ワケありシェアハウス 妖怪つき あなたのお悩み、解決します! 立ち読み

 
 長いフライトを経て駅からスーツケースを引き摺って歩き、ようやく辿り着いたその建物を見た時、一瞬頭がくらりとした。
 まだ春先だというのに汗まで滲んだ気がして、額に手を遣る。
 高い両開きの鋳物門扉越しに見える屋敷。
 この家を離れてから九年が経とうというのに、まるで変わらない眺め。
 広い前庭に植えられた木々は綺麗に刈られ、本館に続く石畳の道、左右に続く芝生も、雑草や枯れ草に埋もれることもなく、きちんと手入れがされている。建物にも傷んでいる様子がない。
 おそらく裏庭も、離れも、同じようにきちんと管理されていることだろう。
 唯一の、そして致命的と言える─少なくとも俺にとっては─変化といえば、門に掲げられた妙な看板だ。
【シェアハウス イチイ】
 俺が家を出た時にはなかったはずの木彫りの看板。墨痕淋漓と言いたくなるほどのびのびとした手蹟の文字が、妙に癇に障った。
 スーツケースの持手を握り直し、きつく眉をひそめ、看板から再びかつての我が家を門扉越しに見上げる。
 戦前に建てたものを繰り返し補修、改築して、見た目はレトロだが設備はそこそこ近代的になっている。そこが本館で、離れや納屋もあるはずだが、ここからでは見えない。
 そして本館の二階南端の窓も、巨木の陰に隠れて見えない。
 あそこはかつて姉の部屋だった。姉が暮らしていた頃からあの木は馬鹿みたいに大きくて、門をくぐり建物に近づいたとしても、外から中を覗くことはできなかった。木に登らない限り。
 俺があの木から転がり落ちてワンワン泣き喚いた愚かな子供だったのは、もう二十年近く昔の話だ。
 遠い思い出にまた眩暈を覚えそうになりながら、小さく息を吐き、スプリングコートのポケットから鍵を取り出す。
 鋳物門扉は古びて見えるが、電子錠のついたタイプだ。鍵を把手の下にあるセンサーに翳すと、短い電子音がして錠が解除される。門扉自体は数年前に交換したと言うが、電子錠の情報を両親が書き換えずにいたということについては、今は考えないことにする。
 軋んだ音を立てながら門扉を開き、敷地の中へと大股に足を踏み入れた。
 お屋敷、と近所からは呼ばれていた。『櫟井さんのお屋敷』。古色蒼然と評するしかない年代物の洋館は、俺にとっては広いばかりで厄介なことも多かったが、周りの人間には『こんなおうちに住んでみたい』と溜息を吐かれるような豪邸に見えたらしい。映画やドラマのセットとして使わせてほしいと頼まれたことが何度もある。
 俺が暮らしていた頃は、とてもそんな状況ではなかったので、両親がすべて断ったが。
「……」
 かつての我が家を見上げ、一瞬でも足が竦んだようになった自分が忌々しい。俺は再び大股になり飛び石を踏んで、玄関に向かった。
 見た目にはまるで変わらないのに、この家は俺が住んでいた頃とはまったく違うものになってしまった。
 何しろ【シェアハウス イチイ】だ。
 九年前までたしかに俺の家だった場所は、今や他人、得体の知れぬ有象無象の住むシェアハウスなどというわけのわからない和製英語の餌食になってしまった。
 まあ、誰が住もうとどうでもいい。本来ならば二度と戻らぬつもりだった。
 問題は、【あれ】が無事なのか。それだけだ。


 門を越え、一般家庭としては広すぎる前庭の石畳を歩いて軽く数十秒。
 建物の玄関に辿り着き、そのまま扉を開けるか迷ってから、結局鍵をコートのポケットにしまって代わりにスマートフォンを取り出し、インカメラでサッと自分の姿を確認する。
 何しろ今から会うのは初対面の人間だ。会いたくて会うわけではない相手だとしても、一応は身だしなみを整えるのはビジネスマンとして培った鉄則であり、相手に対する礼儀であり舐められないための戦闘態勢でもあり─などということを考えている気難しそうな、無愛想な男の顔がディスプレイに映し出される。別にビジネスの相手と会うわけでもないが、ひとまず調えた髪に乱れもないことを確認して、スマホをポケットに戻した。
 さて、鬼が出るか蛇が出るか。
 意を決してインターホンの呼び出しボタンを押す。
 いや、出てくるのは鬼でも蛇でもなくシェアハウスの管理人のはずだが。
 両親からは、信頼のできる人間に庭や離れも含む屋敷全体の管理を住み込みで任せていると聞いていた。きちんと手入れがなされているところを見ると、しっかりした業者に委託したのだろう。
 相手が出るまでに呼吸を整えよう、と息を吸ったところで、
『はいっ!』
 勢い込んだ声がスピーカーから飛び出してきて、思わずのけぞる。こちらの来訪を待ち構えていたかのような早さだった。
『アキラ君ですか!?』
 たしかに俺の名前は櫟井明だが、まさか二十代も半ばという歳になって『アキラ君』呼ばわりされるとは思わなかった。
 しかもこの声─まるで少年だ。子供じゃないのか?
