二周年SS_柳屋怪事帖 迷える魂、成仏させます

蟄虫啓戸すごもりむしとをひらく

 佐保さほひめが張り切ったのか、長く居座った冬将軍への鬱憤うっぷん晴らしか、今年の春一番は日本列島中で荒れ狂った。それから二、三日が過ぎても、交通障害や自然災害、寒の戻りによる体調不調など、突風一つに人間が振り回されているのをよそに、梅の花は今を盛りとばかりに咲き誇っている。
 住宅街の外れにある多田ただ八幡宮はちまんぐうでは、夜更けに降った春時雨が空気を一新したようだった。常緑樹は息を吹き返し、緩んだ地表からは豊潤な匂いが立ち上る。温かく柔らかい春の気配がそこかしこに漂い始めていた。
 多田八幡宮に参拝をした後、柳の成仏屋の柳月神奈やなづきかんなと、助手のしのあや黒滝陣郎くろたきじんろうは、裏手に鎮座する境内社けいだいしゃ高草木たかくさき稲荷いなりに向かっていた。
 死者の未練を解消し、あの世へと送り出す成仏屋。その中で柳の成仏屋、略して柳屋を名乗る一行が一時頻繁に訪れていたのは、獄卒からの依頼解決のためだった。しかし、今回は全くの私事。ここ数日で、神奈にささくれほどの気がかりができたのだ。
 石畳の小路を辿って鎮守の杜を抜けると、視界を塞ぐのは、朱だ。朱色の鳥居が一列にぎっしりと立ち並び、朱のトンネルを作っている。くぐった先には、顔馴染みの姿があった。
「こんにちは、鳩の方、狐の方」
 神奈が片手を軽く上げて呼び掛ければ、綺麗に切り揃えたおかっぱを揺らし、山吹色の柄小紋の少女が振り返る。仁王立ちする彼女の前に転がっているのは、何故かサッカーボールと、大きな緑色のバランスボール、ではなく背中をぎゅうぎゅうに丸めた蓬色の十字絣を着た小さいおっさんだ。むちむちした足と丸々とした腹を短い腕で何とか抱え込み、地べたにちんまりと体育座りをしている。
 鳩の方にまた虐められていたのか。膝に押し付けていた顔を上げた狐の方は、泣き腫らした目と真っ赤な鼻から汁が垂れ流しだ。
 神に仕える眷属けんぞくと聞けば格好良さそうなものだが、そこはそれぞれ。
 十歳ほどにしか見えない負けん気の強そうな少女は、多田八幡宮に仕える鳩の御神使。ここ、高草木稲荷の狐の御神使はメタボ腹を抱える小さいおっさんだ。
「相変わらず、お元気そうで何よりです」
 にっこり笑う絢緒は、皮肉なのか社交辞令なのか。爽やかな青年に化けてはいるが、その正体はがいというあやかしだった。
「お前ら、まぁーたやっているのかよ」
 二拍も三拍も遅れをとる狐の方を、短気な鳩の方が口と拳で泣かせるのは、定番中の定番だ。
 陣郎が持前の凶相で溜息を吐き、狐の方の後ろ首を掴んで立たせてやる。この助手も人にはあらず、獅子が本来の姿だ。
「あ、や、柳屋さん! 助手殿も!」
 丸っこい目を更に丸めて、狐の方が驚きの声を上げた。
「また何かあったのか?」
 対する鳩の方は、神奈の引っ掛ける黒い羽織を一瞥し、少し顔を強張らせている。
 高草木稲荷、またの名は縁切神社といい、全国から沢山の参拝者が訪れては、人や物事とのしがらみを断ち切って欲しいと願掛けをする。縁切と一口に言っても、酒や病気に始まり、果ては人との関係、相手の命など様々。
 境内にある絵馬掛けには、凄まじい数と有様の絵馬がぶら下がっている。絵馬掛け自体がまるで禍々しい一体の大きな化け物のようだ。
 尤も、物騒な別名と恐ろしい絵馬掛けとは裏腹に、高草木神社の境内は多田八幡宮と同様、綺麗に掃き清められている。
「何かあったのか、はこっちの台詞です」
 やれやれ、と神奈は嘆息する。先刻から辺りを探っている陣郎を一瞥すると、気付いた助手は小さく頭を横に振った。
