顔に触れる、小さな手の感触と、人の気配がした。
目を開ける気にはなれなかったが、秀尚はその気配を感じながら夢うつつの狭間を漂っていた。
「ちょ……! おまえさんたち、それ、どうしたんだ?」
驚きそのものの大人の声が聞こえ、それに対して、
「ひろったー」
「はたけにいったときに、ひろったんです」
無邪気で幼い声が楽しげに返す。
「拾ったって……、目を覚ます前に早く元の場所に返すぞ!」
大人がややキツめの口調で言い渡すや否や、子供二人は、
「やだ! ひろったんだもん!」
「ちゃんとめんどうみますから……」
「ごはんも、おさんぽもちゃんとするから!」
「おねがい」
交互に言い募る。
どうやら、何かを拾ってきたらしいというのは察しがつく。散歩と言っているので多分犬だろうと思いつつ、だんだん意識がはっきりとしてきた秀尚はうっすらと目を開けた。
視界に最初に飛び込んできたのは床だ。それで何かの建物の中にいることが分かった。
次に認識したのは、三、四歳くらいだろう明るい髪色をした子供の後ろ姿。そしてその向こうには、子供よりも明るいというか、色素が薄い髪色の大人の男が立っている。華やかに整った顔立ちをしているが、細身で、髪だけではなく肌の色も薄いこともあってどこか儚げな雰囲気もあるイケメンだ。
が、その三人の格好に、秀尚は何度か瞬きをした。
それというのも、子供も大人も頭にはそれぞれの髪色と同じ立派な犬のような耳と、そしてふわふわの尻尾がついていたからだ。
大人の男の尻尾は一本ではなく、複数ある。ざっと数えたところ六本だ。
瞬きをして、ソレが幻覚ではないことを理解した瞬間、
「えっ?」
思わず声が出た。
──なんだ、ここ?
と、思った秀尚だったが、その声を聞きつけた全員が秀尚を凝視し、子供たちは即座に、
「おきたー」
「にんげんさん、おきたー」
と大喜びで駆け寄ってきて、横たわったままの秀尚に抱きついてきた。
戸惑いしかない秀尚だが、
「ああああああ。起きちまったのか……」
六本の尻尾の男は頭を抱えると、絶望した! とでも言いたげな様子を見せた。
正直まったく状況が呑み込めない秀尚だが、とりあえず、寝たままではなんなので、体を起こすことにした。
秀尚の動きに気づいて子供たちは一度軽く離れたが、秀尚が上体を起こすと、その両脇にぴたっと鎮座して、にこにこしている。
顔がそっくりなので、どうやら双子のようだ。
「えっと……ここってどこ、ですか? コスプレ大会か何かの休憩室的な?」
秀尚の最後の記憶は山だ。
足を滑らせて道を外れ、捻挫をして動けなくなった。
そのまま眠気に襲われて寝てしまったのだが、三人の格好が──耳と尻尾だけでも普通じゃないが、着ている衣装も普通じゃない。
学生時代、歴史の授業の教科書で見たような、平安時代だか室町時代だかの衣装に似ている気がした。男が着ているのが狩衣とか言った名前のものだった気がするし、子供たちは作務衣っぽいというか、牛若丸が着ていたものの簡易版のように思えた。
子供たちは問題ないとして、大人がそういう格好をしているとなると、推測できるのは、趣味でコスプレを楽しんでいる人ということだ。
──山の中で撮影会か何かしてて、偶然俺を見つけて保護してくれた的な?
精一杯現実的なポジティブ補正をして、耳と尻尾、服装の説明をつける。
だが、そんな秀尚に、男は、
「ここは、あわいの地だ」
と告げた。
「……あわじ? 島?」
──俺、京都にいたはずなんだけどな。淡路島って兵庫じゃなかったっけか?
おぼろげに脳内に地図を広げた時、
「違う。『あわい』だ。人界と神界の狭間にある」
男は訂正してきた。
──あ、キャラになりきってる感じ?