「そうだが……そちらは、ここの管理人か?」
 どうなってるんだ、と思いつつ、俺はとりあえず訊ねた。
『はいっ、今、鍵を開けますね。中に入ってきてください、みんな食堂で待っていますから。─みんな、アキラ君が……』
 ブツリと、インターホンの通信が切れる。
 俺は大変な不審を抱いた。
 今のが、管理人? この【シェアハウス イチイ】の?
 そのうえ『みんな』『待っている』?
 待たれる覚えがない。そもそも両親に今日、この時間に屋敷を訪れることを告げていない。そのうち寄ることがあるかもしれないと言ったら、鍵は変えていないから好きにしろ、管理人がいるから挨拶して入るようにと言われただけだ。
 わけがわからなかったが、ここに突っ立っていても仕方がない。電子錠が開く音がしたので、玄関のドアを開けた。俺が住んでいた頃のままであれば、家の鍵はリビングと二階の廊下にあるインターホンのパネルを操作すれば解錠できる。
 屋敷の中に入ると、さすがにそれらしく変わってはいた。家族用の靴箱の代わりに、六本の木製ロッカーが並んでいる。とするとここで暮らす人間は、そのくらいの数いるということだ。
 玄関ホールの奥にはドアのない大きな入り口があり、奥は広々したリビングになっている。ここも、おおまかな造りは変わらない。クリーム色の壁紙も無垢の腰板もシャンデリアもブラケットライトも、煉瓦造りの古風な暖炉もそのままだ。白い革のソファは少し形が違う気もするし、額装された壁の絵も別のものだったかもしれないが、何しろ十年近く経っているのでよく覚えていない。
 食堂、と管理人らしき者は言っていたから、リビングの隣の廊下を挟んだ向かいにあるダイニングのことだろう。
 とにかく管理人に会わないことには話が始まらない。どうも気は進まないながらも、ダイニングの扉に手をかけて押し開ける。
 途端。
 パン! ポン! ポン! と。
 軽く短い破裂音がいくつもいくつも湧き上がり、
「いらっしゃい、アキラ君!!」
 畳みかけるように明るい声が響き渡り、視界のあちこちから細長い紙のようなものが飛びかかってきて、俺は呆気に取られた。
「……」
 鼻腔を火薬の匂いが刺激する。
 俺はただ、黙した。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
 そして部屋にいた人間たちも沈黙した。
 クラッカーを手に、扉を開けた瞬間まで歓迎の色を浮かべていた人々の笑顔はそのまま凍りつき、ただ、俺を見ている。
 着流しの老人一人、スーツ姿の中年一人、ジーンズ姿の青年一人、エプロン姿の少年一人、セーラー服の少女、都合五人。
「いや、でかくねえ?」
 最初に言葉を発したのは、唯一クラッカーではなくスマートフォンを構え、七分袖のカットソーにデニムのパンツを身につけ、明るい髪色をした、いかにもSNS映えなどを重視していそうな香りのする青年だった。
「ほんと、最近の小学生って、こんなにおっきいの?」
 きょとんと、ツインテールの髪を揺らしながら、馬鹿げた台詞をセーラー服の少女が言う。
「まさかですよ、ふじのさん、これはどう見たって、小学生じゃない」
 言わずもがなのやはり馬鹿げたことを言ったのは、少々古くさい印象のニットの上に茶色いスーツを着込み、冴えない黒縁眼鏡をかけた、真面目そうな中年男。
 八十がらみに見える着流しの老人は、好好爺然と笑みを浮かべたまま俺を見ている。
「えっ、えっと」
 慌てたように一歩前に進み出たのは、エプロン姿の十代後半に見える少年だ。――インターホン越しに聞いたような声だった。
 おい、まさか、これが、この子供が、管理人だなんて言うんじゃあるまいな?