 高草木稲荷の御祭神である倉稲魂命うかのみたまのみことは、春を迎えるために毎年決まった日に雨を降らせていたのだが、今年は病のせいで果たせなかった。その仕切り直しの日取が来月に控えているにも拘わらず、この近辺では今、春時雨にしては激しい実りの雨が降り、春雷よりも恐ろしい雷が鳴り響くという。
 また変事か、と先頃関わった神奈がいぶかしむのも尤もだった。
 御神使達を気に掛けて、しばしば訪れている陣郎からは何も聞いていない。まだ切羽詰まった状況ではないのか。あるいは、神奈の単なる思い過ごしか。
いずれにしろ、気付いたからには無下むげには出来ない。
「それで、私達は高草木稲荷へ参った次第です。境内もお二人も、変わったご様子はないようにお見受けしますが、何か……」
「あああぅあ、ももぅも申し訳ございませぇえん!」
絢緒の説明に被せて狐の方が叫び、でんぐり返しでもしそうな勢いで頭を下げた。腹を揺らして上げた顔には冷や汗を浮かべ、胸の前で必死に指をもじもじと動かしている。
「ご、ご心配を、おぉお掛けした上、ご足労まで……! ああぁのぅ、そのぅ、倉稲魂命様は、や、病で臥せっていらっしゃった反動、とでも、も、申しますか、ええっとぉ……」
「正直に話せ、狐の。柳屋達はこちらを案じて、態々わざわざ出向いて来たのだぞ」
 苛立った鳩の方が横から口を挟むと、狐の方は両手で顔を覆ってしまった。呻き声を上げ、悶えているように見えるのは気のせいだろうか。
 怪訝に思いながらも、神奈は鳩の方の真摯しんしな目に、そっと身構える。
「柳屋、心配を掛けてすまなんだ。最近の雨は、全快された倉稲魂命様が燃え滾るやる気と溢れ出るお喜びを堪え切れず、先走ってやらかしてしまわれたのだ。だが、安心しろ。来月初めの巳の日の夜にはしっかり雨を降らせて下さるぞ」
「遠足の前夜にはしゃぐ幼児ですか」
 鳩の方の台詞に、神奈は半眼になった。肩透かしを食らった気分だ。
 首まで赤くしている狐の方はつまり、御神使としての羞恥心に苛まれているのだ。お前も大変だな、と陣郎が狐の方の頭をペチペチと掌で叩いては、何とも雑に労っている。
「まあ、とにかく、何事もなくはないけど、御祭神も御神使も無事なら良かったです」
「それでは、この手土産は皆さんへの労いとさせて頂きましょう」
 呆れと安堵の溜息を吐く神奈の隣から、絢緒が紫の風呂敷の包みを差し出した。はらり、と結び目を解けば、現れたのは三段の黒漆くろうるしの重箱だ。
「桜餅と草餅です。桜餅は長命寺と道明寺の両方を、よもぎの草餅は餡入りと餡なしです。きな粉はお好みでどうぞ」
「桜餅に草餅だと!?」
 鳩の方が花でも飛ばしそうな勢いで浮き立った。中身は世紀単位の超高齢だが、容姿相応の無邪気な喜びようだ。
「前の稲荷寿司もそうだったが、そなたの作るものは誠に美味だ!」
「お褒め頂き、光栄です」
 手放しの賛辞に、絢緒が好青年然とした微笑みで礼を述べた。
 茶道講師も務めるこの助手のお陰で、柳屋での菓子類は基本手作りだ。食事全般も担うその腕前は、穀物や食物の神々も唸らせることだろう、と神奈は一人、心中で思いなす。
「今回は神奈や陣郎にも手伝ってもらい、皆さんが全種類楽しめるよう、充分な数をご用意しました。喜んで頂けると宜しいのですが」
「も、勿論ですぅ! あっ、あ! 有り難う、ございます! あの、倉稲魂命様も、み、皆も、喜びます!」
 立ち直った狐の方がペコペコと一生懸命に頭を上げ下げする。
 見計らっていたように甲高い声が境内に弾け、着物姿の小柄な子供が転がるように駆けて来た。どこに隠れていたのか、狐の方や鳩の方と同じ、高草木稲荷と多田八幡宮の御神使達だ。
