ビルの谷間から見上げた狭い夜空には、くっきりと闇を切り取ったような白い満月がぽつんと輝いていた。
僕以外誰もいない狭い路地にも、白い満月の光はまっすぐに届き、夜風は髪をさわさわと揺らす。
数歩歩くと、スニーカーの靴底で小石を踏みしめる音がやけに耳についた。
静かな夜だった。思い出すには十分すぎるほど、あの日と同じ空気を携えた夜。
目を閉じて耳を澄ませば、遠く、かすかに川音が聞こえる気がした。
街の西側を流れる天見川の川音は、生まれてからずっとこの街を離れずに暮らしている僕にとって、すぐそばにあることが当たり前だった。
いつも、どんなときも。
静けさの中で研ぎ澄まされた感覚が、川音に導かれるようにして別の音を拾う。
「圭吾」
僕のことをそう呼ぶ柔らかな声が聞こえた気がして、僕は思わず目を開けた。
聞き慣れた声だった。
視線は、無意識のうちに声の主を探す。
でも、ぐるりと見回しても、誰も何も見当たらない。さっきと変わらない、建物に囲まれた狭い路地の景色がそこにある。胸の鼓動だけが、この静寂に反してひどく荒い音を立てていた。
ただの勘違いだったのだろうか。
そう思いながらも、勘違いでないことを願っていた。
誰の声か、僕は声の主の姿を脳裏に思い描くことができる。
『時間みたい』
そう言ったあの夜の彼女の声を、今聞こえたはずの声に重ねていた。
声を上げたいのに上げられないようなもどかしさを感じながら、僕はもう一度ぐるりと路地を見回してから耳を澄ました。
かすかな川音。風の音。それから――
ニャオ、という声がはっきりと聞こえて、僕は反射的に声のする方に顔を向けた。
求めていた声とは違う声が聞こえたせいで思わず目を見開いてしまったけれど、別に驚くほどのことではなかったのかもしれない。
いつの間にか、数メートル先の曲がり角に一匹の黒猫がいた。
黒猫は僕の方を向いてじっと佇んでいる。
『ほら、満月に黒い服。私、魔女みたいじゃない?』
『完璧にするなら、箒と黒猫も必要だと思うけど』
あの夜、彼女と交わした言葉を思い出す。
今日と同じ満月の夜だった。
あの夜、僕は、月の光に照らされた水面が、夜の闇の黒と満月の光が生み出す白を互い違いに映しながら揺らめいているのを見ていた。
確かに僕は覚えている。
交わした言葉も、その姿も。一緒に見た景色も、夜の気配も。
それなのに、どうしてだろう。
僕は、彼女の名前を思い出すことが、どうしてもできなかった。
◆◆◆
十二月十三日、金曜日、午後六時五十八分。
僕は鏡の前で自分の身なりの最終チェックを終えると、よし、と小さく呟いた。鏡の中には、ワックスで整えた髪に黒いスーツを着込み、磨き上げられた黒い革靴を身につけた長身の男がいる。普段、大学に行く時のパーカーにジーンズ姿の僕とはまるで違う服装のせいか、鏡に映し出された僕は、表情も凛として頼もしく見える。
そんな自分を見て、僕こと岩倉圭吾は、バイト仲間の鈴木翔真が初めてこの姿を見たときに言っていたことを思い出した。
「圭吾。お前、いつもこういう格好して大学来れば?」
バイトのみならず、中学から大学まで一緒という腐れ縁の翔真は、あのとき、そう言ってからかうように笑っていた。
「黙れ、翔真」
「これなら女子にモテるんじゃね?」
「は? バカじゃねぇの」
恥ずかしさを誤魔化すようにそう言い返したあの日から、八か月。いまだに服装と髪型を整えただけで、ここまで自分が変われるという事実に驚きを感じる。今でさえ、鏡の中の自分には違和感だらけだ。だからこの姿のときは、いつもの自分と別人になったと思うことにした。それに、この姿ならば、本当は十九歳の大学生だということもバレないだろう。
ここでバイトを始めた頃のやり取りを思い返しながら、従業員専用の薄暗い通路を進んで行くと、柔らかなオレンジ色の明かりを灯したフロアに出た。そこでは、来店客が食事をとりながら和やかな声で談笑し、思い思いの時間を過ごしているのが見えた。
「オーダー入ります」
厨房に向かって翔真がそう言う声が聞こえる。翔真は、この店ではフロアを担当していた。
駅から続く大通りに面したこのダイニングバー『Harakka』は、地元ではよく知られた店だ。お酒を出すからか、客層は三十代から六十代くらいの人が多く、店の中は落ち着いた雰囲気があった。
北欧のダイニングを意識したシンプルモダンな内装は、父の古くからの友人で、この店のオーナーである荒木さんがすべて一人で決めたという。ロードレースが趣味で、日焼けした顔と鍛え抜かれた身体を維持している荒木さんは、五十代半ばの実年齢よりはずっと若く見えた。
店の造りだけでなく、使われている食器や飾られている花器など、あらゆるものに一切妥協を許さずこだわり続けてきたところを見ていると、見た目とは違う細やかさがあるのだと思う。
そんな荒木さんは、今日もカウンターに立って、注文されたドリンクを作っていた。
「……いってきます」
カウンターの横を通り過ぎるとき、僕が小さな声でそう言うと、荒木さんの手が一瞬止まる気配があった。声を返されなくても、気にしているとわかる仕草だ。
テーブル席の間を通り抜け、フロアの一番奥の目的地へと向かって僕は歩いていく。視線の先には、黒く艶やかなグランドピアノがあった。心の中で、最初に演奏する曲のメロディーを歌う。
そう。僕はこの店で、ピアノを弾くバイトをしているのだ。
きっかけは、高校三年の夏に遡る。
「圭吾くん。いいバイトがあるんだけど、大学生になったらやらない?」
