十月末ともなれば、そろそろ自転車のときだけ手袋がいるだろうか。
かじかむほどではないが、朝早く自転車を漕いで
日が暮れるのも早くなり、それに伴って神社の方からは、帰り時間を早めなさいと言われる。
自転車だし通い慣れた道だし、大丈夫ですと言っても、佐々多良神社に奉職している
預かり物というか、こちらが修行とか何とか言って押しかけて働かせてもらっているみたいなものなんだけどなあ――。
四屋敷の跡継ぎである娘は、代々十代のうちに佐々多良神社にて修行すべし。
そんな言い伝えがあるのかわからないが、とにかく百々は高校に入学してからずっと、昼間は高校、登校前と下校後は神社で巫女の仕事をしている。
その日、天気が崩れるかもしれないからと、百々はいつもよりさらに早く神社から返された。
「雨具だってあるし、そんなに心配しなくたっていいのに」
本当に雨が降っているわけではない。
だから、こんなに早く帰ることはないのだとぶつぶつ言っていると、ポケットの中から声がした。
『何かあってからでは遅い。本格的に雨が降って、ひどい風邪をひいたらどうする』
その声は、
本来ならば稲荷の神社で
百々は、香佑焔が憑いた御守りをいつもポケットに忍ばせて持ち歩いていた。
その香佑焔は、やや過保護だ。
百々に危険のないように見張り見守ってくれるのは、ありがたい。
ただし、時々口うるさい小姑のようになってしまうのが、玉に瑕である。
『帰宅したら、早々に学校の宿題とやらを終わらせるなり、身を清めるなりすればよい』
「え、いや、お夕飯が先でしょ。
紀子とは、百々が現在下宿しているところの女主人、
料理の腕前は、百々に言わせれば天下一品だ。
今日のお夕飯は何だろうねとルンルン気分の百々と、いつまで花より団子でいるつもりだ年頃の娘がとため息をつく香佑焔。
百々が自転車を漕いで、下宿先が見えるところまで来ると、何やら人の話し声が聞こえてきた。
喧嘩をしているのような激しい言い争いは、下宿先の東家の斜め向かいにある
百々は、神社の前で思わず自転車を降りた。
鳥居のちょうど真下あたりで言い争っているのは、ここの神職である
卓人は、百々と同い年の、私立の高校に通う二年生である。
いつも百々に声をかけてくる気さくな面もあるのだが、いかんせん身なりも言動もちゃらい。
ついでに言えば、女の子である百々に対しての発言にデリカシーというものがない。
普通に話をしていても、最後には喧嘩別れになることがほとんどだった。
その卓人が、父である幸野宮司に、腕を掴まれている。
「正直に言いなさい! よもや、おまえが犯人ではなかろうな?」
「ちっげーよ! 何で俺がんなことしなきゃなんねーんだよ!」
「ならば、玄関の靴箱の奥深くに隠してあった派手なスニーカーは、いったいどうした!」
「人のもんを勝手に調べてんじゃねーよ! あれはあ! 先輩がちょっと履いただけでイマイチ足に合わないからって言うから、俺がチョー安く買ったやつだよ! そんくれえの小遣いは貯めてんだよ! 息子を疑ってんじゃねー!」
言い争う声は、だんだんとヒートアップしてきて、近所にも丸聞こえになりそうだった。
「あのー……どうかしたんですか?」
自転車を引いて百々が近づけば、幸野宮司ははっとなって決まり悪そうに息子の腕から手を離す。
「よ、百々。何、今帰りかよ。いつもよりはっえーな」
卓人の挨拶は、どうも百々には軽薄に聞こえる。
父親とたった今まで争っていたとは思えない切り替えの早さだ。
「いや、お恥ずかしい。少々息子の生活態度について苦言を」
「ちげーだろ。俺のこと、賽銭ドロだって決めつけてかかってたじゃんかよ」
「賽銭……泥棒?」
思いも掛けなかった言葉に、百々は目を丸くした。
