「久しぶりに河原に行きたいな」
九月中旬の日曜日。
病室には幼馴染の
駆くんのサポートを受けつつベッドから車イスへと移乗する。車イスを押してもらって病室を出て、エレベーターで一階まで降りて病院を出た。
車イスでの生活には大分慣れてきて、病院内は一人で難なく移動できるようになった。
でも、病院の外へはまだ一人で出掛けたことがない。こうやって誰かに付き添われながら河原をお散歩するか、ママの運転で時々家に帰るくらいだ。
昔は誰にも何にも頼らずにどこにでも行くことができたのに……と考えることもあるけれど、いつかきっと、自分だけの力で歩けるようになると信じている。
「今日は風が冷たいな。寒くないか?」
「ほたるはだいじょうぶ。駆くんは?」
「俺も平気。暑いくらいだよ」
河原に着いた私たちは、歩行者の邪魔にならないところに車椅子を停め、草むらの上に並んで座った。
午後を過ぎた日差しは柔らかくなっていて、少しひんやりとした島風は夏の終わりを感じさせる。空を見上げ、風に流される雲を目で追いかける。
昔からよくこうやって河原で空を眺めていたなぁ。隣にはいつも、駆くんともう一人の幼馴染である
ここ
私たちは澄ノ島神社にある、子供たちを遊ばせる施設で知り合ったのだ。私が二歳、二人が三歳のときからの付き合いになる。
私にとって二人はかけがえのない大切な宝物。一緒にいて楽しいし、何より、私に普通に接してくれる貴重な存在だ。
子供の頃から、私はなぜか大人たちに特別扱いされていた。中学に上がった頃からは〈澄ノ島の天使〉なんて呼ばれるようにもなって、どんな反応をしたらいいか分からなかった。年の近い子達も、大人の真似をしてか私との間に壁を作っているようにみえた。皆と変わらない普通の子供なのに、どうして特別扱いされるのか考えても分からなかったし、誰にも聞くことができなかった。
そんな環境の中、二人は私よりひとつ年上だけど、気にせず対等に仲良くしてくれた。陽咲ちゃんは太陽みたいに明るくて、私は本当のお姉ちゃんのように慕っていた。駆くんはどんなときでもかっこよくて優しくて、島風のように爽やかで、私はそんな彼が大好きだった。
ママに冷たくされて家にいるのが辛かった私にとって、二人と一緒にいる時間はとても大切な居場所だった。
……それなのに私は、自ら大切な居場所を捨てるような行為をしてしまった。
私がいないほうが皆幸せになれると思い込んで、中学二年の春休み、学校の屋上から飛び降りてしまったのだ。
しかも、必死で私を探してくれた陽咲ちゃんの目の前で……。
なんてことをしてしまったんだろうって、今でも後悔している。
結局、私は死ぬことはできず病室で半年間寝たきりの状態が続いた。そんな私を救ってくれたのが、陽咲ちゃんや駆くん、そして父親の違うお兄ちゃんだったのだ。
お兄ちゃんは手で触れた物が持つ記憶を辿れるという不思議な力を持っている。その記憶を他の人にも見せることができたので、私は自分の宝物である、駆くんからもらったセレスタイトのネックレスの記憶を見せてもらった。
そして、初めてネックレスがずっと私のことを想ってくれていたと知った。
ネックレスはどんなときでも私の味方でいてくれた。私に気持ちを伝えられないことが苦しそうだった。
もし《彼》の声に気がついていたら、飛び降りるなんて真似、しなかったかもしれない。
皆のお陰で私は目を覚ますことができたけれど、身体はまだ自由に動かすことができなくて、今は入院しながらリハビリを重ねている。
リハビリは大変だけど、私のせいで辛い思いをさせてしまった皆のためにも前向きに頑張ろうと思っている。
陽咲ちゃんによく『無理しないでね?』って心配されるけど、昔よりも自然体でいられていると思う。
昔は、ママと仲良くなるためにはどうしたらいいか毎日考えていて、常に肩に力が入っている状態だった。大切な人たちに心配をかけたくなくて、誰にも悩みごとを相談しなかった。膨れ上がる胸の痛みに耐えきれなくなって、あんな行動を起こしてしまった。
