1
「なにしてんの、お前」
にわか雨がコンクリートを叩く、休日の午後。
繁華街に面した本屋を通りかかった
百八十センチそこそこの一貴の顔を三十センチほど下から驚いたように見上げるのは、担任している都立
生まれたてのヒヨコのような金髪に、色素の薄い大きな瞳。整った顔立ちの中で異彩を放つ、大振りの黒縁眼鏡。
教室で見る制服姿とは違って、今日の零は白い丸襟のブラウスにライトグリーンのショートパンツを合わせている。
全身黒でまとめた一貴に反して、色味の薄いその服は肌の白い零によく似合っていた。
「……さ.参考書買いに来て。そしたら急に雨が」
こぼれ落ちそうなほど目を見開いていた零が、びっくりしたまま一貴に答える。
参考書。見た目に反して根が生真面目な零らしい。
一貴は少し笑って首を傾げた。
「傘ないの? 午後から降るって天気予報だったろ」
「見てねーよ。そんなの」
男のような言葉遣いで零がぷい、と視線を外す。
黙っていればよくできた西洋人形のように可愛らしいのに、零は意図して男のように振る舞うところがあった。
髪を染め、言葉を乱し、肩肘張って人を遠ざけようとする。素直じゃないこの子どもが、一貴はどうにも捨て置けない。
それどころか、人に上手く感情移入することのできない一貴が唯一心を動かされる存在で、最近ではその執着に無縁だと思っていた甘ったるい名前までついてしまったのだから、正直自分をもてあましていた。
ふと見ると、本屋の手提げ袋を握りしめた零の細い指先が細かく震えている。
思わず掴むと、びく、と肩を震わせてヒヨコ頭が一歩後退した。
「な、なななななに!?」
みるみるうちに首まで真っ赤になった零が一貴を必死に威嚇する。
いくつかの事件をともに経験し時には一貴に縋って泣いたことさえある零だが.それでもなかなか男に……というか一貴に免疫がつかないようだ。
近づいたと思っても、すぐさまもとの距離まで遠ざかる。
一貴としてはその度に、ちょっと切ない思いをするはめになっていた。
「お前、いつからここに立ってるの。体冷たくなってるぞ」
季節は春から初夏へと移り変わろうとしていたが、雨が降るとまだまだ肌寒い。
すっかり冷えてしまった零の手のひらを握り込むと「セクハラ……っ!」と力いっぱい振り解かれてしまった。
頑な態度に苦笑しながら、一貴は零に傘を寄せた。
「とりえず入って。移動しよう」
一貴の言葉に、え、と零がその場で固まる。
同じ傘に入ることを躊躇したようだが、一貴は更に零を促した。
「まさか雨がやむまでそこで震えてるつもりじゃないだろうな。言う事聞かないと手、繋ぐよ」
どんな脅しだ、と零が軽く一貴を睨む。
それでも大人しく傘に入った零を見て、一貴はそっと微笑んだ。
2
零を連れて入ったのは繁華街から少し外れた、やや広い店舗のカフェだ。
店に入る際、気後れした零と入るの入らないのという応酬を繰り広げたが、先程と同じ文言で黙らせてなんとかテラスに近いソファー席に座らせた。
「はい、着て」
ジャケットを脱ぐと、一貴は手早く零の体をそれで包んだ。
零がとっさに何事か言いたげにこちらを見上げたが、気づかないふりをしてローテーブルの分だけ離れた向かいの席に腰を下ろした。
「強引すぎ」
ぼそ、と零が抗議する。
口端だけの笑みを返して、一貴はウェイトレスを呼び止めた。
二人分の温かい飲み物をオーダーしている間に、抵抗するのを諦めたのか、零がもそもそと一貴のジャケットに腕を通してソファーの背に深くもたれた。
晴れた日にはテラスにも席が並ぶこのカフェは、屋外に限りペットの同伴が認められているドッグカフェだ。
テラスの先にはきれいに整えられた芝生が広がっていて、ペットを遊ばせることもできる。
原っぱは奥へと向かってやや下方に傾斜しており、谷間になった場所には細い小川が流れていて、小さな子どもの遊び場にもなっていた。
存在は知っていたが、動物にも子どもにも興味のない一貴が来店するのは初めてだ。
雨のせいか店内はまばらに客がいるだけで、もちろん外にも人はいない。
店内BGMはおしゃべりの邪魔にならないように微かに聞こえる程度に抑えられている。
思いがけず静かな空間で無言になると、雨の音が耳朶を打った。
店員がコーヒーとホットココアを置きに来たタイミングで、ふと零が思いついたように口を開いた。
「先生は何してたの?」
ガラス玉のような零の瞳が一貴を伺う。
もしかして用事があったのではないかと危惧したらしい。
自分はまだ気遣われる距離か。
歯がゆく思いながらも一貴は零に答えた。
「警察に行ってたんだよ。この間の事件の件でね」
警察、という単語にぴくりと零が反応した。
つい二週間ほど前に起こった殺人事件には、零も深く関わっている。
一貴の受け持つクラスの生徒、
不用意だったかな、と案じて、一貴は零の表情に注視した。
眉が上がる。瞳の上に白目が見える。
一瞬遅れて眉が下がり、瞼の上が山型になって唇の端が僅かに下がる。
驚きから悲しみへと変化する表情を確認して、一貴は零にとって事件が未だ過去のものとなっていないことを知った。
大学時代に心理学を専攻していた一貴は「表情分析」、それもわずか0、2秒に現れる「微表情」について造詣が深い。
一度は忘れたその技術だが、零に引っ張り込まれて事件に関わるうち、なんだかんだとすっかり勘を取り戻してしまった。
「あんまりこっち見んな」
ふい、と顔をそらして、ふて腐れたように零が言う。
表情を読み取ろうとしたことに気づかれたようだ。
「先生はおれの心配ばっかりする」
呟いた零が、居心地悪そうに眼鏡のテンプルを指先でいじった。
レンズの向こうでシャンパントパーズに似た大きな瞳が瞬きをする。
ガラス玉のようなその瞳は、「霊の記憶」を見るという少々変わった性質を携えていた。
望むと望まざるとに関わらず、死霊、生霊の別を問わず、彼らの記憶を押し付けられるのだ。
それは眩しい光を見ることに似ている、と零は言う。
いくつもの光が交差する中、霊達の記憶と思われる短い映像が次々に現れては消えていくのだと。
霊の記憶は圧倒的な物量で彼女の視界を奪い、目にしている間は前後左右、天地も分からなくなるそうだ。
霊ではなく、霊の記憶を見る。
その不思議な能力については、いくつかの事件で一貴も目の当たりにしていた。
傷つき、恐れ、それでも事件解明のために目を凝らし続けた零を思い出して、一貴は知らず眉をひそめた。
彼女の指先がもてあそぶ眼鏡が弾みで外れはしないかと不安になったのだ。
零の顔にはやや大きすぎるその眼鏡には度が入っていない。
視力が悪いわけではないのだ。
どういう理屈か知らないが、霊の記憶は眼鏡のレンズ越しには見えなくなる。普通の視界を手に入れるために、零には眼鏡が必要だった。
──確かに心配し過ぎだ。
自覚があって、一貴は零から視線を逸らした。
それからしばらく、口を噤んだ二人は外の雨音に耳を傾けるような時間を過ごした。
3
「あれ」
零が窓の外に目を凝らしたのは、雨も上がった頃だった。
何事かと一貴も外に目をやるが、濡れた草原以外何も見えない。