真面目で気の小さいところのある幸野宮司は、内々のことですので四屋敷さんにはどうか内緒になどとごにょごにょ言って、その場から境内の拝殿の方に立ち去ってしまった。
残された百々は、首を傾げて卓人を見る。
幸野宮司の言う「四屋敷」は、百々の曾祖母である
四屋敷の当主であり、現・在巫女の位にある女性である。
在巫女とは、在野にあって神のお力を借りることのできる巫女。
本来なら境内という神域を、呼吸し手を打ち、望むだけで、どこにでも作り上げてしまえる存在だ。
百々はその跡継ぎなのだが、もちろんそんなことは卓人は知らない。
「最近、俺んとこの神社が管理してる無人の神社の賽銭箱が、続けて荒らされてんだよ、賽銭泥棒に」
「えっ! それって、犯罪だよね!」
「ったりめーだろ。セットーだよ、セットー」
窃盗と言いたいのだろうが、卓人が口にするとどうも軽く聞こえる。
「で、どうして卓人くんが疑われてたの」
先ほどの幸野宮司の言い方は、頭から卓人を疑ってかかっているかのような口ぶりだった。
少なくとも、百々にはそう聞こえた。
「むかつくだろ。証拠も何もねえのに、俺が新しいスニーカー持ってたからって、賽銭泥棒して買ったと決めつけてんだぜ」
マジで先輩から安く買ったチョーかっけーやつなんだぜ、と言う卓人は、確かに父親のような真面目さはないものの、かといって自分の家が管理している神社の賽銭箱を荒らすようにも見えない。
「うちが管理してるところが続いてっから、親父の野郎、身内を疑ったんだろうけどよ。だから俺ってのも短絡的だろー」
卓人の言い分ももっともなのだが、普段の生活態度や振る舞いから疑われても仕方のない部分が欠片くらいはあるんじゃないかと、百々は内心幸野宮司の言い分に少しだけ賛同した。
「警察には届けたの?」
「親父が届けたんじゃねえの? あ、そうだ。百々、おまえ、警察に知り合いいるじゃん。あの、でっけー人。いつもむすっとして愛想が悪くって、電信柱みてえな」
「
百々は、むっとして自転車を支えたまま片方の足で卓人を蹴った。
「いってぇ! 暴力反対! おまえが捕まっちまえ!」
「あんたこそ、東雲さんのことを悪く言ったら、逮捕してもらうんだから!」
詳しい話を聞きたかったのに、結局これである。
百々は鼻息を荒くしたまま、下宿に自転車を押して帰った。
玄関で女主人の紀子に声を掛け、手洗いとうがいを済ませて二階の自室として使っている和室に入る。
着替えをしながら、百々は先ほどのことを口にした。
「あいつの言い方はむかつくけど、賽銭泥棒は駄目だよね」
「駄目どころではない!」
百々がポケットから御守りを出すと、そこからしゅるしゅると香佑焔が姿を現した。
白髪の青年である香佑焔は、頭にぴんと立つ白い耳と、ふさふさの二本の白い尾を持っている。
白地に金糸の刺繍を施した
「幸野原稲荷神社が管理しているとなれば、無人とは言えいずれも宇迦之御魂神様をお祀りあそばす稲荷神社に違いあるまい。そこに捧げられた財をかすめとろうとは、不届きにもほどがある! 許してはおけん!」
いつもは百々を制止する香佑焔の方が、今はヒートアップしている。
そして、それを百々が止めるかというと。
「だよね! 神様にお供えしたお金を勝手に取っていっちゃうなんて、絶対に駄目だよね! それとあの馬鹿卓人! 東雲さんになんて失礼なことを! そっちも許せない!」
「いや、それは正当な物言いだろう。あの男は確かに不愛想だ」
「ひどいよ、香佑焔!」
せっかく味方して一緒に怒ったというのに、それとこれとは別のことだと、香佑焔はあっさり百々の言い分を却下した。
おかげで、階下から紀子が夕食の用意ができたと呼ぶまで、百々は声量を落としながらも香佑焔とぎゃんぎゃんと言い争う羽目になった。
香佑焔の馬鹿! 東雲さんにこれまでどれくらいお世話になってきたかわかってるくせに! 東雲さん、電信柱みたいじゃないもん!