「どうなってんだよ、オオヤ」
 最初に声を発した青年が、少年に問う。大家? 管理人ではなく?
 俺はますます混乱した。
 が、その混乱を表に出す愚かさは見せないよう、努めて冷静に、オオヤと呼ばれたエプロン姿の少年を見る。
 少年、と言っても、童顔なだけで、よく見ればもしかしたら二十歳は超えているのかもしれない。飾り気のない、少々寝癖のように乱れたまっ黒な髪と、妙に大きく黒目勝ちな目のせいで、幼く見えるだけなのか。
「あのう……アキラ君、です、よね?」
 困ったように問いかけてくる少年には答えず、俺は彼の向こうにある壁を見た。
【いらっしゃい あきらくん!】
 門にかけられた看板同様、墨痕鮮やかに横長の紙へと書き付けられた文字の周りには、花紙で作られた色とりどりの花が飾り立てられている。
 テーブルの上には大皿に並べられた数えるのも嫌になりそうな種類のオードブルに、パスタにローストチキンにアクアパッツァにピザにちらし寿司にケーキにジュースと酒のボトル。料理の中央にドンと居座る巨大なショートケーキは二段重ねで、【ようこそ あきらくん】のチョコプレートが置かれている。
 悪い夢を見ているか、そうでなければ出来の悪い海外のシットコムの登場人物にでもなった気分を味わう。
「いかにも、俺は櫟井明だが」
「いちいあきらさん、ですか?」
 遠慮がちに、人のよさそうな、気弱な笑みを浮かべながら訊ねてきたのは、黒縁眼鏡の中年男。
「あれ、今日来るのは、小さなお子さんという話ではなかったでしたっけ」
「小さなお子さん?」
 誰のことだ、それは。
「櫟井って、このシェアハウスと同じ名前じゃん」
 と、今度はセーラー服が言う。少年に負けず劣らずの瞳の大きさで、かなりの美少女だった。ツインテールなどという火力の強そうな髪型を堂々と披露しているところを見ると、本人にも美少女の自覚があるに違いない。
「この家ってか、オーナーと同じだろ。孫なんだから合ってるんじゃないのか?」
 美少女と目を見交わして言ったのは、相変わらずスマートフォンのカメラをこちらに向けている青年。動画でも撮っているのか。
「孫じゃない。息子だ」
 俺が答えると、その場にいた全員が、狐にでもつままれた表情になって互いの顔を見合わせている。
 何だその顔は。タヌキに化かされた気分なのはこっちだ。
「それで……オーナーの息子さんが、ここに、何の用で?」
 中年男の問いが、俺はなぜだか無性に癇に障った。
「俺が俺の家に来て、何が悪い。むしろあんたたちが何だ。誰なんだ、人の家で」
「何ってそりゃあ」
 どこか呆れたような、自明の理だろうと言わんばかりの顔で、青年が答える。
「この【シェアハウス イチイ】の住人さ、決まってるだろ」


「とにかく、立ったままっていうのも何ですし、座りませんか」
 俺を含めこの場にいる全員に向けて声をかけたのは、エプロン少年。『シェアハウスの住人』たちは頷いて大きなダイニングテーブルを囲む椅子にそれぞれに腰を下ろしたが、俺は気を許すつもりにはなれずに、コートを脱ぎもせず、そのままダイニングのドアの前に腕組みで居座った。
 部屋の中を見回す。壁中に折り紙で作った輪飾りやテープが貼り付いているから印象がずいぶん違うが、六人が一堂に会してもゆとりのある広々したダイニングの姿も、俺が覚えているものと変わりがなかった。
「オーナーの息子っていうなら、どうしてここがシェアハウスだって知らなかったんだ?」