「あいつ、何やってるんだろう」
思案するように首をひねってから、零がくるりとこちらを向いた。
「おれ、ちょっと行って来る」
「え?」
宣言するなり立ち上がった零は、引き止める間もなくもう席を離れている。
「ちょっと、って」
行って来るって、俺はどうすれば。
唐突すぎる動きに面食らっていると、店を出て行った零が窓向こうに現れた。
一貴のジャケットを身につけたまま、まっすぐに原っぱを横切っていく零には何か目的があるらしい。
思わず目で追っていると、向かう先に小さく人影が見えた。
しゃがみ込んだり立ち上がったりしながら一心に何かを探しているのは、零より少し歳若い頃合いの少年だ。
雨の降っている時からその辺りにいたのか、少年は頭からずぶ濡れだった。
──知り合いか。
ためらい無く近づいていく零の姿に穏やかならぬ気持ちになって、一貴は意図的に息を吐き出した。
人を遠ざけるようにして生きている零が自分から誰かに声をかけに行くのは珍しい。
クラスメイトにすら躊躇するような距離を簡単に詰めにいく相手が、自分の知らない男かと思うとどうにももやもやして、一貴は残っていたコーヒーを一気にあおった。
一心に少年に向かって歩いていた零は、しかしそろそろ相手に声でも届こうか、という距離になって、やおら立ち止まった。
きょろきょろと辺りを見回して、困ったように身を縮める。
怖じ気づいたのか、それともかける言葉に困ったのか。
察するに、いかにも訳ありそうな感じの知り合いを見つけて勢い寄っていったはいいものの、そこからどうしていいのか分からなくなったのだろう。
そのまま諦めて帰ってくればいいのにと、一貴は自分本位の願望を視線に込めた。
気安く声をかけられないところを見ると、「知り合い」の程度も知れる。
顔見知りか、後輩か。あるいは間接的な知り合いか。
考えを巡らせていると、立ち尽くしていた零がふいにこちらを振り返った。
眉を下げて、縋るような瞳で一貴を見つめる。
「あー……」
駄目だ。それは駄目だ。
片手で顔を覆うと、一貴は一旦零を視界の中から閉め出した。
普段、必要以上に肩肘を張って慎重に距離を取ろうとする零は、時々ふとこちらの懐に飛び込んで来るようなところがある。
父性を求めるような不器用な甘え方で、一貴の庇護を欲するのだ。
そして一貴は大概の場合、彼女の向けてくるその無防備な信頼が、愛しくて可愛くて、つまり拒めなかった。
「まったく」
勝手に敗北したような気持ちになって苦笑すると、一貴はテーブルに置かれた伝票を掴んで立ち上がった。
4
零が気にかけていた少年は、一貴の考えた通り「間接的」で「顔見知り」の「後輩」であった。
「弟の同級生なんだ」
追いついた一貴に戸惑うような視線を向けながらも、どこかほっとした様子で零が説明する。
「たまに遊びに来る連中の一人で、おれも挨拶を交わすくらいには面識がある」
金糸のように輝く髪を風に晒しながら、零が「でも」と悩ましげな表情で先を続けた。
「向こうはおれを覚えているか分からなくて」
なるほどそれで声をかけられなかったのか。
零の躊躇を理解して、一貴は口端だけで笑った。
「お前が覚えているくらいなんだから、向こうも覚えてるだろう」
え? と首を傾げる零には、自分の容姿が良くも悪くも人の記憶に残るものだという自覚が足りない。
「とにかく取り越し苦労だってこと。面倒だからさっさと声かけて終わらせろ」
ほら、と文字通り背中を押すと、簡単に押し出された零が慌てて「何すんだっ」と憤慨した。
その小競り合いでようやく気配を察知したのか、
脱色とは縁遠い真っ黒な髪と、やや神経質そうな顔立ち。
所謂まじめくんを絵に描いたような少年は、零の姿を認めるなり驚いた様子で目を見開いた。
「あれ、如月の……」
そこで一度記憶を確かめるように言葉を切る。
少し考えてから、少年がおずおずと口を開いた。
「零さん。で、あってましたか」
首を傾げる少年に、零がうんうんと頷く。
難題に正解したような面持ちで息を吐き出すと、少年は次に一貴を見やった。
「ああ、えっと、こっちはおれの学校の担任で」
「鈴宮一貴です」
零の紹介を受けて、一貴はにっこり笑ってみせた。
休日に零とセットでいる相手としては違和感があったのだろう。
少年は僅かに眉を上げて驚きの表情を作ったが、早く作業に戻りたかったのか、言葉にして何かを問うことはなかった。
「
僅かに会釈して、少年……亘が名前を名乗る。
頷くと、一貴はいきなり本題に入った。
「ところで二階堂クン。こんなところでずぶ濡れになるまで一体何をしていたの」
生徒でもない子どもに使う気遣いはないので、端的な言葉で問う。
亘は一瞬煩わしそうに目を細めたが、それでも律儀にこちらに答えた。
「なくしたものを探していたんです」
「何をなくしたの?」
亘の言葉に反応したのは零だ。
好奇心というより、お人好しがそう言わせたのだろう。続けて零が申し出る。
「どんなものか分かれば手伝うけど」
──始まった。
頬を引き攣らせて、一貴は零のヒヨコのように明るい頭部を見下ろした。
目の前であからさまに困っている者がいると、見て見ぬ振りができなくなるのが如月零だ。
関わり合いにならない方が賢明だと分かっていても、どうしても捨て置けずに首も足も突っ込んで、自ら泥沼に嵌りに行く。
まったく予想通りで嫌になるなと嘆息している一貴の横で、零が続けた。
「二人で探すより、三人で探した方がきっと早く見つかるだろ」
あまつさえ自分を数に入れて進言する零に、一貴はもう苦笑する他ない。
面食らったように目をぱちぱちと瞬いていた亘が、しばし逡巡した後、ふいに泣き出しそうな顔をした。
後から考えれば、一人では到底無理だと思いはじめた頃だったのだろう。
うん、とひとつ頷いた亘の瞳は僅かに揺らいでいた。
そうして草を踏んでこちらに近づいた亘は、考え考え、まずは事情を説明することから始めたのだ。
5
「探しているのはうちで飼っている犬の……デリコがなくしたボールなんです」
陽光が濡れた草原をきらきらと照らす中、いくぶん固い声で亘が説明した。
デリコは亘が生まれる一年前から二階堂家の一員になったオスのマルチーズであった。
「小型犬のくせに大きな犬にもじゃれていくような好奇心の塊で、人にもよく懐きます。僕が生まれたばかりの頃は赤ん坊の泣き声が怖かったのかしばらく近づかなかったそうですが、やがて慣れてしまうと僕の顔を踏んづけてみたり、すり寄ってみたり、遊び相手と認めたようです」
ずいぶんと遡って回想を始めたな、と一貴は無意識に腕を組んだ。
長くなりそうな話である。
細い小川の流れに目をやりながら、亘が続けた。
「僕だってやられてばっかりだったわけじゃありません。ホームビデオに残っている昔の映像では、這うようになった僕がデリコのしっぽをしつこく捕まえては嫌がられている姿が映されていたし.物心ついてからは、小さな背中に跨がって走らせようとしたこともあります。両親は兄弟のように育ってくれればと思ったそうですが、実際の所は悪友みたいなものでした」
末尾に過去形と進行形が複雑に混じっていることに気がついて.一貴は隣の零をちらりと見下ろした。