 絢緒の周りに群がっては、口々に礼や前回の感想を伝えたり、爪先立ちと危なっかしい手付きで重箱を受け取ろうとしたりと忙しい。普段から気安い付き合いのある陣郎に至っては、遊べ構え、と御神使達に纏わり付かれている。凶悪な人相の助手だが、その実、面倒見が良いのだ。
「さて、ボク達はそろそろ」
「何だ、もう帰るのか?」
 気がかりの種は解決したし、手土産も渡した。帰ろうとする神奈達を引き留めたのは鳩の方だ。
「ゆっくりして行ったらどうだ。そなたの助手には負けるが、茶くらい出すぞ」
「そ、そうです! 是非! 是非とも! そうして下さい!」
 胸の前で両手を組んで必死に誘う狐の方は、まるで懇願するようだった。その間にも、ちらちらと陣郎に視線を送っているのも気になる。
 思考を傾けかけた神奈が返事をする前に、仕える御祭神へ手土産を献上した御神使達が折り畳みの小さい椅子を手に戻って来た。キャンパーや釣り人、出店の店主が使っているようなアウトドアチェアだ。そのフレームには白地に黒インクで、多田八幡宮社務所、と打たれたラベルが巻かれている。 社務所から無断で拝借したらしい。小さいペットボトルのお茶を抱えた御神使の姿もある。
社務所に妙な噂が立たなければ良いが、と内心苦笑しつつ、神奈は御神使達の誘いを有り難く受けることにした。
 境内は、麗らかな日差しの音すら聞こえそうなほどに、静かだ。
 御神使達の計らいなのか、参拝者の姿もない。
 さんざめく緑の木陰にアウトドアチェアを並べて即席のテーブルを作ると、台座に重箱を広げる。途端、我先にと小さな手が桜餅や草餅を掻っ攫っていった。夢中で頬張る御神使達は大層ご満悦だ。
 そのどさくさに紛れて重箱に魔の手、もとい陣郎の手が伸びるも、にこやかに笑う絢緒が容赦なく叩き落とした。年がら年中腹ペコの陣郎がここで引くはずもない。息吐く暇を与えぬ攻め手を繰り出し、絢緒も片っ端からそれを弾き飛ばしている。
 手伝いには勿論、陣郎も参加したのだが、人相も燃費も悪いこの助手は、せっせと拳大に餅を丸めては、こそこそと自分の口に詰め込む始末。助っ人を要請した絢緒も、摘まみ食いは想定内だったのだろう。各種類一つずつが陣郎の腹に収まった所までは目溢ししていたものの、それ以上は許さなかった。
 消化によろしくないので制裁内容は自主規制するが、どちらも大概だ、と呆れた神奈はお茶のペットボトルに口を付ける。
 果たして、激しい攻防は、腹を満たした御神使達による、陣郎への『あーそびましょー』コールで終結した。お誘いの中には狐の方の姿もあった。彼が遠慮がちに差し出したのは、先刻のサッカーボールだ。
「そう言えば、鳩の方。ボク達が来た時、狐の方をまた泣かせていましたね?」
 重箱の傍に据えたチェアに鳩の方と並んで座った神奈は、非難半分で問うた。給仕を再開した絢緒から、ペットボトルのお茶を受け取る。返って来た鳩の方の答えは、そうだがそうではない、とまるで禅問答のようだ。
「あれはな、しゅぅーと、とやらの練習の最中だったのだ。空振り続きで狐のがいじけ出してな、わしが叱ったら更に泣き出した所よ」
「原因は監督者にある気がしますが。って、シュート、ですか? サッカーの?」
 いぶかる神奈が確認するのも無理はない。意外な単語の登場に、傍で立ち控えている絢緒も鳩の方に視線を向けている。
 先刻サッカーボールが近くに落ちていたのは、それが理由か。
 うむ、と鳩の方は短く頷いた後、呆れ混じりの溜息を吐いた。
