。だが、今のおまえさんならそんな心配はない」
 そう断言した。
「……ホントに?」
「ああ。おまえさんの中にあった負の感情の波動に引き寄せられてやってきた連中も多いからな。まあ、元々いろんなものが入り込みやすい不安定な場所だっていうことがそもそも問題ではあるんだが……」
 そう言われても秀尚は悩んだが、他に解決策もすぐには思い浮かばず。
「分かった。じゃあ、あわいへ行く。でも、もし俺が行ったことであわいに異変が起きるようなら、すぐ人界に戻るっていうか……」
 あわいの地に行くことを承諾したが、秀尚はあることを思い出し、
「今度はすぐ戻れるんだよね? 前みたいに女風呂に飛び込まされそうになったりはしないよね?」
 陽炎を見て、問い詰めた。
 以前、あわいの地にいた頃、戻るのに難儀したのだ。
 秀尚が暮らしていた「時代」と「地域」に座標を合わせることが難しく、ある時、やっと秀尚が来た日に近い時間と場所に戻るための扉が開いたのだが、そこは女風呂で。飛び込んだが最後、即警察に連れていかれるだろうというような状況だというのに、陽炎に飛び込まされそうになったのだ。
「あの時はおまえさんが来た座標軸に印がなかったから難儀しただけで、今は日常的に出入りできるように座標軸をロックしてるから大丈夫だ。チビさんたちだって、気軽にここに来られてるだろう?」
「あー、確かに。じゃあ、工事の進捗状況の確認にも、ちょくちょく戻ってこられますよね?」
 確認すると、もちろんだ、と返ってきて、秀尚は萩の尾に視線を向けた。
「どこまでお役に立てるか分かりませんが、よろしくお願いします」
 改めて言うと、萩の尾からも改めて「こちらこそよろしくお願いします」と挨拶があり、秀尚は加ノ屋の休みの間、再びあわいの地に行くことになったのだった。