反射で計算したデリコの歳を考えたのだ。
この話は、ともすると彼女をまた悲しませるものかもしれない。
亘の話に聞き入る零の姿に、一貴は一抹の不安を覚えた。
「小学校に上がる頃には、夕方の散歩は僕が担当するようになりました。夕飯を一緒につまみ食いして怒られたり、じゃれてるうちに本気になって、向こうは吠えるわ僕は泣きわめくわでやっぱり怒られたり。いたずらばかりするので、両親が『きちんと飼育する』という意識をもたせるためにそうしたのかもしれません。実際、デリコに『待て』や『お座り』、『お手』のコマンドを覚えさせたのは僕です。小さいけど賢い犬なので、一通りのことはよく覚えました。こう、立ち上がって片手を振る『バイバイ』までできるようになったくらいです」
でも、と亘が思い出したようにふと目元を緩める。
「あいつにとっては、それも遊びだったのかもしれないなぁ。見ろよ、言うこと聞いてやってるぞって、にやにやしながら僕を見上げるんだから。ご褒美のおやつが欲しかったわけじゃないと思います。すごいぞって僕に褒めちぎらせたかったんです。下手に出ているようで、実は上から要求していたんだ」
「ご主人さまとペットじゃなくて、友だちだったんだな」
相づちを打つ零は、一貴の懸念など知る由もない。
亘の話にすっかり感情移入して、その分一貴をハラハラさせた。
零の言葉に頷いた亘が、ちらりといたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「実は、高学年の夏休み、デリコを連れて真っ昼間に家出したことがあるんです」
「え」
びっくりしたのは零だけではない。
ペットとの無邪気な戯れ話から一転、穏やかではない方向に話が折れて一貴も思わず続く話が気になった。
「理由は忘れてしまったけど、母に叱られた後だったと思います。むしゃくしゃして、こっそりキッチンからジュースとおかし、それからデリコの水とおやつを持ち出すと一緒に家を抜け出しました。後から考えると、着替えも持たず、お金の心配もしてなかったんだから、家出と言っても、覚悟も現実味もないものでした。ただ決意ばかり固くって、行くあてもないのに二、三時間もうろうろ歩き回ったんです」
実に平和的な家出に拍子抜けして、一貴はため息をついた。
それは家出じゃない。ちょっと長めの散歩である。
「いい加減歩きつかれた頃、この原っぱに辿り着きました。当時はまだあのドッグカフェはなくて、夏休みの子ども連れを狙った露店がいくつか軒を並べていたと思います。並んで座って、僕らはリュックに詰めたおやつをこれでもかってくらいしこたま食べました。普段は両親に食べる量を制限されていますから、僕としてはちょっとした『やってやった』感があったし、デリコの方も僕が取り上げないから際限なく食い散らかしてました。お腹が膨れて動けなくなって、しばらく芝生でゴロゴロしていると今度はなんだか体がむずむずしてきて。きっとあたりから聞こえる子どもたちの楽しげな声に当てられたんです。僕はなけなしのお小遣いを持って露店でオレンジ色のソフトボールを買うと、それから延々デリコと一緒にボール遊びをしました」
楽しかったな、と亘が懐かしそうに呟く.
「最後は、へとへとになって握力のなくなった僕がボールを投げ損ねて小川に落としてしまって。それでやっと遊びをやめたんです。散々食べて体を動かして、すっかり気が済んだ僕らが家に帰ると、今度は父に拳骨を落とされました。夕暮れ時と言っても夏だったので十九時近かったし、お菓子やおやつを持ち出したのもバレていたんですね。心配したのと、呆れられたのとでとにかく怒られました」
ふふ、と笑った亘につられて零の表情も柔らかくなる。
ほのぼのとした結末に、一貴は少しほっとしていた。
過酷な話や悲しい話は、あまり零の耳に入れたくない。
「それからというものの、デリコはオレンジ色のものを見ると興奮するようになりました。あの時のボールが欲しいんだ、と気づいたのはしばらくたってからのことです。ただのボールには興味を示しませんでした。だから僕は、お小遣いの中からあの時のソフトボールにそっくりなものをデリコに買ってあげたんです。あれからもう三年近く、オレンジ色のボールはデリコの一番のお気に入りです」
いい話だね、と零が素直な感想を述べる。
しかし彼女に目をやった亘は、何故かちょっと寂しそうにはにかんだ。
「僕は、デリコのいい友達だったと思います。一番側にいたし、悪いことをする時は大体一緒だった。そこにいるのが当たり前で……だから僕は、だんだんデリコを顧みなくなっってしまった」
再び声を固くして、亘が語る。
「中学に上がると環境が一変しました。勉強も部活も忙しくなって、塾にも通うようになったし、とにかく時間がなくなりました。それに、小学生の頃とは違って友だちどうしできることや行ける範囲も広がったので、休日もほとんど家にいませんでした。いつの頃からか、デリコの散歩は母が代わりにするようになって。僕はといえば、家に帰るとうるさくまとわりつくデリコが鬱陶しくて、ぞんざいにあしらうようになりました」
嫌いになったわけじゃない。大好きだったし、かけがえのない存在だった、と亘は言った。
「一緒にボールで遊んだ頃も、構わなくなった今も、デリコを好きな気持ちは何一つ変わっていません。だけど僕はデリコを呼ばなくなった。遊ばなくなったし、あまり触らなくなったし……面倒がった」
デリコの気持ちを思ったのか、それとも亘の気持ちを推し量ったのか、零が悲しそうに眉を下げる。
罪を告白する信徒のように、亘が両手を組んでぎゅ、と指先に力を込めた。
「マルチーズの寿命は十二年から十五年ほどだと言います。デリコは今年で十六です。すっかり歳を取って、最近では自力で立ち上がることもできなくなりました。僕は──僕は、デリコを見るのが怖くて」
亘の視線が手元に落ちる。
自責と後悔と、それでも向き合えない弱さに戸惑っているような仕草だった。
「みるみる衰弱して……どんどん死に近づいていこうとするデリコが恐ろしくて……なんだか後ろめたくもあって。べたべたと構わなくなっていたのをいいことに、僕はついに、デリコを避けるようになってしまいました」
──やはりそうか。
一貴が最初に予測した通り、デリコは老衰の段階にあるようだ。
亘と犬との思い出をいいだけ聞かされ.零はきっと、またたいそう胸を痛めたに違いない。うんざりする思いで零の表情を伺うと、意外にも彼女はまっすぐに亘を見つめていた。
「その話と、亘がデリコのボールを探しているのと、どう繋がるんだ」
もっともな言葉で零が亘を促す。
ワタル、と呼び捨てたのは、おそらく彼女の弟がそう呼んでいるからだろう。他意はない。他意はないんだと自分に言い聞かせて.一貴はともすると苛立ちそうな自分を苦労して宥めた。
手のひらを組んだまま、亘が言う。
「ここ数日、デリコがずっと鳴くんです」
細い声で、だけど何かを訴えるような切ない声で、延々鳴いているのだと亘は語った。
