花琳仙女伝 引きこもり仙女は、それでも家から出たくない 立ち読み

 
 その日の夜、花琳は『物置兼居室』で自分の荷物を黙々と鞄に詰めていた。着替えと、わずかな貯金と、細々とした日常で使うものと、大切にしている物たち……。
 明らかに家出の準備を進めている花琳の後ろ姿を見ながら、椿は首をかしげた。
「花琳さま、そんな風に荷物をまとめて、どうされるのですか?」
「家出をするの!! 結婚なんて絶対に無理!! この家から出て、誰かと一緒に暮らすなんてありえない! もうこうなったら、ご先祖様みたいに山に籠って暮らすんだから!」
「ひきこもり先が物置から山になるのですね。さすが花琳さま、考えることが一味違いますねぇ」
 間延びした声でそう言うのは牡丹だ。
 椿と牡丹は一卵性の双子のように顔のつくりはまったく同じだが、髪型や性格にはそれぞれ別の特徴を持っていた。
 几帳面でしっかりとした性格を表すように、後ろできっちりと髪をまとめているのが椿。横の高い位置で髪の毛を結んでいるのが、口調はおっとりだが元気っ子の牡丹だ。それぞれ椿と牡丹の髪飾りを頭につけているのも特徴の一つである。
 二人とも幼女の姿をしているが、その正体は母の形見である櫛と簪なので、花琳よりも年上だ。なので、椿や牡丹が姉のような形で花琳を諭すことも多い。
 ちなみに、櫛の方が椿で簪の方が牡丹である。
「こんな夜更けに出て行かなくても、朝日が昇ってからの方が安全ですよ」
「朝日が昇ってから出たら、父様に気づかれてしまうかもしれないじゃない! それに、父様に気づかれなくても、誰かと会っちゃうかもしれないし!」
 景世が暮らしているのは母屋の方だ。花琳がいる『物置兼居室』とはそもそも建物が違う。なので、店も閉まっている夜のうちに屋敷を出れば、気づかれないだろうというのが花琳の考えだった。
 荷造りを終えた花琳は、今度は長持の中を探り出す。
「なにを探しておられるのですか?」
「麻紐。木に引っ掛けて塀を越えようと思って」
「それはまた……」
「すごいことを考えられますねぇ」
 楚家の周りには、敷地をぐるっととり囲むように塀が建てられている。身長の一・五倍はある、それなりに高い塀だ。彼女は麻紐を使い、それを越えようというのだ。
「花琳さまは活動的なひきこもりですね」
「早寝で早起き。朝の体操も、昼間の運動も忘れませんしねぇ」
「健康な身体が、健康なひきこもりライフを作るのよ! 病気でもして、病院に行くことになったら嫌じゃない! 転んで怪我だってしたくないし!」
 当たり前のことだというように彼女は胸を反らす。
「勉学だってきちんとされますしね」
「父様が家庭教師を呼ばないようによ!」
「身なりだって、ある程度はちゃんと整えていますしねぇ」
「無理やり床屋とかに連れていかれた日には、卒倒しちゃうじゃない!」
 花琳は麻紐を鞄にしまい、たすきのように鞄を肩にかける。
 そうして人差し指をたてた。
「怠惰な生活をただ過ごすだけなのは、二流のひきこもりがやることよ! 一流のひきこもりはね、危機管理もちゃんとしてないと!」
「ひきこもりとは思えぬ発言。だけど、ひきこもり……」
「意識が高すぎて、もはやプロですねぇ」
 ひきこもりのプロというものがあったなら、花琳は確実にプロになれていただろう。
 しかし、悲しいかな。そんな職業は存在しておらず、彼女はどう頑張ってもただのひきこもりなのである。
「それじゃ、みんな達者でね。いい人にもらわれるのよ!」
 花琳は袖口で別れの涙を拭く。
 瞬間、わっと彼女の元に小さな影が集まった。椿や牡丹とは違い、うっすらと透ける彼らは、その部屋にある物の付喪たちだった。皆心配そうな顔で『本当に行かれるのですか?』というような表情をしている。