百々が「東雲さん」と呼んでるのは、実家のある区の警察署の生活安全課に勤務している
身長も百八十センチを越えていて、肩幅も広くがっしりとした体格。
しかも、顔のパーツ一つ一つが大きく、ほとんど笑わないし無駄なおしゃべりもしないという無口無表情ぶりだ。
だが百々は、東雲がいきなり四屋敷家に連れてこられ、何の説明もなく「百々の担当」というわけのわからない仕事を押しつけられたにも関わらず、それを真剣に捉えて今日まで何かと百々の力になってくれていることから、東雲の実直ぶりや誠実さを知っていた。
「そ、それに、東雲さんはむすっとしてるわけじゃないもん。た、たぶん、ああいうのを、きりっとしてるって言うんだよ」
「いや、むすっとで合っているだろう。もう少し喜怒哀楽というものがあってもよいぞ、あの人間は」
「東雲さんは、あれでいいの!」
倍も年齢の違う百々のことを、常に気遣ってくれる東雲を、百々は全力で擁護した。
「食後でよい。その男に連絡をしろ。神社の金を盗むなどという不届き千万な輩を、早々に捕らえてもらえ」
「え、いやぁ、たぶん無理だと思うけど。東雲さん、この地域の警察署に勤めてないし」
「同じ警察官だろうが」
区が違うだの管轄が違うだのという理屈は、香佑焔には通らない。
百々も、相談くらいならしてみようかなと、夕食後に東雲の携帯に連絡を入れてみることにした。
「だからって、こんなにすぐに駆けつけてこなくてもいいと思いますけど……」
下宿先の一室で、百々は東雲と正座で向かい合っていた。
相談くらいならと百々が電話すると、ツーコール目で東雲が通話口に出た。
「あ、東雲さん、ご無沙汰して」
『行きます。どこですか』
「は、はひっ?」
用件どころか挨拶もろくにないまま、東雲が何やら慌ただしく動き出した気配が伝わってきたので、百々は大いに慌てた。
「し、東雲さん、そ、そうじゃなくて」
『まだ佐々多良神社ですか』
「え、いえ、もう帰宅して、てそうじゃなく! ああっ! 切れた!」
そうして、東雲は可能な限りの速さで、百々の下宿まで駆けつけてきた。
巫女ストーカー事件で心配をかけたあとだったからか、その前もつい百々が先走ってしまったからか。
どうやら、百々の呼び出しに迅速に行動しないと、とんでもなく遅れを取るのだと思い込んでしまったのかもしれない。
「あの、ただ相談したいことがあっただけなんです。今すぐってわけじゃなくって、電話で十分だったんですけど」
申し訳なく思いつつも、百々はちょっぴり嬉しかった。
何か理由がないと、警察官である東雲に簡単には会えない。
今回は、口実とは言っても、百々自身が全くといっていいほど関わりのないことだったのだが。
紀子が差し入れてくれたお茶と最中を間に挟みながら、百々は今日の夕方幸野原稲荷神社であったことを話した。
どうやら、幸野原稲荷神社が管理している普段は無人の神社のいくつかの賽銭箱が荒らされたらしいこと。
幸野宮司は、息子の卓人を疑っているとのこと。
「卓人くんじゃないと思います。確かにちゃらちゃらしていて、言うこともアレだけど、そんなことをしそうにないし、本人もそこは頑として違うって言い張ってるし」
百々の話を、東雲は最後まで黙って聞いていた。
卓人のことを話し終わると、東雲はようやく口を開いた。
「賽銭泥棒は窃盗罪に当たります。窃盗であれば、生活安全課である自分の担当ではありません」
「ですよねー……」
わかっていたことだが、はっきり言われると、じゃあなんで東雲に相談したのだということになる。
「しかも、東雲さん、この区の担当じゃないですもんね。さすがにそこまで違っちゃうと、どうしようもないですよね…すみません」
「いえ、頼っていただけて光栄です」
百々が頭を下げようとすると、東雲が手を出してそれを止めた。
「ただ、地域の住民の生活に密着したことであり、防犯の点からであれば、生活安全課としても多少はお力になれると思います。それに、もし犯人が未成年の場合も然りです」
それと、自分、生活安全課に来る前は別の課にもいましたので、参考になることをいくつか申し上げられると思います、と言うので百々は急いでメモになりそうな紙を用意した。
「無人の神社の賽銭箱ですが、おそらく小さな神社でしょうから、中身の金額も少額だったのではないかと思います。頑丈な鍵をつけてもかまいませんが、最近は鍵を壊して中身を取り出していくケースや、小さいものであれば賽銭箱ごと盗んでいくケースも報告されています」
「それじゃあ、対策してもあんまり意味ないですよね?」
鍵をつけても壊される、賽銭箱ごと取られるのであれば、どうにもならない。