「あんまりかわいそうで、聞いていられなくて、僕は必死で原因を考えました。それで今朝ようやく、デリコが気に入っていたあのオレンジ色のボールが無くなっていることに気がついて」
動けなくなってからも、デリコは亘の母に抱えられて近所を散歩していたという。
亘が確認すると母も初めてそのことに気がついた様子で、そういえばここのところ散歩に行く時にボールを咥えていなかった、と思い出したように教えてくれたそうだ。
「散歩コースには、このドッグカフェ前の原っぱも含まれています。家の前から始めて、雨が降り出した頃やっとこの辺りを探しはじめたんですが、どうにも範囲が広すぎて……」
途方に暮れたような目で、亘が広大な原っぱを見回した。
確かに小さなボール一つを探し出すには、この草原は広すぎる。
過重な労力を思って、一貴は思わず亘に尋ねた。
「似たようなボールを買ってやるんじゃだめなのか」
「先生」
そういうことじゃねえよ、と零が一貴を睨み上げる。
何でだ。ボールはボールだろう。
犬なんだから分かりはしまい、と思ったものの、更に叱られそうで一貴は反論を胸にしまった。
やり取りを聞いていた亘は、ちょっと苦笑して実に聞き分けの良い言葉を選んだ。
「そうですね。もう少し探して、それでも出て来なかったら諦めて新しいボールを買いに行こうと思います」
「いや、探そう」
大人の対応をぶった切ったのは、この場合関係も筋合いもないはずの零である。
使命感に満ちたガラス玉のような瞳に、一貴はやれやれと肩を落とし、亘はちょっとびっくりしたように目を見張っていた。
6
*
──太陽が傾いて来た。
黄金色に変わりはじめた日差しを見上げて、零は眩しさに目を細めた。
弟の友人である亘を手伝ってボールを探しはじめてから、もうすぐ一時間が経とうとしている。
見晴らしのいい草原は、しかし小さなボールを見つけるには広大すぎて、手分けして探すも色よい声はなかなか上がらなかった。
芝生とはいえ下草が伸びてしまっている場所もあるし、点在する背の低い茂みも死角になる。確認しなければならない所は山ほどあって、手がかり無しで挑むには途方もない作業だった。
「もっと下の方かな……」
小川の方を眺めてぽつりと呟く。
斜面下は一貴が真っ先に向かって行った先だ。
何か考えがあってのことなのか、それとも……。
亘を手伝うと言い出した零を、一貴は苦い笑顔で見下ろしていた。
本当はこんなことに興味はないのだろう。効率の悪いことを嫌う一貴にとっては面倒に思えたはずだ。
それでも零は、一貴があの場で自分達を切り捨てたりしないと確信していた。
どうして、と聞かれると困るけど、あのうさんくさい大人の代表みたいな愛想笑いの上手い男は、時々零にずいぶん甘い。
なんだか変に自分の歪みばかりに自覚的で、そういうところがひねくれてるなと思うけど、彼は彼自身が思うほど人でなしではないのだ。
──だけど。
見下ろした小川に一貴の姿が無いのを見て、ため息をつく。
人でなしでないことと、お人好しであることはイコールではない。
なんとなく一貴の考えが読めた気がして、零は小川に向かって斜面を下っていった。
「あ.やっぱりサボってる」
上からは死角になる茂みの影でのんびりと腰を下ろしている一貴を見つけて、零は呆れ声を漏らした。
影に溶け込むような深い色味の服を着た一貴が、夜色の瞳をこちらに向けてちょっと笑う。
胡散臭い笑みは端正な顔立ちに大層映えて、こういう所が女の人の気を引くんだなと思うと、なんだか無性にもやもやした。
ジト目になった零に向かって、一貴がしれっと言い訳する。
「ちゃんと探してたよ。あるとすればこの辺かなって。こう、川の流れを見ながらね」
「絶対、嘘」
ばっさり切って一貴に近づく。
途中、下草に足を取られて危うく小川に落ちかけたが、慌てた一貴がとっさに腕を掴んで引き上げてくれた。
「せっかく雨を凌いだのに、川に落ちて濡れる気かお前は」
文句を言いながら体をずらして、一貴が零に座っていた場所を提供する。
川の近くには大きめの岩がいくらか転がっていて、よく見ると斜面に埋まったようなものもある。
一貴が座っていたのは中でも上手い具合に乾いた岩だ。
抜け目のなさに零は再度呆れた。
零を座らせると、慎重に手を離した一貴が立ち上がって背伸びをした。
逆光になったその背中に、零はふと尋ねてみる。
「先生、何で一番に小川に下ったの? 下の方がサボってても見つかり難いから?」
零の問いに一貴がちらり.とこちらを振り返る。
「まあそれもあるけど」
もはや隠しもせずに頷いてから、一貴は言葉を足した。
「最近じゃ、デリコが散歩する時は亘の母親が腕に抱いていたって言ってただろう。口に咥えていたボールを落としたとしたら、高さのある位置から落としたわけだ。ソフトボールだし、そこそこ高い所から落としたなら弾んで転がって案外下の方まで行ったんじゃないかと思ったんだよ」
なるほど、一貴の理屈には一理ある。
「ならそう言ったらいいのに」
声が非難めいたのはしかたないと思う。
これだけ必死に探しているのだから、可能性の高い情報があるなら共有してほしいと考えるのは自然なことだ。
肩を竦めて、一貴が悪びれもせずに言う。
「途中で止まった可能性がないわけじゃないし、全員が小川を探したら俺が休めないだろう」
結局それか。
楽な方、楽な方へと舵を切りたがる一貴に零はため息をついた。
零の気配を察して、一貴が付け加える。
「一応ざっと周辺は探したぞ。無いなぁ、と思ったから休憩していたわけで」
「ざっと」
真顔で頷くと、一貴が困ったように口を噤んだ。
太陽の光を弾いて小川がきらきらと輝いている。その光を背に、零は茂みの影から乗り出して斜面上の方を探している亘の姿を確認した。
見つからなかったら諦めて似たようなボールを買う、と言った亘は、とても本気でそんなことを考えているとは思えないほど必死にボールを探している。
なりふり構っていないので、草やらドロにまみれて髪も乱れていた。
「先生」
亘を視界に入れたまま、零は一貴を呼んだ。
「先生、犬にも霊の記憶ってあるのかな」
はっきりと苦笑する気配がして、零は一貴に視線を戻した。
「犬にも生霊があって、執着したものにそれを飛ばしていたとしたらさ、例えばボールの側でデリコの記憶が見えたりしないかな」
こちらに向き直った一貴が、何もかも見通したような目で零に確認する。
「見えるとして、どうするの」
「見たい」
反射で答えると、言うと思った、と一貴が肩を竦める。
「いいんじゃない」
即座に続いた肯定の言葉に、驚いたのは零の方だった。
こんなにもあっさり賛同されるとは思わなかったのだ。
先の事件から、一貴は零が霊の記憶を見ることにやや過剰なほど警戒を示すようになっていた。
自覚的に眼鏡を外すことだけでなく、偶発的に眼鏡が外れてしまうことも恐れているようで、今日も喫茶店にいる間、零が眼鏡を弄ると不安そうに視線を寄越した。
一貴は零の目が見るものを信じている。信じた上で、それを良くないものだと考えている。そう思っていたからこそ、「見たい」などと言ったらてっきり反対されると思ったのだが.