 そんな彼らに改めて別れを告げ、花琳は『物置兼居室』から出た。そのまま裏の塀の方へ回る。
 塀の上には、外から一本の枝が伸びてきていた。大通りにある街路樹の一枝が楚家の敷地の方まで伸びてきているのだ。
 彼女は麻紐を結び、枝の太さの二倍ほどの輪を作る。それを頭の上で回し、勢いをつけて思いっきり枝に投げた。当然一回では決まらないので二度、三度と挑戦する。すると、八度目でようやく枝の太いところに麻紐が引っかかった。
 何度か引っ張って強度を確かめる。
「うん。これなら行けそう!」
「本当に行かれるのですか? 昼間に運動していたと言っても、花琳さまは部屋でドタバタやっていただけで、運動不足は運動不足なのですよ?」
「牡丹も心配ですぅ。お山には景世さまもいませんし、寂しくなりますよ?」
「でもこのままじゃ、無理やり結婚させられちゃうじゃない。私は、誰かに怯えて暮らすのは嫌なの。それなら一人の方がなんぼかマシよ!」
 花琳は二人の本体である櫛と簪が入った鞄を撫でた。
「……それに、二人だってついてきてくれるんでしょう?」
「それはもう!」
「いつでもおそばに」
「なら、寂しくなんてないわ」
 その言葉に、二人は顔を見合わせ、やれやれといった感じで首を振った。どうやら説得は諦めたらしい。
「花琳さまが壁を越えましたら、そちらで呼び出してくださいね。改めて顕現しなおします」
「頃合的にいつでもいいなら、自分で顕現しますよぉ!」
「うん。でも人の目とかがあるから、私が呼び出すね」
 顕現した物には基本的に実体がある。特に椿と牡丹は花琳の力の影響が強く、普通の人間の子どもと見分けがつかないほどだ。ほかの物たちは透けていたり、色が抜け落ちたりしているものも多い。
 なので、顕現したままで塀をすり抜けるという方法はとれない。こういう時は一度消して後で顕現しなおすという方法が、一番手っ取り早かった。
 花琳は塀の腰貫部分に足をかけた。麻紐を掴み、そのままぐっと身体を引き上げる。
「わっ! すごい、本当に登れそう!」
 計画はしてみたものの、本当に登れるとは思っていなかったのだろう。そんな感想が彼女から溢れる。
「油断していたら落ちちゃいますよぉ」
「花琳さま、気をつけてくださいね」
「わかってる!」
 椿と牡丹に見守られながら、花琳は塀を登っていく。
 連子窓の内法貫に足をかけ、欄間に描かれている龍の頭に反対側の足を載っけた。屋根石は勢いで越え、そしてとうとう棟木石に跨る。
「私もやればできるじゃない!」
「……おい」
 突然、真下からかけられた声に、花琳はびくついた。
 恐る恐る下を見れば、武官姿の男が腕を組みながらこちらを睨みつけている。
 ずいぶんと大柄な男の人だった。身長が高く、ガタイがいい。黒い髪の毛は月の光を浴びて淡く水色に輝いていた。顔立ちは端正だが、表情は硬く、彼女を見つめる目は刃のように鋭かった。
「そんなところで、なにしてんだ。盗人か?」
 あからさまに花琳の顔色は悪くなった。冷汗がだらだらと頬を伝う。
「き……」
「き?」
「ぎゃぁあぁぁあぁ!!」
 花琳は塀の内側へ飛び降りると、一目散に屋敷へと逃げ戻っていった。

◆◇◆

「もう、あの人のせいで! あの人のせいで!!」
 翌朝、花琳は昨夜のことを思い出しながら、力いっぱいに枕を叩いていた。寝間着姿のまま寝台で大暴れするのを見守っているのは椿と牡丹の二人である。
「もう、今晩は絶対に家出してやるんだから!」
「ひきこもりが家出とはこれいかに……」
「家でのひきこもりをやめて、山にひきこもるだけですー!」