でも、今は違う。目が覚めてから、自分の気持ちを少しずつ話すようになった。甘えることができるようになった。前よりもリラックスして日々を過ごせている。
……目覚めたとき、陽咲ちゃんや駆くんが傍にいてくれたのを感じて、すごく嬉しかった。
もう一度、この人たちと一緒に生きたいと強く思った。
そのためには、変わらないといけない。今までのような生き方じゃダメなんだって思ったから、変わることができたんだと思う。
「ほたる、リハビリ頑張ってるよな。あんまり無理はするなよ?」
駆くんの爽やかに笑う顔は、小さい頃から変わらない。大好きで、ずっと見ていたくなる。
駆くんはサッカーがとても上手だったので、高校にはスポーツ推薦で入学した。学校は本州にあるため、今は寮で生活している。部活が休みのときには島に帰っていて、その度に私のリハビリを手伝ってくれている。
『せっかく帰ってきたんだから他のことに時間を使って』と言っても、駆くんは『やりたくてやってることだから』と言ってきかない。
駆くんの気持ちはとてもありがたいことだと思う。でも、なぜか嬉しくない。それどころか、優しくされる度に胸がきゅっと苦しくなって、泣きそうになる。
どうしてこんな気持ちになるのか、考えなくても分かった。
それは……私が駆くんを好きだから。
そして、駆くんは、他の人が――陽咲ちゃんのことが好きだからだ。
「駆くんは本当に優しいね。でも……」
私は視線をゆっくりと空から駆くんへと移した。そして、彼の瞳をまっすぐに見据える。
ずっと言おうと思ってた。けれど、どうしても言い出せなかった。小さい頃から大切にしてきた初恋を、自分から手放す勇気がなかったから。
でも……目を覚ましてからちょうど一年が経った今日、この日なら、一歩踏み出せるような気がする。
「――もう、病院には来なくていいから」
「え……」
駆くんは驚いているのか目を見開いていた。何度か瞬きをして言葉の意味を理解しようとしているようにみえる。
「……どうして、そんなこと言うんだよ」
「それは、駆くんのことが好きだからだよ」
小さい頃から何度も、それこそ何回言ったか覚えていないくらいに、駆くんに“好き”だと伝えてきた。
でも、目覚めてから想いを言葉にしたのは今日が初めて。
私の初恋が彼を悩ませていたと知ったのに、簡単に口に出せるわけがない。
現に今、彼は私から顔を背けている。
「好きだからもう会いに来なくていいって、どういうこと?」
駆くんは握られた拳を見つめながら、絞り出すような声を出した。
「好きな人に同情で優しくされるのは辛い、って意味だよ」
胸がきゅっと締めつけられる。自分で言った言葉に傷つくなんて、変だよね。
だけど、私たちの関係を変えるために、ちゃんと言わなくちゃいけないんだ。
「俺、また無神経な態度でほたるを傷つけてたのか。ごめんな……」
駆くんはなぜか悲しそうに笑っていた。今にも泣きそうにみえた。
駆くんの表情を目の当たりにして、私の胸もますます痛んだ。けれど、もう前に進まなきゃいけない。
「謝らないで。ほたるはただ、駆くんには本当に好きな人のところに行ってほしいの。それだけなんだよ」
駆くんは、私の自殺未遂の原因は自分にあると、ずっと自分を責めていた。
私が目覚めてから、身体が元通りになるまで必死に支えてくれているのは、ただ単に友情からだけじゃない。その罪悪感もあるんだと思う。
確かに卒業式の日に嘘をつかれたことはショックだったし、私がいないほうが二人は幸せになれるんじゃないかって思ったけど、それだけが原因じゃない。
一番の原因は、弱い私にあるのに……。
私は、駆くんに幸せになってほしい。無理して私の傍にいてほしくない。例え陽咲ちゃんが他の人を好きだとしても、諦めずに頑張ってほしい。
それに、私自身もきっと、もう、駆くんから卒業したほうがいいんだと思う。
一年間、とことん甘えさせてもらった。支えてもらった。