びっくりしている零に向かって、一貴が心外そうに口を開いた。
「あのな如月。誤解があるようだから言っておくけど、俺は別にお前が霊の記憶を見ることに否定的なわけじゃないぞ。見たいなら、見ればいい」
「でも先生、おれが眼鏡に触れただけで眉を
言い返すと.自覚があったのか嫌な顔を作って一貴が言った。
「そりゃお前、前回吐くわ泣くわ倒れるわした所を見せられてるんだから、心配するのはもう条件反射だよ」
そこは分かれ、と一貴がちょっと零を睨んだ。
「お前がまた、傷つけられた記憶や殺された記憶を見ようとしているなら話は別だけど、今回の場合は事件じゃないし、デリコはペットとしては大事にされている部類に思える。お前の言う通りボールに思いを残していたとして、それが酷い思い出とは思えないんだから、止める理由はないだろ」
俺はお前が怖い思いをしたり悲しい思いをしたりするのが嫌なだけだよ、と一貴が不機嫌そうに言葉を切った。
とっさに顔を伏せたのは、思わず顔が緩みそうになったからだ。
まっすぐに自分を気遣う一貴の言葉がくすぐったくて、困る。
それに、霊の記憶を見るこの目自体を否定的に見ているのではないのだと知って、嬉しかったのだ。
「なに」
俯いた零を不審に思ったのか、一貴の声が下がる。
「如月」
伺うように投げかけられる声が案外近くて、一貴が膝をついてこちらを覗き込もうとしていることが分かった。
7
霊の記憶を見る時は一貴の体に掴まるのが通例になっている。
流れ込む映像に前後左右、天地までもが分からなくなり、しまいには酔って倒れることもあるので、側で支えてくれる人間が必要なのだ。
とはいえ動かない無機物にしがみつくのではなく、わざわざ人間に掴まるのは、やっぱりちょっと心細いからだ。
それなのに今、零は座っている位置から霊の記憶に臨もうとしていて、そのせいで一貴に掴まる理由をなくしていた。
不安だから掴まってていい? と聞くには意地が邪魔をする。
諦めて、零はそのまま眼鏡のテンプルに手をかけた。
「如月」
ふいに一貴の手が零の両肩をそっと押さえた。
驚いて見ると、正面で膝をついたままだった一貴が笑って言う.
「ひっくり返ったら危ないから」
それが言い訳であることは零にも分かった。
一貴はきっと、零の表情を読み取って機転を利かせたのだ。
こういう所ばっかり濃やかで、ずるい。
ほっとしたのと照れくさいので、零は懸命に強がった。
「先生は心配性すぎる」
そっけない言葉に一貴は苦笑したかもしれない。
確認しないまま眼鏡を外して、零はその顔から視線を逃がした。
「!」
まばゆい光が目を刺すこの感覚は、何度経験してもなかなか慣れない。
人の顔が浮かんでは消え、消えては浮かび、付随する記憶が切れ切れに再生される。
光が交差して。色が巡って。
無秩序で雑多な映像の中から、零は必死にデリコの記憶を探そうとした。
「う────ん」
次々視界に入る霊達の記憶に目を凝らしながら零は唸った。
「見えないのか」
「ん────」
一貴の問いに首を傾けて、再び呻く。
見えないのか、見えているのにデリコのものだと分からないのか、判断できないのだ。
霊の記憶には大きく二つのパターンがある。
一つは見ている本人の視界に忠実な記憶。もう一つは見ている自分を入れた俯瞰の記憶だ。
前者の場合デリコの記憶にはきっと亘が登場するはずだし、後者の場合マルチーズが見切れるはずだと零は考えていた。
しかし今、目の前に展開する数々の記憶には、そのどちらも見つけられない。
デリコが生霊を飛ばしていないことも考えられたが、鳴き続けて訴えるほどそのボールに執着しているなら、見えるはずだという思いも捨てきれなかった。
何か前提が間違っているのだろうか。
考え考え記憶を追っているとだんだん目が回って来て、零は無意識に自分を支える一貴の腕に縋った。
酔いそう、と思ったタイミングで、一貴の手のひらが肩から離れて零の後頭部に添えられた。
なに、と問う間もなく引き寄せられて一貴の肩口が零の目を隠す。
「ちょっと休憩」
ぽんぽんと頭を叩かれてようやく、零は一貴が自分の視界を遮ったのだということに気がついた。
ふー、と息を吐いて弛緩する。
一瞬、強ばった心がほぐれて、零は一貴の差し出した肩に甘えた。
一貴が意図して自分を庇護しようとする時、この距離はとても居心地が良い。
子ども扱いされるのが安心するなんて子どもの証拠だ。
甘えついでに、零は頭の中で整理できなかったことを口に出してみた。
「それらしい記憶は見えなかったんだけど……そもそも犬の記憶と人間の記憶って同じように見えるのかな」
「んー」
思案するような間を開けてから、一貴が応える。
「犬と人間では目の見え方が違うからな。そう考えると記憶の映像も人間と同じようには見えないのかもしれない」
「え?」
反射で顔を上げかけると、一貴の大きな手のひらが、ぐ、とそれを遮った。
先程より強く一貴の体に頭を押し付けられて、一気に体が緊張する。
一貴の匂いが近い。体温も近い。
なんだかくらくらして、零は思わず一貴の服にしがみついた。
怖がらせたとでも思ったのか、「ごめん」と謝って、一貴が零を押さえる力を緩めて息をつく。
そうしてもう片方の手でゆるゆると背中を撫ぜながら、説明を続けた。
「まず犬は、確か視力が0、3程度しかないと言われている。その代わり人間より視野が広くて動体視力もいいから、遠くの獲物を見つけられるんだ。それから確か……犬の認識できる色相は青から黄色で、緑や赤はグレーに見えるらしい。全体的に世界はくすんで見えるのかな。人間には見えない紫外線の色も見ることができるそうだから、確かなことは言えないけどね。デリコが好きなオレンジはおそらく黄色っぽいもののうちに入ると思う」
そういう記憶はなかった? と聞かれて、零は頭を振った。
淡々と繰り出された言葉のおかげで、ほんの少し気持ちが落ち着きを取り戻している。
──そうか。犬と人間ではものの見え方が全然違うのか。
考えてみれば当たり前のことだ。
一貴が並べたことだけではない。例えば小型犬のデリコなら、視線がずいぶん下に来るはずで、それだけでも人の記憶とは大きく異なる。
マルチーズ、もしくは亘の顔ばかり探して、そういう映像を気に留めていなかったな、と零は思った。
「もう一回、見る」
離して、と言外に伝えると、一貴がそうっと零を押さえていた腕をどけた。
手が離れる、その一瞬。
ふと一貴の指先が名残惜しそうに零の髪を梳いた。
反射で首を竦めて、次にあり得ないほど顔が熱くなって、零はその場に固まった。
「如月」
分かっているのかいないのか。
動かなくなった零を伺うように、一貴が零の肩に触れる。
たったそれだけの仕草に心臓が止まるのではないかと思うほど胸が締め付けられて、零は自分の動揺の大きさに狼狽えた。
一貴が意図して零を庇護しようとする時、この距離は居心地がいい。
だけど一貴が何か別の意味を持って零に触れる時、この距離はあまりにも近くて、窒息しそうなほど近くて、座りが悪くなるのだ。
動悸が速くなる。呼吸が浅くなる。緊張して、苦しくて、何だか少し怖いのに、触ってほしい、と思う。