ただ東雲が言うように、少なくとも賽銭箱ごと運んでいけるような規模のものであれば、中身も少額なのだ。
当然、金額が少なければいいというものではない。
窃盗は窃盗であり、犯人がわかれば警察官は逮捕する。
百々としては、お詣りに来た人が自分の気持ちや祈りを精一杯込めて神様に差し出したお金を盗っていくことが、あまりに罰当たりで悔しい。
「幸野原稲荷神社の管理するところが立て続けに、とおっしゃいましたね?」
「はい。それって何か重要でしょうか」
百々の問いに、東雲はしばらく黙った。
頭の中で、一生懸命考えている様子だった。
「管理されているとはいえ、ここからどこも歩いていける距離にあるということはないでしょう。ただ、幸野宮司さんもまったくそれらの神社に顔を出さないというわけではないでしょうから、盗難が発覚したのは、おそらく幸野宮司さんが管理されている神社に赴いたときか、普段から幸野宮司さんに代わって神社の管理をしてくれている地域の方が気づいたときだったはず。だとしても、幸野宮司さんが神社に行く前に盗んでいるのが気になります」
幸野宮司が赴けば、賽銭箱の中身も回収される。
その前に盗っていかなくてはいけない。
早すぎると、中身はほとんど空だ。
ということは、もしかすると――。
「あくまでも推測ですが、犯人は幸野宮司さんを観察していて、タイミングを計っていたのではないでしょうか。月の何日にはどの神社に行く、という風に」
「そ、そんなことを?」
「もしかすると、幸野宮司さんと親しくお話をされる仲かもしれません。顔見知りであれば、幸野宮司さんもご自身の外出などを口にされることもあるかもしれませんから」
まさかの計画的な犯行説に、百々はびっくりした。
罰当たりな人もいたものだという気持ちと、卓人じゃないってことを証明できたらいいなという気持ちから相談したのに、どうもことが深刻化してきた。
そんな百々の気持ちを知ってか知らずか、東雲が続ける。
「あくまで推測なので、あまり本気にしていただいてもらっては困りますが」
「いえ! 参考にします! てか、本気にします!」
真面目で誠実な東雲の言葉なら間違いはないと、百々がぐっと身を乗り出した。
「賽銭の窃盗犯は、最初から幸野原稲荷神社自体に目をつけているのかもしれません」
「えっ!」
まさかの言葉に、百々は短く叫んだ。
「これは、自分個人の考えと思っていただけると助かります。犯人は、幸野原稲荷神社の賽銭を目的として、幸野宮司さんの動向をそれとなく探っていた。すると、幸野宮司さんが月のいつ頃に管理している神社に顔を出し、賽銭を回収することがわかる。なので、まずは腕試し、度胸試し、ついでに言えばリハーサルのようなつもりで幸野宮司の管理する神社の賽銭を盗んだ」
もちろん、最終目的は、幸野原稲荷神社である。
幸野原稲荷神社は大きいとは言いがたい規模だが、地域の人が毎日訪れるし、休みの日は参拝客も増える。宮司が常駐して、望めば朱印ももらえるし、祈祷もしてもらえる。
そうなれば、賽銭の額も他の小さな無人の社より多いだろう。
「犯人は、それとなく幸野宮司さんの行動を観察した。他の神社での窃盗は成功した。ということは、そろそろ幸野原稲荷神社が標的になるかもしれません」
「ど、どうしよう、東雲さん! これって、幸野さんにもお話した方がいいですよね?」
百々の言葉に、東雲も頷く。
全然関係がないのに百々が勝手に賽銭泥棒のことを東雲に相談してしまって、警察官が乗り出してきたと知ったら、幸野宮司はどう思うことだろう。
気が小さく神経質の気がある幸野宮司は、百々がこの下宿に来て自分の神社にときたま出入りするようになってからというもの、ずいぶんと気を遣っている。
四屋敷さんの跡継ぎに、何かあってはいけない、それにこんな失態が四屋敷さんの耳に入ったら――。
四屋敷の当主である一子の耳に、自分のことであまりよろしくない話が届くのを、幸野宮司は以前から恐れている様子があった。
「では、加賀さんから連絡をいただいたということではなく、偶然ご挨拶にうかがった自分が、最近賽銭泥棒が出没しているようですがいかがですかと、話を切り出すのはどうでしょう」
「そうしてもらえると助かります。なんか、東雲さんにはお世話になりっぱなしで申し訳ないっていうか、ありがたいっていうか」
「仕事ですから」
普段は無口だが、こと自分の職務に関わることについては、東雲は言葉を惜しまない。仕事だとあっさり言ってしまう東雲のことを、百々は改めて頼もしいなあと思った。