それに、駆くんにはネックレスをプレゼントしてもらった。彼のおかげでかけがえのないパートナーと巡り合えたのだ。
それだけでもう十分だよ。この恋にはちゃんと意味があったって、胸を張って言える。
だから、ちゃんと言わなくちゃいけない。
『駆くん、さよなら』って――。
「駆くん、さ――」
「――少し身体が冷えてきたな。とりあえず、病院に戻ろうぜ」
「えっ、でもまだ、私……」
「ほら」
駆くんは私の背中と膝裏に手を回してひょいと持ちあげた。いわゆる、お姫様抱っこをされている状態。介助のための行動とはいえ、毎回ドキドキしてしまう自分が悔しい。
私を抱っこしてから車イスに座らせるまで、駆くんは私と目を合わせようとはしなかった。どこか思い詰めたような表情をしていたから、話しかけることはできなかった。お互い口を閉ざし、無言のまま病室へと戻った。
駆くんは私をベッドに寝かせると、傍にある椅子に座った。こんなに気まずい雰囲気なのに、帰ろうとする素振りもない。ずっと俯いているけど、考え事でもしているのだろうか。
どうして帰ろうとしないの、どうして何も言わないの?
あのとき途中で話を遮ったのはなぜ……?
駆くんのことがよく分からない。小さい頃からずっとずっと大好きだったのに、彼が何を考えているのか想像もつかないよ。
……陽咲ちゃんだったら、わかるのかな。
そう考えた途端に心がざわざわする。
陽咲ちゃんは私と違って、太陽みたいに明るくて、誰とでも仲良くなれて、駆くんが心から信頼している人だもんね。
嫌だ……私、陽咲ちゃんに嫉妬しているのかな。
こんな気持ちになりたくない。
昔は駆くんのことを想うだけで楽しかったのに。
何も知らずに、ただ駆くんの傍にいられるだけで幸せだった。この恋が、私の心の支えだった。
……でも、私の隣にいても、駆くんは幸せになれないんだよね。
「駆くん」
私が彼の名を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「今まで傍にいてくれて本当にありがとう」
「ほたる……」
「……ほたる、疲れたからちょっと寝よっかな。気を付けて帰ってね」
話しながら横になり、目をつむった。もう病室から出ていってと、無言の圧力をかけているつもり。
こんな態度、すごく失礼だって分かってる。
でも、今日はもう一人になりたい。だって、必死で涙をこらえているんだもの。
「分かった。おやすみ」
いつもと変わらない優しい話し方。もっと不機嫌になったっていいのに。むしろ突き放してくれたほうが諦めがつくのに。罪悪感で胸がチクリと痛む。でも、こういう人だからこそ好きになったのかもしれない。
ほどなくして椅子を引く音が聞こえた。どうやら立ち上がったようだ。足音がどんどん遠ざかっていく。うっすら目を開けると、入り口近くの椅子に置いていたリュックを背負い、引き戸に手をかけている彼の後ろ姿があった。
引き戸を開けて一歩外に出た彼が、身体の向きを変えて扉を閉めようとしたとき、見ていることがバレないよう、私はぎゅっと瞼を閉じた。
完全に引き戸が閉まるのを確認して、ゆっくりと起き上がる。
最後に見た彼の後ろ姿を思い浮かべると、ずっと我慢していた涙がぽたぽたと落ちていった。
ネックレスにかかっていないかな。また君は私を心配しちゃうね。でも、ごめんね、今日だけは許してね。
なんで、さっき『ありがとう』って言っちゃったんだろう。
本当に伝えたかった言葉は別にあるのに。
直接伝えるのが怖かったのかな。なんて臆病なんだろう。
もう彼はここにいないけど、口にしておこう。そうしないと、心に区切りがつかない。
「――さよなら、駆くん」
独り静かに呟いた、その時だった。
まるで、私の声に反応したかのように、がらりと勢いよく引き戸が開いた。
「このまま、帰れるわけないだろ……」
「どうして……」
再び病室に入りこちらへ近づいてくる彼を、ただ呆然と見つめることしかできない。
なぜ戻ってきたんだろう。帰ったんじゃなかったの?