こんな気持ちは、他に知らない。
ぐるぐると熱を持つ思考を振り切るように、零はこちらを覗き込もうとする一貴の体を力いっぱい突き放した。
真っ赤になった顔を見られたくなくて夕陽に向かって裸眼を晒す。
──今は、デリコだ。
無理矢理思考を切り替えると、零は記憶の海に呑まれていった。
8
その映像は、まるでチャンネルが切り替わったかのように突然、目の前に現れた。
「うわ」
めぐる、めぐる。
見たこともない世界に、零は目を見張った。
視線が低い。人の姿が近い。
自分の姿が見えない映像が多いのは、自分の姿を知らないからか。
唐突に雪崩れ込んで来た大量の記憶に、零は今、自分が「犬の記憶」にアクセスしはじめたことを確信した。
「ああ」
漏らした声に、一歩遅れて零の肩を支えた一貴の手が、もの問いたげに力を込める。
説明を求める一貴に、しかし零は答える言葉を持たなかった。
それはとても──とても、美しい世界だった。
キラキラと瞬く光に似た不思議な「色」。信じられないほど広いパノラマの景色。細部までよく見える視界。
世界がくすんで見えるなんて嘘だ。
空も大地も人々の衣服も、全てが感じたことのない鮮度で目の前に広がっている。
赤や緑がグレーに見えるなんて、どうしてそんな風に言われているんだろう。
赤と緑は、むしろ最も鮮やかに、強烈に零の目を奪っていた。
視界に入るたび気が散るほどで、そういう意味では見分けるのが大変な色だ。
特に赤は、人が感じているより様々な色の段階を見分けることができた。
人間の目からは単一色に見える赤い服も繊維の微妙な色むらが分かるし、血液の色は秒ごと変わる色合いがはっきりと見分けられる。
あまりに多彩な色の波に、零は目的も忘れて思わず見蕩れた。
「……そうか、匂いだ。匂いと、音なんだ」
思いついた仮説に確信を得て、零はぽつりと呟いた。
犬は人間よりも発達した他の器官で視覚を補っている。色を補正しているのもきっと同じ。
ふと視界の中で何かが動く。
トンボだ。誰かの記憶がトンボを見ている。
一枚一枚の羽がどう動くか、どんな軌跡を描いて飛び立つのか、全てがスローに、そしてはっきりと焦点を合わせて見ることができた。
動くものを目で追う時、犬達は人より遥かに鮮明にそれらを捉えているらしい。
くるくると舞う桜の花びらも、打ち寄せる波の水しぶきの一つ一つも、人がこちらに向かって微笑む、表情の変化も。何もかも。
鮮やかに、繊細に、溢れるように、あるいはほとばしるように。犬の目を通して零の目に映り込んでいた。
──なんて美しい。
次から次へと切り替わる犬達の記憶に、零は知らず、涙した。
「如月」
見るのをやめるか、と一貴が尋ねる。
懸命に首を振って、零は押し寄せる記憶に目を向け続けた。
「先生、人間はきっと、とんでもなく損しているね」
こんなにも綺麗な世界を知らずに一生を終えるなんて。
きっと意味を拾い切れなかっただろう一貴が、それでも「そうかもしれないな」と同意してくれた。
めまぐるしく変化する記憶に圧倒されながらも、目を凝らし続けること数分。
やがて零は、探していた記憶に辿り着くことができた。
走る。走る。緑の芝生がぐんぐん後ろに去っていく。
何を目がけて走っているのか、何のために走っているのか、初めのうち零には分からない。
迷いなく走りに走って、少し伸びた下草の群れに飛び込むと、その目がオレンジのソフトボールを捉えた。
「デリコだ」
一瞬近づいたボールが次の瞬間見えなくなったのは、口に咥えたからだろう。
下草を飛び出した先に見えたのは、今よりずいぶん幼い亘の姿だった。
駆け寄った亘が、屈託なく笑ってデリコを迎える。
よしよし、と褒めて喜ぶその笑顔は、デリコの視覚に幸福感を加えて更に美しく輝いて見えた。
亘がボールを振りかぶる。
投げられたボールが放物線を描いて空に軌跡を描く。
もう一度見たい。
亘の笑顔を見たい。
デリコの視覚が、再び走り出してボールを追いかけていく。
もう一度。もう一度。
言葉もない、声も聞こえない映像だけの世界で、零ははっきりとデリコの心をトレースすることができた。
咥えて戻る。亘が笑う。
オレンジのボールが空を飛ぶ。
走り出す。
走り出す。
どこまでも。何度でも。
「人間は愚かだ」
呟いた零の言葉は、一貴に届いたか分からない。
「愚かで、可哀想だ。嘘をついたりごまかしたり、心にもないことを言ったりやったり。自分でも分からないことをどんどん増やして、世界がくすんで見えなくなってる。言葉を持っているのに、なんて不自由なんだろう」
こんなに好きなのに。
デリコは亘を愛しているのに。
亘はどれだけそれを理解できていただろう。
視界の端で、亘がボールを投げ損なった。
明後日の方向に飛んでいったボールをデリコの視界が必死に追うが、斜面を転がる速度が速くて追いつけない。
後少し、というところでボールがぽちゃんと川に落ちる。
デリコは流されていくオレンジ色のボールを見て、それから遅れて斜面を下りて来た亘に視線を移した。
追いついた亘は「あ」の形にぽかんと口を開けると、しばらくして俄に笑いはじめた。
おかしくてたまらない、といった様子で腹を抱え、同時にデリコを抱きすくめる。
楽しそうな亘に嬉しくなって、デリコは亘の顔を舐めた。
くすぐったがって身を捩った亘が、笑いながら川を見つめる。
誘われるように川に目を向けたデリコの視界に、落ちていく夕陽に向かって流れていくオレンジ色のボールが映った。
まるで大きな太陽に、小さな太陽が還っていくようだ。
亘が何かを呟いた。それを聞いて、デリコが前足をひらひらと動かしてみせる。
そうそう、と頷く亘が嬉しそうに笑うので、デリコは何度も、何度も同じ動きを繰り返した。
犬の目から見分けられる何層にも分かれたオレンジ色と、その光を反射する水面。ゆっくりと小さくなっていくボール。そして、亘の穏やかな笑み。
言葉なんかなくても分かる。
この瞬間、デリコはこの幸福がずっと続くと信じていた。
9
「はい」
茂みに頭を突っ込んでボールを探していた亘に、見つけたものを差し出す。
弾かれたように顔を上げた亘は、零の手の中にオレンジ色のボールが収まっているのを見ると食い入るようにそれを見つめた。
「小川に落ちて流されたみたいだ。だいぶ向こうに打ち上げられてた」
声に疲れが滲むのは、あの後何度もデリコの記憶を追ったからだ。
人間よりも過敏な世界で生きている犬の記憶を探ることは案外難しかった。
見たこともない美しい映像の数々に圧倒され、気がつくとのめり込んで、対象の記憶を見失う。
見かねた一貴が途中から霊視の間隔をコントロールしはじめ、短い時間の探索を複数回繰り返すことで、なんとかデリコがボールを失った日の映像を目にすることができたのだ。
「──ありがとうございます」
本当に見つかるとは思っていなかったのか、信じられないものを見る面持ちで亘が零の手からボールを受け取った。
亘の手に渡ったオレンジ色のボールは、日に焼けて褪せたゴムに、傷や汚れがたくさんついている。
「水で洗ってみたんだけど、綺麗にならなくて」
零の言葉に、亘が首を振る。