「そなたの獅子の助手が度々、ここを訪ねてくれているのは知っていよう。さっかぁー、とやらも、その時に教わったのだ。そなたの番犬役になる前、わし達と似たようなお役目だったこともな。元より狐のは彼奴に憧れている節があったが、それに拍車が掛かったらしい。日々何かしら真似ようとして、見事に空回りだ」
 ほれ、ととび色の目が示した先では、境内の少し開けた所で御神使達がサッカーボールの蹴り合いをしている。
 加わる素振りのない陣郎はコーチ役らしい。ボールを足元に据えた御神使が、狙った相手に蹴り出す。踵の内側で受け止めた相手は爪先で小突くようにして、また別の相手にボールを送り出す。その繰り返しだ。
 元の相手にボールを蹴り返してはいけないだけで、パスの順番は決まっていないらしく、ボールを捕らえては目の合った御神使に向かって再び蹴り出している。
 広くはない境内では、思いのままボールを蹴り飛ばす訳にもいかない。それでも楽しいようで、きゃらきゃらと賑やかな声が辺りに満ちている。
 一際目を引くのが、冷や汗を掻き掻きおろおろしている狐の方だ。その場でくるくると方向転換し、ボールを追い駆けては、パスが欲しい、と両手を振って揺れる腹と一緒にアピールしている。
 そこに、狐の方に向けてボールが走った。最初はあたふたしたものの、彼は覚悟を決めたようにきりりと眉を引き締め、分厚い唇をへの字に曲げた。右足を大きく後ろに下げると、転がって来るボールを狙って力一杯蹴り上げる。
 直後、米俵でも落としたような大きな音が響いた。
 狐の方が勢い余ってボールを空振りし、見事にひっくり返ったのだ。
 転倒の衝撃が足元にも届いた気がして、神奈は思わず立ち上がる。
「狐の方! 大丈夫ですか!?」
 明後日の方向へ飛んで行く履物と、素知らぬ顔で素通りするボール。
 皆が唖然とする中、派手に尻餅を着いた狐の方が、状況を飲み込もうと盛んに瞬きしている。はっとして恐る恐る自分の尻を触ると、丸っこい瞳をじわじわと潤ませて悲鳴のように叫んだ。
「おおぉおお尻が、二つに割れましたぁ……!」
「縦に割れていりゃ元からだ、安心しろ」
 素っ気なく慰めた陣郎は狐の方の腕を取って軽々と引っ張り上げた。ついでに埃も払ってやる。履物を渡して心配する者やニヤニヤと笑いながら揶揄からかう者に囲まれて、鼻水をすする狐の方は沈痛な面持ちだ。
 それを見た鳩の方が小馬鹿にしたように短く息を漏らす。
「見ての通り、あいつは転がって来る球どころか、足元さえ見えぬくらい腹が出ているし、手足も短い。おまけに愚図ぐず鈍間のろまだ。さっかぁー、に限らず、運動がまともに出来るのかさえ怪しいぞ」
「それ、本人には言っていませんよね?」
 顔をしかめて再び腰を下ろす神奈は、今の台詞が狐の方に聞こえていないことを願った。横目で一瞥を寄越し、鳩の方は鼻で笑う。
「あれも人より長く在る身。己のことなぞ重々承知だ。能否の分別はついておる」
 だがな、と続ける気の強そうな横顔には勝気な笑みが広がっていた。
「それでも、目の前に己の理想像が現れて、あれはいよいよ諦め切れなくなったのだ。わきまえるのと諦めるのは似て非なるもの。獅子の助手のようにはなれずとも、せめて理想に近付きたい、その姿勢を見習いたいと、正しいかも分からぬ努力を続けておる」
 さすがに球を蹴る練習は違う気がするが、と滲ませた苦笑を、鳩の方は草餅に手を伸ばす振舞で隠した。その表情に混ざる温かいものを見逃さず、神奈は同じ色の苦笑を吐息のように小さく漏らす。
 成程、狐の方が陣郎を引き留めたがったのは、そういうことらしい。そして、シュートの練習に付き合うこの御神使の心配や気遣いは、傍目には分かりづらい。