今日は泣かずにさよならをするって決めていたのに、これじゃ計画がめちゃくちゃだよ。
駆くんはベッド近くの椅子に座る。さっきと違うのは、お互いに相手の顔を見ているということ。
「こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど、俺、同情で一緒にいるんじゃない。心からほたるを支えたいって思ってるんだ」
駆くんの、何かを訴えかけるような眼差しに、この言葉が嘘じゃないって分かる。
でも、どうして? どうして私のことを支えてくれようとしているの?
「ほたるには言ってなかったけど、実は俺、リハビリについて勉強してるんだ。いろんな本読んで、どうすればサポートできるかってずっと考えてる」
駆くんはリュックのファスナーを開け、本を二冊取り出して私に見せた。
リハビリの基礎知識と、理学療法士の資格を取るための本だった。どれも分厚くて、ところどころに付箋が貼ってあり、読み込んでいるのか、ページの端がよれている。
「私のために勉強してくれてたんだ。ありがとう。でも、どうしてここまでしてくれるの?」
「ほたるに一日でも早く、元通りの生活を送ってほしいからだよ。そのために俺が出来ることは何でもしたい。……誰が好きとか、そういうことを考えるのはその後だって決めてる。中途半端で無責任で最低な男だけど、これからも傍にいさせてほしいんだ」
きっぱりと言い切った彼の顔を見つめる。その瞳に迷いは見えない。中途半端というけれど、私には覚悟を決めているようにみえた。
駆くんの気持ちに甘えてもいいのかな。このまま一緒にいていいのかな。
すぐに答えは見つからない。ずっと迷っていくのかもしれない。
ただひとつ、はっきりとしているのは……。
「私は、やっぱり駆くんのことが大好きだよ」
……私の初恋は、今もまだ続いているということ。
「ありがとう、ほたる。こんな俺を好きでいてくれて」
駆くんは切なそうに笑った。
「俺さ、ほたるが寝たきりだった間、ずっと死にそうなくらいに辛かった。ほたるを傷つけたって自分を責めてたけど、それ以上に寂しかったんだと思う。お前の笑顔が見たかった。こうやってずっと話したかった。だから、目を覚ましてくれたとき、本当に嬉しかったんだ」
駆くんの目にうっすらと涙が浮かぶ。彼の涙をこの目で見たのは初めてかもしれない。私が目覚めたときも泣いてくれたのかな。意識がもうろうとしていたから、あまり覚えていないや。
私も駆くんの前で泣いたのは今日が初めてかもしれない。本当は泣き顔を見られたくなかったんだけど、今はあまり気にならない。
どうしてかな、駆くんの本当の気持ちを知ることができたからなのかな。
自分の気持ちなのによく分からない。
自分を理解するということは、もしかしたらとても難しいことで、はっきりさせることも大事だけど、曖昧なまま、時に身を委ねていくのもいいのかもしれない。
「駆くん、これからもよろしくね」
「こちらこそ、よろしくな、ほたる」
不思議。彼と一緒にいるとずっと胸がチクチク痛かったのに、今は感じない。その代わり、昔に戻ったみたいに穏やかな気持ちで傍にいられる。
駆くんへの恋を純粋に楽しめそうな気さえする。
私がまた歩けるようになったら、彼は自分の気持ちと向き合うらしい。その日が来るまでは、彼の気持ちに甘えて、頼ってもいいのかな。
もしかしたら、その時にこの恋を失ってしまうかもしれない。
今まで通り、幼馴染という関係でもいられなくなるかもしれない。
……でも、大丈夫。その日が来るまでに、少しずつ心の準備をしておけばいいだけ。
いつか来る『さよなら』を今度こそ本当の『ありがとう』で迎え入れよう。
そうすればきっと、この恋心も満足すると思う。
了