「いいえ……いいえ。汚れているのはそれだけこのボールを使っていたからです。良かった、デリコの大好きだったものが見つかって」
芝生に膝をついたまま、宝物を抱くように両手でボールを胸に押し当てた亘を見下ろして、零は口を開いた。
「大好きなのはボールじゃないよ」
え、と顔を上げた亘が、デリコの記憶を通して見た幼い日の亘と重なる。
追いかけて来る亘。怒っている亘。
泣いている亘。悔し涙を堪える亘。
目を輝かせる亘。褒めてくれる亘。
そしてデリコを呼んで、笑いかけてくれる亘。
デリコの想起する記憶はどれもこれも亘のことばかりで、その記憶はとても美しく彩られていた。
「デリコが好きなのはお前だよ、亘。お前が一番楽しそうに笑ったのがここで一緒にボール遊びをした時だったから、デリコはあの時のボールに似ているそれを大切にしていたんだ」
ぽかん、とこちらを見上げる亘が、どこまで自分の言葉を信じるのか、零は知らない。
勝手な想像だと思われるかもしれないが、それでも零はデリコの思いを伝えたかった。
「中学の制服を着るようになると、お前はあんまりデリコの前で笑わなくなったんだな。デリコはお前が心配だった。怒ったり泣いたりするわけじゃないけど、声を上げて笑うところを見なくなったし、小さい時は落ち込むとデリコを抱きしめて甘えたのに、そういうこともなくなった。だから心配で……。お前がデリコを構わなくなった頃、デリコはそのボールを咥えて何度もお前を誘っただろう。ほら見てよ。これで遊ぼう。あの時の楽しいおもちゃだよ、って。デリコはお前の笑った顔が見たかったんだ」
亘の瞳が驚愕に見開かれた後、戸惑いと警戒の色を帯びる。
知るはずのない細かな情景を口にした零に、不審感を抱いたのかもしれなかった。
「どうして……」
何をどう尋ねていいのか分からない様子で、亘がそれだけを口にする。
「信じないかもしれないけど、おれ、ちょっとだけそういうのが分かるんだ」
詳しい説明を省いたのは、どうせ理解されないだろう、という諦めがあるからだ。
こちらの真意を探るような、値踏みするような視線が痛くて、零はほとんど無意識に一貴の顔を見た。
零より一歩下がった位置でことの成り行きを見守っていた一貴がまっすぐに零を見つめ返す。
真っ黒な夜色の瞳が、凪いだ海のようだ。
背中から支えられるような眼差しに勇気を得て、零はひとつ深呼吸をすると亘に視線を戻した。
理解されなくてもいい。ただ、デリコの思いを分かってくれれば。
「あの日。そのボールを落とした日。散歩でこの場所にさしかかったデリコは、幼いお前と遊んだ時の情景を思い出したんだ」
それはデリコがボールに飛ばした思念の中でも、特に強く強く残された記憶だ。
二人でお腹いっぱいおやつを貪って、芝生に寝転んで、ボールで遊んで。
「ボールを川に流してしまった時、お前はケラケラ笑ってデリコを抱きしめただろ。デリコが前足を動かすと、嬉しそうに頷いてくれた。それを思い出したから、デリコはボールを口から離したんだ。あの日のようにお前が後からやって来て、笑ってくれると思って」
零の言葉に、引っぱたかれたような顔をして亘が息を呑む。
まさか、という思いと、そうだったのか、と納得する思いが鬩ぎあっているようだ。
「だけどボールを転がしても、お前は現れなかった。家に戻ったデリコが見たのは、今や視線も合わなくなったお前の背中だ。犬は名前を呼べない。言葉を喋れない。だから表現することで人間に気持ちを伝えなくてはいけないのに、お前はちっともデリコを見ない。お前を誘うためのボールも失って、デリコは」
声が詰まったのは、デリコの目を通して見た亘の背中が沈んだ色のエフェクトを纏っているように思えたからだ。
あんなにきらきらと輝いていた世界は、いつの日か鮮度を落とし、味気ないものになっていた。
老化による感覚機能の低下のせいもあっただろうが、零にはそれが、まるでデリコの寂しさから来る退化に見えた。
背中にそっと一貴の手が触れる。
励ますように添えられた手の温度にちょっと安心して、零は呼吸を整えると先を続けた。
「デリコがずっと鳴いているのは、ボールが無くなったからじゃない。お前を呼んでいたからだ。他に方法がなくなってしまったから、デリコは鳴き続けたんだ。振り向いてほしくて、側に来てほしくて」
触って。名前を呼んで。笑って。あの日のように。
滲む涙を乱暴に拭って、零は亘に言った。
「おれの言うことなんか信じなくてもいいから、帰ったらデリコを抱きしめてやって。できたら、笑いかけてやって」
亘は何か言いたげに口を開き、考えるように視線を逃した。
オレンジ色のボールと同じ色に染まった太陽を見つめて、亘がぽつりと呟く。
「前足を動かすのは、『バイバイ』のコマンドです。あの日、くたくたになるまで遊んだ僕は、何だかもう何もかもが楽しく思えて、ボールが流れていったことさえおかしくて、笑い転げていました。夕陽に向かって流されていくオレンジ色のボールはキラキラしてとても綺麗だった。だから僕たちはボールを追いかけもせずに見送ったんです。デリコも同じ気持ちだったと思う。立ち上がって片手を動かして、ボールに別れの挨拶を送ったんだ」
遊んでくれて、ありがとう。
──バイバイ。
楽しかったよ。最後まで。
──バイバイ。
その動作が何を示すものか、はっきりと意味を知っていてデリコはボールに手を振ったのだ。
「俺はてっきり、お気に入りのボールがないから探してくれって鳴いてるのかと……」
言いかけた言葉を、亘は途中で呑み込んだ。
やはりどこかで疑う気持ちがあるのだろう。
根拠を示せない以上、それは仕方のないことだと零は思った。
日中より冷えた風が草原を薙ぐ。
ふと、どこからか亘を呼ぶ声が聞こえた。
「亘!」
辺りを見回すと、街道沿いに小型犬を抱きかかえた姿勢のいい女性が立っている。
「お母さん」
亘の反応に、零と一貴は顔を見合わせた。
ということは、あの腕に抱えられているのが件のマルチーズ、デリコか。
亘の母はワンピース姿にも関わらず果敢にも斜面を下って、三人の前にやって来た。
にこやかに会釈する亘の母にどぎまぎしていると、後ろの一貴が同じくにこやかに笑みを返して零と自分の身分を明かした上でことの成り行きを説明した。
「そうですか。ボールが見つかったんですね」
良かったわね、と亘の母がデリコに呼びかける。
一目見て老犬だと分かるデリコは、真っ黒の瞳で亘を見つめるとぴこぴことしっぽを振った。
デリコを目にした亘が、一瞬泣き出しそうな顔をする。
その目がはっきりとデリコを見つめたのは、一体いつぶりだったろう。
弱々しい小さな姿に唇を噛んで、亘はその鼻先にオレンジ色のボールを突き出した。
ボールを見るなり、デリコがじたばたと手足を動かして身を乗り出す。
望むまま亘がボールを咥えさせると、今度は身を捩って母親の手から逃れたがった。
「下りたいのかしら」
珍しいわね、と言いながら亘の母がデリコを芝生に下ろす。
空中で駆け出すような仕草をしていたデリコは、しかし筋力が落ちていたのだろう、地面に下ろされると上手く体を支えられずにへたってしまった。
