あとがき

 
 

 ヘルシンキにいた頃、忘れられない経験をした。
 一月の、朝からよく晴れた日で、私は家族に誘われてスノーモービルで山に行くツアーに参加した。
 それは観光客向けのツアーだったと思うけれど、日本人の参加者は私たちだけだった。
 スノーモービルの運転などできるはずもない私は、家族の背中にくっつくようにして、二人乗りのスノーモービルの後部座席に乗った。先導のツアースタッフのスノーモービルがあっという間に加速し走り出すと、オランダ人のグループが数組そこに続き、最後に私たちが続いた。
 走り出して間もなく、遅い、もっとスピードを出せ、というスタッフのゼスチャーの指示が出て、スピードはぐんぐん上がった。マイナス二十度の空気がヘルメット越しでも肌に突き刺さる。山道に入ると、圧雪された道の小さな凸凹が大きな衝撃となって車体を揺らした。命綱などつけてはいないから、家族の身体に回した手を離したらスノーモービルから落ちることは確実だった。落ちたら間違いなく死ぬか大怪我だろう。恐怖以外の何物でもないその時間が永遠に思えて、参加したことを激しく後悔したし、早く目的地に着いてくれということばかり考えていた。周りの景色を楽しむ余裕など、ほとんどなかったと記憶している。
 そうこうしているうちに手の感覚がなくなってきて、もうダメかもしれないと思い始めた頃、車体はスピードを落とし、やがて止まった。そこが目的地なのか休憩地点なのかもわからないまま、私は誰かが英語で言った「みんなこっちへ」の声にすがるように、スノーモービルから降りて雪の中に足を踏み入れた。
 山の中の開けたその場所は、きっとこのツアーのためだけに雪を退けたのだろう。周囲の木々はこんもりとした雪で覆われ、新雪に手を付けていない場所の積雪量は軽く一メートルを超えていた。
 ヘルメットを脱ぎ、視界が開ける。
 しばらくの間は運転の疲れから解放された安堵の声があちこちから聞こえていたけれど、やがてそれはパタリと止んだ。
 誰もがみな、同じ場所を黙って見つめていた。
 山の中腹だと思われるその場所からは、フィンランドを象徴するような雪をまとった深い森と山々と、それから雲一つない圧倒的な深いアメジスト色の空が見えた。
 昼間と言っても、日本に比べると冬の日照時間が極端に少ないフィンランドでは、太陽はすでに空から姿を消していた。それでも夜にはなりきれず、太陽の残骸が染めた空は何かに抗うように柔らかく優しくアメジスト色を広げた。
 私たちは言葉を失ったまま、ただ見ていることしかできなかった。
 白い雪と、雪に染められた木立。森の深さと静謐さごと、私たちまでもアメジスト色の空が包む。
 時が止まったかのように、ただじっと、白い息を吐き出しながらその景色の中に私たちはいた。心の中に刻まれるその空気と景色に、私はさっきまでの地獄のような時間のことすらもうどうでもよくなっていた。
 あのあとどうやって戻ってきたのか、帰りもまたスノーモービルの恐怖を感じたのかは、記憶の中に一つもない。ただ、街では感じることのできなかった深い森の中の空気と雄大な景色だけは、十年以上経った今でも私の中に薄れずにある。

 日本に戻ってきてから、慌ただしく毎日が過ぎ、気づけばフィンランドで過ごした時間より、日本で過ごした時間の方がずいぶん多くなった。
 あれから何度も空を見上げているけれど、あのフィンランドの森で見た空の色はいまだに見ることができていない。懐かしくて遠い日々を静かに思い返しながら、私は今日もまたここで空を見上げている。
 太陽はいつの間にか山の向こう側に沈み、東の空にはきれいな満月が昇っていた。そこだけ空をくっきりと切り取ったような月は、街を見下ろしている。
 立ち止まっていた足を再び進めていくと、川音が近づいてきた。風に乗って桜の花びらが舞っている。
 国道を行き交う車の音を下に聞きながら、跨道橋の上を歩く。開けた視界に、川が見えてきた。
 雲一つない空がゆっくりと夜の色に染まり始め、それを同じリズムの川音が彩る。何気ない景色のはずなのに、それはどうしてか心を強く震わせる。
 
 あのフィンランドの森で見た空を、この街のこの景色を、これまで感じてきた大切な気持ちを、これから先に起こるであろう出来事を、ずっと心にとどめておきたい。そう強く願う。
 子どもの頃は永久に思えていたこの時間が、大人になってから限りあるものだと知った。だからこそなのかもしれないけれど、何もかもをずっと覚えていられたらと思う。
 それでも人は忘れてしまう生き物だから、こう願ったことすらもいつか忘れてしまうかもしれない。忘れられない、忘れたくないと思うことだって、絶対に忘れないという確証はない。
 だから、せめて――今できる精一杯のこととして、言葉や文字に託す方法を選ぶ。
 ここにこうして残しておけば、何かの拍子にふと思い出すきっかけになるかもしれない。
 そして誰かとこの記憶を共有することで、きっと自分だけの記憶だったものは誰かの記憶の一部になって広がっていき、あるとき何かの役に立つかもしれない。
 自己満足かもしれないけれど、今の私にできる唯一で最善の方法はこれしかないと思っている。
 
 満月を見上げながら、川音を聞く。
 桜は満開を過ぎ、風が吹くたびに花びらを手放す。
 少しずつ、その時が近づいていることを知らせるかのように――。
 
 
 
 
 本作の刊行にあたり、ご尽力いただき支えてくださったすべての方に感謝を込めて。




川瀬千紗