関西では普通に一般の人が、まるで芸人さながらにボケたり、ノリ突っ込みをしたりすると聞いていたし、こっちで生活をしていてそんな場面にも遭遇したので、ノリは分かる。
だが、この場合、どうしていいのか対処にやや悩む。
──ここは、ツッコむべきなのか?
だとしたら、どういう言葉で? と悩んだ時、
「にんげんきたって、ほんと?」
開け放たれていた戸から、仔犬……のように見える動物が二匹、部屋に入ってきた。
「うん、ほんとうだよ!」
「にんげんさんだよ!」
秀尚の両脇に鎮座した子供二人が入ってきた動物に返事をする。
それに、二匹は興奮した様子で秀尚を見て、ピョンピョン跳ねた。
「にんげんいたー!」
「ひさしぶりに、にんげんみたー!」
その光景を見る秀尚の頭の中は、クエスチョンマークが飛びまくりだ。
──喋ってんぞ、こいつら……。
喋る動物。
正直あり得ない。
あり得ないので多分、動物型ロボットか何かだろう。
──一人暮らしの老人用に、コミュニケーション型動物ロボットみたいなのが、開発されてるとか何とか、前にニュースで見たことある……。
あれはもっとロボット色の強いものだったが、見た目に可愛いこちらのほうが受けるだろう。
大興奮で跳ねまわる二匹を、そんなことを思いながら見ていると、部屋にもう一人大人が入ってきた。
子供たちよりもやや濃い色合いの、腰まである長い髪の男だった。男だと分かっているのに、しっとり系美人という言葉がぴったりだと思った。この男は普通の着物を着ているのだが、やはり犬のような耳があり、そして四本の尻尾がついている。
「おまえたち、騒ぐのはやめなさい」
男は静かな口調で騒ぐ二匹を叱った。叱られた二匹はなぜか秀尚のほうにぴゃっと走り寄ると背後に隠れた。
そして両脇にいる子供二人は、新たに入ってきた長髪の男に、
「うすあけさま、にんげんさんひろったの」
「ちゃんとめんどうみますから、ここにおいてください!」
と頼み始める。だが、それに秀尚は即座に言った。
「ここにって、いや、あの、俺、帰るんで、どうぞお気遣いなく」
助けてもらったのだとは思うが、ここがどこかさえ教えてもらえれば、ちゃんと帰ることができる。だが、
「帰れりゃいいんだがなぁ……」
最初から部屋にいた男が腕組みをして、思案顔になる。
「え……?」
どうして帰ることができないようなことを言われたのか、秀尚はさっぱりだ。
さっぱりだが、男の口ぶりで一気に不安が増した。
奇妙な格好をしている人たち。
着けている耳と尻尾はまるで本物のように時折動いている。そういうふうにプログラムされている小物かもしれないが、その精巧さは尋常じゃない。
そして背後にいる喋る動物型ロボットも、同じく本物の動物のようだ。
──もしかしてここって、秘密研究のラボかなんかで、俺、ヤバい組織の実態に触れちゃった、とか?