 神奈の内心など知る筈もなく、鳩の方は手に取った草餅にきな粉をほんのりとまぶして、がぶり、と勢い良く齧り付いた。
 次の瞬間、鳶色の瞳に星が煌めく。
「おお! 口の中に広がる蓬の香りの、なんとかぐわしいこと! まさに春そのものだ! 前の稲荷寿司もさることながら、この草餅も絶品だな!」
 味わうように咀嚼した後、飲み下した彼女が漏らすのは感嘆の声。それから、ふと気付いたように綺麗な歯型の付いた草餅を見詰めて、首を捻った。
「しかし、わしが食したことのある草餅とは、少し違うような……?」
「お持ちした草餅には、蓬を使っているためでしょう」
 神奈の右後ろに控えていた絢緒が告げる。気付いてもらえたことが嬉しいのか、微笑む表情が満足そうだ。
「現代の草餅の材料は蓬が主流ですが、昔は春の七草の一つ、ゴギョウが使われていました。ゴギョウの別名は母子ははこぐさです。一説では、母と子で一緒にくとは縁起が悪い、とのことで蓬になったとか。蓬の方が香りや味が強いこともあるでしょうね」
「わしが以前食したのは、蓬餅が定着する以前の、母子餅ということか」
 成程、と鳩の方が頷き、残りの草餅を口に放り込んだ。
 土産を差し出した時、絢緒が丁寧に『蓬』の草餅だと言い差したのは一応の気遣いだったらしい。
「草の香りは邪気払いになるとされ、三月三日のじょうの節句に、母子草を混ぜた餅を食べた中国の古い風習が元です。それが日本に伝わり、平安前期では宮中祭事となりました」
「雛祭りで菱餅を食べる風習は江戸時代からだと聞いたな。それ以前は草餅を食べていたとか。今なら乾燥や冷凍で蓬が手に入るけど、新暦になった頃じゃ難しい。それで草餅は雛菓子から外れたんだろう」
 絢緒の説明に、神奈もそう言い添えた。
 ここに来るまでの道中、他家の庭で桃の蕾がふくふくと待ち遠しそうに膨らんでいたのを思い出す。雨に濡れて気が急いたのか、ぽつりぽつりと綻び出しているものもあった。
「柳屋、そなたも遠慮せずに食せ。草餅が上巳の節句の邪気払いなら尚のこと、そなたは食すべきだろう」
 鳩の方が親切にも両手で重箱ごと草餅を差し出してくれたが、神奈は申し訳なさそうに苦笑を返す。
「どうかお気遣いなく。ここに来る前に、散々食べさせられましたから」
 けんの成仏屋として、未練を解決すべく死者と対峙し、妖達とも関わる。命を狙われることもしばしばだ。そんな人ならざる存在との繋がりは、人である神奈の心身に負担となりえるために、けがれを祓い、厄を除けることの類には気を配っている。特に過保護な絢緒は食物に限らず、色々と手を尽くしている。
 当然、草餅もしこたま用意されたが、小柄な体格通り、神奈は食欲旺盛というほどでもなく、精々せいぜい二つが限界だった。
 不意に、御神使達の方から明るい声が上がった。
 見ると、陣郎が季節外れにもビーチボールを膨らませていた。二回の吐く息で出来上がったのは、緑地に黒の縦縞が走る、これまた季節外れな西瓜すいか柄だ。
 陣郎の要望で神奈が通販で頼んだものの、どこで誰と使うのかと不思議に思っていたが、成程、御神使達の遊び道具だったか。
 幾つかのルールと注意の後、陣郎から西瓜のボールを受け取った御神使が勢い良く蹴り上げた。ひとぉーつ、と子供特有の甲高い声が跳ねる。落ちて来たボールを、今度は別の御神使が握った両手で打ち上げた。ふたぁーつ、と楽しそうな声。
 基本のルールは蹴鞠けまりと同じようで、使うのは足に限らず、体のどこでも構わないらしい。