「ご子息が学校に行っている間、幸野宮司とて神社を空ける用もあることでしょう。また、いくらご自宅が隣だからと言って、気配を隠して窃盗に臨む相手に簡単に気づくのは難しい。なので、私の方からいくつか予防策を提案させていただいてきます」
●賽銭箱の中身は、毎日決まった時刻に社務所の中の保管庫に移す。数日に一度などということをしない。
●社務所を閉めてから翌朝までの夜間、誰かが拝殿付近に近づくと灯りが点く、センサーを設置する。幸野の自宅でブザーが鳴る、などの仕掛けもつけるといい。
●監視カメラを最低二台設置する。本来は神社全体がカバーできる形が望ましい。
などなど、百々がメモをする速さに合わせて提案してくれた。
それを話に行くのは東雲ではあるが、百々もどういう対策が考えられるか知っておくのは大事なことだと思うし、機会があれば卓人にも教えてやろうと思った。
では早速行ってきますと立ち上がり掛けた東雲を、百々がはたと気づいて呼び止める。
「あの、このことは、大おばあちゃんには内緒にしてもらってもいいですか」
百々が直接関わっていることではないし、元来四屋敷は人のために在るものではないのだ。
幸野宮司も、四屋敷の当主である一子の耳にこのような話が入るのは喜ばしいこととは言えないだろう。
承知しましたと言い、東雲は玄関から出て行った。
それを玄関の戸の前で見送る百々に、ポケットから香佑焔が釘を刺した。
『宇迦之御魂神様に捧げられたものを盗み取るものなど、許されなくともよい。己の浅慮で業の深き悪行の報いを受ければよいのだ』
「何気に過激だよね、香佑焔」
稲荷の神である宇迦之御魂神に仕える神使の一員として、今回の香佑焔の怒りは普段の五割増だ。
『それと、まんまとあの男が担ぎ出されて行ったのだ。おまえはしばらくの間、決してあの神社に近づかぬように』
「何言ってんの、香佑焔! 前を通ったらお詣りくらいするし、東雲さん一人を働かせるってのもおかしいでしょ!」
『おまえがいかにお
「すっごい失礼! れっきとした十七の乙女を捕まえて言うことか!」
百々はぷりぷりと怒った。
それくらい、自分にだって分別はある!
そう思っていたのだ、このときまでは。
ああ、げに恐ろしきは四屋敷の血―――
日曜日の朝、百々は佐々多良神社に出かけるため、平日と変わらない時間に朝食をとって、下宿先を出た。
ちょうど、幸野原稲荷神社の鳥居のところで、幸野宮司が参道を掃き清めていたのが見えたので、挨拶をした。
そのとき、先日東雲が訪ねてきて、賽銭泥棒が市内で何件か報告されているが、こちらはいかがですかと聞かれたと幸野宮司は百々に教えてくれた。
もちろん、百々も承知している内容だった。
「センサーだのカメラだのと教えてはもらったんだけれど、うちはそこまで大きくて有名な神社じゃないしねえ」
その認識が甘いのかもしれないというのに、自分が宮司としているから大丈夫だろうと、どうやら幸野宮司は思っているらしい。
常駐する神職や管理人がいなかったのがよくなかった、とも思っているようだ。
東雲さんの言うことを聞いておいて損はないですよと言いかけた百々の横を、一人の老人が通りかかる。
足があまりよくないようで杖をついているその老人は、幸野宮司に親しげに挨拶をしてきた。
百々の方をちらりと見て、同じように挨拶をして立ち去る。
どうやら、百々がいなければ、立ち話くらいはしたかったらしい。
「この近くのアパートにお一人で住んでいらっしゃるんだそうで、足腰が弱らないよう日に何度か近くを歩いているんだそうだよ」
他にも曜日に関係なく出勤していく人が、幸野宮司に挨拶をしていく。
地域に愛されているんだなあと百々は感心した。
「今日は私も午後から出かけなければならないんだが、卓人が少しでも顔を出してくれたら助かるんだがなあ」
まだ高校生とはいえ、バイトや見習い感覚で少しは神社の仕事をしてもらいたいというのは、親心というものだ。
それが卓人に伝わっているかどうかは、また別としても。
百々は、幸野宮司と別れて、自転車のペダルを強く踏み込んだ。
ポケットの中の香佑焔が、『神社の同胞らも、あそこの跡継ぎを心配している。まったくふらふらしおって』などと、卓人の文句を言った。
幸野原稲荷神社の参道の両端に立つ二対の狐の像には、それぞれ神使が憑いている。
百々が下宿することになったときに挨拶に赴いた折、この神使たちとは色々あったが、今ではそれなりに受け入れてもらえるようになった。
佐々多良神社に着いた百々は、急いで着替えていつものように掃き仕事から始めた。
社務所を開ける時間になり、御守りやご祈祷を受け付ける窓口の仕事もする。