 青年は「天知だ」と名乗ってから、そう訊ねてきた。
「シェアハウスになったことは聞いている。─ごく最近だが」
 まったく予想外だったが、それはいい。俺には関係ない。この家は両親のものだ。売るなり焼くなり好きにすればいい。
「じゃ、どうしてそんなに驚いてるの?」
 美少女は「ふじのだよ、高校二年生です」と名乗った。
「どうしてって、来ると報せてもいないのに、見ず知らずの人たちからこんな馬鹿みたいな……失礼、大袈裟な歓迎をされたら、誰だって驚くに決まってるだろう」
 驚くなという方がどうかしている。
「でも、オーナーさんから、アキラ君って子が来るからよろしくねって頼まれたんだよね? ねえ、ツナグさん」
 ふじのに問われて、オオヤ某が彼女に頷いてから、俺を見た。ツナグ?
「僕は管理人のオオヤと言います」
 ぺこりと頭を下げながら言われた台詞はどうあっても意味不明だった。
「管理人なのか大家なのかはっきりしろ。しかも大学生か高校生じゃないのか」
「管理人です! 苗字がオオヤです、オオヤ、ツナグ。大きな谷に、繊維の維でツナグ」
 慌てたように答えながら、自称管理人は「大谷維」と中空に指で文字を書き付けた。
「高校生でも大学生でもありません。成人式はすんでますので、大丈夫です」
 やはり童顔の方だったか。しかしあまり大丈夫には見えなかった。この家のすべてを任された管理人だとしたら、何にせよあまりに若い。若すぎる。
「あのう、私は、里村です。里村慧宗、この近くの高校で社会科の教師をやっております」
 遠慮がちに、眼鏡の中年男も名乗り出た。この場では一番まっとうそうな相手に、俺はいささかながら安堵する。
「この近くというと、都立西高ですか」
「そうです、そうです」
 都立高校の教員なら、身元ははっきりしている。
「ツナグ君は若いですがしっかり者の働き者です。この広い家を管理するのは大変だろうに、きちんとやっていますよ」
 気弱そうながらもにこにこと愛想よく言われては、あまり強く追及することができなくなってしまう。
 まあ、いい、この家の管理がどうあろうと、何にせよ、そう、俺には関係ないのだ。
「福永亜彦、無職です」
 いつの間にか全員が自己紹介をする流れになっていたようで、最後のひとり、着流しの老人がそう名乗ると、長身の背筋をピンと伸ばしたまま実に綺麗なお辞儀をした。年長者の丁寧な挨拶を向けられてぞんざいにするわけにもいかず、俺も同じように礼を返す。
「この歳ですから決まった仕事には就いておりませんが、かつては信用金庫の勤めをしておりました」
 これまた固い勤め先だ。本人の言うとおりかなりの高齢のようだが、物腰も言葉もしっかりしている。体躯もいいし、時代錯誤の着流しと相まって、何だか武士のような印象を受ける。
「……それで、どうしてこんな歓迎会なんて準備していたんだ? 俺は今日ここに来ることを、誰にも報せてないのに」
「でも、オーナー夫妻から頼まれたんです。『アキラが行くから、申し訳ないけど面倒を見てくれないか』って」
 若き管理人が言う。
「いつの話だ?」
「十日くらい前だったと思います。電話で相談されて。孫をこのシェアハウスの一員に加えてほしいって。自分たちはそばにいてやれないから、寂しくないように元気づけてあげてほしいって」
 やはり意味がわからない。俺は息子だ。両親は若くして結婚したから、まだ還暦も迎えていない歳なのに、まさか揃って認知症にでもなったというのか?