帰れない理由を推理していると、
「詳しく説明しますが……少し待ってもらえますか」
後から部屋に入ってきた長髪の男が言った。それに頷くと、男は秀尚の後ろに隠れた動物二匹を抱き上げ、部屋の外に連れ出す。
それからややあって戻ってくると、部屋の戸を閉めた。
そして、秀尚の少し前に正座をする。
もう一人の男はその隣に胡坐をかいた。
「陽炎殿、どこまで説明を?」
長髪の男が問う。どうやら陽炎というのが最初にいた男の名前らしい。ハンドルネーム的なものかもしれないが。
「ここがあわいの地だってことは言ったが、納得はしてないというか、説明の途中だった」
「では、改めて私から説明しましょうか。……まず、私は薄緋と申します。そしてこちらが陽炎殿」
「あ…どうも、加ノ原秀尚といいます」
秀尚は名乗り、ぺこりと頭を下げた。
「ぼくは、あさぎ!」
「もえぎ、です」
両脇に座した子供二人も秀尚を見上げて自己紹介をしてくる。
キラキラとした目は飴色で、日本人にしては明るすぎる色だ。
もしかしたら髪も染めているのではなく自前のものかもしれない。
ということは、ハーフとかそういう感じなのだろうかと思っていると、
「あわいの地というのは、あなたの住んでいる人の世界と、神──あなた方がそう呼んでいる存在たちの住まう世界のちょうど狭間にあります」
薄緋が説明を始めた。正直、めちゃくちゃファンタジーだと秀尚は思った。だが、「またまたー」などと突っ込めないような空気感があって、秀尚は言葉の続きを待った。
「私と陽炎殿は稲荷なんです」
「……イナリ?」
問い返した秀尚に、
「知らないか? 狐の神様っていうか……」
陽炎が説明をしかける。それに秀尚は頷いた。
「あ、稲荷神? お稲荷さん?」
「ええ、それです。正確には私たちが『神』というわけではないのですが……」
薄緋が部分肯定する。
だが、にわかには信じられなかった。
むしろ、奇妙な格好の集団に捕まって、洗脳でもされるんじゃないかという危機感でいっぱいだ。
そんな秀尚の心中を見通したかのように、薄緋が言葉を続けた。
「信じられないと思いますが、一通り説明をさせていただきますよ。私たちは稲荷で、そちらにいる浅葱と萌黄、それから先ほどの仔狐たちは将来稲荷になる可能性を秘めた者たちなんです。そういった仔狐は通常の狐とは育ち方が異なります。そのため、あわいの地にある『萌芽の館』で養育しているんです」
「……はあ……」
いまいち言われていることが呑み込めないというか、信じられない秀尚の返事は曖昧だ。それに陽炎が口を開く。
「つまり、ここはおまえさんが住んでた世界じゃなくて、こいつらは稲荷の候補生、俺と薄緋殿は稲荷ってことだ。ここまでは理解できるか?」
「理解できるっていうか……信じられるかっていうのと別問題としてなら、言われてる意味は分かります」
秀尚の返事に陽炎は笑う。
「そりゃそうだ。俺がおまえさんの立場でも信じられないって言うだろうな。だが、残念なことに現実だ」
「このあわいの地は、いろいろと不安定で、時々、予期せず人界と繋がってしまうことがあります。その時に迷い込んでくる人もいるんですが……」
薄緋が説明を続ける。
「俺も、じゃあ迷い込んできたってことですか?」
その問いに陽炎と薄緋は渋い顔をした。
「繋がった場所に、たまたまあなたがいた、というのが正しいと思いますが……」
薄緋がそう言った時、浅葱が口を開いた。
「あのね、ぼくたちがはたけに、くだものとりにいったら、にんげんさんがいたの!」
「それで、果物を収穫する代わりに人間を収穫してきたんだよな」
陽炎がため息交じりに言ったが、今度は萌黄が、
「だって、すごくぬれてたから……。おかおもまっしろで、しんじゃうかもってしんぱいで……」
と純粋に人助けだと主張する。
「だから、ふたりでくっついて、いっしょうけんめいにんげんさんをあっためてた!」
そう言われて、秀尚は雨に濡れて、どんどん体温が下がって眠気に襲われたことを再び思い出した。
「えーっと、助けてくれてありがとう」
秀尚はお礼を言って、浅葱と萌黄の頭を撫でる。それに浅葱と萌黄は嬉しそうに目を細め、背後の尻尾がパタパタ揺れて、耳もほんの少し揺れる。
──作りものだったら、すっごいプログラミング技術だよな。
まだ、稲荷がどうのということは信じられなくて、そんなことを思ってみる。
「で、助けてもらったことは本当にありがたいんですけれど……俺、できれば早めに家に帰りたいんです」
このまま嘘か本当か分からない話を聞くにしても、とりあえず自分の主張は先にしておくべきだと思って、秀尚は陽炎と薄緋を見ながら言う。しかし、
「それがそうもいかないんでねぇ」
陽炎がやや困り顔で言い、薄緋も頷いた。