昼食時に百々が携帯を出してみると、東雲からの着信があった。
留守電にメッセージが入っていたので聞いてみると、その後幸野原稲荷神社はどうなりましたかというものだった。
どうも何も、幸野宮司の危機感が薄いので、東雲の助言は今のところ無駄になりそうな雰囲気である。
東雲さん、親身になって考えてくれたのになあと、百々は自分のせいではないのに少しだけ申し訳ない気持ちになった。
昼の時間帯なので大丈夫かなと電話をすると、相変わらずすぐに繋がる。
百々は、先日東雲が来てくれたことや幸野宮司に助言を与えてくれた礼を言い、その上で今朝の宮司の言葉を東雲に伝えた。
『まだ被害が出ていないのは何よりです。もしかすると、宮司のおっしゃる通り、無人の社のみを狙っての犯行かもしれませんし』
自分の助言をあまり参考にしてもらえていないことより、東雲は事件に発展していないことの方を喜んだ。
そうだよね、東雲さんの言う通り、泥棒の被害が出ていない方をよかったと思わなくちゃだもんね―。
宮司さんの文句を言ってる場合じゃないよね、私も見習わなくちゃ――。
『加賀さんが心配なようでしたら、今日も帰りに見回りに寄ります』
「え、いや、大丈夫です!」
『寄ります』
「……はい、ありがとうございます……」
幸野原稲荷神社が特に心配ということではないのに、いつの間にか東雲がまた来る方向に話が決まってしまった。
忙しいだろうに申し訳ないなあと、百々は気軽に電話してしまったことをちょっぴり後悔した。
午後もいつものように働き、百々は着替えて社務所の中の事務室に挨拶をして佐々多良神社を後にした。
東雲が来てくれると言っていたので、急いで帰ろうといつもより足に力を込めてペダルを踏み込んだ。
そう言えば宮司さん、午後から出かけるって言ってたけど、もう帰ってきてるかな、今日もう一度東雲さんから言ってもらって、せめて灯りの点くセンサーくらいは設置してもらえないかな、などと考えながら自転車を走らせる。
下宿の近くまで来たとき、百々は妙な感覚に襲われた。
ぴりぴりとした空気が、前方から伝わってくる。
これ……どう考えても、神社の方からだ。
下宿と神社は非常に近い。
何しろ斜め向かいだ。
不穏な気配は、下宿先ではなく神社の方からだった。
『む。百々。気をつけろ。狐どもが騒いでおる』
御守りの中から、香佑焔も反応して語り掛けてくる。
「もしかして、神社に泥棒が? 急がなきゃ!」
『待て! そうではなかろう! ここは、あの警察官に連絡を』
「東雲さんなら、仕事終わったらすぐ来てくれるから、もう近くにいるかもだもん! それより、もし賽銭泥棒が来てるなら、逃がしちゃダメでしょ!」
『待てと言うのに! おまえが危険な目にあったらどうする!』
香佑焔の制止を振り切り、百々は鳥居の前に自転車を停めた。
これなら見回りに来た東雲が見つけて、百々が神社の境内にいるとわかってくれるだろう。
鞄を手に急いで一礼して鳥居を潜ると、ぴりぴりした空気はさらに電気を帯びているかのように痛いものになっていた。
幸野原稲荷神社は、境内自体が細長く奥行きがあり、参道が長い。
表の鳥居からでは、拝殿が見えないくらいだ。
そこを百々が急いで駆けていくと、前方の狐の像のところでこの神社の神使である狐たちがさかんに『無礼者!』『罰当たりめが!』と怒って騒いでいた。
香佑焔もそうであるように、他の人間から見えない彼らは参拝に訪れる人間に直接触れて何かをするということができない。
こうやって怒り狂っていても、その対象に対して物理的に手を下すことが出来ないのだ。
百々は、拝殿の前に人がいるのを見つけた。
手に杖を持っているその男性の後ろ姿に、百々は見覚えがあった。
確か、今朝幸野宮司さんに挨拶していた……足腰が弱らないように散歩しているって……。
その老人がお詣りに来ているのは、何もおかしなことではない。
だが、動きが妙である。
ついている杖をやおら持ち上げると、賽銭箱の中に突っ込んだ。
ごそごそと動かし、それを持ちあげると、杖には硬貨やお札のようなものがくっついている。
それを杖から引き剥がして懐に乱暴に突っ込むと、また杖を入れる。
これって……現行犯だ!
「何やってるんですか! 泥棒!」
百々が大きい声を出すと、老人はぎくりと肩を震わせて振り向いた。
百々の気配に今の今まで気づかなかったらしい。
「お金、お賽銭箱の中に戻してください!」
宮司さんが留守にするって言ってたんだから、卓人のやつ、ちゃんと神社を見回りに来てくれていればいいのに! 役に立たないんだから!