 いや、俺が両親に連絡を取ったのは二週間ほど前、管理人と電話をしたという日からそう経っていない。俺も電話で話した感じ、不自然なところはなかったはずだ。─多分。ひどくぎこちない、短い会話になってしまってはいたが。
 そうだ、電話だ。俺はコートのポケットからスマホを取り出し、履歴から父の番号を探し出すと通話ボタンを押した。
 繋がった、と思ったら、聞こえてきたのは英語のメッセージだった。電波が繋がらない場所にいる、とアナウンスされている。
「オーナーたちに電話しているなら、今繋がらないと思いますよ。この間電話が来たあと、これから秘境だって言っていましたから」
「ひきょう?」
 悲境。卑怯。秘教。どうもこの家で聞く言葉は意味不明なものばかりで、理解が追いつかない。
「自称ミステリーハンターなんだもんね」
 ふじのの追撃でさらに混乱した。
「ミステリーハンターって言うと特定の番組のリポーターになっちゃうんだぞ、冒険家とか極地探検家って言うべきじゃないのか?」
 どうでもいいことを、天知が突っ込む。福永老人がニコニコと頷いた。
「早期リタイア後に世界の秘境を巡る旅など、いや、浪漫に満ちあふれておりますな。私ももう少し足腰がしっかりしていたら、真似したいところでしたが」
「福永さん全然しっかりしてるじゃん、でも飛行機とか船での長旅が厳しかったら、電車で温泉にでも行こうよ」
「いいねえ、奥多摩なら電車で二時間もかからないだろ、ここから」
「もう少し経てば、湖の桜も見頃でしょうしねえ」
 ふじの、天知、里村と、話が脱線していく。俺は大きく咳払いした。
「つまり、どういうことだ。ふたりして海外旅行にでも行ってるってことか」
「そういうことです、半年ほど前にふたりで世界一周してくると言って出かけていきました」
「半年ほど前……」
 管理人の言った言葉を、俺は口の中で繰り返す。半年ほど前。
 その頃に何があったかなんて、思い出そうとしなくてもすぐに思い出せる。
 姉が死んだのだ。
 俺より三つ年上、まだ二十七歳だった。
 彼女を亡くした悲しみを払拭するために、両親揃って気晴らしの旅行にでも出かけたというところか。
 うっかり聞き流してしまったが、先刻福永老人が「早期リタイア」と口にしていた。とすると父は仕事も辞めたというのか。
 元々櫟井家は資産家で、土地や建物も多く持っているから、働かなくても暮らしていくだけの余裕はあったのだ。だが根が真面目というか勤勉すぎる婿養子の父は、「不労所得で暮らすのは落ち着かない」と言って、結婚前からの会社勤めを辞めないままだった。
 その会社も辞めて、世界旅行とは。
 ……それほどまでに姉の死が痛手だったと考えることは、難しくはない。彼らは姉を掌中の珠のごとく愛していた。
 しかし、旅行はともかく、秘境? ミステリーハンター? そんな馬鹿な。
 あの人たち、特に父は何より絵空事が大嫌いで、子供向けの幽霊漫画や妖怪のアニメ、少女雑誌のおまじないコーナーですら「くだらない」と一刀両断にして、少しでもオカルトの匂いがすれば、不機嫌にそれを子供たちから取り上げたくらいだと言うのに。
 初詣にも行かない徹底ぶりだった両親が、不思議探しに秘境探検だと?