僕にそう声をかけたのは、荒木さんだった。その日は、離れて暮らす父とHarakkaで会う約束をしていて、父が来るのを待っているところだった。
「え、バイト? 大学生になったら?」
「うん。君さえよければ、ピアノ、お客さんの前で弾かない?」
唐突な誘いでひどく驚いたことを覚えている。
僕の父親はピアニストだ。
一緒に暮らしていた小学生の頃まで、僕が父からピアノを教わっていたことを荒木さんは知っている。ときどき父に連れられて開店前のHarakkaでピアノを弾かせてもらうこともあったし、両親の離婚後、父と離れて暮らすようになってからは、ここでときどき会うのが慣例となっていた。
「ここで? え、ホントに?」
半信半疑でそう声を上げると、荒木さんは、ホントに、と言葉を返して笑った。
「ずっと昔から、そう決めていたんだよ。音大を受けないにしても、今でも毎日弾いているんだろう?」
「……はい」
離婚後、母は父からの養育費を一切受け取ろうとしなかった。夜勤のある看護師の仕事は、父からの援助を受けなくても親子二人でそれなりに生活していくことはできたけれど、音大進学となると話は別だ。高校に入ってから僕はバイトもしていたけれど、それと母の収入を合わせたとしても、音大の四年間の費用には到底及ばなかった。
音楽の道はとにかくお金がかかる。学費以外にも個人で指導を受ければレッスン代もかかるし、指導を受けている先生の演奏会となれば高額なチケット代を払って演奏を聴きに行かなくてはならない。そうした理由から音大に行くことはずいぶん前に諦めたけれど、ピアノは毎日家で弾き続けていた。僕はピアノを弾くことから離れられないでいたし、離れるつもりも一切なかった。
理由は簡単だ。
僕には、ピアノ以外に自信をもてるものがなかったから。
「弾いてくれるね?」
「……はい」
そうして僕は、荒木さんの誘いを受け、大学生になるのと同時に金曜日の夜にこの店でピアノを弾き始めた。
演奏を行うのは金曜日だけだった。Harakkaでは、他の曜日は演奏自体をとり行っていなかったのだ。なぜ金曜日だけなのか、どうして他の曜日ではダメなのか、荒木さんに聞いたことはあったが、その理由を詳しく教えてもらうことはできなかった。
「時期が来たら、いずれわかるよ」
荒木さんはそう言って、それ以上のことは語らなかった。何か理由があるらしいことは察しがついたけれど、あまり深入りするのはよくないのかなと思い、それ以上は聞けなかった。
それでも僕は、『Harakkaの専属ピアニスト』という肩書に満足していた。
そう。この店でピアニストとして雇われているのは、僕しかいなかったのだ。人前で、大好きなピアノが弾ける。弾くことでお客さんに喜ばれ、報酬までもらえる。それは、自分のピアノの腕前を認めてもらえたことに等しかった。僕は純粋に、ここでピアノが弾けることを嬉しく思っていた。
あれから今日までの日々を、ぼんやりと思い返す。
意外とあっという間だよな。
そう心の中で呟きながら、和やかな雰囲気のフロアを進んで行く。そうしてピアノのところまであと数メートルというところで、翔真の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
新たな来店客を迎えるその声は、僕のずっと後ろ、店の入り口の方から聞こえた。
金曜日の午後七時という時間は、もう間もなくだ。
もしかしたら、と後ろを振り返りたい衝動を抑えて、僕は翔真の声に再び耳を傾けた。
「いつものお席でよろしいですか」
同じ席を好む常連客にかけられるその台詞を背中越しに聞きながら、たぶんそうだろうな、と確信に近い思いを抱く。
そうしてたどり着いたピアノの前で足を止めると、僕はゆっくりとピアノ椅子に腰を下ろした。それから、まっすぐ前を見つめる。
目の前の開かれたピアノの蓋の向こう側に、ちょうど荒木さんのいるL字型のカウンターの席が見える。そのカウンターの一番奥。この場所から真正面に見える席に、見慣れた女性がこちらを向いて座っているのが見えた。
――いた。
そう思った瞬間、しっかりと目が合い、僕は慌てて小さく会釈した。
彼女が僕のバイト先に現れ、僕の演奏を聴くようになってから、もう二か月ほどになる。年齢は僕より少し上か同い年くらいだろうか。さらさらと揺れる黒髪と、はっきりとした目鼻立ち。仕事帰りなのか、黒いワンピースや黒いブラウスとパンツスタイルといった黒い服をまとってやってくる彼女はとても美しく、どこか神秘的な雰囲気だった。
彼女は僕がピアノを弾いている間、こちらをじっと見つめて演奏を聴いていた。他の来店客は食事や歓談の時間を楽しむことをメインとして来店していたから、僕の方をじっと見つめて聴くなんてことはなかったけれど、彼女だけはずっとこちらを見て演奏を聴くのだ。
彼女はいつも、僕の音を聴きながらその表情を失くしていた。楽しそうでもなく、悲しそうでもない。嬉しそうでもなく、つまらなそうでもない。何を考えているのかわからない、不思議な表情。だから、目についた。他の人とは違う。じっと僕を見据えながら、彼女は何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。
直接言葉を交わしたことはまだないけれど、僕は彼女のことがとても気になっていた。
そんな彼女が、翔真を介して僕のことを知りたがっているということを、つい先日、僕は翔真から聞いていた。