人気がないということは、卓人は神社に顔を出していないのだろう。
相手が十代の女の子一人だとわかったからか、老人は怖い表情を浮かべた。
何やら聞き取れない鋭い言葉を百々に投げつける。
興奮して滑舌が悪かったが、「見たな!」とか「どこかへ行け!」とか、どうやら百々を叱りつけ追い払うかのような言葉らしかった。
「誰か! 幸野さん! 卓人くん! 泥棒です!」
社務所に向かって大声を出すも、誰も出てこない。
受付のガラス戸も閉まったままで、無人だということがわかる。
百々が騒いだので、老人はさらに怒りの形相を浮かべて杖を振り上げようとした。
しかし、賽銭箱に差し入れられたそれが引っかかり、がつんという音を立てて手が止まる。
忌々しげに老人が手元を見た瞬間、百々は咄嗟に手にしていた鞄を投げつけた。
視線を百々から逸らしていた老人の顔を直撃する。
今日、たまたま巫女仲間で百々と親しい
それが顔に当たったものだから、老人は顔を押さえてよろけた。
足腰が弱いのは、本当のことだったのかもしれない。
これだけ騒いでいるんだから、出てきなさいよね、卓人の馬鹿!
そんな気持ちで百々がもう一度大きな声を出していると、背後から人が駆け寄ってくる気配がした。
「加賀さん!」
「あ! 東雲さん! ど、泥棒です!」
「危ない! 下がってください!」
振り向いた百々は、東雲の姿を見て一瞬安心のあまり気が抜けた。
その隙に、左手で鼻を押さえながら杖を手放した右手を伸ばして、老人が百々に襲い掛かってくる。
『百々!』
香佑焔が叫ぶ。
百々が振り返るのと、百々の体を東雲が引き寄せて後ろに庇うのとがほぼ同時だった。
乱暴に突き飛ばされるような形になり、数歩後ろに下がった百々は、東雲があっという間に老人を地面に倒して押さえつけるを見た。
がっしりした体格の東雲に抑え込まれ、老人は身動き一つ取れなくなって、呻き声をあげた。
「東雲さん!」
「人を呼んでください。お願いします」
「は、はい!」
百々が返事をすると、社務所の方から人の声がして戸が開いた。
どうやら、幸野宮司が出先から帰宅し、社務所と繋がっている自宅の方から回ってきたらしい。
それからちょっとした騒ぎになった。
「感心しません」
「はい」
「待つべきでした」
「でも、でも、逃げられたら」
「それで、加賀さんに何かあったらどうするんですか」
「う、はい」
『まったくだ! その男の言う通り! もっと叱ってもらえ! 今度という今度は、おまえにとことん反省してもらわねば私も収まらん!』
百々は、下宿の自室で正座して説教を聞いていた。
百々の正面には、普段無表情な顔をその十倍も迫力を増した東雲が、同じように正座をしている。
さらに、百々の真横には、東雲に見えないのをいいことに香佑焔まで姿を現し、立ったまま頭ごなしに叱ってくる。まさに説教の二重唱だった。
帰宅した幸野宮司が、警察へ連絡し、パトカーが到着した。
偶然居合わせたということで、東雲が簡単に状況を説明し、百々も同様にやってきた警察官に経緯を説明した。
斜め向かいで下宿をしていて、たまたまお詣りしようと立ち寄ったら男が賽銭箱に杖を突っ込んで、という説明に、事情を聞き取っていた警察官からはそういうときは大声をあげて逃げてください、それから警察に連絡をと言われた。
大声をあげることで、賽銭泥棒は諦めて逃げるかもしれないし、目撃者である百々が被害に遭う危険も減る。
犯人逮捕への協力に対する感謝は少しで、それよりも注意される方が多かったけれど、幸野原稲荷神社の被害が未然に防げたからいいよねと、百々は内心あまり反省していなかった。
警察官に連れていかれる老人は、本当に足を引きずっており、賽銭泥棒はもしかしたら生活苦からなのかなあと、百々はちょっとだけ気の毒に思った。
もちろん、だからといって神社の賽銭を盗んでいいことにはならないが。
ちなみに、父親の幸野宮司が留守だというのに遊びに出かけていた卓人は、パトカーが逮捕した老人を乗せて神社から出ていくところを見て、興奮しながら駆け込んできて、父親から特大の雷を落とされていた。
その後、大説教大会なんだろうなあ、いい薬だよね、などと百々が納得していると、東雲が百々を呼んだ。
「加賀さんの下宿にお邪魔します。ここでは人目がありますから」
「は、はい?」
人目があるとまずいことなのかなと思いながら、百々は東雲を下宿先の自室に招き入れた。
そして、ここでも説教大会が始まったのである。
「自分、仕事が終わり次第こちらに伺うとお話したはずですが」
「は、はい」