 四つを数えた時、巫山戯ふざけすぎた御神使が躊躇ちゅうちょなく蹴り上げた。大きく跳ねたボールが飛んで行った先には、朱の鳥居が並んでいる。ボールの硬さや子供の力加減から、大きな損壊はなくても、少し欠けるくらいはするかも知れない。
 御神使達の悲鳴が上がる中、走った陣郎が大きく跳躍した。伸ばした腕で難なくボールを捕まえると、先刻の御神使に一言注意している。
 この様子なら心配はなさそうだ。
「そう言えば、そこな助手よ」
 神奈と同じく西瓜のボールを見ていた鳩の方が、思い出したように絢緒を呼び止める。
 呼ばれた助手は、鳩の方の心許ない手から重箱を預かり、お代わりを迷う御神使に勧めている所だった。
「獅子の助手については聞いたが、そなたは柳屋の元に来る前、どうしておったのだ?」
「私でしたら、前職も柳屋の助手でした。その時の柳屋は神奈ではなく、神奈の父親です」
 絢緒の返答は淀みない。
「彼がこの世を去った時に、私は任を解かれましたので、その後、就職活動をしました」
「シューカツ、というやつだな。にぃーとだの、ぶらっくだの、人間社会は望みに叶った職を得るのが難しいと聞く。その中で生活する妖にしても難儀なことだ」
 また社務所のテレビで聞き齧ったらしい。腕を組んだ鳩の方が、コメンテーターのように難しい顔で唸っている。
 ここにきて、神奈は何となく居心地の悪さを感じ始めた。座ったままチェアをずりずりと引き摺って、二人から心持ち距離を開ける。御神使達の微笑ましい光景を眺めるフリをしながら、知らん顔を決め込んだ。
「まあ、そなたなら、如何いかなる所だろうと要領良く立ち回りそうではあるが。柳屋の助手以外では如何なる所へシューカツに?」
「いいえ。柳屋の助手だけです」
 鳩の方の質問に、明瞭な声音で絢緒は答える。
「当時、神奈は成仏屋を継いでいませんでしたが、後々就任することは必定ひつじょうですし、助手も必要になります。それに、見鬼は目を付けられやすいのです。ですから、先の雇用も含め、傍に置いて下さるよう、お願いしました」
「お願い、とな? 志望動機を述べたり己を売り込んだり、ではなく?」
 神奈がこっそりと盗み見た先で、不思議そうな鳩の方が可愛らしく小首を傾げている。はい、と破顔した絢緒は心なしか得意そうだ。
「門前払いも何のその。押し掛けて、付き纏い、神奈が弱った所を付け入って、畳み掛けました」
「待て待て待て待て!」
 ぎょっと目を剥き、鳩の方が必死の形相で叫んだ。
 悪い予感とは的中するもの。あまりの単語の羅列で、つい二人を振り返ってしまった神奈は、二の句が継げなかった。
 言い方が悪いにも程があるだろう。しかし、呆れが先立って怒る気力も湧かない。
 どこ吹く風でにこにこしている絢緒の傍では、御神使の少年が、こいつぁヤベぇ、とでも言いたそうに唖然としている。彼は手にしていた桜餅を慌てて口の中に押し込むと、御神使達の輪へと逃げるように駆けて行った。叫びながらでも、ご馳走様でした、と挨拶するのだから、何とも礼儀正しい。
「わしは今、聞き捨てならない台詞を耳にしたようだが、いや、よせ、繰り返すな。とにかくだ、助手よ」
 助手よ、と再び力なく呼び掛けた鳩の方は、頭痛を抑えるように額に手を当てている。愛らしい口の端は見事に引き攣っていた。
「妖にはそれぞれにことわりがあると聞くし、わしも理解しよう。しかしだ。幾ら何でも、そのシューカツは刑罰ものだと思うぞ。まして年端もいかぬ子供相手に鬼畜の所業だろう」
 全くその通りです、と少しだけ立ち直った神奈は、心の中で激しく同意した。今ならヘヴィメタルのヘッドバンギング並みに、首を縦に振ることが出来る気がする。