「ひきこもりの定義が危ういですねぇ」
 半笑いな二人を睨みつけながら花琳は枕に顔を埋めた。事が事だけに、相当拗ねているらしい。
 椿は寝台に近寄り、寝ている花琳を覗き込んだ。
「山にこもるの、やっぱりやめませんか。山で花琳さまが生きていけるとは、到底思えません。お嫁に行くとしても、玉成さんのお家ならいいじゃないですか。きっと、大切にしてくれますよ?」
「そうそう。玉成さま、景世さまのことは敵視していますけど、別に嫌いってわけじゃないですし。案外、この結婚もひきこもりの花琳さまが嫁き遅れないようにって企画してくれたのかもしれませんし」
「牡丹、さすがにそれはないわよ」
「えー。ないかなぁ」
 椿と牡丹は顔を見合わせながら首を捻った。
 その時、部屋の戸が開き、景世が顔を覗かせる。
「花琳、あぁ、起きていたのか」
「……どうかしましたか?」
「お前に会いたいって方が、店の方でお待ちだよ」
「へ?」
 花琳はしばらく固まり、首を横に振った。
「まさか。何かの間違いじゃないですか? 私は外に知り合いなどおりません」
「私もそう思ったんだがなぁ。どうやら花琳に用事があるのは本当らしい」
「ならばいないとお伝えください。私は傷心しているのです! こんな状態では人に会うなんてことなんてできません」
 きっぱりとそう言い、花琳は頭から布団をかぶる。その姿はさながら、甲羅に引っこんだ亀のようだ。
「んー。お前がそう答えると思って、私も『娘は外出中です』と言ったんだが、どうやら相手は引く気がないらしい。何時間でも待つと言っている」
「えー……」
 花琳は布団から顔だけ出し、怪訝な表情を浮かべた。
 話を聞けば、相手は二時間以上前に店に来たそうだ。以来、ずっと店の外で花琳の帰りを待っているらしい。店に支障を来す場所で待っているわけではないので景世には何も言えず。結果、根負けした形で花琳を呼びに来たということだった。
「何時間でも待たれるつもりなら、いっそ何年でも待たせといたらいいんじゃないですか?」
「花琳さま、非道」
「さすがにかわいそうじゃないですか? もう二時間も待たれているんですよね?」
 いつもは味方してくれるはずの椿と牡丹にも批判され、花琳は口をすぼめた。
「かわいそうじゃない! とにかく、私は会いませんから!」
 花琳は再び布団の中に顔をひっこめた。また甲羅に引っこんだ亀状態だ。
 もうこれ以上ないというぐらいに拒否しているその姿に、景世も「ま、あと一時間もすれば諦めてくれるだろう」と店の方に戻っていった。

 それからはいつも通り過ごした。朝の身支度を終え、部屋の中で軽く運動をする。父が仕入れてきた骨董品の品定めをし、仕入れ帳簿に詳細を書く。さらに状態を直接聞き、壊れていたり、劣化があったりする物に関しては忘れないようにと修理台帳の方にメモを挟んだ。基本的に花琳の仕事は物たちとの会話である。
 そうしているうちに何時間と時は過ぎていった。
 高かった日が沈む刻限になり、花琳もすっかり朝の訪問者のことなど忘れていた頃、たまたま空気の入れ替えにと窓を開けた。
その時─―
「おいこら」
「へ?」
 いきなり頭上から聞こえた声に、花琳は視線を上げる。
 塀の上に“誰か”がいた。昨夜、花琳が越えようとした場所に、その?誰か?は座っている。
 逆光で顔は見えないが、なぜか声には聞き覚えがあった。
「いるんじゃねぇか」
 威嚇するような声に血の気が引き、身体が震えた。
 太陽が少しだけ地平線に沈み、?誰か?の顔に日が差す。現れた刃のような鋭い目つきに、花琳は「あっ」と声を漏らした。
 そこにいたのは、昨夜塀の下で彼女に声をかけてきた、武官姿の男だった。