「お転婆にもほどがある! 私があれだけ止めたというのに! 一子に報告してくれるわ!」
「わあ、やめて、香佑焔! それだけは、やめてぇぇ!」
百々は香佑焔に縋りついて、悲鳴をあげた。
もちろん、香佑焔の姿は東雲には見えないので、一見百々の奇妙な一人芝居に見える。
以前、香佑焔のことを東雲に話していなければ、百々は錯乱して奇行に走っているようにしか見えないだろう。
「あなたを護ってくれているその方から四屋敷さんに連絡してもらってください」
「えええっ! 東雲さんまで!」
「私が電話しても結構ですが、もし加賀さんのお父さんが電話に出た場合、今回の顛末を聞いたらどう思うか」
「わあああん! お父さんにはもっと言っちゃだめーっ!」
そうなったら下宿も止めさせられて、四屋敷に連れ戻されるだろう。
百々が顔色を変えて東雲を制止していると、百々の携帯が着信を知らせるメロディーを奏でた。
曾祖母の一子からだと、一目でわかる。
「こーうーえーんー……はーなーしーたーなー……」
恨みがましい目つきで睨むも、香佑焔は鼻をふんと鳴らして見下ろすだけだった。
本体が四屋敷邸の庭の小さな社にある香佑焔にとって、当主の一子に告げ口をするのは容易いことだった。
涙目になりながら、百々は携帯をタップして耳に当てた。
「もしもし……」
『まあまあ、百々ちゃんたら。おほほほほ』
笑っている、笑っているが、朗らかというより棘がある。
それを感じて、百々は東雲や香佑焔に対するのと全然違う必死な態度で謝った。
「ごめんなさい! だって、泥棒を逃がしちゃいけないと思ったら、体が勝手に動いちゃったんだもん! 反省してます! 本当に! ごめんなさいったらごめんなさい! もうしません!」
『当たり前です。あなた、まだ十七歳の高校生なんですよ。しかも、護身術の類も武術の一つも身に付けていないじゃあありませんか。あなたにもしものことがあったら、どうするんです。東雲さんと香佑焔様にたっぷり叱られなさい』
「ううう……はい……」
『私のお小言は、次にこちらに帰ってきたときにたっぷりさせてもらいますから』
「今怒ってくれた方がいいよう」
今、一気に叱られた方がありがたい。
ここで東雲と香佑焔に叱られ、時間をおいて今度は一子に叱られるのは、結構きつい。
『にしても、どうしてこう……あなたの亡くなったおばあちゃんも、社務所に侵入した泥棒を池に蹴り落として、竹箒で殴り飛ばすような
どういうことかしらと、一子がわざとらしく大きなため息をついた。
その話なら、百々も何度も聞かされたことだった。
当時、下宿して佐々多良神社で修行していた十七歳の祖母が、年末年始の神社が混雑する深夜に社務所に侵入した泥棒をやっつけた武勇伝だ。
竹箒を手にそっと後をつけ、入った部屋の窓から思い切り蹴落とした後、池のふちまで回り込んで竹箒で殴り飛ばして、他の巫女が呼んだ警察官に引き渡したというとんでもない話なのだ。
それを聞かされていた百々は、自分もそれと一緒なのかと、がっくり肩を落とした。
落としながら、ふと、気づく。
「……おばあちゃんの話ばかりだけど、大おばあちゃんも似たようなこと、したんじゃないの? 死んだおばあちゃんって、大おばあちゃんにそっくりだったってお父さんからもお母さんからも他の人からも聞かされてるんだけど」
『……』
急に静かになった通話口に、百々は確信した。
この曾祖母も、若い頃に似たようなことをしているのだと。
なのに、一方的に叱るとは、納得いかない!
「大おばあちゃん!」
『ともかく、二度としては駄目ですからね。さ、東雲さんと香佑焔様から、お説教の続きをいただきなさいな』
「あっ! 切れた! ひどい!」
通話の切れた携帯を百々が睨みつけていると、すっと手が伸びて来て、携帯を取りあげられ、畳に置かれた。
東雲だった。
どうやら百々と一子の会話を切れ切れに聞いて、察したらしい。
「加賀さん」
「ひ、ひゃいっ!」
「たとえ四屋敷さんがお若い頃どうであったとしても、加賀さんが同じようなことをしてもよい理由にはなりません」
「は、はい、ごもっともです」
『何と言うことだ! 四屋敷の血筋の恐ろしさよ! おまえの代で断ち切らねばならん! これからは、いっそう淑やかになるように教育せねば!』
「香佑焔に教育してもらうってどういうことよ! これ以上口うるさくなったら、御守り置いていっちゃうんだから!」
「加賀さん」
『百々!』
「わーん! ごめんなさーい!」
東雲が帰るまでほぼ三十分、百々には三十時間くらいに感じる説教が続いたのだった。
了