 妖の性質か、元からの性格か、絢緒は蛇のように執念深い。ひとたび害意を抱こうものなら、それこそ地獄の底の、そのまた奥底までも追い詰め、嬉々として責め立てるだろう。
 父親を亡くしたばかりの当時の神奈に、グイグイどころかゴリゴリと迫り来る様は、ちょっとしたサイコホラーより怖かった。
 因みに、ゴリゴリと音を立てて削られていたのは、物理的距離と神奈の精神状態だ。
 こちらに身を乗り出した鳩の方が、神奈に耳を貸せと指先で合図する。その通りにすれば、内緒話をするように、彼女が手で隠した口元を寄せて来た。吹き込まれた吐息がこそばゆい。
「柳屋、あれが助手で本当に、本当の本当に、大丈夫か? 今からでも考え直した方が良いのではないか?」
 心の底から案じてくれている声だった。『本当』が三回も出て来たくらいだ。
 さて何と言ったものか、と体を離した神奈が首の後ろを掻いていると、何かを察したらしい鳩の方が突然、両手を叩き合わせた。企業戦士に栄養ドリンクを差し入れるように、神奈に向かって両掌に載るものをそっと差し出す。
此度こたびの件で嫌というほど見慣れた、縁切りの絵馬だ。
「そなたなら、倉稲魂命様もお力を貸して下さるやも知れぬぞ」
「……いえ、お気持ちだけで充分です」
 心配そうな、気の毒そうな、そんな表情の鳩の方に向かって、神奈は乾いた笑みを張り付かせたまま、首を横に振った。
 関係各所に深刻な被害と多大なご迷惑が及ぶだけだ。誰も幸せにならない。
 そこに、ななぁーつ! やぁーつ! と御神使達の声がクレッシェンドで響き渡った。今まで続いたのは最高で八回だ。
 ここのぉーつ! の声と同時に、少年が片手で力強く打ち上げる。先刻のお代わりの桜餅を食べていた鳩の御神使だった。
 背の高い常緑樹の天辺に届くくらい上がると、西瓜のボールは緑と黒をくるくると回転させながら、ゆっくりと落ちて来る。重力に引き寄せられた先は春の柔らかい地面、ではなく、狐の方だった。
「お、おら、む、む、り……!」
 周りからの期待に耐えられなくなったのか、顔を強張らせた狐の方は、諦めたように棒立ちになってしまった。やっと動いたかと思えば、持ち上げた両手で両目を覆って、完全に怖気おじけ付いている。ボールが見えないのと、見ようとしないのとでは大分違う。
 その時、すっくと立ち上がった鳩の方が腹から怒声を張り上げた。
「しゃっきりせんか、貴様ァ!」
「ひゃあい!」
 短い悲鳴を上げて狐の方が飛び上がった。上官に檄を飛ばされた軍人のように、ぴしっと気を付けの姿勢だ。それから上を向いたついでに口をぽかりと開け、くりくりした目で落ちて来るボールを必死に見定める。落下地点を推し測ろうとする足取りはふらふらで、まるで千鳥足だ。出し抜けに立ち止まったかと思えば、再び気を付けの姿勢を取った。首を竦めるように身構え、これ以上ないくらいに歯を食いしばる。
 いよいよ迫る西瓜のボール。境内にいる誰もが目を釘付けする。
 今だ! と叫んだのは誰だったか。
 狐の方は、揃えた両足で爪先立ちになるくらいの、小さなジャンプをした。
 十を数える声は聞こえなかった。沸き立つ声に紛れてしまったのだ。
 西瓜のボールは軽やかに跳ね上がる。狐の方の、ぎこちないながらも見事なヘディングが決まった瞬間だった。
 まだ冷たさの残る空気はゆるゆると柔らかくなり、新たな季節の匂いを含み始める。幼い緑は深くなり、花の美しさは満ちていくだろう。日々、淡い春の気配は色濃くなっていく。
「春だなぁ」
 神奈はそっと呟き、眩いばかりの春の光を前にして目を細めた。

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