それでも立ち上がろうとするデリコを見かねて、零は毛むくじゃらの小さな体の下に両手を差し込むと、少し浮かせるようにして歩行を助けた。
よたよたしながらも心無しか意気揚々と歩いていくデリコが向かったのは小川であった。
水面に夕陽が映って、川はオレンジ色に染まっている。
いよいよ興奮したようにデリコが足を動かして、ついに川縁に辿り着いてしまった。
水に濡れないよう大きめの石の上にデリコを乗せると、満足そうにしっぽを振って、後方から追って来た亘を振り返る。
しっかりと目が合ったことを確認してから、デリコがボールを咥えたまま眼下の小川を見下ろした。そうして次の瞬間、水面に向かってぽい、とボールを放ったのだ。
あっ、と声を上げたのは亘の母だけであった。
亘がはっとしたように零を見て、零も亘を見返した。
デリコが再び亘を振り返る。
舌を出して、しっぽを振って、きらきらした瞳で亘を待っている。
亘は顔をくしゃくしゃに歪めると、まっすぐに駆けて来てデリコの体を抱きしめた。
わふ、とデリコが嬉しそうに一声鳴く。
零はそっとデリコから手を離して亘の腕に全てを任せた。
「デリコ」
微かに呼んで、亘の腕がぎゅう、と力を込める。
「ごめんな俺、怖かったんだ。お前が歳をとっていくのが怖かった。いなくなるかもしれないと思ったら見るのも怖くて……。もっと早く、もっともっとたくさん、お前と遊んでおけばよかったのに」
懺悔する亘の声は震えていた。
その後悔は、今ではもう遅すぎる。しかし、
わふ、と再びデリコが一声鳴いた。
自分の体に額をくっつけて俯く亘を懸命に舐めて気を引こうとする。
「亘、見て」
デリコの意図を察して、零は亘の肩を叩いた。
ゆるゆると顔を上げた亘の目元は涙に濡れている。その目がデリコの見つめる先へ向けられて、大きく見開かれた。
燃えるような夕陽が川向こうに落ちていこうとしていた。
流されたボールがのんびりと夕陽に向かって流れていく。
まるで太陽に還っていくみたいだ。
記憶の中と同じ美しい景色に、零も亘も目を奪われた。
ふと、デリコが身を捩って亘の腕から両前足を引き抜いた。
片方の手をひらひらと動かして、確認するように亘の表情を伺う。
「──そうだな」
涙声で、亘がデリコに頷いた。
頷いて、微笑む。
「よく覚えていたなぁ」
わしわしとデリコの頭を撫でて、亘がはっきりと笑顔を作る。
ぴこぴこしっぽを振るデリコが、嬉しそうに目を閉じて亘の手のひらに頭をこすりつけた。
ついに嗚咽して、亘がぼろぼろと涙をこぼしながらデリコの体を再度、抱きしめた。
「約束する。今日から俺、お前をいっぱいだっこする。毎日散歩に連れて行く。たくさん呼んで、たくさん褒めて、一緒に遊ぶ」
だから待って、と亘が願う。
もう少し待って。
もうちょっとだけ一緒にいて。
涙がこぼれそうになって、零は空を見上げた。
薄紅色に染まった雲がのんびりと空を流れていく。
その日の夕焼けは、零が見た中で一番美しい色をしていた。
10
*
亘達を見送ってからしばらく。
すっかり暮れてしまった草原に腰を下ろしていた一貴は、隣でひっくり返っている零に向かって、もう何度目になるか分からない問いを口にした。
「大丈夫か、お前」
「んー」
煩そうに眉を寄せた零が、寝返りを打ってこちらに背を向ける。
短い霊視を何度も行ったせいか、零の疲労はことのほか大きいようだった。
亘がいたうちは気力で保たせていたのだろうが、その姿が見えなくなるなり腰を抜かして動けなくなってしまったのだ。
「俺が車で来ていればよかったんだけどな」
後悔のため息を漏らすと、別に、と零が背中で突き放す。
「晃呼んだから自転車に乗っけてもらうし」
弟の名を出して不器用にフォローしようとする零に、一貴は苦い笑みを浮かべた。
「それはそれで恐いなぁ」
シスコンのきらいがあるあの弟は、零がへばるたびに側にいた一貴を容赦なく責める。
小姑みたいに口うるさいので、一貴としては気が重い。
「先生」
ふと、伺うように零の背中が一貴を呼んだ。
なに、と問うと少し考えるような間があってから、零が肩越しに一貴を振り返った。
「先生、おれ、デリコの役に立てたかな」
それは、質問ではなく確認だった。
霊の記憶を見る零は、今までずっと、その記憶に間に合ったことがない。
死んでしまった人の思いを後から知って、起こってしまった事件を後から追って。
終わってしまったことに解釈を加えるのが精一杯で、記憶を見た本人を助けることはできなかった。
だけど今回は違う。
デリコは生きていて、亘はぎりぎりその命に報いる機会を得たのだ。
──役に立っても立たなくても、俺はお前が好きだよ。
言えない言葉の代わりに、一貴は別のことを言った。
「デリコは嬉しそうだったな」
しっぽを振ってまんまるの瞳を和らげる。
口角が上がって亘にすり寄る。
表情なんか分析しなくても、全身で喜んでいたことは一貴にも分かった。
うん、と頷いた零がほっとしたように僅かに微笑んだ。
零が皮肉ではない笑みを浮かべるのは珍しい。
思わず魅入っていると、零が都会の少ない星を見上げながら言った。
「最後の時は、一番大事な人に側にいてもらいたいもんな」
その言葉は、彼女が幼くして亡くした実父を思ってのものだったのかもしれないが。
とっさに頷けず、一貴は零に言葉を返した。
「死ぬ時じゃなくても、大切な人には側にいてほしいけどね」
そんな刹那的な場面でようやく一緒にいられても、満足なんてできないだろう。
死んでいく瞬間の孤独と引き換えてもいいから、それまでの時間が欲しい、と一貴は思った。
「ふうん」
気のない返事とともに、零が上体を起こす。
身につけたままだった一貴の上着の中で小さく身震いすると、ついでのように言い添えた。
「どっちでもいいけど。先生、おれが死ぬ前に死んだりしないでね」
「──え?」
なに、何だって?
「如月、それどういう──」
文脈から推測される意味をそのまま受け取ってもいいのか。それともいつもの天然か。
問いつめようとした一貴の耳に、自転車のベルの音が響いた。
「晃だ」
街道沿いにライトを点けた自転車が止まるのを見て、零が立ち上がる。
そのままちらりとも振り返らずに、一貴を置いてさっさと歩き出してしまった。
「ちょ、ちょっと待て。如月、ちょっと待って!」
柄にもなく慌てて立ち上がると、捜索の間すっかり存在を忘れ去られていた傘を手に、一貴は零の背中を追いかけた。
夏にはまだ少し遠い夜風が、芝生の上を勢い良く駆け抜けていく。
零の髪が夜闇の中できらきら舞って、まるで太陽の名残を惜しんでいるようだと一貴は思った。
11
***
梅雨も抜けきらない、ある早朝。デリコは亘の腕の中で死んだ。
だいすき、と、ありがとう、を何度も繰り返して泣く亘に、最後にひとつ、片手を上げて。
ひらり、と振ったその意味を、デリコも亘もちゃんと分かっていた。
──バイバイ。
さようなら。さようなら。大好きなひと。
愛しい時間を、ありがとう。
完
*このお話は一巻同様、本文の中に暗号が隠されています。お楽しみいただければ幸い。
(今回の暗号は本編とは全く関係ありません)
*暗号解読ヒント
タイトル