「そんなの、俺が連絡した時は、一言も言ってなかったぞ」
「おまえ本当にオーナーの息子なのか?」
 胡乱げな眼差しになって大変無礼なことを言ったのは、天知。俺よりは年上かもしれないが、三十路は越えていないように見える。年上だろうがおまえ呼ばわりにむっとした。証明してやる義理もなかったが、疑われるのも忌々しいので、スーツケースの中を探ってパスポートを取り出し、顔写真と名前を見せつけてやった。
 天知とふじのが、身を乗り出してまじまじ覗き込んでくる。
「ふーん、俺より三つ下かあ」
「写真写りわるーい、これじゃ指名手配の犯人だよ。ていうかせっかくかっこいい顔してるのに、今もそんなぶすっとしてるから、勿体ないなあ」
「とにかく俺が櫟井明だ」
 放っておくとまた話が脱線する。ふたりを無視して、俺はパスポートをしまい直した。
「橋元アキラ君ではないんですね」
 管理人の言葉に俺は首を振った。
「橋元っていうのは誰だ? そもそも孫だなんて……、……」
 言う途中、俺は、不意に思い出した。
 たしか姉の結婚相手が、そんな名ではなかったか。
「オーナーの娘さん、えっとあなたのお姉さんの苗字ですよ。ご結婚して、橋元姓になったんでしょう?」
 不思議そうに、管理人が訊ねてくる。やはりそうか。天知の俺に向ける目が、ますます胡散臭いものを見る眼差しになる。
「どうして姉貴の名前を知らないんだ? 親の居場所も知らないわ、姉の嫁ぎ先の苗字も知らないわって、おかしいだろ」
「俺は姉が結婚する前にこの家を出て以来、九年間一度も戻っていないし、姉とも連絡を取っていない。先に言うが姉が死んだことを知ったのも先月で、通夜にも葬儀にも出ていない。……そうか、子供が、いたのか」
「え……っ、お姉さんが亡くなったの、去年の夏でしたよね?」
 管理人が驚いた声を上げた。
「おいおい、自分の姉ちゃんが亡くなって半年くらいそれを知らなかったって、おまえこそ秘境ででも暮らしてたのかよ?」
 天知はまだ疑わしそうにしている。俺は面倒な気分で軽く溜息をついた。
「家を出たのは寮のある高校に通うためで、大学は海外留学して、そのまま現地で就職した。出張も多かったし、赴任先も何度か変わってその都度越したから、いちいち連絡先なんて伝えなかった。半年前にようやく姉の件で親が連絡を取りたがっていると人伝に聞いて、それから長期休暇をもぎ取って日本に着いたのが、二時間前だ」
 あまり長々と話したくないため、端的に説明する。
「そっかあ……でも、知らなかったんなら、仕方ないよね」
 もっと怪しまれ、さらに根掘り葉掘り事情を聞かれると思っていたのに、ふじのがあっさりとそう言った。
 我ながら非常識な家族関係だとわかっていたし、感謝祭にもクリスマスにもひとりでいる俺を見て家庭を大切にする同僚からはことあるごとに和解を勧められたから、ここでもお節介な説教のひとつでも喰らうと思っていたのだが。
 里村氏や福永老人、あからさまな疑いの目を向けてきた天知までが「ま、そうだな」と軽い調子で頷いている。
 その方が都合がいいはずなのに、むしろ妙な据わりの悪さを感じつつ、俺は管理人に訊ねた。
「『オーナー』は、今日来るのは姉の子だと言ったんだな?」
「はい。そう聞きました、今日のお昼くらいに八歳の子が行くはずだからって」
 腕時計を見ると、午前十一時三十五分。それを確かめた時、家の中に「キン……コン……」と少し間延びした電子音が響いた。
 俺たちは全員はっとした顔を見合わせてから、まず管理人がダイニングを飛び出した。続いて俺も、そして残りの四人も、隣のリビングへと飛び込む。管理人がすでにインターホンの親機の受信ボタンを押していた。
 インターホンの液晶パネルに映し出されていたのは、緊張しているのかまったく無表情で俯きがちの、小学校低学年くらいに見える男児だった。
「はいっ、こんにちは、アキラ君ですね!?」
 勢い込んだ管理人がインターホン越しに訊ねると、男児は自分の背よりも高いところにあるカメラを見上げる視線で、「はい」と小さく答えながら、こくんと頷いた。